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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ8章 ルカの福音書 ルカ9章

イエス様に従う?

イエス様に従うとはどういう意味でしょうか。

この話では、三人の人々が「弟子であることの意味」を知りました。

律法学者がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。(マタイ8:19)

この人物は、他の律法学者たちとは異なっていました。多くの律法学者はイエス様に反対しましたが、この人は熱心にイエス様に従おうとしました。

もちろん、熱心であることは良いことです。けれども、イエス様は彼に警告されました。

狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(マタイ8:20)

要するに、イエス様はこう言われました。

「私は楽な人生を約束しません。私に従うことは時に困難です。あなたが家を離れれば、戻る機会は限られるでしょう。もしかすると、一度も結婚しないかもしれません。それでも、あなたはまだ私に従いたいのですか。」

そして、イエス様は別の人にもこう言われました。

「わたしについて来なさい。」

しかし、その人はこう答えました。

まず行って、私の父を葬ることを許してください。(ルカ9:59)

おそらく、その人の父親はまだ生きていたでしょう。イエス様が「私について来なさい」と言われたのは、葬儀の最中ではなかったはずです。

もしかすると、その父親は病気で死にかけていたのかもしれません。いずれにせよ、あるいはとても元気ではあるものの、年老いていたのかもしれません。いずれにせよ、その人は父親が亡くなるまで待ちたいと考えました。

さらに、その父親がイエス様に反対していたため、その人がイエス様に従うならば、父親に拒絶される可能性もあったのです。

そこで、イエス様はこう言われました。

死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(ルカ9:60)

おそらく、イエス様が意味されたことは、「霊的に死んでいる者たちが霊的に死んでいる者たちを葬らせなさい」ということだったのでしょう。

時に、人々はこう考えます。「私はクリスチャンになりたくありません。なぜなら、私の両親はすでに亡くなっており、もし私がクリスチャンになるなら、彼らが地獄に行ったと認めなければならないからです。」

しかし、イエス様が伝えたかったのは、あなたにそのことを決定する権限はないということです。霊的に死んでいる者たちがあなたの霊的な運命を決めることを許してはなりません。

また、霊的に死んでいる者のために、神様の働きを避けるべきではありません。なぜなら、あなたが他の霊的な死人に福音を伝えれば、その人は救われる可能性があるからです。

けれども、もしあなたが家族の意見を恐れて福音を伝えないなら、その人々も地獄へ行ってしまうかもしれません。

そのとき、もう一人の人がイエス様のもとへ来て、こう言いました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

でも、イエス様はその人にこう言われました。

だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

なぜイエス様はこのように言われたのでしょうか。おそらく、イエス様はその人の心を見抜いておられたからでしょう。

つまり、彼は家族への愛ゆえに、心を尽くしてイエス様に従うことができませんでした。そのため、たとえイエス様について行っても、すぐに家へ戻ってしまうでしょう。

もし私たちがいつも過去を振り返ってばかりいるならば、イエス様に従うことは非常に困難になります。イエス様は私たちの心のすべてを求めておられます。一部分だけを望まれるのではありません。

そのため、時には良いことであっても手放さなければならないことがあります。なぜなら、私たちはより優れたものを求めているからです。

その三人の人々がイエス様の言葉にどのように反応したのか、私たちには分かりません。おそらく、福音書の著者たちは、私たち自身が心を探るように意図したのでしょう。

たとえ困難でも、あなたはイエス様に従うでしょうか。

家族や友人がイエス様に従うことを拒んだとしても、それでもイエス様に従うでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てるでしょうか。

もしイエス様が「わたしについて来なさい。」と言われたなら、あなたはどうするでしょうか。

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マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

ミニストリーに関するプライド

イエス様が弟子たちに「神の国でどのように偉くなるのか」を教えられたとき、おそらく彼らは少し違和感を覚えたことでしょう。なぜなら、彼らは誰が一番偉いのかを巡って言い争いをし、さらに自分たちのグループの外にいる人々を軽んじていたからです。

そのため、ヨハネは少し緊張しながら、こう尋ねました。

先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。(マルコ9:38)

イエス様はこう答えられました。

やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(39-41)

教会の問題の一つは、人々が自分のミニストリーを守ろうとすることです。つまり、彼らはこう考えます。 「これは私の役割であり、私のミニストリーだ。他の人が参加するべきではない。」

弟子たちも同じような態度を取りました。 ある人物が悪霊を追い出しましたが、その人は弟子たちの仲間ではありませんでした。 そのため、弟子たちは彼に「やめなさい」と命じました。

けれども、イエス様は彼らにはっきりとこう言われました。

「これは競争ではありません。その人は私を愛し、仕えたいと思ったのです。だから、彼にやらせなさい。私は彼にその力を与えたのだから。」

私たちも同じような態度を取るべきです。たとえ相手が私たちよりも優れた働きをしていても、喜んで彼らをミニストリーに迎え入れるべきです。なぜなら、私たちはミニストリーをする際に自分の栄光を求めてはならないからです。

むしろ、私たちは神様に栄光を帰そうとすべきです。そして、誰かが神様からの賜物を用いるとき、そのことを喜ぶべきです。

残念ながら、教会の中でも競争が生じることがあります。人々は「どの教会のほうが大きいか」「どのミニストリーのほうが優れているか」を考えます。

さらに、相手の方法が自分と異なれば、批判を始めることもあります。しかし、それはイエス様の望まれることではありません。それはむしろサタンの望むことです。もし教会の人々が互いに争えば、サタンとの戦いに費やすべき時間が失われてしまうからです。

だからこそ、教会として、また教会のメンバーとして争うことをやめましょう。そして、むしろ協力し合いましょう。なぜなら、私たちは同じチームに属し、同じ目標を持っているのだから。

私たちが分裂するなら、神様の名を汚してしまいます。しかし、一致し、協力するなら、神様の御名に栄光を帰すことができます。

そのような人々になりましょう。

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マタイの福音書 マタイ18章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。

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訊くのを恐れる?

この箇所で、イエス様は再び弟子たちに、エルサレムで何が起こるのかを説明されました。彼は非常に明確に語られました。

このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。(マタイ17:22-23;ルカ9:44)

弟子たちはどのように反応したのでしょうか。

しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。(ルカ9:45)

多くの私たちにとって、弟子たちがイエス様の言葉を理解できなかった理由はわかりにくいかもしれません。

イエス様は曖昧な表現をされたわけではなく、率直に語られました。それにもかかわらず、なぜ弟子たちはイエス様の言葉を理解できなかったのでしょうか。

ルカはその理由を私たちに示しています。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。」

では、なぜその言葉は彼らから隠されていたのでしょうか。おそらく、彼らの心はその言葉を理解できるほど十分に準備されていなかったからです。彼らはまだ、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、新しい王国を築かれることを望んでいました。

けれども、その希望にあまりに集中しすぎたため、イエス様の明確な言葉を理解することができませんでした。さらに、彼らはイエス様にその言葉の意味を尋ねることを恐れました。

なぜ彼らは恐れたのでしょうか。私は、彼らがイエス様の叱責を恐れたとは思いません。むしろ、彼らはイエス様の言葉が比喩ではなく、現実のものだと気づくことを恐れたのではないでしょうか。

彼らはイエス様が殺されるという事実に意識を向けすぎて、イエス様がよみがえられるという約束を聞き逃してしまいました。

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

時として、私たちは自分の考えに固執しすぎるあまり、イエス様が明確に語られても、その言葉を正しく理解できないことがあります。「イエス様はこう言っているように聞こえるけれど、きっと本当の意味は違うはずだ」と思い込んでしまうのです。

それでも、私たちはイエス様に尋ねることを避けたくなることがあります。なぜなら、もしイエス様が本気でそう言われたのなら、私たちは自分の考え方や生き方を変えなければならないからです。そして、変えることは時に恐ろしく感じられます。

たとえば、パウロはこう言っています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」(第二コリント6:14)

つまり、もし相手があなたを神様とその道から遠ざけるのであれば、その人から離れたほうが良いということです。

しかし、クリスチャンではない人と交際しているクリスチャンにとって、またクリスチャンではない人と婚約しているクリスチャンにとって、この言葉は受け入れがたいものかもしれません。

「これは、彼氏と別れるべきだという意味なのだろうか?」

そう思いながらも、彼らは神様に尋ねたくありません。なぜなら、神様に尋ねれば、答えは明確であり、その人と別れるべきだと示されるかもしれないからです。

また、パウロはこうも言っています。「不品行を避けなさい。」(第一コリント6:18)

すると、あるクリスチャンはこう考えるかもしれません。「この言葉の意味は、私が彼氏と関係を持つべきではないということなのだろうか?」

けれども、その人は神様に尋ねたくありません。なぜなら、すでに関係を持ってしまっているからです。

正直に言うと、真理を聞くことは時に痛みを伴うものです。自分の考え方や行動を変えることもまた、大きな痛みを伴うことがあります。

しかし、その苦しみに意識を向けすぎるあまり、私たちはその先にある祝福や希望を見落としてしまうことがあるのです。

たとえば、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。」と書かれている箇所には、次のような言葉もあります。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

さらに、「不品行を避けなさい。」と書かれている箇所には、次のような言葉があります。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であることを知らないのですか。」(第一コリント6:19)

私たちは、この真理についてもっと深く考えるべきです。

だから、聖書について疑問があるなら、積極的に尋ねるべきです。そして、その言葉を心に抱き、日々の歩みにおいて生きるべきです。

最初は痛みを伴うかもしれませんが、やがて私たちは神様からの祝福を知ることになるでしょう。

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私たちの信仰はどこでしょうか

私の信仰はどこにあるのだろうか。

時々、私は自分自身にそう問いかけます。「どうして私は神様をもっと信頼できないのだろうか。」

けれども、時には少し違う質問をします。「私は何を信頼しているのだろうか。」

この箇所では、その二つの問いが浮かび上がります。

イエス様、ヨハネ、ヤコブ、そしてペテロが山から戻ったとき、他の弟子たちは律法学者と論じ合っていました。彼らが何について議論していたのかは定かではありませんが、おそらく律法学者はこう言ったのかもしれません。

「あなたの先生は神様から来たのではありません。ほら、あなたたちはこの男の子から悪霊を追い出せなかったではありませんか。」

いずれにせよ、イエス様が彼らに「何について話していたのか」と尋ねられると、その男の子の父親はこう言いました。

先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、先生のところに連れて来ました。その霊が息子にとりつくと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。

それでお弟子たちに、霊を追い出すよう願ったのですが、できませんでした。(マルコ9:17-18)

そして、そのお父さんは必死に願いました。

もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。(マルコ9:22)

イエス様はこう答えました。

できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。(マルコ9:23)

私はその父親に共感できます。彼はこう言いました。

信じます。不信仰な私をお助けください。(9:24)

どのように、その父親はその言葉を口にしたのでしょうか。もしかすると、彼の希望はほとんど失われていて、信じることが難しかったのかもしれません。しかし、彼はイエス様が救えないなら、誰も救えないということを理解していました。

そこで、イエス様の目を見つめながら、その父親は涙を流し、自らの不信仰を認めました。

「イエス様、私は信じたいのですが、この問題は長い間続いてきました。あなたを信じることは、とても難しいのです。けれども、あなたが助けてくださらないなら、私は希望を失います。どうか、私が不信仰を克服できるよう助けてください。」

イエス様は、その父親の願いを聞かれると、悪霊を追い出されました。

私はこの話から希望を受け取ります。私もよく不信仰と戦います。私の信仰の小さな滴は、不信仰の大波に圧倒されることがあります。

その父親も同じように感じたことでしょう。しかし、彼が不信仰であったにもかかわらず、イエス様は憐れみと恵みを示し、その息子を癒してくださいました。

時々、私も神様の良さを疑うことがあります。けれども、私が叫ぶとき、イエス様は答えてくださいます。神様は私に憐れみと恵みを与えてくださり、私はもう一度神様の恵みと憐れみを思い出します。

いずれにせよ、この話の中で、弟子たちはイエス様に尋ねました。

なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。(マタイ17:19)

そして、イエス様は彼らに信仰について教えられます。

あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。

もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。(マタイ17:20)

でも、イエス様はもう一つのことを言われました。

この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。(9:29)

覚えていてください。その出来事の前に、弟子たちはイスラエルの中で多くの人々から悪霊を追い出しました。けれども、時が経つにつれ、彼らはその力の源を忘れてしまったかもしれません。

そのため、彼らは神様を信頼せず、自分の力と方法に頼り始めたのかもしれません。そして、祈ることを忘れてしまい、悪霊を追い出すことができませんでした。

私はこの話を読むたびに、自分自身に問いかけます。「私は何を信じているのだろうか。自分の能力や賜物に頼っているのか。自分の知恵に頼っているのか。それとも、神様に頼っているのか。」

神様を信頼するなら、たとえからし種ほどの信仰しかなくても、何でも可能になります。しかし、自分自身に頼るなら、私は何もできません。

毎日、このことについて考えなければなりません。私はよく失敗します。もしあなたも不信仰との戦いをしているなら、一緒に祈りませんか。

イエス様、私の信仰はどこにあるのでしょうか。私の状況を見るとき、私はしばしばパニックになり、あなたが私を助けてくださるかどうかを疑ってしまいます。

私の不信仰をお赦しください。すべてのことにおいて、あなたを信じることができるよう助けてください。私の心と状況の中で働いて、私に平和と喜びを与えてください。

私は何を信頼しているのでしょうか。私はしばしば自分自身に頼り、それによって失敗します。どうかお赦しください。あなたの声を聞き取れるように助けてください。そして、私が毎日あなたを信頼できるよう導いてください。アーメン。

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聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。

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最も大切なもの

あなたは何のために生きているでしょうか。何を求めているでしょうか。

楽な人生でしょうか。富でしょうか。この世の物でしょうか。

この箇所で、イエス様は私たちに自分の優先順位を見直すように挑戦されています。イエス様は弟子たちに、そして私たちに、本当に難しいことを語られました。

だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:23)

イエス様は私たちにそう要求されましたが、ご自身もそのように生きておられました。

イエス様は自分自身を捨てられました。

イエス様は天国に留まり、私たちをそのまま放置し、地獄へ向かわせることもできました。けれども、イエス様は天国を離れ、栄光を捨て、天使の礼拝を後にしてこの世に来られ、人間となられました。

この世において、イエス様はご自身のニーズを優先せず、周囲の人々の必要を満たすことを選ばれました。

イエス様は十字架を背負われました。

イエス様は打たれ、血を流されながらも、自らの十字架を死刑の場まで運ばれました。そして、十字架上で激しく苦しまれ、死なれました。なぜでしょうか。

天の父の計画を成し遂げるためです。私たちの救いのために死なれました。

イエス様がご自身を捨てられたように、私たちも自分自身を捨てるべきです。とはいえ、それは人生を楽しんではいけないという意味ではありません。イエス様もご自身の人生を楽しまれました。

ただし、神様の計画を果たすために、時には自分のニーズや願いを手放す必要があるのです。

時には、私たちは苦しまなければならないことがあります。私たちの家族は、私たちの信仰のゆえに私たちを拒絶するかもしれません。日曜日に働かないことで、職を失うかもしれません。イエス様に従うがゆえに、迫害を受けるかもしれません。

それでも、私たちは苦しみの中にあっても、イエス様に従うべきです。

なぜでしょうか。それは、イエス様にあって、私たちが最も大切なものを見出すからです。それは、イエス様との関係であり、また私たちのために備えられたイエス様の計画を成し遂げることです。

しかし、ある人々は、自分が欲しいもののために、イエス様とその計画を捨てます。彼らは自分の欲望を手放さず、代わりにイエス様を手放してしまいます。

イエス様は彼らにこう言われます

人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。

もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。

しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。(ルカ9:25-27)

時に厳しい現実ですが、もし私たちがイエス様を捨て、自分の欲望を持ち続けるなら、最終的にすべてを失ってしまうのです。

けれども、逆に自分の願いを手放し、イエス様に従うなら、真の満足と平安を見出すことができます。なぜなら、裁きの日に、イエス様は私たちに報いを与えてくださるからです。

この世においても、私たちはその栄光を垣間見ることができます。

そのため、イエス様は弟子たちにこう約束されました。

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(マルコ9:1)

弟子たちはイエス様のために苦しみましたが、彼らは神の国が力強く到来するのを目の当たりにしました。神様は彼らを通して奇跡を行われ、福音によって多くの人々の人生が変えられました。

また、彼らはイエス様のために殉教しましたが、神の国に着いたとき、素晴らしい報いを受けました。

あなたはどうでしょうか。一番大切なものを得るために、自分の欲するものを手放すことができるでしょうか。

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イエス様の邪魔するもの

私たちはよく、他のクリスチャンにつまずきや妨げとなるものを置かないよう、注意するように教えられます。

また、キリストを信じない人々に対して、イエス様が「つまずきの石」や「妨げの岩」であるということをよく聞きます。

しかし、私たちはどれほどイエス様の働きを妨げる存在になってしまうことがあるでしょうか。この箇所を読んだとき、そのことを考えさせられました。

イエス様は弟子たちに、神様の計画を成し遂げるために、ご自身が死ななければならないと語られました。

弟子たちはその言葉を聞いて驚きました。彼らは初めてこの話を聞いたし、それは彼らが思い描いていたメシア像とはかけ離れたものでした。

彼らは、イエス様がローマ帝国を打ち倒し、イスラエルを解放されると信じていました。そして、彼ら自身がイエス様の大臣になると思い込んでいました。そのため、イエス様の言葉に深く戸惑ったのです。

けれども、いつものように、ペテロは真っ先に自分の思いを表現しました。

主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。(マタイ16:22)

「神の御恵みがありますように」という言葉は直訳するとそのようになりますが、その本当の意味は「まさか!」という驚きの表現です。

つまり、ペテロはイエス様の言葉に対して強く反対しました。

私たちはどれほどイエス様を「主」と呼びながらも、イエス様の言葉に逆らうことがあるでしょうか。ペテロもそうしました。

そのため、イエス様は彼を厳しく叱責されました。

下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。(23)

もしイエス様に「サタン」と呼ばれたら、あなたはどう感じるでしょうか。イエス様はペテロを「サタン」と呼ばれました。なぜなら、ペテロの口から出た言葉は、サタンの考えそのものだったからです。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死ぬことをすでに決断されていました。しかし、ペテロはイエス様の計画に強く反対しました。だからこそ、イエス様の敵がイエス様を逮捕しようとしたとき、ペテロは下手ながらも彼らを攻撃しました。

ところが、その態度によって、彼はイエス様とその計画を妨げる者となってしまいました。ペテロは、自分の思いをイエス様の思いに合わせようとはしませんでした。むしろ、イエス様の思いを自分の思いに合わせようとしたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生において、あなたは神の御心を考えていますか?それとも、人の考えにばかりとらわれていますか?

あなたは自分の計画を神様の計画に合わせているでしょうか?それとも、神様の計画を自分の計画に合わせようとしているでしょうか?

あなたは神様の御心に従っているでしょうか?それとも、神様の名前を自分の計画に利用しようとしているでしょうか?

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最も大切な質問

イエス様がミニストリーの半ばに差し掛かった頃、十字架のことを考え始められました。それゆえ、イエス様は弟子たちが自分についてどう思っているかを知りたいと願われました。

彼らはイエス様をただの預言者だと考えていたでしょうか。ただの良い教師だと思っていたでしょうか。

そこで、イエス様は弟子たちにこう尋ねられました。「人々は私のことをだれだと言っていますか。」

弟子たちは様々に答えました。その後、イエス様はさらに問われました。「では、あなたがたは、私をだれだと言いますか。」

この問いは、あの時代の人々のためだけでなく、すべての世代の人々のためのものです。今もなお、イエス様は私たちに尋ねられます。「あなたは私をだれだと言いますか。」

イエス様を預言者だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は預言者でした。イエス様を通して、私たちは神様の言葉を聞くことができます。

では、イエス様を良い人だと思うでしょうか。もちろん、イエス様は良い人です。彼は一切罪を犯されませんでした。

とはいえ、イエス様はただの預言者なのでしょうか。ただの良い人なのでしょうか。

ペテロはそうは考えませんでした。彼はこう言いました。

あなたは、生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16)

ペテロがそう言ったとき、ユダヤ人たちは「メシア」、つまり「キリスト」という言葉の本当の意味を十分に理解していませんでした。(「メシア」と「キリスト」は同じ意味です。)

弟子たちも、その意味を完全には理解していませんでした。そのため、イエス様はご自身がキリストであることを誰にも言ってはならないと、弟子たちを戒められました。

もしある概念を理解できていなければ、それを他の人々に正しく説明することは難しいでしょう。

彼らは、メシアが人々の罪のために死ななければならないことを理解していませんでした。彼らが理解していたのは、「いつかメシアがイスラエルを治める」ということでした。

そのため、「キリスト」や「メシア」という言葉を聞くと、そのイメージがまず浮かびました。

あなたはどうでしょうか。イエス様がメシアであることを信じていますか?つまり、イエス様があなたの罪のために死なれたことを信じていますか?そして、イエス様はあなたの王ですか?あなたの人生をイエス様に捧げていますか?

イエス様は、ただの預言者ではありません。イエス様は、ただの良い人でもありません。イエス様は神です。

ユダヤ人たちは、イエス様の主張を正しく理解していました。確かに、ある意味では私たちすべてが神の子供です。なぜなら、神様が私たちを創造されたからです。

けれども、イエス様は「神様が自分を造られた」という意味ではなく、「自分は永遠から本当に神の子である」と主張されました。

そのような主張は、実際には「自分が神である」という宣言です。

その主張のために、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけて殺しました。(ヨハネ5:18、マタイ26:63ー66)

もしイエス様があなたの神であり、王であるなら、イエス様はあなたの礼拝と奉仕に値します。しかし、あなたは本当にそう信じていますか? ペテロのように、あなたは言うことができますか?「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

もしあなたがそのことを信じているけれど、まだ告白していないのなら、今、祈りませんか。

イエス様、私はあなたをただの良い人だとは思いません。私はあなたをただの預言者だとも思いません。

あなたが神であることを信じます。 私は、あなたが十字架で私の罪のために死なれたことを信じます。また、あなたが三日目によみがえられたことを信じます。 それを心から感謝します。

どうか私の神になってください。私の王になってください。 これから、私はあなたに従いたいです。どう生きるべきかを教えてください。アーメン。

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私たちがあまり持っていなくても

私はこの話を一億回読んだかのように感じています。(もちろん、少し大げさですが。)

それでも、今回は新しいことに気づきました。

イエス様の弟子たちは、宣教の旅から戻ったばかりで、きっと疲れ果てていたことでしょう。そんな中、マルコの福音書には、こう記されています。

そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。(マルコ6:31)

とはいえ、おそらくもう一つの理由として、イエス様が弟子たちと一緒に寂しい所へ行きたがったのではないでしょうか。

イエスはこのこと(つまり、バプテスマのヨハネが殺されること)を聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。(マタイ14:13)

おそらく、イエス様はその出来事を聞かれた後、自分の安全を考えて寂しい場所に行かれたのだと思います。なぜなら、ヘロデ王がイエス様のことを耳にすると、イエス様を探し始めたからです。(ルカ9:9)

しかし、なぜイエス様は弟子たちだけと一緒に行きたがられたのでしょうか。

多くの場合、この点について深く考えることはありませんが、イエス様は100%神であると同時に、100%人間でもありました。

イエス様とヨハネがどれほど親しかったのかは分かりません。ただ、彼らが従兄弟であったことは確かです。もしかすると、子供の頃、一緒に遊んでいたこともあったかもしれません。

さらに、イエス様のミニストリーが始まった際、ヨハネがイエス様にバプテスマを授けられました。また、ヨハネが牢に入れられ、ひどく気落ちしていた時には、イエス様は彼を励まされました。

だからこそ、イエス様が「まあね。大丈夫。ヨハネは天国にいるからね。」とあっさり言われることはなかったのではないでしょうか。

むしろ、イエス様はヨハネの死を嘆きたかったのだと思います。さらにもう一つ覚えておいてください。イエス様の弟子たちの中には、もともとヨハネの弟子であった者が二人いたのです。(ヨハネ1:37)

おそらく、彼らもヨハネの死を嘆きたかったのではないでしょうか。

残念なことに、彼らにはそんな時間がありませんでした。大勢の人々がイエス様と弟子たちについて行き、イエス様とその弟子たちの疲れや悲しみを知らず、イエス様に自分たちの必要を満たすよう求めました。

もし私がイエス様だったなら、それを見て怒ったかもしれません。「出て行きなさい。私の友人の死を悼んでいることが分からないのか?」

せめて私はこう言ったかもしれません。「ごめんなさい。あなたと時間を過ごしたいけれど、今日は難しいです。明日来ていただけますか?」

しかし、イエス様は彼らを歓迎されました。(ルカ9:11)

それだけではなく、イエス様は一日中彼らと共におられました。

やがて日が暮れ始めた頃、弟子たちはイエス様のもとに来てこう言いました。「先生、もう遅いので、食事をするために、皆を帰らせた方が良いのではないでしょうか。」

これは、その群衆を帰らせる絶好の言い訳でした。けれども、イエス様はそうされませんでした。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは答えました。「でも、この人たちは多すぎます。私たちには到底無理です。」

そこでイエス様は尋ねられました。「あなたがたは何を持っていますか。」

弟子たちは言いました。「少ししかありません。」

イエス様は仰いました。「それを私に持ってきなさい。」

そして、イエス様はそのパンと魚を取り、祝福して、驚くべき奇跡を行われました。弟子たちだけでなく、その群衆も満腹するほど食べることができました。

それだけではなく、食べ物は多く余りました。

私は「新しいことに気づいた」と言いましたが、それは何でしょうか。

時々、私たちは疲れ果てたり傷ついているため、「自分には人々に与えるものが何もない」と考えることがあります。

けれども、神様が私たちにそのように行動するよう求められるなら、神様は相手の必要を満たすために私たちに必要なものを与えるだけではなく、私たち自身の必要も満たしてくださいます。そしてその満たしは限界ぎりぎりではなく、豊かに溢れるほどに与えられるのです。

ここでのキーフレーズは、「神様があなたに求められるとき」です。

神様は私たちにすべての人々の必要を満たすことを要求されるわけではありません。もし私たちがそれをしようとすれば、燃え尽きてしまうでしょう。

そのため、私たちはこう問いかけるべきです。「自分にはほとんど与えるものがないように思えるけれど、神様は私にその人たちに対して情け深い心を与えてくださっているだろうか?神様は私にその人たちに仕えるよう求めておられるだろうか?

それとも、ただ『これは私の義務だ。私はその人に触れなければならない』と感じているだけなのだろうか?」

もし、神様が情け深い心を与えておられず、あなたの心に語りかけておられないなら、あなたはその人を別の誰かに任せた方が良いかもしれません。

しかし、神様が「行きなさい」と語られるなら、神様はあなたの持っているものを取り、祝福し、相手の必要を満たすだけでなく、あなたの必要も豊かに満たしてくださるでしょう。

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あなたを尊敬するけど。。。

この箇所では、ヘロデ王の行動が非常に謎めいているように思えます。ヘロデが自分の兄弟の妻を奪い結婚したとき、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。

もちろん、ヘロデはそれを聞いて不快に感じましたが、もしその妻ヘロデヤの影響がなかったなら、彼は何もしなかったかもしれません。ヘロデヤはヨハネの死を望んでいましたが、ヘロデはそこまでしませんでした。

最初、彼もヨハネを殺したいと思ったかもしれませんが、最終的にはヨハネを逮捕し、牢に閉じ込めました。

では、なぜヘロデはヨハネを殺すことをためらったのでしょうか。ひとつ目の理由は、ヘロデがユダヤ人の反応を恐れていたからです。(マタイ14:5)

もうひとつの理由として、時間が経つにつれてヘロデはヨハネを尊敬するようになっていた可能性があります。ヨハネが王に「あなたが悪い」と勇敢に告げたことに対し、ヘロデは感服していたのかもしれません。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネが他の人々とは異なることを認識していました。つまり、ヨハネが正しく、聖なる人であることを理解していたのです。

そして、ヨハネが何度もヘロデを責め、その言葉に当惑させられたにもかかわらず、ヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めることはありませんでした。

ヘロデの誕生日パーティーでは、その娘が皆の前で踊りを披露しました。ヘロデはその踊りを見て喜び、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談し、バプテスマのヨハネの首を要求しました。

ヘロデはそれを聞いて心を痛めました。けれども、自分のプライドのため、人々の前で誓いを取り消すことができず、ヨハネを殺してしまいました。

おそらく、ヘロデはその前にヨハネと会話する機会がなかったかもしれません。とはいえ、私の想像では、もしもヨハネと話していたなら、ヘロデはこう言ったかもしれません。

「ごめんなさい。私はあなたのことを嫌っているわけではありません。実は、あなたを心から尊敬しています。けれども、娘があなたの首を望んだのです。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単かもしれません。しかし、どれほど私たち自身が、イエス様に似たようなことを言ってしまうでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、心の深いところが揺さぶられます。それでも、その言葉に従わず、自分のプライド、家族、または他の優先事項を理由に、イエス様とその言葉に背を向けてしまうことがあります。

あなたはどうでしょうか。教会の説教を聞くとき、このブログを読むとき、また聖書を読むとき、その言葉が心に染み込み、心が温かくなるのを感じることがあるでしょう。あなたは「この方を尊敬します。本当に素晴らしい方です」と思うかもしれません。

しかし、そこで立ち止まり、「けれども…」と言って、神様の御言葉に背を向けてしまうこともあるかもしれません。

神様が送られた人を尊敬すること、それ自体は十分ではありません。また、彼らが敬虔な人だと認めることも、十分ではありません。

もし彼らが神様の言葉を正しく伝えているなら、それに応じて行動しなくてはなりません。そして、悔い改める必要があります。なぜなら、神様はいつかあなたが聞いたその言葉によって、あなたを裁かれるからです。

あなたはどう応じますか。

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弟子づくり、霊的な教え、実用的な教え

イエス様が弟子を育てる際には、霊的な指示だけでなく、実用的な指示も教えられました。

まず、イエス様は弟子たちに霊的な真理を教え続けました。例えば、山上の垂訓や平地の説教を説かれました。また、数々のたとえ話を用いて教えられました。

けれども、弟子たちを奉仕に送り出す際には、実用的な指示も与えられました。

例えば、弟子たちはサマリヤ人や異邦人のところへ行かず、ユダヤ人の町だけを訪れるべきだと教えられました。それはなぜでしょうか。パウロが語ったように、福音は最初にユダヤ人に届けられるべきものだったからです。(ローマ1:16)

もちろん、イエス様は時々異邦人やサマリヤ人を癒し、教えることもされましたが、彼らに福音を伝える時期はまだ来ていなかったのです。

イエス様はさらに具体的な指示を弟子たちに与えられました。

イエス様は、弟子たちが何を持つべきか、持たないべきかを教えられました(マタイ10:9-10)。

また、彼らがどこに泊まるべきかを教えられました(マタイ10:11-13)。

さらに、彼らが拒絶される場合や迫害される場合の対処方法についても教えられました(マタイ10:14,23)。

そして、イエス様は弟子たちに厳しく警告されました。「信頼できない人もいるので注意しなさい。もちろん、悪を行うことは避けなさい。それでも、相手を賢く扱うように。」(マタイ10:16-17)

このように、イエス様は霊的な教えも並行して教え続けられました。

例えば、神様はスズメの必要を日々備えておられるので、弟子たちの必要も必ず備え、彼らを守られるということです。なぜなら、神様はスズメ以上に彼らを愛し、大切にしてくださるからです。そのため、彼らは神様を全面的に信頼すべきでした(マタイ10:9-10;29-31)。

また、彼らは神様を何よりも愛するべきだと教えられました。イエス様は弟子たちにこう語られました。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。(マタイ10:37-39)

私が伝えたいのはこれです。私たちが人々を奉仕のために訓練する際には、霊的なことと実用的なことの両方を教えるべきだということです。

もちろん、彼らはミニストリーや日常生活における霊的な原則を学ぶ必要があります。

しかし、それと同時に、彼らにどのようにミニストリーを行うべきかという実践的な側面も教える必要があります。

イエス様もそのようにされました。まず、弟子たちはイエス様がどのようにミニストリーを行うかを目の当たりにしました。そして、イエス様は必要な指示を簡潔に与え、弟子たちを送り出されました。

弟子たちが戻ると、イエス様は彼らの報告を聞き、必要に応じてフィードバックを与えられました。私たちも、同じようにして人々を訓練するべきではないでしょうか。

もちろん、彼らが私たちと全く同じようにミニストリーを行う必要はありません。私たちが基本的なことを教えた後は、その基礎の上に彼らが神様の導きに従って、自分のミニストリーを築いていくべきです。

けれども、残念なことに、多くの場合、訓練はどちらか片方に偏りがちです。

例えば、霊的な訓練だけを与える一方で、ミニストリーに関する実用的な訓練を与えない場合、その弟子は大きな失敗をし、そのミニストリーは早々に崩れてしまうことがあります。

逆に、ミニストリーに関する実用的な指導だけを与えると、最初は順調に見えても、弟子自身がプライド、罪、その他の霊的な落とし穴に陥り、結果的にそのミニストリーも崩壊してしまうことがあります。

ですから、弟子たちを訓練する際には、このような失敗を避けるべきです。霊的な訓練と実用的な訓練の両方を与えましょう。そうすることで、神様は彼らと私たちを用いて、神の国を成長させてくださるでしょう。

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畑になる毒草

この箇所を読むと、なぜかユダに目が向きます。

この箇所では、イエス様は弟子たちを呼び、イスラエル人に奉仕するために送り出されました。イエス様は彼らに、悪霊を追い出し、あらゆる病気と患いを癒す力を与えられました。けれども、彼らの最も重要な使命は福音を伝えることでした。

マタイは弟子たちの名前を挙げる際、最後にこう記します。「そして、イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」(マタイ10:4)

考えてみてください。ユダも悪霊を追い出しました。ユダも病人を癒しました。ユダも福音を伝えました。それなのに、最終的に彼はイエス様を裏切ったのです。

なぜユダは、これほど多くの素晴らしい働きをしながらも、イエス様を裏切ることになったのでしょうか。その理由を完全に理解するのは難しいです。

けれども、ユダはイエス様が語られた「畑にある毒麦」のたとえ話を象徴しているように思えます。(マタイ13:24-30; 36-42)

実際、毒麦と麦は見た目が非常によく似ています。そのため、農夫が毒麦を引き抜こうとすれば、誤って麦も引き抜いてしまう可能性がありました。そこで、農夫は収穫の時まで待つことにしました。その時になって初めて、麦と毒麦を分けました。

同じように、ユダは信者のように見えました。彼は他の弟子たちと共に学び、また他の弟子たちと同じように、悪霊を追い出し、人々を癒し、福音を伝えました。

それでも、彼は決して自分の心をイエス様に捧げることはありませんでした。

私のただの推測にすぎませんが、もしかすると、ユダは自分の利益のためにイエス様を利用しようと考えていたのかもしれません。

しかし、彼の目的とイエス様のビジョンが全く異なっていることに気づき、イエス様を利用できないと悟ったとき、彼はイエス様を裏切る道を選んだのです。

現代においても、教会の中にはそのような人々がいます。彼らはクリスチャンのように見え、クリスチャンのように聞こえます。中には奉仕をする人もいます。それでも、彼らの心は本当にイエス様に捧げられてはいません。

あなた自身はどうでしょうか。あなたの心はイエス様に捧げられていますか。あなたの人生は本当にイエス様のものでしょうか。それとも、ユダのように、あなたは畑の毒麦でしょうか。

表面的に信者のふりをすることはしないでください。牧師や教会の他のメンバーを欺くことはできるかもしれませんが、神様を欺くことはできません。そして、裁きの日には、あなたの本当の姿が明らかにされるでしょう。

その毒麦とならないように。あなたの心をイエス様に捧げましょう。信者のふりをして生きても、あなたの人生は虚しくなり、最終的には裁きを受けることになるのです。