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英気を養い、焦点を合わせ直す

イエス様は、ミニストリーを始めたとき、可能な限り多くの人々に触れ、天の父の心に従って歩まれました。

それでも、イエス様は決して燃え尽きることはありませんでした。

私自身、燃え尽きた経験がありますが、それは決して楽しいものではありませんでした。けれども、イエス様は一度もそのような状態にはなられませんでした。

群衆に触れ続け、自分の弟子たちを訓練される中で、燃え尽きるのは容易であったはずなのに、イエス様が燃え尽きることがなかったのはなぜでしょうか。

その答えは、この箇所に隠されていると思います。

さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

イエス様は神でしたが、ご自身の力と知恵に頼られることはありませんでした。むしろ、イエス様は完全に天の父に頼られました。

また、イエス様が群衆から離れたとき、彼は英気を養い、自分の焦点を新たにされました。けれども、それは具体的にどういう意味なのでしょうか。

そのとき、イエス様は天の父がご自身を愛しておられることを思い出されました。また、天の父がご自身に何を望んでおられるのかを思い起こされたのです。

多くの人々は、しばしばイエス様の時間を取ろうとしました。ルカはこう記しています。

朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。(ルカ4:42)

でも、イエス様が彼らの要求に譲らない時もありました。むしろ、イエス様は天の父の御声に聞き従いました。だから、イエス様は群衆にこう言われました:

ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。(43)

私の経験では、ミニストリーで燃え尽きる原因は二つあると思います。

一つ目は、その人がいつも他の人々に与えるばかりで、何も受け取らないことです。特に、彼らは天の父から何も受け取っていません。

しかし、それは天の父が自分の愛を与えたくないからではありません。むしろ、彼らが神様を十分に求めず、神様との時間を過ごしていないことが原因です。

結果として、彼らの心は神様の愛で満たされることなく、ほとんど空のガスタンクで走ろうとしています。

だからこそ、ミニストリーが困難に直面する時(どんなミニストリーでも、そんな時は必ず訪れるでしょう)、彼らは尽き果ててしまいます。なぜなら、彼らは神様からではなく、ミニストリーそのものからエネルギーを得ようとするからです。

そのミニストリーが必要なエネルギーを与えない場合、彼らは燃え尽きてしまいます。

二つ目の原因は、神様が彼らに求める以上のことをしようとすることです。つまり、周りの人々から頼まれたことを断ることができず、神様が求めていない重荷を背負ってしまう場合です。

彼らは「誰かがその重荷を担わなくてはならない」と考え、その結果、その重荷に押しつぶされてしまいます。

だからこそ、毎日神様との時間を過ごすことが本当に重要です。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直す必要があります。

具体的には、神様につながり、神様から必要な愛とエネルギーを受け取ることが大切です。

また、他者からの要求を慎重に評価し、その要求が神様の御心に沿っているかを判断することも必要です。

さらに、周りの人々のニーズに気づいても、それが自分が満たさなければならないニーズであるかどうかを識別することが重要です。

これらを怠ると、燃え尽きてしまう可能性が高くなります。

あなた自身はどうでしょうか。毎日、英気を養い、自分の焦点を合わせ直していますか。

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私たちを癒やしてくださる方

この箇所では、私たちはイエス様の癒やしの働きを垣間見ることができます。

イエス様がペテロの家を訪ねられた際、ペテロの義理のお母さんを癒してくださいました。おそらくイエス様は初めて安息日に人を癒されましたが、人前では行わなかったため、非難を受けませんでした。

さて、ここでひとつの質問が思い浮かびます。

前回の話では、イエス様が安息日に悪霊をある人から追い出されました。もしその会堂にパリサイ人たちがいたら、イエス様を責めたでしょうか。もしかしたら彼らは、「おい、それはだめだ。別の日に悪霊を追い出しなさい」と言ったかもしれません。

いずれにせよ、この日はイエス様が責められることはありませんでした。安息日が終わると、多くの人が癒しを求めてペテロの家を訪ねてきました。そして、イエス様は皆を癒してくださいました。

マタイはその癒やしについて、こう記しています。

これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)

少し注意が必要です。マタイによれば、イエス様はこの世にいる間、その預言を成就されました。しかし、現在では癒やしの約束はありません。

もちろん、イエス様は今でも人々を癒やすことがおできになりますが、私たちを必ず癒やしてくださるという保証はありません。

さて、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目は、イエス様の哀れみについてです。イエス様は群衆を愛されましたが、たった一人の女性に対しても愛を示されました。私たちはペテロの義理のお母さんの名前を知りません。それでもイエス様は彼女を癒してくださいました。

あなたはこの世でごく普通の人かもしれません。周りの人々があなたの名前を知らないかもしれません。けれども、イエス様はあなたの名前をよくご存じです。そして、あなたが苦しんでいるとき、イエス様はあなたを見て、あなたを愛してくださいます。

以前も言ったように、神様は私たちを癒やすことを約束されていません。時には神様の見えない計画の一環として、私たちは癒されないこともあります。それでも、イエス様は「私に祈り、頼みなさい」と言われるので、祈り求めるべきです。

とはいえ、もしあなたが感情的な傷を持っているなら、イエス様はその傷をきっと癒してくださると思います。

イエス様が肉体的な病気を通して神様の栄光を現されることはあるでしょう。

しかし、神様はあなたが感情的な重荷を持ち続けることを望んでおられません。だからこそ、その重荷をイエス様の足元に置いてください。そうすれば、癒やしを体験することができます。

この箇所から、もう一つ心に響くことがあります。それは、ペテロの義理のお母さんが癒やされた後、すぐにイエス様に仕えることを始められたことです。

私たちもそのようにするべきです。もしイエス様が私たちを病気や感情的な傷、罪からの傷から癒してくださるなら、私たちが愛と感謝を持ってイエス様に仕えることはふさわしいでしょう。それは義務ではなく、愛に満ちた心からの奉仕です。

多くの場合、神様は私たちが経験した困難を持つ人々を私たちのもとへ導いてくださいます。

イエス様が私たちを癒してくださる理由の一つは、その癒しを周りの人々にも分かち合うためです。

さて、あなた自身はどうでしょうか。その癒しをあなたの周りの人々に分かち合っていますか。

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権威

イエス様はほかの宗教を始めたリーダーたちとどう違うでしょうか。もちろん多くの違いがありますが、一番重要な違いは、イエス様が神であり、ご自身の復活によってそのことを証明されたということです。

ほかの偉大なリーダーたちはすでに死んでしまいました。だからこそ、彼らが神ではないことは明白です。

けれども、この箇所では、私たちはさらにもう一つの違いを見ることができます。それは、イエス様が真の権威を持っておられるということです。

ユダヤ人たちはイエス様の教えを聞いたとき、そのことをすぐに理解しました。

ほかの教師たちが聖書について教えるとき、彼らはいつもこう言いました。「誰々先生はこの箇所についてこう言っています。」また、「誰々先生によれば、この言葉はこういう意味です。」

イエス様は決してそのような言い方はされませんでした。むしろ、イエス様はいつもこう言われました。「まことに、まことに、私はあなたがたに告げます。」

ユダヤ人たちはそれを聞いて驚きました。「この方は権威を持っているかのように話されます。彼は教えられることについて、本当に自信を持っているようです。」

聖書を教える者として、私も驚いたことでしょう。もちろん、私は懸命に学び、神様に知恵を求めて祈りますが、イエス様の権威のほんの一部しか持っていません。イエス様の教えを直接聞くことは、素晴らしい経験だったに違いありません。

そして、会堂でイエス様はある人から悪霊を追い出し、その権威を証明されました。その結果、イスラエル全土でイエス様に関する噂がまるで山火事のように広がりました。

では、この話は私たちとどう関係があるのでしょうか。

私たちは自分自身にこのような質問をしなければなりません。「イエス様は本当に特別な権威を持って話されたのだろうか。それとも、彼の意見と私の意見は同じ権威を持っているのだろうか。」

多くのクリスチャンは口ではイエス様の権威を認めていますが、その言葉には従いません。イエス様の言葉は理想的だと認めながらも、イエス様は実生活について理解していなかったと思う人もいます。

また、イエス様の言葉に従いたくないクリスチャンもいます。彼らは自分の道を選びたいと思っているからです。

しかし、もし私たちがイエス様を「主」と呼ぶのなら、そうした考え方を捨てなければなりません。また、そのような生き方をも捨てる必要があります。

イエス様はこう言われました。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

「主よ、それをしたくない。」という言葉は、矛盾した言葉です。

あなたはどうでしょうか。本当にイエス様の権威を受け入れますか。

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イエス様を受け入れる人には

この箇所を読むと、私はヨハネ1:11-12を思い起こします。

この方(つまり、イエス様)はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

このルカの箇所では、イエス様は出身地であるナザレに帰り、長く知り合いだった人々に会われました。彼らはイエス様とその家族をよく知っていました。イエス様はきっとその町の会堂に何度も通われていたことでしょう。

ところが、イエス様が彼らに教えられたとき、彼らはイエス様を受け入れませんでした。むしろ、イエス様を拒絶して、殺そうとしました。

それでも、イエス様の教えは明確です。イエス様を受け入れる者は、神の子供とされる特権を受けます。

イエス様が引用された箇所(イザヤ書61章)には、イスラエル人の敵に対する神様の復讐について書かれています。それにもかかわらず、神様の恵みは神様を信じるすべての人のためのものです。

だからこそ、イエス様は、異邦人サレプタのやもめ女と、シリヤ人ナアマンがどのようにして恵みを受けたかを語られました。

さらに、イエス様は信じる者たちに良い知らせを伝えられました。特に、貧しい者や弱い者にも良い知らせを伝えられました。

ただし、イエス様が語られたのはお金のない人や病気の人だけではありませんでした。心の貧しい者や、神様との関係が必要であることに気付いた人々にも、良い知らせを伝えられました。

その良い知らせとは、恵みによって私たちが神様との関係を築けるということです。

また、イエス様は罪の鎖に縛られた人々を解放し、赦されます。それに、イエス様は過去の傷の鎖に縛られた人々を解放し、癒してくださいます。

イエス様は盲人を癒されただけではなく、サタンによって思いを暗くされた人々の霊的な目を開かれました。それにより、彼らは福音の光と希望を見ることができるようになりました。

さらに、イエス様は悪霊によって抑圧された人々を解放し、イエス様の血による大いなる勝利を与えてくださいます。

それに、イエス様は今、主の恵みを伝えておられます。

この箇所では、イエス様はおそらくヨベルの年を参照されたのでしょう。その年、奴隷は解放され、負債は許され、負債を支払うために売った土地は元の地主に戻りました。つまり、人々は新しいスタートを与えられたのです。

イエス様はそのためにこの世に来られました。私たちに新しいスタートを与えるために来られたのです。また、新しい神様との関係を与えるために来られました。

さらに、ヨハネが言ったように、その賜物は信じる人々すべてのためのものです。

あなたはどうですか。イエス様に信頼を寄せてみませんか。

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暗闇の中の光

前回の記事で、私はこう問いかけました。「どうして神様はバプテスマのヨハネが牢に閉じ込められることを許されたのでしょうか。」

私には分かりませんが、ひょっとすると一つの理由は、イスラエル人がヨハネではなく、イエス様に焦点を当てるためだったのかもしれません。

ヨハネが牢に閉じ込められた後、イエス様はガリラヤに戻り、そのミニストリーを始められました。マタイによれば、イエス様はこのイザヤの予言を成就されました。

ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。

暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。(マタイ4:15-16)

パリサイ人がこの箇所を忘れ、イエス様の背景を侮るとは、私には信じられません。(ヨハネ7:52)

この箇所では、私たちはイエス様の目的の一つを知ることができます。私たちは暗闇の中にいました。つまり、私たちは自分の罪のために神様から離れ、死刑囚だったのです。

しかし、イエス様によって光が上がりました。イエス様は天の父への道を示してくださったので、希望が現れました。イエス様はこう宣言されました。

時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)

それは私たちへのメッセージです。王が来ました。神の王国は近づいています。今、イエス様は信者の心の中で働いておられます。そして、将来、イエス様はご自身の物理的な王国をこの世に設立されます。

だから、私たちは悔い改める必要があります。というのは、私たちは神様の道に戻らなくてはなりません。私たちの考え方を変えなくてはなりません。自分のために生きるのではなく、神様のために生きなくてはなりません。

また、私たちの神様に対する不信を捨てて、心から神様を信頼する必要があります。

もちろん、一番大切なのは、イエス様に関する良い知らせを信じる必要があるということです。つまり、神様は私たちのように人間になられました。そして、イエス様は十字架で私たちのために死なれ、三日目によみがえられました。

そして、私たちがイエス様を私たちの救い主と主として信じるなら、私たちは地獄から救われます。

それがイエス様が伝えられたメッセージです。

だから、この二つの質問について考えてみてましょう。

1.あなたはイエス様を信じるようになりましたか。

2.あなたがクリスチャンなら、そのメッセージを周りの人々に伝えていますか。

あなたはどう答えますか。

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天の父に従う?

この箇所は本当に有名な聖書の話です。それは、イエス様が砂漠で誘惑される話です。

サタンからの誘惑に対するイエス様の反応は、私の心に深く響きます。イエス様が本当に天の父を信頼されたからです。

洗礼を受けられた後、イエス様は聖霊に満たされ、また聖霊に導かれて砂漠に行かれ、そこで40日間過ごされました。

だからこそ、サタンが来た時のイエス様の反応は特にふさわしいものだったと思います。サタンは三度イエス様を誘惑しましたが、イエス様が答えられた時、すべて申命記から引用されました。

なぜそれがふさわしかったのでしょうか。それは、イスラエル人が砂漠で40年間過ごした後に、モーセが申命記を書いたからです。そして、イエス様が誘惑された時、その言葉に従われたのです。

では、モーセは何を言ったのでしょうか。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:2-3)

天の父がイスラエル人を試すために彼らを砂漠に導かれたように、天の父はイエス様を試すために、彼を砂漠に導かれました。イスラエル人と同じように、イエス様も苦しみ、飢えを経験されました。

けれども、イスラエル人と違って、イエス様は文句を言わず、天の父がふさわしい時にイエス様の必要を備えてくださることを信じ続けられました。

サタンは言いました。「自分の力を使えばいいじゃないか?あなたの天の父はあなたの必要に備えていないじゃないか。もう40日間が経った。だから、この石をパンに変えたらどうだ?」

しかし、イエス様はサタンの薦めを拒絶されました。むしろ、イエス様は天の父がイエス様の必要に備えてくださることを信じ続けられました。

次に、サタンは聖書を引用してイエス様にこう言いました。「神殿の頂から身を投げてみなさい。天使たちはきっとあなたを救うでしょう。」

(サタンも聖書をよく知っています。だからこそ、私たちは聖書の箇所の前後をしっかりと読まなければなりません。)

けれども、イエス様は再びモーセの言葉を引用されました。

あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)

マサでは何が起こったのでしょうか。イスラエル人はもう一度神様を信頼しなかったため、文句を言いました。水を見つけることができなかったので、彼らは叫びました。「主は私たちの中におられるのか、おられないのか。」(出エジプト記17:7)

時々、私たちも同じ質問をします。私たちが苦しんでいる時、神様に「あなたは私と共におられるのですか、それともおられないのですか」と訊きます。

同じように、サタンはイエス様が天の父を疑うように誘惑しました。

「あなたの天の父は本当にあなたと共におられるでしょうか。天の父に仕えたいなら、そのことを確認した方がいいですよ。だから、神殿の頂から飛び降りてみなさい。もし天の父が本当にあなたと共におられるなら、あなたを救ってくださいます。」

けれども、イエス様は拒絶されました。それは、たとえイエス様に天の父が見えなかったとしても、天の父がイエス様と共におられることを信じておられたからです。

最後に、サタンはこう言いました。

もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。(マタイ4:9)

しかし、イエス様は再び拒絶されました。それは、イエス様が天の父に従うことを決心されていたからです。そこで、イエス様はこう答えられました。

引き下がれ、サタン。「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」と書いてある。(マタイ4:10/申命記6:13;10:20)

あなたは誰に従っているのでしょうか。天の父に従っているのでしょうか。天の父があなたと共におられることを信じていますか。天の父があなたの必要を備えてくださることを信じていますか。天の父を家族よりも、友達よりも、仕事よりも大切にしていますか。

あなたは誰に従っているのでしょうか。