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周りの人々のニーズに目を向ける?

私がバルティマイとその友達の話を読むと、イエス様の愛と憐れみ深い心は、私にとても印象的です。

イエス様はもうすぐ十字架に行くし、そのことを親友たちにはっきりと伝えたのに、彼らは理解してくれませんでした。そんな状況で、イエス様が自分の思いや、フラストレーションや、心配で思い詰めていたなら、びっくりすることではなかったでしょう。

でも、その道を歩いているうちに、イエス様は前に何回も聞いていた願いをもう一度聞きました。

主よ。ダビデの子よ。私たちを憐れんでください(マタイ20:30)

大勢の人がイエス様を取り巻いており、イエス様がその声を見逃すのは簡単だったかもしれません。

また、その声を無視するのも簡単だったでしょう。なぜなら、多くの人がその二人に「黙れ」と言ったからです。

しかし、イエス様は立ち止まり、「その二人を呼んできなさい」とおっしゃいました。

そして、彼らが来ると、イエス様は彼らに尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか。」

彼らは答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

マタイによると、イエス様は深く憐れみ、彼らの目に触れて癒されました。

イエス様はご自身のフラストレーションや困難に思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に目を向けられました。

私たちはどうでしょうか。どのくらい私たちはイエス様の模範に従い、自分自身のことで思い詰めることなく、周りの苦しんでいる人々に気づいているでしょうか。

また、どれだけ自分自身の必要やフラストレーションに思い詰めることで、神様の愛を周りの人々に伝える機会を逃しているでしょうか。

おそらく、私もそのような機会を逃してきたことが多いでしょう。

私たちはイエス様のようになることを学びましょう。私たちの苦しみや心配にとらわれることなく、周りの人々のニーズや痛みに目を向けましょう。そして、イエス様のように、彼らに手を差し伸べ、神様の力で彼らを癒しましょう。

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明確に語られたことを理解していない?

この話では、ルカの言葉が私の心に深く響きます。

弟子たちには、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこのことばが隠されていて、話されたことが理解できなかった。(ルカ18:34)

もちろん、「これらのこと」や「このことば」というのは、イエス様の死と復活を示しています。

ルカの言葉が私の心に深く響く理由は、イエス様が自分の死と復活について明確に語られたことです。弟子たちはその言葉を理解できたはずですが、それでも彼らは理解できませんでした。それはなぜでしょうか。

もしかすると、彼らはまだ霊的に成熟していなかったのかもしれません。多くの若いクリスチャンが聖書を読むとき、理解できないところが多いでしょう。けれども、私たちの信仰と知識が成長するにつれて、さらに理解が深まるでしょう。

あるいは、弟子たちには霊的成熟の問題だけではなく、イエス様の言葉を受け入れたくないという心の壁があったのかもしれません。イエス様がすぐに死ぬという現実を信じたくない彼らは、自分の耳を閉じてしまいました。

もう一つの理由は、彼らが神様の御心よりも自分たちの望みを優先していたことです。次の話の中でヤコブとヨハネの願いを見れば、彼らの自己中心的な姿勢が見えてきます。

しかし、どれほど私たち自身も同じような態度を取ってしまうでしょうか。聖書では神様の言葉がわかりやすく、神様が私たちの心にはっきりと語りかけてくださるにも関わらず、私たちはそのメッセージを見逃してしまうことがあります。

例えば、振り返ると、私がハワイに住んでいたとき、神様は私を日本に行くように呼ばれていました。何度も、「あなたは事務などの仕事には向いていない。ミニストリーをした方がいい」と言われました。

ある人々は率直に、「あなたは宣教師として日本に行くべきだ」と直接言われました。

けれども、当時の私はハワイを離れる気も、日本に行く気も全くありませんでした。

そのため、神様の言葉を受け入れることができませんでした。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」という言葉を聞いても、「それは私のためではない」と思い込んでいました。

それでも神様は私の心に働き続け、数年後、日本に導かれました。そして、神様に従う喜びや、神様の言葉に従う喜びを経験することができました。

もし、あなたが心を神様に開けば、あなたもその喜びを知ることができるでしょう。

あなたの心は今、どんな状態でしょうか。神様があなたに語りかけておられるのに、その言葉を退けてはいませんか。それとも、その言葉に心を開いているでしょうか。

私たちはいつもこう祈りましょう。「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」

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イエス様に従い甲斐がある?

イエス様に従うことは本当に甲斐があるのでしょうか。裕福な役人はその疑問に直面しなければなりませんでした。残念ながら、彼はイエス様に従うことに甲斐がないと感じてしまいました。

ペテロもまた、自分自身に同じ問いを投げかけました。「イエス様のために、私はすべてを捨ててきましたが、それは本当に価値あることなのでしょうか。」

そこで彼はイエス様に尋ねました。

ご覧ください。私たちはすべとを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。(マタイ19:27)

イエス様はこのように答えられました。

まことに、あなたがたに言います。

私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。(マルコ10:29-31)

ここには、二つの重要な注意事項があります。

1.イエス様は、私たちがイエス様に従うなら報いを得ると教えてくださいました。報いは天国で得るだけではなく、この世でも得られます。それだけではなく、イエス様は私たちが豊かに祝福されると語られました。

もちろん、私たち全員が金持ちになるわけではありません。それでも、私たちの人生の終わりに振り返るとき、「私は祝福された。イエス様に従った甲斐があった」と心から言えるでしょう。

2.マルコの福音書にのみ記されているこの言葉は特に目立つものです。イエス様は報いについて語るだけではなく、警告もしてくださいました。「あなたは迫害を受けるでしょう。私に従えば必ず迫害されるでしょう。」

つまり、クリスチャンとしての生活はいつも楽しいものではありません。もちろん、喜びの瞬間はありますし、神様が私たちに祝福を注いでくださることもあります。

しかし、イエス様に従うならば、あなたを憎む人々がいるでしょう。イエス様は完全な神の子であったにもかかわらず、人々は彼を憎んだのです。

そして、イエス様はこう語られました。

しもべは主人にまさるものではない。。。人々が、私を迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。(ヨハネ15:20)

だから、イエス様に従っている間に迫害を受けることがあっても驚かないでください。むしろ、永遠の報いに目を向けましょう。なぜなら、どんな苦しみがあっても、最終的にはイエス様に従う価値があるからです。

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救いの不可能性

私が大学生の時、宗教学の教授がキリスト教について話した際にこの話を取り上げました。彼の主張は何だったでしょうか。キリスト教によれば、天国に行きたいと思うなら、自分の持ち物をすべて売らなくてはならない、ということでした。

実は、私の教授の言葉は、私たち全員に全く別の教訓を教えています。それは、文脈を正しく理解しないと、聖書が教えていることを完全に誤解してしまう、ということです。

いずれにせよ、この箇所を総合的に比較してみると、イエス様と対話した人物について興味深い点が明らかになります。

彼は金持ちであり(全ての福音書の著者がそう記述しています)、若者であり(マタイ19:22)、さらに役人でもありました(ルカ18:18)。

そして彼はイエス様にこう尋ねました。

「良い先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」(マタイ19:16;マルコ10:17)

イエス様はこう答えられました。

なぜ、私を「良い」と言うのですか。また、なぜ、良いことについて、私に訊ねるのですか。良い方は神おひとりのほか、誰もいません。(マタイ19:17;マルコ10:18)

この箇所では、イエス様はご自身についての誤解の一つを明確にされます。それは、「イエス様は良い方だったが、神ではなかった」というものです。

イエス様はその人にこう言われました。

「あなたが私を神と呼ぶなら、それは正しいことです。 けれども、それを信じないなら、私をただの人間と呼ぶべきです。

とはいえ、もし私がただの人間であるなら、私を良い方と呼んではいけません。 なぜなら、唯一の神だけが良い方だからです。」

そして、イエス様は彼にこう言われました。

「いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」(マタイ19:17)

その言葉だけを読むと、イエス様が私たちの良い行動によって天国に入れると言っていると思うかもしれません。しかし、この役人の反応を見てください。

私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。(20)

多くの人々には同じ問題があります。彼らは一生懸命神様の戒めを守ろうとします。そして、頑張って正しいことをしようとします。その役人のように、自分はその戒めをちゃんと守ったと思う人もいるでしょう。

それでも、心の中では何かが欠けていることを感じています。それはなぜでしょうか。

なぜなら、私たちは周りの人々をだますこともできるし、自分自身をだますこともできます。しかし、神様の基準を完全に満たすことができる人は誰一人としていないからです。

パウロは次のように書きました。

全ての人は罪を犯し「ます」。(ローマ3:23)

もし、私たちが自分の心を探るなら、そのことが明らかになるでしょう。

それでは、イエス様が永遠の命への道について語られた時に、どうして神様の戒めを指されたのでしょうか。もしかすると、パウロがその答えを示してくれるかもしれません。

なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては、神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。(ローマ3:20)

ちょっと考えてみてください。鏡には私たちの顔を洗う力があるでしょうか。そんな力はありません。むしろ、鏡は私たちの汚い顔を映し出します。

同じように、律法には私たちの罪を清める力はありませんが、私たちの罪を指摘することができます。

とはいえ、その「鏡」の反映が時々ピンぼけになることもあるかもしれません。

もちろん、神様の律法の言葉は明確です。けれども、私たちがその律法の意味を正しく理解できないときもあります。また、その律法の意味を理解していても、自分の罪がまだ見えないこともあるでしょう。

この役人には、その問題がありました。彼は自分が律法を完全に守ったと思っていました。そこで、イエス様はその人の「鏡」を拭いて、反映をはっきりと見えるようにしてくださいました。イエス様はこう言われました。

完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、私に従って来なさい。(21)

どうして、イエス様はそう言われたのでしょうか。それは、その役人自身が言ったように、彼にはまだ何かが欠けていたからです。

彼は神様を愛するよりも、お金に執着していました。その結果、実際には彼は十戒の最初の戒めを破り、お金を自分の神としてしまいました。

その役人がイエス様の言葉を聞いたとき、自分の罪をはっきりと見ることができました。それでも残念ながら、彼はこう言うことはありませんでした。

「イエス様、私を助けてください。私は罪人です。私を憐れんでください。」

むしろ、彼は悲しみながら立ち去ってしまいました。

だからイエス様はこう言われました。

富を持つものが神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。(マルコ10:23)

弟子たちはそれを聞いて衝撃を受けました。それは、彼らが金持ちは神様に恵まれた人だと信じていたからです。しかし、イエス様はその同じ教えを繰り返されました。

子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。(マルコ10:24-25)

どうしてでしょうか。それは、この世のものを持ちながら、神様からのものを持つことは不可能だからです。金持ちは普通の人よりも多く、この世のものを所有しています。そのため、彼らが手放さなければならないものは、普通の人よりも多いのです。

そこで、弟子たちはこう尋ねました。

それでは、だれが救われることができるでしょう。(マルコ10:26)

次に記されたイエス様の言葉こそ、この箇所の核心を示しています。

それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)

神様から離れている状態では、救いを得ることは不可能です。私たちは不完全な存在であるため、自分の努力だけで自分自身を救うことはできません。

イエス様はその教訓を役人に伝えたいと望まれました。

けれども、イエス様の十字架の御業と神様の御業によって、救いは可能になります。私たちがすべきことはただ一つ、イエス様を信じることだけです。

ヨハネは次のように書きました。

神は、実に、そのひとり子を与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今日あなたは、神様の救いの賜物を受けないでしょうか。

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子供のように

イエス様が弟子たちを子供たちを追い出そうとしたことで責められたとき、イエス様はこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:14-15)

子供のように神の国を受け入れるとは、どういう意味でしょうか。子供の性格はどんなものでしょうか。

1.彼らは人を全面的に信頼します。年月が経ち、さまざまな傷や嘘、裏切りを経験し、その心が固くなってしまうまで、彼らは人の言葉を信じ、疑うことを知りません。私たちはそのような純粋な心を持つべきです。

罪とは、基本的に神様に対する信頼の欠如と言えます。つまり、私たちは神様にこう言うのです。「あなたの言葉を信じません。あなたが私の最善を望んでいることを信じません。だから、自分の道を行きます。」

しかし、そのような態度でいるならば、私たちは決して神の国に入ることができません。

2.彼らは完全に大人に依存します。そして、そのことを素直に認めます。彼らは自分で料理を用意することも、服やその他必要なものを買うこともできません。彼らはそれらを受け取るために、両親に依存しています。

同じように、私たちがどれほど神様に依存しなければならないかを理解できなければ、私たちは決して神の国に入ることができません。

なぜなら、私たちには救いを買う力がないからです。そしてまた、私たちは救いのために働くこともできません。むしろ、神様の恵みとイエス・キリストの十字架の御業に完全に依存する必要があります。

その真理は非常に単純であるため、多くの人々にとって受け入れるのが難しいものです。また彼らは、その真理を信じることを拒むかもしれません。

自分の救いを買えると思いたいのです。または、自分の救いのために働くことができると思いたいのです。彼らは、自分には何もできないという事実を認めるのを嫌うのです。

けれども、私が以前に述べたように、彼らは子供のように神様を全面的に信頼することを学ばなければなりません。

イエス様はこう言われました。

神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神の御業です。(ヨハネ6:29)

あなたはどうですか。神様の前に子供のような心で来ているでしょうか。

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取るに足りない者の神

父親として、私は自分の娘が大好きです。それでも、彼女がうっとうしい時もあります。特に、私が大切な仕事をしているとき(別に大切じゃないことをしている時でも)、彼女は必死に私の注意を引こうとします。

私が仕事を続けながら、彼女を見ずに「はい、はい」と適当に応えるのは、とても簡単です。もし特に参っている時には、「後で。今忙しいよ。」と言ってしまうかもしれません。

この箇所では、イエス様の弟子たちはまさにそのように反応しました。

お母さんたちが自分の赤ちゃん(きっと泣いている赤ちゃんもいたと思います)、また幼い子供たち(おそらく乱暴な子供もいたでしょう)をイエス様のもとに連れて行ったとき、弟子たちは参ってしまい、「もう帰りなさい。イエス様はこの子供たちのために時間がないよ。」と言いました。

しかし、イエス様はすぐに弟子たちの言葉に反応されました。

イエス様はそれを見て、憤っ[た]。(マルコ10:14a)

そして、イエス様は彼らにこう言われました。

子供たちを、私のところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(マルコ10:14b)

この話から、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

私たちの子供たちや他の人々を、弟子たちがしたように扱ってはいけません。彼らを取るに足りない人として扱ってはいけません。重要ではない人として扱ってはいけません。私たちの時間に値しない人として考えるべきではありません。

なぜなら、そうすればイエス様はとても憤られるからです。彼らはイエス様の大切な創造物であり、イエス様は彼らのために死ぬほどまでに彼らを愛しておられました。

あなたもまた、同じように愛されています。自分が取るに足りない人間だと思うかもしれません。のけ者だと感じるかもしれません。

それでも、人々があなたをそのように扱うとき、イエス様は憤られます。イエス様はあなたを憐れんでおられます。そして、あなたを愛しておられます。イエス様は決してあなたを見捨てることはありません。

だから、イエス様に近づいてください。イエス様の目には、あなたはとても大切な存在です。あなたは貴い者です。そしてイエス様は、あなたとの関係を何よりも望んでおられます。

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パリサイ人と取税人のたとえ話:恵みの必要を心に留める

まず、少しアナウンスがあります。最近、新改訳2017を購入したので、これからその翻訳から引用を始めます。そのため、あなたの聖書と比較すると、少し違うところがあるかもしれません。

それはさておき、不思議なことですが、何千年経っても人間の本質はあまり変わりません。この箇所を読むと、それがよくわかります。

ルカはこう書きました。

自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエス様はこのようなたとえを話された。(ルカの福音書18:9)

その時代、特にパリサイ人たちはそのような態度を持っていました。彼らは一生懸命に、一番細かい律法にさえ従おうとしました。しかし、それは彼らのプライドへとつながりました。

イエス様のたとえ話の中で、あるパリサイ人が大きな声でこう祈りました。(もしくは、祈りというより独り言を言ったのでしょうか)。

神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。(11-12)

ようするに、「神様、あなたの国に私のような人がいて良かったですね。私はいい人ですよね?逆に、この収税人は。。。」ということです。

残念なことですが、今でもそんな態度を取るクリスチャンがいます。彼らは神様の恵みによって救われたと認めていますが、彼らの態度は違うことを示しています。

恵みによって生きる人には二つのことがはっきり見えます。彼らの罪深い心が見えますし、どれほど神様が必要かが見えます。

この収税人には、その二つのことがはっきり見えていました。

その時代、ユダヤ人たちは収税人を憎んでいました。なぜなら、収税人はユダヤ人でありながらイスラエルを征服したローマ帝国と協力していたからです。

それに加えて、収税人たちはイスラエル人を騙して、ローマ帝国が要求した額よりも多く税を取り立てていました。

けれども、この収税人は自分の胸を叩きながら、こう祈りました。

神様、罪人の私をあわれんでください。(13)

イエス様はその人について、こう言われました。

あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。

誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。(14)

あなたはどうですか。あなたは神様の恵みによって生きているでしょうか。自分の罪深い心が見えていますか。そして、どれほど神様が必要かが分かっていますか。

そのような人とは、どのような人でしょうか。

彼らはへりくだり、神様が何をしてくださったのかを感謝します。彼らの心にはプライドの余裕がありません。つまり、自分の義や、自分のたまものに関するプライドがないのです。

彼らは、自分が永遠の死にしか値しない者であることを理解しています。それでも、神様が彼らに恵みを注いでくださったため、毎日感謝で心が満ちています。

たとえ他人が彼らを正当に評価しないときでも、彼らは苦々しい思いを抱きません。また、自分の功績を誇ることもありません。むしろ、感謝に満ちた心を持っています。

もう一つの特徴は、彼らが受けた恵みを周りの人々に与えることです。彼らは偉そうな態度を取ることはありません。むしろ、自分自身が神様の恵みを必要としていたように、周りの人々もその同じ恵みを必要としていることを理解しています。

自分の罪深い心がわかるならば、他人を軽蔑することはできません。自分がどれほど赦されたかを理解していると、他人を裁くこともできません。

むしろ、心が恵みと憐れみに満ち、その恵みと憐れみで周りの人々に触れるようになります。

あなたはどうですか。神様の恵みがどれほど必要か、あなたには分かっていますか。

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やもめと裁判官のたとえ話:試練に直面するとき、信仰を貫く

一節だけ読むと、イエス様のポイントは「神様がすぐに祈りに応えないときでも、祈り続けるべきである」ということだと思うかもしれません。

もちろん、それも正しいのですが、実際には、イエス様は特定の種類の祈りについて話されています。

この箇所では、イエス様はまだこの世の最後の日について話しています。その日は、悩みの日であり、試練に満ちた日です。

イエス様は私たちが自分の罪のために裁かれないことを約束されましたが、試練や苦しみを経験しないとは約束されませんでした。

時には、私たちは不正義を経験します。特に、反キリストが現れてこの世を支配する時には、クリスチャンたちは大いに苦しむことでしょう。

この箇所でイエス様は、そうしたクリスチャンたちについて語られています。聖書によれば、すべてのクリスチャンが迫害を受けるとされています。

そのような時には、「神様はどこにおられるのだろうか。神様は私を見捨てたのだろうか。まだ私を愛しておられるだろうか。正義はいつ実現するのだろうか」と疑問に思うかもしれません。

だからこそ、イエス様はこのたとえ話をされたのです。この話では、ある女性が不正義を経験したため、裁判官のもとへ行き、正義を求めました。

けれども、その裁判官は彼女の願いを何度も断りました。それでも彼女はあきらめず、何度も裁判官のもとへ行き、お願いを続けました。最終的に、裁判官はこう言いました。

私は神を恐れ ず、人を人と思わ ない が、このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよ う。

そうでないと、ひっきりなしに やって来 て、私は疲れ果ててしまう。(ルカの福音書18:4-5)

イエス様の意味されたことは何でしょうか。神様がその裁判官のように、私たちに正義を与えたくないために、毎日祈りで神様を困らせないと応えてくださらないということでしょうか。それは違います。

実際には、イエス様はその正反対のことを言われています。この不正な裁判官でさえ、その女性のしつこい願いに応じて正義を与えたのです。まして、あなたを愛する公正な神様が、喜んであなたに正義を与えてくださらないことがあるでしょうか。

黙示録6:9-11には、似たような場面が描かれています。その箇所では、聖徒たちはイエス様のために迫害を受けましたが、この世では正義を受けることはありませんでした。

それでも神様は彼らを励まし、「正義は必ず来る」と約束されました。

しかし、苦しんでいるときに正義を待つことは非常に辛いものです。だからこそ、イエス様は私たちにこう問いかけておられるのです。

だが、人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。(8)

もしかすると、あなたはこう考えるかもしれません。

「大丈夫です。私はひどい苦難(マタイ24:21-22)に直面しない。イエス様はその前にクリスチャンたちのすべてを天国に連れて行ってくださるから、心配しなくていい。反キリストを見ることは決してないだろう。」

正直に言えば、私はその確信は持てません。もしかすると、私たちはそのひどい苦難を経験し、反キリストに直面するかもしれません。

とはいえ、仮にそれを避けられるとしても、あなたの信仰はどれほど強いでしょうか。

辛い時、あなたは神様とその正義を疑い始めるでしょうか。「神様、どこにおられるのですか。私を愛しておられるでしょうか。どうして私はこんなに苦しむのでしょうか。」と問いかけるでしょうか。

それとも、信仰を貫いて、こう言うでしょうか。

「神様、私はまだあなたを信じます。たとえ苦しんでいても、あなたを捨てません。私は、最終的にあなたが私に正義を与えてくださると信じます。この世ではその正義を見ないかもしれませんが、後に必ずあなたの正義を知ることになると信じます。」

イエス様があなたをご覧になるとき、揺らぐ信仰をご覧になるでしょうか。それとも、動じない信仰をご覧になるでしょうか。

へブル人への手紙の著者の言葉を心に留めましょう。

ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。(へブル12:12)

そして、私たちの忠実な神様への信仰を貫き続けましょう。