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実のない木

多くの人々はこの話を読むと、イエス様の行為に疑問を抱きます。いちじくのなる季節ではなかったのに、どうしてイエス様は実を結ばない木を呪われたのでしょうか。

聖書学者たちにはさまざまな意見があります。

その中の一つの意見によれば、過ぎ越しの祭りの時期には、普通のいちじくの木は食べられる芽を実らせることがあります。もしかしたら、イエス様はそのような芽を探しておられたのかもしれません。けれども、木にそのような芽がなければ、おそらくいちじくの実がなる季節が来ても、その木は実を結ばないでしょう。

その意見が正しいかどうかはわかりませんが、筋の通った説明のように思えます。

いずれにせよ、マルコの福音書によれば、イエス様はいちじくの木を呪われた後、エルサレムに入って神殿を清め、エルサレムを離れる途中で弟子たちがその木が枯れていることに気づきました。

ですから、イエス様はこのいちじくの木を通して、弟子たちに何かを教えたかったのだと思われます。それは何でしょうか。

いちじくの木が実を結ばなかったために裁かれたように、イスラエルが霊的な実を結ばないために裁かれることです。このことは神殿の出来事において明らかにされています。

イエス様のミニストリーの初めにも、イエス様は神殿を清められました。イエス様は牛や羊を売っている人々を追い出し、両替人たちも追い出されました。それは、そこが外国人たちが入って礼拝できる場所だったからです。

彼らが神殿のさらに近い場所に行くことは禁止されていましたが、祭司たちはその場所を市場として使いました。それに加え、多くの人々がその業者や両替人によってだまされていました。

神殿であるべきその場所を、市場にしてしまったのです。祭司たちはそのような行為を許していました。

だから、彼らの修行や宗教的な熱心が堕落していたことは明らかでした。

さらに、彼らはイエス様をメシアとして拒絶するだけでなく、イエス様を殺そうともしていました。そのため、イスラエルは裁きを受けました。

ローマ帝国の将軍タイタスは、その神殿を破壊しました。そして今なお、その神殿は再建されていません。なぜでしょうか。それは、神様が長い間イスラエルに愛と恵みを注いでくださったにもかかわらず、彼らが霊的な実を結ばなかったからです。

一方で、神様の働きは実を結ばないわけではありません。ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことで、福音が世界中に広がりました。そして、ある日、ユダヤ人もイエス様を信じるようになるでしょう。(ローマ書11章)

とはいえ、私たちは自分自身に問いかける必要があります。私たちの人生はどのような実を結んでいるでしょうか。私たちの体は神様の宮です。その宮は霊的な実を結んでいるでしょうか。

私たちは周りの人々に良い影響を与えているでしょうか。もしかすると、この世のものに執着し、私たちの宮は汚されてしまっているかもしれません。

ユダヤ人の祭司たちのように、私たちはお金に執着しているでしょうか。または、他の世のものに心を奪われているでしょうか。もしそうなら、霊的な実を結ばないことによって、裁きの日に私たちの功績は焼き尽くされてしまうでしょう。

私たちが実を結ばない木のようにならないために、霊的な実を結びましょう。聖霊に満たされ、私たちの周りの人々に神様の愛を分かち合いましょう。

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私たちに平和を与えるもの

この箇所で、イエス様はついにエルサレムに到着されました。そして、四つの福音書を読むと、ユダヤ人たちの興奮がよく伝わってきます。彼らは叫び声をあげていました。

「ホサナ、ダビデの子に。」

「祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。」

「ホサナ、いと高き所に。」(マタイ21:9)

また、

「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に」(マルコ11:9)

そして、

「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」(ルカ19:38)

そして最後に、

「ホサナ。祝福あれ、主のみ名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

大騒ぎのため、多くの人々が「一体これは何の騒ぎだ?この人は誰だ」と尋ねました。そして、ほかの人々が「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と答えました。(マタイ21:10-11)

ヨハネによれば、その大騒ぎの理由の一つは、多くの人々がまだラザロの復活について語り続けていたことでした。(ヨハネ12:17-18)

最初に、パリサイ人たちはイエス様にこう言いました。

先生、あなたの弟子たちを叱ってください。(ルカ19:39)

イエス様がその願いを拒まれると、彼らは不満を漏らしました。

見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。(ヨハネ12:19)

それでも、イエス様がエルサレムに近づき、その都市をご覧になった時、喧噪の中で、イエス様は涙を流しながらこう言われました。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらーー。しかし今、それはおまえの目から隠されている。

やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。

彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。

それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカ19:42-44)

西暦70年、聖書に書かれている出来事が実際に起こりました。ローマの将軍タイタスは、エルサレムとその神殿を破壊しました。

なぜ神様はそれを許されたのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが神の訪れの時を認識しなかったからです。彼らは神様の平和を逃しました。心の平安を失い、さらに神様との平和をも失いました。

同じように、神様は私たち一人ひとりに訪れます。ローマ人への手紙1章によれば、神様のことを聞いたことがない人であっても、すべての人が神様の存在を知っています。

彼らが星空を見たり自然の美しさを見たりするとき、聖霊様が彼らの心にこう語るかもしれません。「これは偶然ではありません。これはデザインされたものです。あなたが作った偶像はこれを作ることができません。真の創造者を求めなさい。」

また、教会でイエス様について聞くことがあるかもしれません。あるいは、友達がイエス様について教えてくれることがあるでしょう。

その時、彼らは分岐点に立たされます。彼らはどう選択するでしょうか。神様の言葉を聞いて従うでしょうか。それとも、その言葉を拒絶するでしょうか。

神様に従うなら、彼らは神様との平和と永遠の命を知ることができます。しかし、その言葉を拒絶すれば、裁かれます。

あなたはどうでしょうか。神様は今、あなたを呼んでおられます。今日は救いの日です。今、イエス様を受け入れませんか。

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主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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本当の聖さ

前回の記事では、王を拒絶する人々についてのたとえ話を読みました。今日の記事では、イエス様が指された人々について見ていきます。

イエス様がエルサレムに近づいておられ、多くの人々が過ぎ越しの祭りを祝うためにすでに集まっていました。そして、彼らは互いに訊き合いました。

どう思うか。あの方(つまり、イエス様)は祭りに来られないのだろうか。」(ヨハネ11:56)

なぜ彼らはそのように訊いたのでしょうか。

祭司長たち、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように、という命令を出していた。(ヨハネ11:57)

実は、それは本当に皮肉なことでした。なぜでしょうか。

過ぎ越しの祭りを祝う前に、ユダヤ人たちは自分自身を清める必要がありました。つまり、儀式的に清められる必要があったのです。(ヨハネ11:55)

しかし、祭司たちやパリサイ人たちは儀式的には清められていたものの、心の中ではイエス様を殺そうと考えていました。

私たちはこの話から何を学ぶべきでしょうか。それは、聖さが単なる儀式的なものではないということです。聖さとは、教会に行くことや聖書を読むこと、献金をささげることだけではありません。

本当の聖さは、イエス様を王として受け入れることから始まります。

「イエス様、私は自分自身を清めることができません。儀式や自分の努力では清められません。イエス様、助けてください。私を清めてください。私の罪を赦してください。」

ヨハネは次のように書いています。

御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

私たちが神様に受け入れられることを願うのであれば、それ以外の方法はありません。私たちはキリストの十字架のもとへ行き、イエス様の救いの御業を信じる必要があります。

そうすることで、私たちは神様の目に清められるのです。

あなたはどうでしょうか。本当に清められているでしょうか。

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キリストを拒絶することを主張すると

このたとえ話には、もう一つ重要なポイントがあります。

イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。。。

一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません。」と伝えた。

さて、彼は王位を授か[りました]。(ルカの福音書19:12,14-15)

実は、このたとえ話は実際の出来事を基にしています。

ヘロデ大王が亡くなったとき、彼の息子ヘロデス・アルケラオスは王位を授かるためにローマへ行きました。(なぜなら、ローマ皇帝がイスラエルの本当の支配者だったからです)。

けれども、ユダヤ人たちは大使を皇帝アウグストゥスに送り、「ヘロデス・アルケラオスが私たちの王になることを、私たちは望んでいません」と訴えました。

最終的に、ヘロデス・アルケラオスはユダヤを支配することはできましたが、王位を授かることはできませんでした。

このように、イエス様は天の父から王位を授かるのを待っておられます。しかし今なお、多くの人々はイエス様を憎み、「この方が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言います。

けれどもヘロデス・アルケラオスの場合とは異なり、彼らが望もうが望むまいが、イエス様は王となられるのです。

そして、彼らがイエス様に反対し続けるなら、たとえ話の中の人々のように裁きを受けることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をあなたの王として受け入れているでしょうか。望もうが望むまいが、イエス様は王となられます。それゆえ、イエス様に反対して裁かれるよりも、イエス様にあなたの人生を捧げる方が良いでしょう。

私は地獄の話で恐怖を煽ることを望んでいません。神様の愛と恵みこそが、はるかに幸せな物語です。そして、神様はあなたを心から愛しておられます。

神様との和解を可能にするため、神様はイエス様をこの世に送ってくださいました。そして、私たちの罪のために、イエス様は十字架で死んでくださいました。

しかし、もし神様の賜物を拒絶し、イエス様をあなたの王として受け入れないなら、あなたは裁きを受けることになるでしょう。

ヨハネは次のように書いています。

御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神様のひとり子の名を信じなかったからである。(ヨハネ3:18)

あなたは選択する必要があります。どう決断するのでしょうか。

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ミナのたとえ話:私たちが待っているうちに

ルカによれば、イエス様がこのたとえ話を教えられた理由は、「イエス様がエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたから」です(ルカの福音書19:11)。

つまり、イエス様は彼らの間違った考えを正すと同時に、正しい考えを彼らの心に植え付けたいと思われたのです。それで、イエス様はこう言われました。

ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。

彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。(12-13)

イエス様は、どのような間違った考えを覆したいと思われたのでしょうか。それは、神の国がすぐに来るという考えです。

王としての地位につく前に、イエス様は罪の問題を解決するために十字架で死ななければなりませんでした。

イエス様は死なれ、復活された後、天に帰って天の父の右に座られました。そして、聖書によれば、現在イエス様は「敵がご自分の足台とされるのを待っておられます」(へブル人への手紙10:13)。

ですから、私たちはいまだにイエス様の帰りを待っています。

では、イエス様が帰られるまで、私たちは何をすべきでしょうか。私たちはイエス様に忠実に仕えるべきです。

イエス様は弟子たちの心にその考えを植え付けたいと思われました。神の国のために、まだたくさんの仕事をしなければなりません。

このたとえ話では、王は十人のしもべに同じ金額を与えました。そして、王は彼らに、「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい」と命じられました。

そのお金は何を象徴しているのでしょうか。おそらく、それは私たちの救いです。しもべたちはそのお金を得るために働いたのではありません。王はそのお金を彼らに預け、彼らはそれを投資しなければなりませんでした。

同じように、私たちは働いて救いを得たのではありません。神様の恵みによって救いが与えられました。しかし、私たちはその救いを用いて、神様の国のために働かなければなりません。

パウロは次のように言いました。

恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。【ピリピ2:12-13)

私たちが与えられた救いを投資するとは、どういう意味なのでしょうか。それは、私たちが受けた救いを用いて、周りの人々に投資することを意味します。

私たちは自分の救いを喜ぶだけではなく、その救いを周りの人々と分かち合う心が必要です。彼らのために祈り、彼らに仕えましょう。

そして、私たちは彼らに対して、イエス様の目、口、耳、手となるべきです。イエス様が帰られるまで、私たちはそうし続けなければなりません。

そのように行動するなら、私たちは報いを受けるでしょう。どんな報いでしょうか。それは、神様の国のためにさらに大きな責任が与えられることです。

多くのクリスチャンは神様のために素晴らしいことをしたいと思っています。しかし、もし彼らが受けた救いを周りの人々と分かち合わないのであれば、神様がさらに大きな責任を彼らに委ねられるでしょうか。

さらに、最後のしもべのように、神様の国のために投資をしないのであれば、イエス様が帰られるとき、その人々は叱責されることになるでしょう。

パウロはそのような人々について次のように語っています。

その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。(第一コリント3:15)

あなたはどうでしょうか。あなたが受けた救いで、何をしているのでしょうか。

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私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですが、今日この個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた箇所が心に強く響きました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(ルカの福音書19:3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署を嫌うかもしれませんが、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人を非常に憎んでいました。

以前にも私は述べましたが、取税人はユダヤ人たちが嫌うローマ帝国に協力し、自分の民をだましていたため、ユダヤ人の間では全く人気がありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思っていました。なぜでしょうか。

おそらく、彼は多くのお金を持っていましたが、彼の心はまだ空虚でした。けれども、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中に他の人とは違う何かを見ました。つまり、命と希望を見たのです。

ところが、群衆のせいで、ザアカイにはイエス様が見えませんでした。

おそらく、その群衆の中には信心深い人々が多くいたでしょう。彼らは神様を愛していたかもしれません。それでも、彼らの存在がザアカイにとって障害となり、イエス様を見ることを妨げました。

ザアカイは背が低い人でした。そして、大勢の人々がいました。もしザアカイが無理にイエス様のところへ行こうとしたら、群衆の反応を予想することができたでしょう。彼らがザアカイを認めたとしても、きっと彼を通らせなかったでしょう。

そのため、ザアカイは木に登りました。そしてザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もしザアカイが、人々が彼に抱いている意見について疑いを持っていたなら、彼らの反応によってその疑いは完全に吹き飛ばされたでしょう。彼らは不満を言い立てました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

しかし、ザアカイがイエス様の愛に触れたことで、彼の心は大きく変わりました。そして、彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど群衆のようにふるまうことがあるでしょうか。神様を愛していると言うかもしれませんし、イエス様に従うと言うかもしれません。それでも、私たちのせいで周りの人々がイエス様を見られないことはないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えているでしょうか。それとも、彼らを見下したり、追い出したりしているでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、すべての人々との関係を望まれます。そのため、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は私たちだけのために死なれたのではなく、彼らのためにも命を捧げてくださいました。

イエス様は軽蔑されている人々のためにも命を捧げられました。だから、人々を軽蔑してはいけません。

また、人々がイエス様のもとに来ようとするとき、その道を妨げることのないようにしましょう。むしろ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)