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山上の説教:何の土台に私たちの人生を建設するか

今日で、山上の垂訓と平地の説教についての話が終わります。

どちらも同じように終わります。つまり、イエス様はその聞き手に挑戦を投げかけておられるのです。イエス様は彼らに問いかけます。

なぜ、わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。(ルカ6:46)

要するに、「あなたが私を『主』と呼んでも、私の言葉に従わないなら、私は本当にあなたの主でしょうか。」

ある人はこのように要約しました。「イエス様があなたの人生のすべての主でないなら、イエス様はまったくあなたの主ではないのです。」

その通りです。イエス様があなたの主であるかどうか。可能性は二つしかありません。イエス様はあなたの主であるか、そうでないか、どちらかです。

そして、イエス様は非常に有名なたとえを語られます。それは、「岩の上に強い土台を持つ建てられた家」と「土台なしで砂の上に建てられた家」です。

もし私たちがイエス様の言葉を聞き、それに従うなら、私たちは「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています」。

その安定した土台のおかげで、人生の嵐が来ても、私たちの家はびくともしません。

その一方、私たちがイエス様の言葉を聞きながら従わないなら、私たちの人生は砂の上に建てられています。

砂とはどのようなものでしょうか。砂は常に移り変わるものです。

この世の価値観も砂のように移り変わります。道徳的な価値観も常に変化しています。

50年前に悪いと見なされていたことが、今では良いと見なされることがあります。また、良いとされていたものが、今では時代遅れの考え方とされてしまうこともあります。

しかし、もし私たちが移り変わる砂の上に人生を建てるなら、その土台は不安定であり、人生の嵐が襲ってきたとき、私たちの人生は崩れてしまいます。

あなたはどうでしょうか。岩の上にあなたの人生を建てていますか。

イエス様の言葉を聞くだけではなく、その言葉に従っていますか。それとも、この世と調子を合わせて、移り変わる砂の上に人生を建てているでしょうか。

簡単に言うと、イエス様はあなたの主でしょうか。

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あなたの心にあるもの

聖書を読むと、イエス様がしばしば同じたとえを用いながらも、異なる応用を教えておられることに気づきます。

例えば、マタイの福音書では、イエス様が良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木について語る際、そのたとえを偽預言者に当てはめています。つまり、私たちは預言者(あるいは牧師やクリスチャンの著者)の「実」(彼らの教えや行動)を見極める必要があるのです。

一方で、ルカの福音書では、イエス様はそのたとえを用いて、私たち自身の心を探るように挑戦しておられます。

この箇所では、たとえを語る前に、イエス様は裁き、人を責めること、そして人を許すことについて教えておられます。

そのことについて語られた後、イエス様はこう言われました。

悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。

いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。(ルカの福音書6:43-45)

イエス様は何を教えておられるのでしょうか。

それは、私たちがどのような木であるかを自問するよう促しておられるのです。私たちの心の中には何が満ちていますか。相手を裁くことでしょうか。それとも、相手を責めることでしょうか。もしくは、相手を許すことでしょうか。

私たちの心にあるものを見分ける方法は何でしょうか。それは、自分の口から出る言葉を見ることです。なぜなら、私たちの口は心に満ちているものを語るからです。

もし心の中で、私たちが相手を裁き、責めているなら、そのような言葉が私たちの口から出るでしょう。逆に、私たちの心に恵みと許しが満ちているなら、それに応じた言葉が私たちの口から出るでしょう。

イエス様の言葉に注目してください。悪い木は、相手を裁き、責める心を象徴しています。しかし、恵み深く、相手を許す心は良い木を表しています。

だから、私たちは自分自身にこう尋ねるべきです。「私たちの口からどんな言葉が出ているだろうか。」

私たちはいつも相手を批判し、責めていますか。それとも、私たちの言葉は恵みに満ちていますか。私たちの言葉は、私たち自身がどのような木であるかを映し出すのです。

あなたはどのような木でしょうか。

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山上の説教:罪を避けるだけではなく、良いことをする?

マタイの福音書における「黄金律」の箇所は、少し不思議だと感じます。特に、「それで」という言葉で始まるためです。

一般的に、「それで」という言葉は前の内容を指していますが、私にはその関連性が明確には見えません。1-6節との関係があるようには感じますが、7-10節との関係は少しわかりづらいです。

一方、ルカの福音書における「黄金律」の箇所は、もっと自然だと感じます。

その箇所では、イエス様が「敵を愛しなさい。あなたのことを憎む人に親切にしなさい。あなたを呪う人を祝福しなさい。あなたを傷つける人のために祈りなさい。侮辱されても、相手を侮辱するな。自由に相手に与えなさい。」と語られた直後に、話をまとめてこう言われました。

自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。(ルカ6:31)

ほかの文化にも、同じようなことわざがあります。例えば、孔子はこう言っています。「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ。」

では、そのことわざと黄金律の違いは何でしょうか。

実は、イエス様の言葉に従う方がはるかに難しいのです。それは、積極的に相手に親切にしなければならないからです。

相手を傷つけないようにするのは、それほど難しくありません。もし、相手と全く接しないなら、彼らを傷つけることは避けられるでしょう。

けれども、相手と接することが全くなければ、彼らに親切にすることもできません。私たちは積極的に何かをしなくてはなりません。たとえ相手があなたを憎んでも、侮辱しても、利用しても、私たちは彼らに親切にすべきなのです。

それは難しいことですが、それこそが神様の望みなのです。

神様の子供として、私たちは罪を避けるだけでは十分ではありません。積極的に良いことを行うべきです。

私たちは山の上にある隠れることのできない町となるべきです。私たちは、この世を味付けする塩となるべきです。もし憎む人を愛するなら、私たちはその町であり、またその塩となるのです。

なぜなら、この世はそのような愛を理解できず、それを行う力もないからです。

しかし、イエス様に繋がっているクリスチャンはそれができます。それは、イエス様の愛が彼らの心に注がれ、溢れているからです。そして、その愛が自然と相手に流れていくのです。

あなたはどうですか。ただ罪を避けているだけでしょうか。それとも、イエス様の愛で心が満たされ、その愛を通して周りの人々に触れていますか。

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山上の説教:偽善的な裁き

子供の頃、私は「Isaac Air Freight」というクリスチャンのコメディーグループが大好きでした。彼らはたくさんのパロディーを制作しており、その中には「60 Minutes」というアメリカの有名なニュース番組のパロディーもありました。

その時、リポーターは「木こりさん」という夫婦をインタビューしました。彼らはクリスチャンでしたが、非常に珍しい「特徴」がありました。なんと、彼らの目から丸太が出ていたのです。

そのため、彼らはいつも周りのものを倒してしまい、他の人々について文句を言ったり、裁いたりしていました。

インタビュー中、丸太が何度もリポーターに当たりそうになる場面がありました。ところが、リポーターがその丸太について尋ねた時、彼らはこう答えました。「へ?丸太って?」

それでもリポーターは言い張りました。「あなたの目にでかい丸太がありますよ。あなたはいつも周りのものを倒してしまっているんですよ。」

すると、彼らは答えました。「そうなの?全然気づかなかったけど。」

多くのクリスチャンがその木こりさんたちのようです。自分の欠点には気づかず、他人を批判してしまうのです。

しかし、イエス様は私たちにこう言われます。「あなたは批判によって相手を助けていると思っているけれど、あなた自身の欠点にはまったく気づいていません。

相手の問題はただのちりですが、あなたの問題は梁です。あなたは盲人であり、そのことを知りません。もし盲人のあなたが他の盲人を導こうとするなら、あなたたちは穴に落ち込むでしょう。

あなたは、愚かな人々を賢くするための教師だと思っています。けれども、生徒たちはあなたの欠点を学び、結果的にあなたのような者になってしまうのです。それでもなお、あなたは自分の欠点にまったく気づいていないのです。

イエス様はこの話をこのように締めくくられました。

偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。(ルカ6:42)

イエス様の要点は何でしょうか。それは、謙遜だと思います。

多くの人々は、自分の目にプライドという梁を持っています。

誤解しないでください。時には、私たちは兄弟や姉妹に彼らの罪について話す必要があります。それはイエス様の命令です(マタイ18:15)。また、使徒たちもその命令を繰り返しました(ガラテヤ6:1)。

とはいえ、そのようなとき、私たちはどのような態度を取るべきでしょうか。プライドに満ちた態度を取るべきでしょうか。「私はあなたより優れたクリスチャンだ」という態度でしょうか。

そうではありません。

へりくだった態度を取るべきです。自分自身にも神様の恵みと憐れみが必要だという謙虚さを持つべきです。

だから、相手を責める前に、まず神様にこう尋ねるべきです。

「神様、私の罪は何でしょうか。私の目にどんな梁が入っていますか。私はプライドを持っているでしょうか。私は相手を許せていないでしょうか。私は相手を責めていますが、同じ欠点を持っているのでしょうか。」

もし、神様があなたの欠点を示されたなら、すぐに悔い改めてください。

自分の弱さを知らないうちに、また、自分がどれだけ神様の憐れみを必要としているかを理解できていないうちに、相手と話すのを急がない方がよいかもしれません。

そうしないと、相手が自分の罪を悔い改めたとしても、あなたからさらに悪いこと、特にプライドや偽善を学んでしまうかもしれません。

イエス様はこう言われました。

弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(ルカ6:40)

あなたの目には、どのような梁が入っていますか。

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山上の説教:相手を裁くと

相手の欠点を見て裁くのは簡単なことです。つまり、相手の性格や行動を裁くのは容易いことです。特に、私が傷ついた時、相手を裁くことはさらに簡単になります。

ルカの箇所では、イエス様はこの教えを敵を愛し、憐れむことについて語られた後に言われました。そのため、私たちを侮辱する人、そして私たちを呪う人に関して、イエス様はこう言われました。

あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)

その直後、イエス様は相手を裁くことについて語られます。

さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。

赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。(ルカ7:37)

つまり、相手があなたを傷つけても、その人を裁いてはいけません。なぜなら、それはあなたの責任ではなく、神様の責任だからです。むしろ、イエス様は「相手を許しなさい」と言われます。

実は、相手を許すことは、相手のためというよりも、あなた自身のためなのです。なぜなら、私が以前言ったように、相手を許さないことで、あなたは過去の傷に縛られ続けてしまうからです。そして、神様が望んでおられる未来に進むことができなくなります。

だから、神様は「その傷を手放し、許しなさい」と言われます。そうすれば、相手が変わることもあるかもしれませんが、それは神様の約束ではありません。

(イエス様が十字架の上でパリサイ人とサドカイ人の赦しのために祈られましたが、彼らの多くは決して悔い改めませんでした。)

さらに、私たちは主の祈りを思い出すべきです。すなわち、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

もしそうしないなら、もし私たちが受けた傷のために相手に裁きを注ぐのであれば、イエス様はこう警告されます。

与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。

あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6:38)

多くの人々は、この箇所を読むとき、イエス様が献金について話していると考えます。けれども、イエス様は献金について全く話していません。この箇所の前後は裁きと憐れみについて語られているのです。

イエス様のたとえは、農家が袋に穀物を入れる様子を描写しています。私たちはその光景をすぐに想像するのが難しいかもしれません。そこで、別の例えを考えてみましょう。

ごみ袋を思い浮かべてみてください。ごみの日に、どのようにごみを袋に入れるでしょうか。

まず、ごみを袋に入れます。けれども、袋が少し一杯になったらどうするでしょうか?袋を軽く揺らすと、ごみが下に詰まり、さらにごみを入れられるようになります。

しかし、袋がいっぱいになった後は、揺すってもごみが下に詰まりません。そこで、袋の上から手で押して、もう少しごみを入れます。けれども、袋の限界に達すると、ごみが袋から溢れます。

イエス様が言われたのはこのようなことです。

「もしあなたが相手に裁きを注ぐなら、神様は裁きをあなたに注がれるでしょう。そして、あなたにさらに裁きを注ぐために、神様はすでに注いだ裁きを揺すり、押されます。そして、裁きが溢れるまで、神様はあなたの人生に裁きを注がれます。

しかしその反対に、もしあなたが相手に憐れみと許しを注ぐなら、神様は憐れみと赦しをあなたの人生に溢れるほど注がれるのです。」

あなたはご自身に何を注がれることを望みますか?

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山上の説教:完全の愛。完全の憐れみ。

おそらく、私たちクリスチャンは、イエス様のこの言葉をよく耳にすることでしょう。

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5:48)

この箇所の前後は興味深いです。もちろん、私たちは清い人生を送るべきです。とはいえ、この箇所では、イエス様は特に愛について語って言われるようです。私たちの愛は、完全であるべきなのです。

時々、人々は、イエス様の「しかし、わたしはあなたがたに言います。」という表現を誤解します。彼らは、イエス様が神様の律法に反対していると思うのです。

けれども、イエス様は神様の律法に反対されたのではなく、パリサイ人や律法学者の律法に関する間違った解釈に反対されたのです。

前回の記事で、この点について学びました。イエス様は、その正義に関する律法に反対されたわけではありませんでした。「目や歯に害を与えた者を殺してもよい」といった言葉を語られたのではありません。

むしろ、イエス様はこう言われました。「民法によれば、罪に応じた罰を与えるべきです。けれども、あなたがたは律法を乱用し、復讐の言い訳としてその律法を持ち出しているのです。」

もちろん、公平さと正義を求めること自体は良いことです。とはいえ、自分のためにいつも公平さと正義を求めるのではなく、相手に憐れみと愛を与えたら、あなたがたは天の父のようになり、この世でもっと輝く光となるでしょう。」

イエス様は、そのような人生を送られました。もしイエス様が自分のために正義を要求されていたら、十字架で死なれることは決してなかったでしょう。

この箇所では、私たちはさらにもう一つの律法に関する間違った解釈を見ることができます。旧約聖書には「自分の隣人を愛しなさい」という命令が簡単に見つかります。(レビ記19:18)

けれども、「自分の敵を憎め」という命令はどこにもありません。それはユダヤ人たちがそのアイデアを付け加えたものです。

そこで、イエス様はその考え方を訂正されました。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

また、

あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27-28)

イエス様は、十字架の上でそうされました。

イエス様の敵が彼を十字架にかけた時、そして彼を嘲笑した時でさえ、イエス様は彼らのために祈られました。

イエス様は彼について祈られたわけではありません。「ほら、彼らはひどいでしょう?」とは言われませんでした。

むしろ、イエス様は彼らのために祈られたのです。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)

彼らがイエス様を憎んでいたとしても、イエス様は彼らのことを愛されました。そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命への希望を持つことができるのです。

イエス様はこう言われました。「あなたを愛している人を愛するのは簡単なことです。誰にでもできることです。悪い人でさえそれができます。けれども、あなたを憎む人を愛することは本当に難しいのです。」

しかし、神様はそれをされます。私たちが神様を憎んだり侮ったりして背を向けても、神様は毎日私たちにさまざまな祝福を与えてくださいます。

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

それに、私たちを罪から救い出すために、神様はご自身の子をこの世に送られました。

だから、神様は私たちにご自身のようになるように呼びかけておられます。私たちの愛は神様の愛のように完全であるべきです。神様が憐れみに富んでおられるように、私たちも憐れみに富むべきです。

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山上の説教:でも、フェアじゃない

すべての人々は、おそらくフェアなことを望みます。だからこそ、物事がフェアではないと感じると、「フェアじゃない」と叫びたくなります。しかし、それが最善の反応なのでしょうか。

イエス様の言葉は、私たちの本能のすべてに反しています。

イエス様はこう言われました

「目には目で、歯には歯で」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38-39)

38節は、神様の律法から来ています。(出エジプト記21:23ー25)

その出エジプト記の箇所では、神様はモーセと裁判官に、悪い行動をどのように罰するべきかを教えられました。

この律法は復讐について語っているものではなく、その要点は罪に応じた罰を与えるということです。つまり、罰が過度であってはならないということです。

例えば、誰かが相手の目に害を与えた場合、その相手がその人を殺してはならないということです。

それでも、実際にはモーセや裁判官はその律法を文字通りには適用しませんでした。それは神様の意図ではなかったからです。

その箇所の後を読んでみると、その律法の応用についての具体例が見られます。普通は、相手が償いをしなくてはなりませんでした。

この律法のポイントは公平さ、すなわち正義です。

とはいえ、この箇所でイエス様は、私たちが公平さを心配しすぎるべきではないとおっしゃっています。それよりも、あなたを傷つける人々に対して、あなたは光となるべきです。

イエス様の最初の例は非常に興味深いものです。

なたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:39)

私は左利きなので、相手の右の頬を打つのは簡単なことです。けれども、ほとんどの人々は右利きです。したがって、右利きの人が相手の右の頬を叩こうとする場合、手の甲で打たなくてはなりません。

つまり、イエス様はここで、単なる暴力ではなく、侮辱について話しておられるのです。ユダヤ人の文化において、相手を手の甲で打つ行為は、侮辱と見なされていました。

ですから、イエス様が言われた意味は、相手があなたを侮辱したとしても、それを許しなさい、ということです。侮辱を侮辱で返す必要はないのです。

それは公平でしょうか。それは公平ではありません。それでも、イエス様はこう語られます。「公平を気にするのではなく、恵みを与えなさい。」

そして、イエス様はこう言われました。

あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。(40)

イエス様の時代、イスラエル人は下着を複数持っていることが多かったですが、多くの場合、上着は一枚しか持っていませんでした。そして、寝るときには、その上着を毛布として使用していました。

そのため、律法では、もし貧しい者が上着を担保として差し出した場合、貸し手は毎晩、その上着を必ず返さなければなりませんでした。(申命記24:12-13)

しかし、イエス様はこう語られました。「もし相手があなたを訴えて下着を取るなら、公平であることを気にせず、上着も与えなさい。」

さらに、ローマの律法では、ローマ兵がユダヤ人に対し、1.5キロほどの荷物を運ばせるよう命じることができました。

当然、ユダヤ人はそのような命令に従いたいとは思いませんでした。けれども、イエス様はこうおっしゃいました。「1.5キロ運ぶだけでなく、3キロ運びなさい。」

そして、イエス様はこう言われました…。

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。(42)

では、相手が私たちのやさしさに付け込むことを許してもよいのでしょうか。

そうとは限りません。けれども、私たちが公平さについて心配しすぎると、フラストレーションをよく感じるようになります。なぜなら、この世界は不公平だからです。そして、私たちはその不公平さをコントロールすることはできません。

私たちがコントロールできるのは、自分自身の態度だけです。

フラストレーションを感じて、叫ぶこともできますし、戦うこともできます。

それとも、私たちは別の道を選ぶこともできます。つまり、相手に恵みを与え、憐れみを示すことができるのです。

イエス様は、私たちに対してそうしてくださいました。

イエス様が十字架で死なれることは、決して公平ではありませんでした。イエス様は、何も罪を犯していませんでした。

それでも、イエス様は私たちに恵みと憐れみを与えてくださいました。その結果、私たちは神様からの赦しと永遠の命を受け取ることができるようになりました。

もしイエス様が私たちにその恵みと憐れみを与えてくださるのであれば、私たちも周りの人々にそれを与えるべきではないでしょうか。

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山上の説教:迫害

迫害を好む人はいません。誰もが嫌われることを望んではいません。理想的なのは、すべての人々があなたを愛してくれる世界です。

しかし、ここは理想的な世界ではありません。この世界は罪によって堕落しました。そのため、多くの人々の心はゆがみ、善と悪を見分けることができなくなっています。たとえ善悪が分かっていても、多くの場合、彼らは悪を選びます。

ヨハネはこう言いました。

(イエス様を通して)光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。(ヨハネ3:19)

だから、イエス様は弟子たちに警告されました。

もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。(ヨハネ15:20)

少し考えてみてください。イエス様は完全な方でした。彼は一切罪を犯されませんでした。イエス様は愛そのものでした。それにもかかわらず、人々は彼を憎み、十字架で殺しました。

もしイエス様が完全であるにもかかわらず迫害されたのであれば、私たちは何を期待すればよいでしょうか。

しかし、イエス様はこう言われます。

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:10)

つまり、私たちがイエス様に従うがゆえに迫害されるなら、私たちは祝福されるのです。

それは少し奇妙に聞こえる言葉かもしれません。迫害が祝福なのでしょうか。正直なところ、私自身も迫害されたいとは思いません。

迫害そのものが祝福であるというわけではありません。ただ、私たちが迫害されるとき、それは主の足跡に従っている証拠となるのです。

要するに、私たちが愛しているイエス様が迫害されたように、私たちも迫害されるのです。それは私たちに与えられた特権であり、またその迫害は決して無意味なものではありません。裁きの日に、神様は私たちの忠実さに報いてくださいます。

ですから、イエス様のために迫害されても、決して絶望しないでください。友人や家族から拒絶されるときも、あきらめないでください。

あなたはいつも周りの人々を喜ばせることはできません。イエス様ですらそれができませんでした。だからこそ、神様を喜ばせることに焦点を当ててください。

そうすることで、本当の祝福を体験することができます。

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自己満足の問題

イエス様は、貧しい者たちへの神様からの祝福について話された後、金持ちと自己満足な人々に焦点を当てられました。

しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。

いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(ルカの福音書6:24-26)

それらは、本当に厳しい言葉でした。けれども、イエス様の祝福がすべての貧しい者たちに向けられていたわけではなかったように、この厳しい言葉もすべての金持ちに向けられたものではありませんでした。

むしろ、この言葉は自己満足している人々に向けられたものでした。彼らは気楽に過ごしすぎて、神様のことを必要としていないと感じ、神様とその御国についてほとんど考えていなかったからです。

しかしある日、彼らは自分の富、食べ物、快楽、そして快適な人生が一時的なものであることを理解する時が訪れるでしょう。

その日、彼らは何も持たずに神様の前に立つことになります。そして、神様はこう尋ねられるでしょう。「あなたは私の一人子について聞いたとき、どのように応答しましたか。」

もし彼らがイエス様を拒絶していたのであれば、最終的に彼らは永遠に地獄で過ごすことになるでしょう。

あなたも、同じです。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様を必要としていないと思うでしょうか。あなたの人生が幸せで、他には何も必要がないと思っているでしょうか。

多くの人々が大体70〜80年ほど生きることを心に留めてください。その後、彼らは永遠に向かいます。あなたも、永遠に神様と共にいるか、永遠に地獄で過ごすかのどちらかです。

もしあなたが神様を拒絶するなら、この世で楽しんでいたすべてのことは無意味になります。

この世で神様を拒絶するなら、永遠の時代において神様もあなたを拒絶されるでしょう。

けれども、もしあなたが心の王座を神様に譲るなら、あなたはいつか神の国に住むだけではなく、この人生も充実したものになるでしょう。

そしてイエス様のためにこの世で苦しんだとしても、いつか振り返り、「それは素晴らしい人生だった」と言えるでしょう。

イエス様はこう言われました

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは何によって満足するのでしょうか。自分自身でしょうか。あなたの持ち物でしょうか。それとも、あなたを愛し、十字架であなたのために死んでくださった方によって満足するのでしょうか。

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良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教が、実際に同じメッセージかどうかを議論しています。

ある学者たちは、イエス様が山を登り、その山の平らな場所で教えたと考えています。

私の推測では、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時に伝えたのではないかと思います。なぜなら、イエス様がいつも全く違う説教を伝えていたとは限らないからです。

イエス様は様々な町で同じテーマを教え、しかしその町の人々のニーズに応じてメッセージを少しずつ調整されたのではないでしょうか。

このルカの箇所では、恐らくイエス様は多くの貧しい人々に語られたのだと思います。彼らはお金をほとんど持っておらず、将来性も厳しい状況だったのでしょう。

未亡人や足の不自由な人がいたかもしれません。また、外国からの移民もいたかもしれません。そうであれば、イエス様は彼らのためにメッセージを調整された可能性があります。

このようにして、イエス様は預言者イザヤの予言を成就されたのです。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカの福音書6:20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もちろん、これは、すべての貧しい者と泣く者が祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためのものです。

もし、イエス様があなたの主であるなら、たとえ貧しく、飢え、泣いていたとしても、希望の日がやってきます。この暗い世界の中で、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は苦しい状況にあるでしょうか。その状況によって、心が押しつぶされそうになっているでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が訪れます。ただし、まずイエス様をあなたの主として受け入れる必要があります。

パウロはこう書きました

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。それとも、自分自身の目的のために生きているでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

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イエス様と一緒にいるように呼ばれた。出て行って、この世に触れるように呼ばれた。

この箇所では、私たちはイエス様の高まる人気を目にすることができます。おそらく、増え続ける群衆とその必要のために、イエス様は12人の弟子たちを選び、訓練を始められました。

人間としてのイエス様は、ある瞬間には一つの場所にしかおられることができませんでした。そのため、多くの人々に触れるには助けが必要でした。

とはいえ、イエス様が選ばれたのは、本当に多種多様なグループでした。

漁師たち、ローマ帝国と協力していた元収税人、そしてローマ帝国を憎む愛国者もいました。

また、彼らはそれぞれ異なる性格を持っていました。大胆なペテロ、懐疑的なバルトロマイ(つまり、ナタナエル)やトマス、そして短気なヤコブとヨハネもいました。

イエス様は、このように様々な背景や性格を持つ人々を選ばれました。そしてイエス様は、彼らに3つのことを求められました。

そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)

一つ目は(そして一番大切なのは)、彼らがイエス様の近くにいることです。彼らはイエス様と時間を過ごし、イエス様から学びました。

そして今もなお、イエス様はそのような人を求めておられます。イエス様は、私たちがイエス様の生活に参加し、イエス様をもっと知り、そしてもっとイエス様のようになることを望んでおられます。

二つ目は、彼らがイエス様から学んだメッセージを周りの人々に伝えることです。

多くのクリスチャンは聖書を読み、神様との関係において成長します。けれども、それだけでは足りません。

神様は、私たちが聖書のメッセージを周りの人々に伝えることを望んでおられます。なぜなら、私たちがそれをしなければ、彼らは神様からの喜びを決して知ることができないからです。

三つ目は、彼らが霊的な戦いに参加することです。あなたは悪霊を追い出す経験がないかもしれませんが、毎日私たちは霊的な力と戦っています。パウロはこう書きました

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

イエス様は、私たちが人と戦うのではなく、サタンと悪霊と戦うように召されています。彼らは人々を欺き、地獄に行かせようと働いているからです。そのため、私たちはその魂のために戦わなければなりません。

毎日、多くの人々が死にかけていて、地獄へと向かっています。しかし、神様はそのようなことを望んでおられません。神様は私たちに彼らのために立ち上がり、戦うことを望んでおられるのです。私たちがその使命を果たせば、その人たちは救われるかもしれません。

それがキリストの弟子の姿です。私たちがイエス様と共にいること、福音を伝えるために出ていくこと、そして霊的な戦いに参加することです。

あなたはどうでしょうか。キリストの弟子として、あなたはそのように歩んでいるでしょうか。

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イエス様を悲しませる?

私たちがこの三つの箇所をまとめると、この話全体を理解することができると思います。

イエス様は会堂におられ、片手のなえた人をご覧になりました。同時に、イエス様はパリサイ人たちと律法学者たちの存在にも気づかれました。そして彼らは、イエス様がその人を安息日に癒やすかどうかをじっと見守っていました。(マルコ3:1-2)

イエス様は、彼らの思いをよく知っておられました。そのため、イエス様は片手のなえた人を呼ばれました。その時、そのリーダーたちはイエス様にこう尋ねました。

安息日にいやすのは正しいことでしょうか。(マタイ12:10)

イエス様は、いつものように、質問で答えられました。

あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。(ルカ6:9)

もちろん、そのリーダーたちはその質問に答えることができませんでした。

もし彼らが「安息日に善を行うのはだめです」または「命を救うのはだめです」と答えたなら、彼らは愚か者と見なされたでしょう。

しかし、もし彼らが「善を行ってもよいです。命を救ってもよいです。」と答えたなら、イエス様は「よし、この人を癒やします」と言われたことでしょう。

さらに、彼らはもちろん「悪を行うのは良いです」または「命を失うのは良いです」と全く言えませんでした。

そのため、彼らはずっと沈黙を守り続けました。英語のことわざには真理があると思います。「Better to remain silent and be thought a fool than to speak and to remove all doubt.」

つまり、「黙っていることで周りの人々に愚か者だと思われる方が、言葉によってそれがはっきり知られるよりも良いです。」ということです。

ルカはイエス様が彼らの答えを待っていたと記していますが、マルコはさらに詳しい情報を教えてくれます。

イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆き[ました。] (マルコ3:5)

だから、イエス様は、彼らにもう一つの質問を投げかけられました。

あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。(マタイ12:11-12)

つまり、「あなたは自分の羊を助けるでしょう。どちらの方が大切でしょうか。羊でしょうか、人間でしょうか。もし、人間の方が大切であるなら、どうして私が安息日に人を癒やすと、あなたたちは私を責めるのでしょうか。」

こうして、イエス様はご自身の疑問に答えられました。

それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。(マタイ12:12b)

そして、イエス様はその人を癒やされました。

この話には皮肉な点があります。イエス様は彼らに「安息日にしてよいのは、いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」と尋ねられました。

そのリーダーたちは、この出来事の後、イエスをどのようにして殺すかを相談し始めました。彼らは安息日にそのことを考え始めたのです。(マルコ3:6)

けれども、もう一つのことが私の心に深く響きます。

イエス様は彼らの頑なな心をご覧になり、嘆かれました。彼らの伝統と律法主義的な考え方によって心が固くなりすぎていたため、神様の言葉と真理がその心を貫くことはできませんでした。

彼らは心の中で、自分たちが間違っていることに気づいて、沈黙しました。それでも、自分たちの間違いを認めることはありませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対して頑なな心を持っていませんか。

もしかすると、あなたの行動や思いが間違っているために、神様が語りかけておられるのかもしれません。そして、その言葉を通して、自分の誤りに気づき、変わらなければならないと示されることもあります。

それでもなお、自分の間違った考えや罪にしがみついてしまうでしょうか。もしそうなら、あなたは神様を悲しませてしまうことになります。

なぜなら、神様はあなたの最善を望んでおられるからです。けれども、罪によってあなたは神様だけでなく、周りの人々、そして自分自身をも傷つけてしまいます。

だから、あなたの心を開いてください。神様のみ言葉を受け入れてください。そして、私たちのために死なれたイエス様を悲しませることのないようにしましょう。むしろ、イエス様を喜ばせましょう。

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罪のない者たちを罪に定めはする?

以前の記事では、私たちは宗教的なリーダーたちが、イエス様が安息日を破ったと責めたことを見ました。しかし実際には、イエス様は神様の安息日に関する律法を破ったわけではありません。イエス様が破ったのは、彼らが作った余計なルールでした。

この箇所でも、イエス様は宗教的なリーダーたちと安息日について議論されます。イエス様とその弟子たちが麦畑を通っていた時、弟子たちはお腹が空いたため、穂を摘んで食べ始めました。

(その時代、それは合法的な行為でした。申命記23:25に記されています。)

けれども、パリサイ人の目には、穂を摘む行為は仕事と見なされました。そして、律法では安息日に仕事をしてはならないとされていました。

それに対して、イエス様は二つの理由を挙げてその考え方を否定されました。

一つ目は、祭司たちが安息日に働いていても、それが罪とは見なされなかったことです。

二つ目は、ある律法はほかの律法よりも優先されるべきだということです。つまり、命を守ることは安息日の律法よりも重要だということです。この点については、パリサイ人もある程度同意していました。

例えば、誰かが死にかけている場合、お医者さんはその人が次の日まで生き延びられるように治療を行い、その後、その人を完全に治療しました。

そして、もう一度、イエス様は預言者ホセアの言葉を引用されます。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。(マタイ12:7)

多くの人々は、神様の目にはルールを守ることが最も重要なことであると思っています。そして、彼らは神様が私たちを罰する機会を待っていると考えています。

けれども、実際には神様はルールを守ることよりも、人々自身を大切にされます。

パリサイ人はこのことを理解しておらず、神様の律法を守るために、たくさんの余計なルールを作り出しました。そして、その余計なルールを守らない人を見ると、パリサイ人はその人を責めました。

しかし、イエス様は彼らにこう言われました。

安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。(マルコ2:27)

神様が立てられたルールはすべて正しいものです。それらのルールは、私たちの利益のために存在しています。

私たちはそのルールのために造られたのではありません。神様は、私たちを支配するためではなく、私たちを祝福するためにそのルールを作られました。

その原則を理解すれば、ルールの目的を正しく把握し、それを私たちの人生に適切に当てはめることができます。

、その原則を理解しなければ、パリサイ人のようにルールの本質が分からず、間違った方法で当てはめてしまうでしょう。それだけでなく、私たちは神様の目に無実の人を責めることになりかねません。

あなたはどうでしょうか。神様のルールをどのように考えているでしょうか。それらを余計なルールだと思っているでしょうか。

あるいは、それらのルールがあなたの利益のためだと理解しているでしょうか。そして、そのルールの背後にある理由を正しく理解しているでしょうか。

そのように理解すれば、無実の人を責めることはなくなるでしょう。