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ルカの福音書 ルカ16章

金持ちとラザロ:地獄の現実さ

地獄。それは決して楽しい話題ではありません。

けれども、イエス様は地獄について教えられました。この箇所では、イエス様は地獄の存在を示し、それがどのような場所であるかを説明されています。

第一のポイントは、地獄が苦しみの場所であるということです。そこでは、人々は意識のある状態で苦しんでいます。

多くの人は、死んだら意識がなくなると考えます。しかし、それは誤った認識です。地獄では、人々は自分の状況をはっきりと理解し、苦しみ続けます。

第二のポイントは、悪者と義人の間に大きな淵があることです。そして、その淵を渡ることはできません。一度地獄に入ると、そこから抜け出すことはできません。もはや悔い改める機会は失われているのです。

さらに、地獄にいる人々は、おそらく悔い改めたいとは思っていないでしょう。この話では、金持ちは苦しみながら憐れみを求めましたが、悔い改めることはありませんでした。

第三のポイントは、地獄に行きたいと思う人などいないということです。また、地獄にいる人々は、自分の愛する者が地獄に来ることを望みません。

時々、人々はこう言います。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親や祖父母がすでに亡くなっているからです。もし彼らが天国に行けなかったのなら、私も行きたくありません。」

けれども、この金持ちの言葉に耳を傾けてみてください。

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。(ルカの福音書16:27-28)

アブラハムは、「それは無理だ」と答えました。なぜなら、たとえ神様がそれを許されたとしても、その金持ちの兄弟たちはすでに神様のみ言葉を拒絶しているため、たとえ誰かが復活して彼らに警告したとしても、彼らは信じないでしょう。

皮肉なことに、別のラザロがイエス様の力によって復活しました。イエス様はこれによって、自分が神の子であることを証明されました。

ところが、イエス様の敵はその出来事を目の当たりにしてもイエス様を拒絶し、さらにはイエス様とラザロを殺そうと企てたのです。

とはいえ、私がここで強調したいのは、その金持ちは自分の家族が地獄に来ることを望まなかったという点です。

もしあなたが、家族や友人が地獄にいるかもしれないと考え、それゆえにイエス様の救いを拒んでいるのなら、その金持ちの言葉を覚えていてください。あなたの家族や友人は、あなたが地獄に行くことを望んでいません。

では、私たちはどうすれば地獄を避けることができるのでしょうか。

それには、イエス様を信じることが必要です。イエス様があなたの罪のために死なれ、そしてよみがえられたことを信じる必要があります。さらに、イエス様を主と救い主として受け入れなくてはなりません。

「神様が愛なら、どうして人々を地獄に送るのか」と疑問に思う人がいるかもしれません。

しかし、神様から離れた人生そのものが地獄なのです。もしあなたが命、愛、喜び、平和の源から遠ざかるなら、それこそが地獄ではないでしょうか。

神様が人々を地獄に送るのではなく、人々自身が地獄への道を選んでいるのです。

つまり、彼らは命の意味を与える方に背を向けているのです。その結果、彼らの心には絶望しか残りません。それこそが地獄なのです。

あなたはどうしますか。命の源へと向かうでしょうか。それとも、命の源に背を向けるでしょうか。それはあなた自身の選択です。

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ルカの福音書 ルカ16章

永遠のために準備しないと

この箇所で、イエス様は地獄について語られます。その描写は非常に生々しいものです。なぜなら、イエス様はある人物の経験を詳細に描写されているからです。

ある学者たちは、イエス様が実在の人物について話していると考えています。なぜなら、この話の中で、イエス様は登場人物の名前を明かされているからです。

私は、この出来事が本当に起こったかどうかは分かりません。とはいえ、この話を通して、イエス様は私たちに対し、永遠のために備えるべきだと明確に警告されています。

だからこそ、16章では、最初の話(ずる賢い管理人)と最後の話が深く結びついているのです。

この話では、イエス様は贅沢に暮らしていた金持ちについて語られます。彼はあらゆる欲求を満たし、必要なものをすべて持っていたため、自分の未来を気にすることはありませんでした。

さらに、彼は周囲の人々のことを気にも留めていませんでした。

彼は毎日、ラザロという乞食の前を通り過ぎていました。ラザロについて詳しくは分かりませんが、もしかすると彼は身体が不自由であり、物乞いをする以外に生きる術がなかったのかもしれません。

ラザロは、金持ちの食卓から落ちる物を食べたいと願いましたが、金持ちは彼に全く気づきませんでした。

こうして、彼らは何年もの間、このような生活を送りました。

けれども、彼らが死ぬと、ラザロはアブラハムのふところへと導かれ、慰めを受けました。一方、金持ちはハデス(地獄のような場所)で苦しみました。そして、彼が助けと憐れみを求めると、アブラハムはこう答えました。

子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。

しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカの福音書16:25)

アブラハムの言葉の意味は何でしょうか。

この金持ちは、ずっとこの世の人生を楽しんでいました。彼は富を蓄え、快楽を求め、気ままに暮らしていました。しかし、彼は永遠のための準備をまったくしていませんでした。

一方、ラザロはこの世に何も所有していませんでした。彼の生涯は本当に苦しみに満ちていました。それでも、彼は永遠のために備えていました。

そのため、二人が死んだとき、ラザロは慰められましたが、金持ちは苦しみました。

金持ちの問題は、お金そのものではありませんでした。彼の問題は、未来に備えなかったことです。イエス様の教えに従わず、彼が自分の財産を正しく用いなかったため、永遠の住まいで彼を迎える人が誰もいませんでした。(16:9)

この金持ちの生き方に倣うことがないようにしましょう。私たちの命は非常に短いものです。そのことを覚え、永遠のために準備しましょう。そうしなければ、金持ちのように永遠に苦しむことになります。

あなたはどうでしょうか。永遠のために備えていますか。

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人の前で義を装う自分を正しいとする?

パリサイ人の大きな問題の一つは、独善的な態度でした。

彼らは細かい規則に従っていましたが、自分の明白な罪を認識することができませんでした。そして、イエス様がその罪を指摘されたとき、彼らはそれを否定しました。「私たちは正しい人だ」と言い張ったのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。

人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。(ルカの福音書16:15)

この話の中で、イエス様は彼らのお金への執着を裁かれました。

けれども、パリサイ人たちはこう考えました。 「でも、私の財産は神様の祝福のしるしのはずだ。イエス様は何を言っているのだろう?」

ところが、彼らの心の中では、お金が偶像となっていました。彼らは神様よりもお金を愛していたのです。

あるいは、彼らはお金以上に、ただ一つのものを愛していたかもしれません。それは、周囲の人々からの称賛です。だからこそ、彼らは施しをするとき、人々に見てもらえるように確認しました。

多くの人々はお金や世間からの称賛を求めますが、神様の目にはそれらは忌み嫌われるものです。

もちろん、お金や称賛そのものが悪いわけではありません。しかし、それらが人生の目的となり、さらにそれらが私たちの神となってしまうなら、神様との関係を妨げる障害となります。

パリサイ人たちは、人前で正しい行いを示すだけでなく、ほかにも多くのことをしていました。彼らは過剰な規則を強制しながら、自ら抜け道を見つけ、それを正当化して自分自身を誇りました。

例えば、イエス様は彼らの姦淫に関する考えを非難されました。あるパリサイ人は、その律法を回避するために、自分の妻たちと離婚し、すぐに別の女性と再婚しました。

けれども、イエス様は彼らにこう言われました。

だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。(18)

しかし、最も問題なのは、彼らが罪人と関わることなく、ただ裁いたことです。彼らは律法を利用して人々を裁きましたが、罪人の救いを望んでいませんでした。むしろ、彼らは「人々から天の御国を遮っていました。」(マタイ23:13)

それでも、ある人々はパリサイ人の妨害を乗り越え、神の国へ入っていました。

つまり、パリサイ人たちが拒絶した人々こそがイエス様に触れられ、彼らの余計な規則を押し切り、神の国へと導かれていたのです。(ルカ16:16)

あなたはどうでしょうか。あなたの心には何があるでしょうか。外側は清く見えても、あなたの心は汚れていないでしょうか。

あなたは独善的な態度を持ち、自分の罪を認識できないでいるでしょうか。

私たちがパリサイ人のようにならないように。むしろ、イエス様が私たちの罪を明らかにし、神様との関係を阻む私たちのプライドの壁を打ち砕いてくださるように祈りましょう。

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何に、誰に仕えているか?

私たちの社会では、「お金」という神が非常に人気です。多くの人々がお金を慕い求め、それを追いかけます。彼らはお金のために働き、時にはそのために命を落とします。(例えば、過労死です。)

しかし、イエス様はこう言われました。

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。(ルカの福音書16:13)

私は以前も言いましたが、私にとってこの教えはとても厳しいものです。特に、お金を使って人に仕えることは難しいと感じます。だからこそ、私は自分自身に問いかけるべきです。私は誰に仕えているのでしょうか。

私はお金に仕えているのでしょうか。懸命に働き、手にした財産をできる限り手放さずに守ろうとしているだろうか。それとも、その財産を神様に仕えるための道具と考えているだろうか。神様は、私の財産にいつでも、どこでもアクセスできるだろうか。

もしそうでないなら、私は神様ではなく、お金に仕えていることになります。それは偶像礼拝です。

これはパリサイ人たちの問題でもありました。彼らはイエス様の言葉を聞いたとき、あざ笑いました。

その時代、人々は富を神様の祝福のしるしだと考えていました。

「神様は義人だけを祝福されるはずだ。私は多くの財産を持っているのだから、私は義人に違いない。」

それだけではなく、彼らは貧しい人々を見下しました。そして、イエス様までも侮りました。つまり、彼らは偶像礼拝の罪を犯しただけでなく、プライドという罪も犯したのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは自分の持ち物を誇っているでしょうか。あなたの持ち物が、あなたの神になってはいないでしょうか。あなたはお金に仕えているために、神様の国のために周りの人々に触れることができないでしょうか。

あなたは何に仕えているでしょうか。誰に仕えているでしょうか。

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不正な管理人のたとえ話:忠実さ

前回の記事では、私たちはずる賢い管理人の話を読みました。その管理人は自分の未来のために準備していたため、イエス様は彼を褒められました。

しかし同時に、イエス様は彼を戒められました。そして、イエス様はこう言われました。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカの福音書16:10)

要するに、誰を信頼するかを慎重に考えなさい。どんな人にも、いきなり大きな責任を任せるのではなく、まずその人をよく見極めるべきです。

まずは小さな責任を与え、その人が誠実に果たせるかどうかを確認しなさい。その人が忠実に仕えるなら、さらに大きな責任を任せなさい。けれども、小さな責任すら果たせないなら、その人を信頼してはならないということです。

とはいえ、私たちは他者を評価するだけではなく、自分自身も省みなければなりません。イエス様は続けてこう言われました。

ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。(11-12)

神様は私たちに財産やさまざまな資源を与えてくださいました。あなたはそれらを忠実に活用しているでしょうか。

あなたの財産が、実は神様のものであることを理解しているでしょうか。神様はあなたに才能と健康を授けてくださいました。そのため、あなたは働き、お金を得ることができます。

そういうわけで、あなたの財産は本来、あなたのものではなく、神様のものであり、あなたはそれを管理しているにすぎません。

もしあなたが忠実に神様の財産を管理していないなら、神様があなたにさらなる責任を委ねると思うでしょうか。特に、神様はあなたにミニストリーの責任を託されるでしょうか。

私は教会の働きについてだけ話しているのではありません。

あなたの学校や職場、近所にも、神様を必要としている人々がたくさんいます。神の国の一員として、私たちはその人々に触れ、影響を与えるように召されています。そして、それに忠実に応じるなら、天国で報いを得るのです。

しかし、もしあなたがこの世の物に対して不忠実であるなら、神様は永遠のものをあなたに委ねることができるでしょうか。

あなたは、神様があなたに託されたものに忠実でしょうか。神様はあなたを信頼できるでしょうか。

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不正な管理人のたとえ話:私たちの未来を確保する

私たち皆は安定した未来を望みます。けれども、果たして十分な準備をしているでしょうか。そして、未来を考えるとき、永遠のもののためにも備えているでしょうか。

このイエス様のたとえ話は、少し変わったものでした。なぜなら、イエス様は私たちにどのように生きるべきかを教える際に、悪い人の行動を模範として用いられたからです。

この話では、ある管理人が雇い主の財産を乱費しました。もしかすると、彼はその財産を横領していたのかもしれません。雇い主はその事実を知ると、彼を解雇しました。

けれども、その前に管理人は会計報告を提出しなければなりませんでした。そのため、その報告を完成させるまでは、まだ雇われた状態にありました。

報告を作成する間、管理人は自分の未来をどのように確保するかを考えました。

彼は肉体労働をしたくなかったし、雇い主が推薦状を与えてくれないため、別の人の管理人として働くことも難しいでしょう。もちろん、彼は乞食になりたくはありませんでした。

そこで、彼は計画を立てました。彼は雇い主の債務者たちのもとへ行き、その借りを減額してあげました。なぜなら、彼はこう考えたからです。

こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。(ルカの福音書16:4)

そこまでは、そのたとえ話は特に変わったものではありませんでした。ところが、雇い主がその管理人の行動を知ったとき、その反応は驚くべきものでした。

主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(8b)

どうしてでしょうか。その管理人は自分の未来を確保したからです。(それでも、きっと管理人を褒めた後、雇い主は「出て行け!」と叫んだことでしょう。)

そして、イエス様はこう言われました。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないもの[です」。(8a)

要するに、この世の人々は、自分の財産や立場を賢く活用し、人との関係を巧みに築くことで、未来を確保します。

世の人々がそうするのなら、ましてクリスチャンはなおさらです。

とはいえ、クリスチャンとして、この世の人生だけでなく、永遠に目を向けなくてはなりません。

たとえ話では、管理人は自分の立場を利用し、人生の次の段階に入ったとき、友人たちが彼を迎え入れました。

では、この話は私たちとどのような関係があるのでしょうか。イエス様はこう言われました。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。(9)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。それは、私たちが人々を神の国へ導くために、与えられた資源を活用することです。例えば、宣教師たちに献金すること、教会にささげること、また誰かと共に食事をしながら福音を伝えることなどです。

そうすれば、天国にたどり着いたとき、あなたの財産は消えてしまいますが、福音によって触れられた人々があなたを歓迎してくれるでしょう。さらに、イエス様ご自身があなたを迎え、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言われます。

しかし、もし自分の財産を自分だけのために使うなら、あなたを迎える人は誰もいないでしょう。そして、イエス様の前に立つとき、自分の財産の使い方について申し開きをしなくてはなりません。

そのとき、あなたが誇りに思っていた達成はどうなるでしょうか。

パウロはこう言いました。

もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。

というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。

もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:12-15)

あなたはどうでしょうか。あなたの未来は確保できていますか。