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リーダーシップに関する間違った考え方

リーダーシップとは何でしょうか。

イエス様は、パリサイ人たちと律法の専門家を厳しく批判された時、本当のリーダーシップを定義されました。

まず、イエス様は弟子たちと群衆に警告されました。

律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。

しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで事項しないからです。(マタイ23:1-2)

この箇所で、イエス様が彼らに教えられたのは、そのリーダーたちの権威ある立場を尊重する必要があるけれど、彼らの行動を模倣してはならないということです。なぜなら、彼らの言葉と行動が一致していなかったからです。

もちろん、彼らは律法の細かなルールや、さまざまな宗教的な伝統を守っていました。けれども、最も重要なこと、つまり正義、憐れみ、そして誠実を忘れていたのです。

その態度は、神様や周囲の人々に対する彼らの姿勢に悪影響を与えてしまいました。

さらに、その態度は彼らのリーダーシップに関する考え方にも影響を与えました。彼らは人々に仕えるのではなく、命令したいという考えを持っていました。

イエス様は彼らについてこう言われました。

また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。(マタイ23:4)

彼らは多くの律法やルールを人々に課しました。けれども、その人々がそのルールを守れず、罪悪感の重さで苦しみ始めると、パリサイ人たちや律法学者たちは彼らを励ますことも、彼らのために祈ることもせず、助けるどころかむしろ彼らを責めました。

さらに、パリサイ人たちと律法学者たちは、自分の立場を誇示していました。

彼らの聖句を入れる小箱は大きく、衣の房(その房にも神様の言葉が書かれていました)は長く、周りの人々は彼らを見た時に本当に感心しました。「その人は本当に霊的な人だ」と思ったのです。

また、彼らはお金を儲けるために自分の立場を利用しました。イエス様は「彼らはやもめたちの家を食い尽くします」と言われました。おそらくそれは、パリサイ人たちがやもめの歓心を買い、彼女たちのお金を搾取したということを意味しているのでしょう。

さらに、彼らは周りの人々に「先生」や「父」と呼ばれることを好みました。なぜなら、それは彼らの高い立場を示す印だったからです。

しかし、イエス様はこう言われました。

あなたがたは、先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。

あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。

また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。(マタイ23:8-10)

リーダーたちはそのことを心に留めていなければなりません。肩書を持つこと自体は良いことですが、実際には私たち全員が対等なのです。神様だけが私たちに対して優れた方です。

それでも、神様はしもべとしてこの世に来られました。イエス様は病気の人々を癒し、困難にある人々に良い知らせを伝え、十字架で私たちの罪のための罰を受けて下さいました。リーダーたちはそのような態度を取るべきです。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなたがたのうちで、一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。(マタイ23:11-12)

本当のリーダーたちはしもべです。彼らは敬意、栄誉、またはお金を求めるのではなく、周りの人々に仕えるために全てをささげます。

さて、あなたはどのようなリーダーなのでしょうか。

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ダビデの子。神の子。

多分、イエス様はパリサイ人たちやサドカイ人たちの偽善的な態度に嫌気が差していたので、彼らを黙らせるためにこの質問を投げかけられたのでしょう。

あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。(マタイ22:42a)

パリサイ人たちや律法の専門家にとって、それは非常に簡単な質問でした。そのため、彼は即座に答えました。

ダビデの子です。(マタイ22:42b)

そして、イエス様は彼らの「キリスト」(または「メシア」)に対する考え方に異議を唱えられました。イエス様は次のように尋ねられました。

それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、「主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」」と言っているのですか。

ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」(マタイ22:43-45)

その答えは簡単です。イエス様は人の子(つまりダビデの子)であるだけでなく、神の子でもあります。

人間として、イエス様はダビデの子孫でした。しかし、神の子として、イエス様はダビデの主でした。

けれども、パリサイ人たちや律法の専門家はそのことを理解することができませんでした。もしかすると、彼らは心の中でそのことを理解したくないと思っていたのかもしれません。

今なお、多くの人々はパリサイ人たちや律法の専門家のように考えています。彼らはイエス様を人間として認めます。そして、イエス様が良い方であることを認めます。もしかすると、イエス様を素晴らしい先生として認めることもあるかもしれません。

しかし、彼らはどうしてもイエス様が神の子であるとは認めようとしません。

イエス様は人の子だけではなく、神の子でもあります。だからこそ、イエス様は私たちの愛、信頼、そして服従にふさわしい方です。さらに、イエス様だけが天の父への道です。

さて、あなたはイエス様をどのように考えるでしょうか。彼は一体誰だと思いますか。

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聖書と神様の力を理解しないと

ある英語の子どもの歌は、サドカイ人たちをこのように描写しています。

I don’t want to be a Sadduccee.
(サドカイ人になりたくないよ。)
‘Cause, a Sadduccee is sad, you see.
(だって、サドカイ人たちは悲しい人たちだから。)

それは少しくだらないだじゃれですが、どこかに真実が含まれています。

最終的に、サドカイ人たちは希望を持たない人々でした。なぜなら、彼らは復活を信じていなかったからです。彼らは死を迎えると命が終わると考えていました。

その考え方は、神様に対する彼らの思いや、自分の人生観、そして聖書に対する理解に影響を与えてしまいました。

彼らは神様の力を理解しておらず、神様の愛も知りませんでした。また、神様が私たちと永遠に共に生きたいと望んでおられるという概念を全く持っていませんでした。

彼らは墓に入ると命が終わると考えていたため、この世のもの、つまり力とお金に執着していました。

このような考え方は、彼らの聖書の理解にも影響を与えました。彼らは聖書の最初の5冊(創世記から申命記まで)だけを神様の言葉として受け入れていました。預言者の書や詩篇などは神様の言葉として受け入れなかったのです。

そこで、彼らはイエス様のところに行き、パリサイ人たちを困らせた質問をイエス様に尋ねました。それはくだらない質問でしたが、その時代のユダヤ人たちの文化では、万が一(もしくは、億が一と言えるでしょうか)その話が現実になる可能性があると考えられていました。

サドカイ人たちはこう尋ねました。

先生。モーセは、「もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない」と言いました。

ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。

では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。(マタイ22:24-28)

それは非常にくだらない疑問に思えるでしょう。それは非現実的であり得ないと思われます。

ともかく、イエス様は彼らに対して非常に厳しく答えられました。

あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。(マタイ22:29-30)

そして、イエス様は出エジプト記の箇所を引用されました。

サドカイ人たちはその箇所をよく知っていたはずですが、彼らはその言葉を決して深く考えたことがなかったでしょう。だからこそ、イエス様の言葉は彼らに強い衝撃を与えたに違いありません。イエス様はこう言われました。

死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。(31-32)

神様は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であった」とは言われませんでした。神様はこう言われました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。今なお、わたしは彼らの神である。」

要するに、アブラハムやイサクやヤコブの魂は今も生きています。だから、イエス様はサドカイ人たちが受け入れていた聖書の箇所を用いて復活を証明し、彼らの議論を完全に打ち砕かれました。

それでは、この話から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様を私たちが作った箱に閉じ込めることはできません。

しかし、サドカイ人たちは神様をそのような箱に閉じ込めてしまいました。彼らは神様の力を理解せず、神様が人々を復活させる力を持つことを信じなかったのです。

なぜ彼らは神様の力を理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書を正しく理解していなかったからです。

だからこそ、私たちはサドカイ人たちのようにならないように注意する必要があります。聖書を学び、その真意を理解するために努力しましょう。

もし聖書が神様についての私たちの考えに反することを語っているなら、サドカイ人たちのようにその言葉を拒否するのではなく、むしろ受け入れるようにしましょう。

そうすることで、私たちは神様をさらに深く知り、神様との親しい関係を築くことができるのです。

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神様の物を返す

私は税金を支払うのが大嫌いです。毎年3月に確定申告を書くのはとても大変です。その時に少し返金はされるものの、6月になると税金の負担が非常に大きくなります。

私はマンションを購入したため、毎年その税金を支払わなければならない上に、市民税や県民税も負担しなければなりません。

税金を支払うのが好きな人などいないでしょう。でも、イエス様の時代ではユダヤ人たちは特に支払いたがりませんでした。それは、彼らがイスラエルを征服していたローマ帝国に税を納めなければならなかったからです。

そこで、パリサイ人たちとヘロデ党の者たちは、イエス様を罠に陥れるための完璧な質問を思いついたのです。

彼らはこう尋ねました。

先生。私たちは、あなたがお話になること、教えになることが正しく、またあなたが人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。

ところで、私たちがカエサルに税金を納めることは、律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。(ルカ20:21-22)

もしイエス様が「税金を払わなくてよい」と言えば、ヘロデ党の者たちはその言葉をローマ帝国に伝え、イエス様は反逆者として捕らえられたでしょう。

一方で、イエス様が「税金を払うべきだ」と言えば、ユダヤ人の間でイエス様の人気は失われてしまったかもしれません。

ところが、イエス様は彼らの意図をよく知っておられました。そこで、イエス様は再び彼らの質問に別の質問で答えられたのです。

まず、イエス様は彼らに税金を支払うための銀貨を見せてくれるよう頼みました。そして、イエス様は彼らにこう尋ねられました。

だれの肖像と銘がありますか。(ルカ20:24)

彼らは、「カエサルのものです」と答えました。

すると、イエス様はこう言われました。

では、カエサルのものはカエサルに、神のものは、神に返しなさい。(ルカ20:25)

イエス様が意味されたのは何だったでしょうか。

「あなたたちはカエサルのお金を使っていますね。そのお金を使うということは、そのお金がカエサルに属するものだという証拠ではありませんか?だから、カエサルに属するものはカエサルに返しなさい。」

けれども、イエス様は続けてこう言われました。

「でも、あなたたちは、もっと大切なことを覚えていなくてはいけません。神様に属するものは神様に返しなさい。」

この言葉を通して、イエス様はローマ帝国の主張を巧みに論破すると同時に、ユダヤ人たちに重要な教訓を教えられました。

ローマ帝国は、カエサルが神であると主張していました。実際、その銀貨にはそのような言葉が刻まれていました。しかし、イエス様はカエサルと神様を明確に区別されました。

「カエサルという一人の人間には、彼に属するものを返しなさい。けれども、真の神には、神に属するものを返しなさい。」

私はイエス様のこの2つ目のポイントについてお話ししたいと思います。ローマ帝国の銀貨にカエサルの肖像と銘が刻まれていたように、私たちにも神様の肖像と銘が刻まれています。

聖書によれば、神様は人を神のかたちとして創造されました。(創世記1:26-27)

そして、パウロはこう言っています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(第二コリント3:3-4)

神様はご自身の名前を私たちの心に記し、私たちが神様に属していることを明確にしてくださいました。時には、私たちに刻まれた神様の肖像が、私たちの罪によって歪んでしまうことがありますが、パウロはこう書いています。

私たちはみな。。。鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられています。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント3:18)

それでは、私が言おうとしているのは何でしょうか。

私たちは神様に属しています。だから、私たちは神様に属するものをお返ししなければなりません。それは単なるお金ではありません。それは私たちの命そのものです。

あなたは神様に属するものを、神様にお返ししますか。

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悪い小作人のたとえ話:イエスを拒絶すると

イエス様はユダヤ人のリーダーたちに不信を責めた後、彼らが悔い改めない場合にどうなるかを警告されました。

このたとえ話はイザヤ書5章に似ています。イザヤ書の箇所では、神様がご自分の造られたぶどう園について話されています。そのぶどう園は北イスラエル王国とユダ王国を象徴しています。

その話でも、イエス様の話でも、その主人は受け取るべきぶどうを受け取れませんでした。けれども、イエス様の話では、特に農夫たちを責めておられます。

もちろん、その農夫たちは、預言者たちやイエス様を拒絶したユダヤ人のリーダーたちを表しています。彼らはイスラエル人の霊的な健康を守る責任を持っていました。

リーダーたちがその責務を果たしていれば、イスラエルは霊的な実を結んでいたでしょう。ところが、彼らは堕落し、その責任を果たしませんでした。

なぜでしょうか。それは、神様を重んじず、自分自身のために生きたからです。彼らはお金や権力、人々からの栄誉に執着していました。

だからこそ、イスラエルの民が実を結ばなかったのは当然のことでした。

そこで、神様は彼らにしもべを送りました。イスラエルの歴史の中で、神様は何度も預言者たちを遣わされました。預言者たちはイスラエル人たちに警告し、訓戒しました。

しかし、そのリーダーたちは幾度となく預言者たちを拒絶し、迫害しました。さらには、預言者たちを殺してしまうことさえありました。

最後に、神様は御自身のひとり子を送ってくださいました。けれども、そのリーダーたちは御子を殺そうと計画していたのです。

だから、イエス様がユダヤ人たちに「主人がその農夫たちをどうすると思いますか?」と尋ねられると、彼らはこう答えました。

その悪者どもを情け容赦なく滅ぼして、そのぶどう園を、収穫の時が来れば、収穫を納める別の農夫たちに貸すでしょう。(マタイ21:41)

それでも、ユダヤ人たちはそんな悪者が存在することに驚きました。そこで彼らは「そんなことが起こってはなりません。」と言いました。(ルカ20:16)

ところが、イエス様は次のように答えられました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には、不思議なことだ。」

ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42-44)

イエス様が意味されたのは何でしょうか。イエス様はすべてのものの基礎です。イエス様は要の石です。

要の石とは、建物の最初に据えられる石を指します。その建物は要の石の周りに建てられます。この石は非常に重要であり、この石が少しでも歪むと、建物全体が歪んでしまいます。

同じように、神の御国、そして私たちの人生もイエス様の周りに建てられなければなりません。そうしないと、すべては歪んでしまいます。

しかし、ユダヤ人のリーダーたちはイエス様を拒絶したため、神の国は彼らが軽蔑していた人々に与えられました。つまり、収税人や売春婦、異邦人に与えられたのです。なぜなら、彼らはイエス様を救い主として受け入れたからです。

一方で、そのリーダーたちは裁かれ、すべてを失ってしまいました。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は何の上に建てられているでしょうか。お金でしょうか。財産でしょうか。力でしょうか。この世のものでしょうか。それともイエス様でしょうか。イエス様はあなたの要の石でしょうか。

神様はあなたに命を与えてくださいました。あなた自身も、あなたが持つものすべても神様に属しています。そして、神様はその御国のために、あなたに霊的な実を求めておられます。

しかし、自分のためだけに生きているなら、その実を結ぶことはできません。そして、ユダヤ人のリーダーたちのように要の石を拒絶すれば、裁きを受け、すべてを失ってしまいます。

あなたは誰のために生きているのでしょうか。

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あなたの間違った考え方を認めないと

私たちの考え方が間違っていると分かる時、時にはそれを認めるのが難しいものです。私自身もそれを認めたくないことがあります。どうしてでしょうか。

それは、プライドがあるからです。「私は間違っていた」と言うのは簡単ではなく、謙虚な態度が求められます。

けれども、もし私たちが神様との関係や人々との関係を守りたいと思うなら、その謙虚な態度が不可欠です。

イエス様の時代の宗教的なリーダーたちは、このような態度を持っていませんでした。イエス様は何度も彼らの間違った考え方を指摘されましたが、彼らはどうしてもそれを認めようとはしませんでした。特にイエス様の最後の週(つまり、十字架にかかる前)に、その姿が明らかになります。

イエス様が神殿から商人たちと両替人を追い出された後、祭司長たちや民の長老たちがイエス様のところに来て、こう尋ねました。

何の権威によって、これらのことをしてるのですか。だれがあなたにその何の権威を授けたのですか。(マタイ21:23)

いつものように、イエス様は彼らの質問に対して別の質問で答えられました。

ヨハネのバプテスマは、どこから来たものですか。天からですか、それとも人からですか。(マタイ21:25)

それを聞かれた時、彼らは板挟みになってしまいました。

もし彼らが「天から」と答えたなら、イエス様は「では、どうしてヨハネの言葉を信じなかったのでしょうか。ヨハネは私がメシアであることを語りました。もしその言葉を受け入れるなら、私の権威がどこから来るのかが理解できるはずです。」と言われたでしょう。

その一方で、彼らが「人から」と答えたなら、周りの群衆は彼らに怒りを向けたでしょう。なぜなら、群衆はヨハネが本当の預言者であると信じていたからです。

そこで彼らは「分かりません」と答えました。

すると、イエス様は「もし私の質問に答えないなら、私もあなたの質問に答えません。」と仰いました。

その後、イエス様は彼らにたとえ話を語られました。その話では、あるお父さんに二人の息子がいました。お父さんが長男に何かを頼んだ時、最初はその息子が「それをしたくありません」と答えましたが、最終的にはその仕事をしました。

一方で、次男は頼まれた時に「はい、します。」と言いましたが、結局その仕事をしませんでした。

このたとえ話を通して、イエス様は宗教的なリーダーたちを、かつて罪を犯していた罪人たちと比較されました。

宗教的なリーダーたちは正しい人たちに見えましたが、心の中では神様に背いていました。

彼らがバプテスマのヨハネを見た時、彼が頭がおかしいと思いました。しかしすぐに分かったのは、ヨハネのミニストリーを通して多くの人々の人生が変わったということです。神様がヨハネを通して働かれていることは明らかでした。それでも、彼らはプライドのゆえにヨハネを拒絶しました。

さらに、彼らはイエス様をも見ていました。彼らはイエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の教えを聞きましたが、それでもイエス様を拒絶しました。

イエス様が彼らの間違った考え方を暴露し、彼らがイエス様の議論に反論することができなくても、彼らは自分の考えに固執しました。

一方で、このリーダーたちに見下されていた罪人たちは、かつて神様に背き、人々をだましたり、自分の体を売ったりしましたが、ヨハネやイエス様の言葉を聞くと、謙虚に自分の罪を認め、悔い改めました。

そこで、イエス様は宗教的なリーダーたちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。(マタイ21:31)

あなたはどうでしょうか。自分が間違った時、それを認めることができるでしょうか。プライドは人間関係を壊します。けれども、さらに深刻なのは、プライドが神様との関係を壊してしまうことです。

だからこそ、謙虚な心を保ちましょう。相手から訓戒された時は、その言葉を素直に受け入れましょう。そして、自分が間違ったと気づいた時には、すぐにそれを認めましょう。

そうしなければ、あの宗教的リーダーたちのように、私たちは周りの人々から距離を置かれ、さらには神様からも離れてしまうかもしれません。