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ルツ記のデボーション

あがなわれた

どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。。。

どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。(ルツ記4:11~12)

今日、ラケル、レア、タマルの物語を思い巡らせていました。彼女たちの人生は、それぞれのかたちで壊れたものでした。(創世記29~30章、38章)

それでも、最終的に彼女たちは、その壊れた人生のゆえにではなく、祝福された女性としてユダヤ人たちに思い出されました。

ルツの人生もまた、壊れたものでした。しかし今、彼女は祝福された人として記憶されています。

さらに、神様はこの4人の女性たちを通して、私たちのあがない主であるイエス様をこの世に送られました。彼女たちの名前はイエス様の系図に記録されているのです。

だから、神様は私に思い起こさせてくださいました。 「あなたは、人生の壊れたところによって定義されているのではありません。私はあなたをあがなって、今や、あなたは祝福されているのです。」

I was nothing before you found me.
あなたが私を見つけてくださる前、私は取るに足りない者でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。

Heartache, broken pieces,
悩み、砕けた心。
Ruined lives were why you died on Calvary.
滅びた人生のゆえに、あなたはカルバリで死んでくださいました。

Your touch was what I longed for.
私が憧れていたのは、あなたの癒しの御手でした。
You have given life to me.
あなたは私にいのちを与えてくださいました。ーービルとグロリア・ゲイザー

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ルツ記のデボーション

安息を得るために

姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。」(ルツ記3:1)

今日、神様の安息について思いを巡らせていました。

ルツは、ある意味で安息を見つけました。ナオミ、そして特にボアズに信頼を寄せることで、身の落ち着き所となる安息を得たのです。

もしボアズがそれほど善良な人でなければ、その夜、ルツは本当に困っていたことでしょう。

しかし、彼女はボアズが善良な人であることを信じていたので、やがて安息を見出すことができました。

ルツの態度とは対照的に、士師の時代のイスラエルの民は神様に信頼を寄せることを拒み、何度も安息を失いました(士師記1:18~19、2:11~12、3:30~4:2、5:31~6:2)。

ところで、聖書では、「買い戻し」と訳される語は(ルツ3:9)、神様に当てはめるとき、「あがない」と訳されます。

つまり、ルツは自分の「あがない主」であるボアズを信頼しましたが、イスラエルの民は自分の「あがない主」である神を信頼しなかったのです。

今、私は安息を失った人々のことを考えています。彼らが安息を失ったのは、あがない主が良い神であることを信じなくなったからです。

私はその模範に倣いたくありません。

ルツのように、私は自分のあがない主が良い方であり、その約束が確かであることを信じる道を選びます。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

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ルツ記のデボーション

でも、真理は…(2)

今日、ルツ記1~2章をさらに読んで、私たちの感情と真理の違いについて考えていました。

第1章で、ナオミはどのように感じていたでしょうか。

彼女はこう言いました。

「主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられた。」

でも、真理は何だったのでしょうか。

「神様は私に御恵みを惜しまない主です。」

私はただ自分の感情に従いたくはありません。それは抜け出しにくい痛みのサイクルにつながります。

私は神の愛に根差し、みことばの剣を振るって、こう宣言したいのです。「でも、真理は…」

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でも、真理は…

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」(ルツ記2:20)

この章では、ナオミの態度はまったく違いますね。

第1章では、ナオミは苦々しい思いを抱いて、「主が私を卑しくし、辛い目にあわせられた」と言いました。(ルツ記1:13、20~21)

でも、第2章では、彼女は真理に目を開かれるようになりました。さまざまな煩いがナオミに訪れても、神様が彼女を決して捨てられることはありませんでした。それどころか、神様は彼女を深く愛しておられました。

あなたは今、ナオミのように痛みのサイクルに陥っているかもしれません。

神様があなたを辛い目にあわせていると思うかもしれません。

神様があなたを見捨てられたと感じるかもしれません。

でも、真理はこうです。神様は良い方で、あなたを深く愛しておられます。

だから、神様から離れるのではなく、神様の翼の下に身を避けようとするなら(12節)、あなたもやがてその真理に目が開かれるようになるでしょう。

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神様は良い方なの?

ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミ(「快い」の意味)と呼ばないで、マラ(「苦しむ」の意味)と呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。

私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。

どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(ルツ記1:20~21)

今、私はナオミのように感じている知り合いのことを考えています。

神様が良い方であることを信じるのが難しいときもあります。

それでも、その知り合いのために祈っていた今朝、別の友人からSMSが届きました。

去年、彼は失業し、今年はさまざまな意味で本当に大変な一年でした。

正直に言うと、彼のために祈る中で、私が失望を感じることもありました。神様の答えが長い間、見えなかったからです。

でも今朝、彼が再雇用されたことを知らせてくれました。

そして神様は、もう一度私に思い起こさせてくださいました。「はい、わたしは良い方です。」

だから私はその真理を握りしめながら、今もなお苦しんでいる知り合いのために祈り続けています。特に、その人が神様がまことに良い方であることを知るようにと祈っています。

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偶然ではないのです

それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。(ルツ記2:3)

ルツ記の著者は、ちょっと微笑みながら、その言葉を書いたでしょう。

「はからずも」?

それは、きっと神様の導きでした。

ナオミは、神様が自分を見捨てたと思っていました。でも、神様はまだナオミのために計画を持っておられました。上記の「偶然」は、ナオミだけではなく、私たちにも影響を与えました。

(ネタバレですが、興味があれば、マタイの福音書1:5〜6、16を読んでみてください。)

ナオミにそれがわかってきたので、心の中に希望がよみがえりました。

神様には、偶然はありません。神様は、意図的にご自分の目的を達成しておられます。そして、その計画は、神様を愛する私たちの益のためのものです。(ローマ8:28)

私はこれまで、いろんな「偶然」に出会ってきました。でも、振り返ると、それらは偶然ではありませんでした。そして、神様の私のための計画が明らかになるにつれて、私は神様が良い方であることを、もっと深く知るようになりました。

だからこそ、私は希望を持っています。

たしかに、主は御恵みを惜しまない方です。

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ルツ記のデボーション

飢饉の時の祈り

主よ、士師記の時代のように、私たちは飢饉のある国に住んでいます。多くの人々が霊的に飢えています。

ナオミのように、多くの人々が苦々しい思いを抱えています。彼らは、あなたの御手が自分たちに下ったと思い、あなたが自分たちを卑しくし、辛い目にあわせられたと思っているのです。

私の羊飼いよ、あなたの民を顧みてください。命のパンを与え、恵みを施し、あなたの恵みによって救ってください。彼らがこの世のものではなく、あなたにあって平安を知ることができますように。

ナオミに触れて憐れみと恵みを与えるために、ルツを用いられたように、周りの苦しんでいる人々に触れるために、私を用いてください。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。