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聖書が成就するため

この箇所を読むと明らかなのは、イエス様の死が偶然ではなかったということです。また、イエス様の死は神様の間違いでもありませんでした。むしろ、神様はこの時が始まる前から、私たちの救いを計画しておられたのです。

皮肉なことに、祭司長たちがイエス様がメシアであるしるしを求めたとき、イエス様は確かにそのしるしを与えられました。けれども、彼らはそのしるしを認識することができませんでした。

彼らはイエス様に十字架から降りるように挑戦しましたが、イエス様は預言の成就を示されました。

そして、イエス様は叫ばれたのです。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

祭司長たちは、イエス様がエリヤという預言者を呼ばれているのだと思いました。しかし、実際にはイエス様は彼らに詩篇22篇を指しておられたのです。なぜでしょうか。それは十字架の上でイエス様がダビデによって書かれた言葉を成就されたからです。

十字架の上で、イエス様は侮辱され、軽蔑されました。驚くべきことに、祭司長たちは知らず知らずのうちにダビデの詩篇を引用していたのです。詩篇22篇において、ダビデの敵はこう語りました。

主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。(詩篇22:8)

祭司長たちはイエス様について、こう言いました。

彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。「わたしは神の子だ」と言っているのだから。(マタイ27:43)

ダビデの時代には、十字架という刑罰はまだ存在していませんでした。それにもかかわらず、ダビデは十字架による死を生々しく描写しました。ダビデはこう語りました。

水のように 私は注ぎ出され、
骨はみな外れました。(詩篇22:14a)

実際には、十字架にかけられた人々の骨の関節がしばしば外れたとされています。

そして、ダビデはこう語りました。

心はろうのように
私のうちで溶けました。(詩篇22:14b)

ヨハネによれば、兵士がイエス様の脇腹を槍で突き刺したとき、血と水が流れ出ました。現代の医師によれば、その血と水が流れる現象は、心不全の兆候である可能性があるとされています。

さらに、ダビデはイエス様が喉が渇くことについても預言していました。

舌は上あごに貼り付いています。(詩篇22:15)

さらに、ダビデはイエス様の手と足が刺されることについても預言しました。(ダビデは釘ではなく、犬の歯や、場合によってはライオンの歯のような描写を使用しています。詳細については詩篇22篇の13節をご覧ください。)

犬どもが私を取り囲み
悪者どもの群れが私を取り巻いて
私の手足にかみついたからです。(詩篇22:16)

さらに、十字架にかけられた人々は、自分の胸郭を見ることができたとされています。

ダビデはそのような状況についても詩篇の中で描写しました。

私は自分の骨をみな数えることができます。(紙片22:17)

さらに、ダビデは兵士たちがイエス様の服をめぐって賭けをすることについても預言されました。

彼らは私の衣服を分け合い
私の衣をくじ引きにします。(詩篇22:18)

それらの預言はイエス様を指していました。祭司長たちは聖書をよく知っていましたが、それを認識することができませんでした。

ヨハネは他の聖書の箇所も参考にしています。詩篇34篇と69篇、またゼカリヤ書12章もイエス様のことを指しています。

さらに、イザヤ書53章は特に具体的にイエス様のことを指しています。

イエス様は私たちの背きのために刺されました。また、イエス様は私たちの罪のために砕かれました。(5節)

証人たちがイエス様に言いがかりをつけたにもかかわらず、イエス様は何も言われませんでした。(7節)

イエス様は自分の敵のためにとりなしをされました。(12節)

イエス様は悪者たちと一緒に葬られるはずでしたが、最終的にお金持ちの人のお墓に葬られました。(9節)

そして、イエス様はよみがえられました。(10-11節)

だから、私はもう一度言います。イエス様の死は偶然ではありませんでした。時間が始まる前に、天の父はイエス様の死、そして私たちの救いを計画しておられたのです。

ですから、イエス様の十字架の御業を当たり前のものだと決して思わないでください。むしろ、感謝を持って、私たちの救いのため、またイエス様が支払われた代価のために、天の父をほめたたえましょう。

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全額が支払われた

私が大嫌いなことの一つは、税金を払うことです。毎年、私は税務署に行き、確定申告を提出します。その後、一か月ほどして税務署が少しお金を返してくれます。しかし、その直後には市民税や県民税を支払わなくてはなりません。

私はいつも一括払いで税金を支払います。もちろん分割払いも選択できますが、一括払いの方が自分には合っていると思います。そうすれば、次の年まで税金のことを考えなくても済むからです。

十字架の上で、イエス様の最後の言葉は、まるでその税金を支払うイメージを描写しているようでした。

12時になると、暗闇が全地を覆いました。そして15時ごろまで、その暗闇は続きました。おそらくその間に、神様は私たちの罪をすべてイエス様に負わせたのではないでしょうか。

その暗闇は罪の象徴だったのでしょう。罪によって霊的な暗闇がこの世にもたらされましたが、天の父はその罪をイエス様に負わせられました。

そして、15時ごろ、イエス様は叫ばれました。

わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)

その瞬間、おそらく天の父は、私たちの罪をイエス様に負わせ、イエス様に背を向けられたのではないでしょうか。それにより、天の父とイエス様との関係は初めて壊れてしまったのでしょう。

そしてイエス様は私たちが本来受けるべき罰を経験されました。つまり、イエス様は天の父から離れられたのです。

イエス様は完全な愛の源、喜びの源、そして命の源から離れられました。

そのような状態はまさに地獄そのものです。イエス様は実際に地獄に行かれたわけではありませんが、ある意味で地獄を経験されたのです。イエス様は私たちの罰を受けてくださいました。

そして、死を迎える直前、イエス様は天を仰ぎ、祈られました。

完了した。父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。(ルカ23:46;ヨハネ19:30)

「完了した。」

イエス様の時代、ユダヤ人たちが税金を支払うと、ローマ人はその言葉を請求書に捺印しました。その意味は、「全額が支払われた」ということです。

イエス様の死によって、私たちの罪のためのすべての負債が支払われました。

その結果はどうでしょうか。私たちは神様との新しい関係を持つことができるようになりました。神様は至聖所と聖所の間にかかっていた神殿の幕を、上から下まで真っ二つに裂かれました。(マルコ15:38)

その理由は何でしょうか。

その行為を通して、神様は私たちにこう語られたのです。「私たちの間にあった障害は破られた。イエス様を通して、あなたは私に近づくことができる。」

イスラエル人が経験したように(出エジプト記20:18-21)、私たちはもはや神様から遠くに立つ必要はありません。

むしろ、私たちは神様に近づくことが許されています。

だから、神様に近づきましょう。

へブル人への手紙の著者はこう述べています。

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。(へブル10:19-22)

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神様をののしること。神様の前にへりくだること。

これは、十字架にまつわる有名な話の一つです。イエス様の隣には、二人の犯罪人も十字架につけられました。そして、ルカはその二人についてこう記しています。

十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え、」と言った。(ルカ23:39)

「ののしり」という言葉が私の心に強く響きました。それを思い、こう考えました。「どれほどの人々が自分の罪による苦しみの中で、神様をののしるだろうか。」

この犯罪人は悪事を働いたために罰を受けていましたが、悔い改めることなく、その罰について不満を述べていました。

もしかすると、彼は自分の行為が正しいと思い込み、イエス様にこう叫んだのかもしれません。「あなたは本当にキリストなのですか。私はこの罰に値しない。私を救いなさい。」

他の福音書によれば、最初はもう一人の犯罪人もイエス様をののしっていました。しかし、おそらくイエス様は答えることなく、情け深く彼らを見つめられたのでしょう。

だからこそ、二人目の犯罪人は次第に静まっていったのかもしれません。彼が悟ったのは、ローマ人がイエス様の尊厳を奪おうとしていたにもかかわらず、イエス様がその尊厳を保ち続けておられたということでした。

さらに、彼はイエス様が敵に対して情けと愛と赦しの心を持っておられるのを目にしました。

もしかすると、その犯罪人は以前にイエス様の奇跡を目の当たりにしたことがあり、イエス様の教えを聞いたことがあったのかもしれません。

そして、彼は自分自身を見つめ直し、初めてこう認めたのでしょう。「やはり私は悪かったのだ。いろいろと言い訳をしたが、それはただの言い訳にすぎなかった。私は確かにこの罰に値する。」

だからこそ、もう一人の犯罪人がイエス様をののしり続けると、彼はこう言いました。

おまえは神を恐れないのか。お前も同じ刑罰を受けているではないか。

おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。(40-41)

そして、彼はイエス様に向き直り、こう願いました。

イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。(42)

私のただの想像にすぎませんが、たぶんイエス様は十字架の上で初めて微笑まれたのかもしれません。そしてイエス様はこう答えられました。

まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます。(43)

その瞬間、その犯罪人は救われました。彼は死にかけていながらも、命を見いだしたのです。

私は前にも述べましたが、多くの人々は一人目の犯罪人のような態度を取ります。彼らは悪事を行いますが、罰を受けて苦しむと、自分の悪さを認めることなく神様をののしるのです。

多くの人々が、なぜ神様が地獄で人々を永遠に罰するのか疑問を持ちます。

その理由の一つとして、地獄では誰も悔い改めないからかもしれません。むしろ、彼らは永遠に神様をののしり続けます。

彼らは自分の行為が正しかったと主張し続けます。彼らの心では、自分の悪さを理解していながらも、自分の罰について不平を言い続けるのです。

地獄では、人々は自分の罪深さを認識し、その罰に値することも理解していますが、それを決して認めることはありません。

しかし、自分の罪を認め、へりくだって悔い改める人は、二人目の犯罪人のように赦され、命を見いだすのです。

そのための時間は「今」しかありません。死んでからでは、すでに手遅れなのです。だからこそ、パウロはこう書きました。

見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6:2)

あなたはどうでしょうか。イエス様の前にへりくだって来ることができるでしょうか。そして、イエス様からの救いを受け入れるでしょうか。

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彼らをお赦しください

多くの人々にとって、相手を許すことは非常に難しいことです。それは、私たちの心に深い傷があるからです。そして、その傷が深ければ深いほど、癒しにはより長い時間がかかります。

もし指を針で刺されたなら、癒しは早いでしょう。けれども、誰かが意図的にあなたの背中をナイフで刺したなら、その傷が癒えるには非常に長い時間を要するでしょう。

だからこそ、敵に対するイエス様の反応は本当に驚くべきものです。十字架の上で、イエス様はこう言われました。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。(ルカの福音書23:34)

イエス様の言葉について、少し考えてみてください。

もし相手が自分が何をしているのか分かっていなかったなら、その人を許すことは比較的簡単なことでしょう。多くの場合、彼らが自分の行為に気づくとすぐに謝罪し、それを許しやすく感じることが多いからです。

しかし、もし相手が意図的にあなたを傷つけたのであれば、それを許すのは非常に難しいことです。

では、パリサイ人たちや祭司長たちの場合はどうでしょうか。彼らはイエス様にこう言ったでしょうか。

「あれ?イエス様、私たちの行為によって、あなたが十字架につけられているのですか。ごめんなさい。今すぐあなたを助けます。」

そうではありません。彼らは最初から意図的にイエス様を殺そうと計画していました。

彼らは代価を支払ってユダにイエス様を裏切らせました。最高法院での裁判のために偽りの証人を集め、さらにピラトやヘロデのもとでイエス様について数々の嘘をつきました。

彼らの影響力によって、ユダヤ人たちは「十字架につけろ!」と叫びました。それだけではなく、イエス様が十字架にかかっている間も、彼らはイエス様を侮辱し、からかいました。

では、イエス様は本当に「彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言うことができたのでしょうか。彼らはすべてを理解していたように見えます。

それでも、彼らは実際には知りませんでした。彼らは自分の嫉妬によって目が曇らされていました。彼らのプライドや罪がその視野を曇らせていたのです。さらに、サタン自身が彼らの思いを暗くしたのです。

実は、私たち全員が、かつて霊的に盲目でした。

たとえ人々が意図的にあなたを傷つけたとしても、その理由は彼ら自身も霊的に盲目であるからかもしれません。

もしかすると、彼らはあなたにどれほどのダメージを与えたか気づいていないかもしれません。 もしくは、彼らは神様の目にはあなたが価値ある存在であることを知らないのかもしれません。

あるいは、彼ら自身が深い傷を抱えているため、思わずあなたを傷つけてしまうことがあるかもしれません。そして、自分の行為について自覚していない場合もあるでしょう。

例えば、ある男性は長年、家族を虐待していた父親を許せませんでした。けれども、神様はその男性に、その父親自身も子供の頃に虐待を受けていたことを明らかにされました。癒されていない傷が原因で、その父親は大人になってから自分の家族を傷つけてしまったのです。

その息子が父親の傷を理解したとき、父親に対する共感が生まれ、許すことができるようになりました。

私たちが相手を許せないときには、次のことのために祈るべきです。つまり、私たちが自分の傷から目をそらし、私たちを傷つけた人の心を理解できるように祈るのです。

イエス様は十字架の上でまさにそれをなさいました。イエス様はご自身の傷ではなく、イエス様を憎む人々のニーズに目を向けられました。その人々は決して悔い改めることはありませんでしたが、それでもイエス様は彼らを赦してくださいました。

神様の助けによって、あなたも相手の傷を理解することができるようになります。それでも、相手は悔い改めないかもしれません。

けれども、あなたが相手のことを理解することができたなら、あなた自身が変わります。あなたは自分の傷ではなく、相手の傷に焦点を当てるようになります。

そして、神様があなたの心にその人への愛と憐れみを注いでくださり、彼らを赦すことができるようになるのです。

許せない人がいるでしょうか。その人を理解できるように祈ってください。その人の傷を知ることができるように祈りましょう。そして、イエス様のように祈りましょう。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。

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神様が書かれたこと

ピラトと祭司長たちのやり取りは非常に興味深いものです。ピラトは十字架の上にイエス様の罪状書きを掲げました。その「犯罪」とは?

「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」。

祭司長たちはすぐにピラトのもとへ行き、抗議しました。彼らはこう言いました。「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この者はユダヤ人の王と自称した』と書いてください。」

けれども、ピラトは答えました。「私が書いたものは、そのままにしておけ。」(ヨハネ19:21-22)

今もなお、多くの人々はユダヤ人たちのような態度を取っています。彼らはイエス様を王として認めようとしません。彼らはイエス様が神の子であると認めたくありません。また、イエス様だけが神様への道であると認めたくありません。

そのため、彼らはクリスチャンたちに不平を言います。

「イエス様がご自身を王や神の子や神様への道だと自称したかもしれませんが、私はそうは信じません。」

しかし、私たちはピラトとは違い、私たち自身よりも遥かに優れた権威を持つ方を指すことができます。私たちは彼らにこう言うことができます。

「神様が書かれたものは定められています。あなたはその言葉を変えることはできません。あなたは神様の御心を変えることもできません。神様の言葉は永遠に立ちます。あなたの不信が、神様の言葉を変えることはありません。」

人々はこのような言葉を聞きたくないでしょう。祭司長たちもピラトの言葉を聞いて激怒したはずです。けれども、相手がその言葉を好むかどうかは問題ではありません。なぜなら、神様の言葉は正しいのです。

だからこそ、人々は選択を迫られます。

彼らは自分の心をその真理に合わせるでしょうか。それとも、彼らが信じたいと思うものに真理を曲げようとするでしょうか。

しかし、もし彼らが真理を曲げようとするならば、最終的に彼らの人生は砕かれてしまいます。

イエス様はご自身について、こう言われました。

あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。

「家を建てる者たち(つまり、祭司長たちや、ほかの宗教的なリーダーたち)が捨てた石(つまり、イエス様)、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」。。。

また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。(マタイ21:42,44)

祭司長たちがイエス様を拒絶した結果、彼らの世界は崩壊しました。エルサレムは滅び、神殿は破壊されました。そして、裁きの日には彼らは自分の罪によって裁きを受けることになるのです。

イエス様を拒絶するすべての人々にも同じことが起こります。なぜなら、神様が書かれたことは定められているからです。

その言葉を聞いて、あなたはどう応えるでしょうか。

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イエス様の心

イエス様の心を見て、私はいつも驚かされます。

この箇所では、私たちはイエス様を十字架へと導いた、憐れみ深い御心を見ることができます。

イエス様が丘を登られたとき、泣いている女性たちをご覧になり、こう言われました。

エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

なぜなら人々が、「不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ」と言う日が来るのですから。

そのとき、人々は山々に向かって「私たちの上に崩れ落ちよ」と言い、丘に向かって「私たちをおおえ」と言い始めます。

生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。(ルカの福音書23:28-31)

イエス様はご自身の境遇を顧みることなく、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶した結果について預言されました。

つまり、「私が神様のいのちで満ち溢れているのに、ローマ人たちが私にこのようなことをするなら、彼らは霊的に枯れた人々に対してどうするでしょうか。

ローマ人たちはあなたたちを迫害し、あなたたちは死を望むようになります。その時、子供のいない人々をねたむほど絶望するでしょう。」

35~40年後に、イエス様の言葉は成就しました。ローマの軍隊はエルサレムを破壊したのです。

しかし、私の心に響いたのは、イエス様がそのことを決して望んでおられなかったことです。ユダヤ人たちがイエス様を憎んだにもかかわらず、イエス様は彼らの破壊を望まれることはありませんでした。むしろ、イエス様は彼らの救いを望まれました。

そして、イエス様は私たちの救いも望んでおられるのです。

そのため、イエス様は十字架へと向かわれました。イエス様はご自身だけでなく、私たちと私たちの必要を見てくださったのです。

このことを思い巡らしていると、一つの讃美歌が心に浮かびます。

And can it be that I should gain an interest in the Savior’s blood?
どうして、救い主の血によって、私が益を得ることができたのでしょうか。
Died He for me, who caused His pain—
私がイエス様の苦しみを引き起こしたのに、イエス様は私のために死んでくださいました。
For me, who Him to death pursued?
私がイエス様を死に追いやったのに、イエス様は私を愛しておられました。

Amazing love! How can it be,
なんという驚くべき愛でしょうか。そんなことが本当にあり得るでしょうか。
That Thou, my God, shouldst die for me?
私の神であるあなたが、どうして私のために死んでくださったのでしょうか。

ーーチャールズ・ウェズリー

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もし私たちがイエス様の十字架を背負わなければならなかったら

クレネのシモンについて、私たちはほとんど知りません。マルコによれば、彼はルフォスという人の父でした。

ローマ書16:13では、パウロがルフォスという人に挨拶していることから、ある聖書学者たちはマルコの福音書のルフォスが同一人物だと考えています。

シモンは、おそらく北アフリカ出身のユダヤ人で、過ぎ越しの祭りを祝うために初めてエルサレムを訪れた巡礼者だったのでしょう。

ところが、エルサレムに到着した彼は、自分が思い描いていた以上の出来事を目撃することになりました。シモンは、まことの過ぎ越しの子羊が自分の罪のために犠牲となる瞬間を目の当たりにしたのです。(第一コリント5:7)

しかしその前に、シモンはイエス様の十字架を背負わなくてはなりませんでした。

最初はイエス様がご自身の十字架を背負われました。けれども、肉体的な苦しみ(イエス様はむち打たれ、大量の血を流され、兵士たちの拳で殴られました)や精神的な苦しみ(イエス様が愛された者たちに裏切られ、捨てられました)のため、その十字架の重さに耐えきれず、倒れてしまわれたのです。

イエス様はその十字架を背負い続けることができなくなられました。そこでシモンが代わりにその十字架を背負うこととなりました。

その出来事を読んで私はこう考えました。

もしイエス様がゴルゴタで「もういいです。私はもうこの苦しみに耐えられません。あなたがこの十字架を背負いなさい。あなたがこの十字架で死になさい。あなたはこの十字架に値するでしょう?私は罪を犯したことがありません。罪を犯したのはあなたです。」と言われたら、私たちはどうなっていたでしょうか。

ある意味で、シモンはそれを少し経験しました。イエス様が十字架を背負うことができなくなられたため、シモンは自分の十字架を背負わなければなりませんでした。

ですが、実際にはそれは本当はイエス様の十字架ではありませんでした。それはシモン自身の十字架だったのです。なぜなら、イエス様は罪を犯しておられませんでしたが、シモンは多くの罪を犯していたからです。

後になって、シモンはその真実を理解したのでしょうか。

「私は実際にはイエス様を助けていませんでした。本当にその十字架に値していたのは私自身でした。

実は、その十字架を背負ったとき、イエス様は私を助けようとしてくださっていました。私はその十字架で死ぬことに値していたのですが、イエス様が私の代わりに十字架で死んでくださったおかげで、私は罪から救われたのです。

でも、もしイエス様が十字架をもう耐えられなくなっていたら、私はどうなっていたでしょうか。私は今どこにいただろうか。」

その答えは?地獄です。なぜなら、私たち皆が地獄に値するからです。

しかし、イエス様は十字架を背負ってくださいました。イエス様は、私たちが値する罰を十字架の上で受けてくださるほど、私たちを愛してくださいました。

だからこそ、私たちの罪は赦され、真の命を得ることができるのです。それは、私たちを深く愛しておられる神様との関係を持つ人生です。

ですから、十字架を当たり前のものだと考えてはいけません。むしろ感謝の心を持って、私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を仰ぎ見ましょう。

Jesus Christ,
イエス・キリスト
Praise your name,
あなたの御なをほめたたえます。
Lord I sing without shame.
主よ、私は恥じることなく歌います。

You bore the cross.
あなたは十字架を背負ってくださいました。
So much love.
こんなにも大きな愛で。
All my life, all I need is you.
私の一生、私が必要とするのは、あなたただ一人です。

ーージェームズ・ガブリエル

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ルカの福音書 ルカ23章

イエス様が答えてくださらない人

この箇所では、私たちはイエス様に対するヘロデの反応を見ることができます。

しかし、より正確に言えば、私たちはヘロデに対するイエス様の反応を見ることができるのです。

このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺害しました。そして、彼がイエス様のことを初めて聞いた時、イエス様が実はよみがえったヨハネではないかと疑問に思いました。(マタイ14:12; ルカ9:7-9)

そのため、ヘロデはイエス様に会いたいと思いました。一方で、パリサイ人によれば、ヘロデはイエス様を捕まえたいとも考えていました。(ルカ13:31-33)

しかし、この物語では、ついにヘロデはイエス様に会うことができました。彼はイエス様に奇跡を行うよう頼んだり、さまざまな質問を投げかけたりしましたが、イエス様は何もお答えになりませんでした。

なぜでしょうか。おそらく、イエス様はヘロデが何を聞いても、イエス様を信じず、従わないことを知っていたからでしょう。

ヘロデは、かつて何度もバプテスマのヨハネの言葉を聞き、「非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」にもかかわらず、悔い改めることはありませんでした。(マルコ6:20)

ヘロデはイエス様に対しても同じ態度を取りました。ヘロデにとって、イエス様は興味深い存在であったかもしれません。もしかしたら、イエス様が何か奇跡を披露してくれると期待していたのかもしれません。

けれども、ヘロデはイエス様を重んじることはなく、イエス様に従う意思も全くありませんでした。そのため、イエス様は何もお答えになりませんでした。

この物語は私たちへの警告です。もし私たちがイエス様に対して頑なな心を持っているならば、イエス様は私たちに語りかけることをおやめになるかもしれません。

イエス様は、私たちの願望を叶えるためだけの存在ではありません。私たちは、イエス様を軽んじてはなりません。

イエス様は私たちの神です。

イエス様は私たちの王です。

イエス様は私たちの主です。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様をどのように考えますか。

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私たちには、基礎がないと

前にも言いましたが、この福音の箇所を統合するのは少し難しいです。 以下は私の個人的な意見ですが、どうぞ福音書を読んで、自分なりの結論を導いてください。

  • 祭司長たちや最高法院の代表たちは、イエス様をピラトの前に連れて行き、最初の告発をしました。(ルカ 23:1-2; ヨハネ 18:29-31)
  • ピラトは初めてイエス様と対話しました。(ヨハネ 18:33-38では、その話の詳しい内容が記されていますが、ほかの福音書では簡潔に要約されています。)
  • ピラトはイエス様が無実であると宣告しましたが、ユダヤ人のリーダーたちがその判断に抗議したため、ピラトはイエス様をヘロデのもとに送りました。(マルコ 15:3-5; ルカ 23:4-12)
  • ヘロデがイエス様をピラトに送り返し、ピラトはもう一度イエス様が無実であると宣告しました。(ルカ 23:13-17)
  • その後、ピラトはユダヤ人たちに「私はイエス様かバラバ(犯罪者)を釈放しようと思っているが、どちらを釈放すべきだと思うか」と尋ねました。けれども、ユダヤ人たちはバラバの釈放を望みました。(これはすべての福音書に記されています。)
  • ピラトはバラバを釈放しましたが、イエス様を殺すのではなく、むち打つように命じました。(マルコ 15:16-20; ルカ 23:21; ヨハネ 19:1-7)
  • ピラトはもう一度ユダヤ人たちを説得しようとしましたが、最終的にイエス様が十字架にかけられるよう命令しました。(ヨハネ 19:7-14)

その背景を踏まえて、今後数日にわたって、私はすべての主人公について話そうと思います。

今日はピラトについてお話したいと思います。

歴史書にはピラトに関する記述がありますが、私は聖書の物語だけを参考にしたいと思います。

この話を読むと、私はピラトに関してこう感じます。

「難しい決断をしなければならない時や、自分の人生の在り方を考える時、ピラトには強い基盤がなかった。」

ピラトが初めてイエス様を尋問した時、彼はまずイエス様が本当に反逆者かどうかを見極めたいと思いました。そのため彼は直接こう尋ねました。「お前は王なのか。」

イエス様はご自身が王であると主張されましたが、「私の国はこの世のものではありません」と語られたため、ピラトはイエス様がローマ帝国に対する脅威ではないと判断しました。ピラトにとって、それが最も重要なことでした。

しかし、イエス様は続けてピラトの世界観に異議を唱えられました。イエス様はこう言われました。

わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(ヨハネ18:37b)

要するに、「ピラト、あなたは真理の味方でしょうか。 あなたは真理を愛しているでしょうか。 真理はあなたの基礎でしょうか。

もしそうであるならば、あなたは私の言葉を聞き、従わなくてはなりません。」

私たち皆もイエス様の質問と向き合わなければなりません。 私たちの人生の基礎は何でしょうか。その基礎は真理でしょうか。 イエス様が真理であることを信じるでしょうか。

ピラトもその疑問と向き合いました。彼の反応はどうだったでしょうか?

真理とは何なのか。(ヨハネ18:38)

私はピラトの声を本当に聞いてみたいです。

彼は怒ってこう言ったのかもしれません。 「あなたは自分が誰だと思うのか?すべての人々よりも、あなたは真理をよく知っていると思うのか。」

あるいは、皮肉っぽい声でこう言いたかったのかもしれません。 「真理?本当の真理なんてない。真理とは、力を持つ者が語るものだ。」

または、絶望を感じながらこう言ったのかもしれません。 「真理が本当に存在するのだろうか。たとえ真理が存在するとしても、私はそれを見つけられるだろうか。」

ピラトが本当に意味したものは私には分かりませんが、結局彼は真理の存在を拒絶しました。そしてイエス様を真理の源として拒絶しました。その結果はどうだったでしょうか?

彼が決断を下したとき、確固とした基盤を持っていませんでした。むしろ、彼は周囲の人々の言葉やプレッシャーに影響を受けました。

彼は暴動の脅威に直面しました。(マタイ27:24)

また、ユダヤ人の指導者たちはピラトの行為をカエサルに伝えると脅しました。(ヨハネ19:12)

そのプレッシャーを感じたピラトは、自分の恐れに負けて悪い決断をしました。彼自身がその決断が間違いであると十分に分かっていたにもかかわらず、それを選びました。

私たちにも同じようなことが起こるかもしれません。もし私たちが真理を基盤としなければ、もし私たちがイエス様を基盤としなければ、私たちは周囲の人々の意見や自分自身の恐れに左右されて決断します。そして、悪い決断をしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか?決断を下すとき、あなたの基盤は何ですか?あなたの人生の基盤は何ですか?神様の知恵を求めていますか?神様の言葉が真理であることを信じていますか?

ヤコブはこう語っています。

あなたがたのうちに、知恵にかけている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。

ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういう人は二心を抱くもので、歩む道全てにおいて心が定まっていないからです。(ヤコブ1:5-8)