時々、私たちは自分の悪い決断によって苦しむことがあります。
たとえば、私が勤めていた会社が倒産しそうなのに、私はそこに留まり続けました。「なんとかなる」と思っていましたが、結局その会社は倒産し、私は失業しました。それは本当に愚かな決断でした。
しかし、時には私たちが神様の御心に従い続けているにもかかわらず、試練に直面することもあります。そして私たちは神様にこう訊きます。「どうしてですか?あなたの御心に従っていると思っていました。」
バプテスマのヨハネもそのように感じたかもしれません。
18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた」とあります。
また、彼は自分の弟子たちをイエス様のもとに向かわせて、「イエス様こそ、あなたが従うべき方です」と言いました。
さらに、ヨハネは予言者としての役割を忠実に果たし、人々の罪を指摘しました。その結果として、彼は苦しみました。
具体的には、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻を自分の妻としたことをヨハネが非難したため、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。
この話の続きをいつかブログで書こうと思っていますが、ここで一つの質問を投げかけてみたいと思います。「どうして神様はこのようなことを許されたのでしょうか?」
ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。
神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。
では、どうして神様はヨハネを救われなかったのでしょうか。それは私にはわかりません。
最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。
私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束されません。私たちの人生がすべてうまくいくことを約束されるわけではありません。
イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架につけられました。イエス様は気楽な人生を送られることはありませんでした。もしイエス様がそんな人生を送られたなら、私たちが気楽な人生を期待する理由があるでしょうか。
ペテロはこう書きました。
罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。
けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)
私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、イエス様のために苦しみを受けることです。
イエス様の足跡はどこに導くのでしょうか。それは苦しみに導きます。
誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきだというわけではありません。しかし、試練が訪れても驚いてはいけません。
もし試練が訪れるなら、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。
あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)
