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レビ記

私は気が変わった

それでは、これはレビ記の最後の箇所です。思ったほど苦しくありませんでした。😊

実は、本当に興味深いことがたくさんありました。だから、聖書を読み続けることが楽しみです。

この最後の箇所は誓いについてです。これを読んで、神様にとっては、誓いが深刻なことだと分かります。神様は誓いを要求されませんが、私たちが誓ったら、その誓いを守らなくてはなりません。

誓いを守るのが難しくなったら、少し恵みがありました。それは、買い戻すことです。

例えば、サムエルのお母さんのように、誰かが自分の子供を神様に仕えるために捧げましたが、後でその決断を後悔したら、子供を買い戻しても大丈夫でした。そうすれば、その誓いを守ったこととみなされました。

そのように、人でも、動物でも、家でも、土地でも神様に捧げた場合、代価を払えば、そのものを買い戻すことができました。これは27章の律法の意味です。

しかし、神様に誓ったら、守らなくてはなりません。そして、自分の方法で守ってはいけません。神様の方法で守らなくてはなりません。誓ったら、気を変えてはいけませんでした。

私たちにとってはどういう意味でしょうか。神様の前で私たちの言葉に気をつけなくてはなりません。

私がクリスチャンのキャンプに行った時に、私の先生はこう言いました。

「『私のすべてをお捧げします』という賛美歌を私は決して歌いません。なぜならば、この歌を歌ったら、それが神様への祈りであり、神様への約束だからです。私はその言葉が好きだし、約束したいのですが、その約束を守ることができないと思うのです。」

面白いのは、その後で、キャンプのリーダーがワーシップをリードして、その歌を歌いました。けれども、皆は先生の言葉を覚えていたから、その歌を歌うのが不安でした。

歌ったあとで、キャンプのリーダーは言いました。「皆は初めてその歌を聞いたのでしょうか。ほとんど誰も歌っていませんでしたね。」

多分、その後で、私たちの先生はキャンプのリーダーに説明して、その二人は笑ったと思います。

とにかく、私の意見は少し違います。私はそのような歌を歌うときに、こう祈ります。「神様、私はこの言葉を守りたいです。私は弱いし、よく失敗します。でも、この言葉は私の心の願いです。だから、助けてください。」

あなたは神様に約束しますか。そうであれば、その約束を守りますか。そうしないのであれば、約束しないほうがいいです。

イエス様はこう言われました。

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイ5:33ー37)

もし、もう誓ったけど、その約束を守ることができないなら、どうしたら良いでしょうか。大祭司イエス様に行って、どうしたら良いか聞いたほうがいいです。

モーセの時代に、誰かが子供を買い戻したかったけど、その代価を払えなかったら、その人は祭司に行って、その祭司は代価を変えることができました。

そのように、イエス様は私たちに恵みを与えてくださいます。どのようにその誓いを守るか教えてくださいます。

しかし、イエス様が言われたように、私たちは、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言うべきです。

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レビ記

反抗、懲らしめ、恵み

多くの人は神様について考えるとき、罰を与える神様として考えます。多分、このような箇所はそのイメージを強めるかもしれません。けれども、この箇所を読むときに、思い出さなくてはならないことがあります。

神様は、神様を愛している人について話しておられるのではありません。心を尽くして神様に仕えたい人について話しているのではありません。

むしろ、神様に反抗する人について話しておられます。この人たちは「神様に聞かないし」、「掟を拒むし、定めを忌み嫌いし」、「頑固だし、神様に反抗する」という人です。

神様はこのような人について話しておられるのです。もし、私たちが神様に反抗したら、神様はその人を懲らしめます。

しかし、神様の懲らしめについて、二つのことを思い出すべきです。

一つは、神様に反抗するとき、私たちは神様の保護から外れるため、私たちの人生に悪いことが起こることが多いということです。

どれだけの人が、神様の性に関する教えを拒むことで、エイズに苦しんでいるでしょうか。

どれだけの人が、神様に委ねず、自分自身に頼ることで、本来恐れる必要のないことに怯えてしまっているでしょうか。

どれだけの人が、サタンに攻撃されているのに、神様から離れているために無力になっているでしょうか。

けれども、そのような状態になると、私たちは神様を責めてしまいます。

もう一つ思い出さなくてはならないのは、神様がその状態を許される理由があるということです。神様は私たちを破壊されたくありません。

サタンは私たちを破壊したいですが、神様はそうされたくありません。むしろ、神様の望みは私たちが悔い改めることです。

一番暗い時期でも、私たちの人生がめちゃくちゃになっていても、神様は私たちを捨てられません。私たちが忠実でなくても、神様は忠実でいてくださいます。

もし私たちが悔い改めるなら、神様は私たちに恵みを与えてくださいます。イスラエル人を赦し、回復されたように、私たちも赦され、回復されます。懲らしめの目的は、私たちが神様の恵みをもう一度知ることにあります。

だから、毎日そのように生きましょう。つまり、神様の恵みの下に生きましょう。

私たちの一番ベストの日でも、神様の恵みが必要です。神様は罰を与えたくないのです。むしろ、恵みを与えたいのです。

だから、神様を恐れないでください。神様はあなたを愛しておられるからです。むしろ、神様に対して柔らかい心を持ち、神様の恵みに心を開きましょう。

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レビ記

私たちに対しての神様の望み

「神様は私たちから何を望んでおられるでしょうか。」

多くの人がその質問をします。そして、この箇所を読んだら、彼らが答えを見つけると考えます。つまり、神様は私たちの服従を望んでおられます。だから、彼らは神様の律法に焦点を当てて、頑張って従います。

でも、結局、彼らが頑張っても、完全に律法に従わないから、その律法が重すぎる荷物になって、がっかりするようになります。

しかし、この箇所を読むと、私は別の疑問の答えを見つけました。それは、「神様は私たちに対して、何を望んでおられるでしょうか。」

わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、である。

わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。(レビ記26:12-13)

神様は私たちに対して何を望んでおられるでしょうか。一つ目は、私たちと親しい関係を望んでおられます。毎日、私たちの隣に歩みたいのです。私たちが神様の民として神様を愛して仰ぎ、神様が私たちを愛の目で見てくださる関係を望んでおられます。

二つ目は、私たちの自由を望んでおられます。だから、イスラエル人をエジプトから解放してくださったのです。そのように、神様は私たちを罪の鎖とサタンの国から解放してくださったのです。

三つ目は、私たちがまっすぐに立って歩くことを望んでおられます。つまり、私たちが罪からの恥を感じながら歩くことを望んでおられません。神様が私たちを愛し、受け入れてくださるかどうかを思い悩むことを望んでおられないのです。

むしろ、私たちの罪が贖われて、私たちが神様と良い関係にあるから、胸を張って立ち、歩くことを望んでおられます。

これは、神様との関係が始まるところです。神様の命令に頑張って従うことではなくて、むしろ、神様が私たちの人生に触れて、罪の鎖を砕き、その恥を取り去ることから始まります。そして、神様と親しい関係があるから、毎日神様と歩くことができるのです。

神様の民として、神様とともに歩み、従うなら、祝福が訪れます。

神様が私たちの必要を備えてくださる(4ー5節)。

神様の平安を知るようになります。もはや、将来のことを恐れる必要がありません。私たちの将来が神様の手にあることを知っているからです。(6節)

勝利を知るようになります。罪と戦うときに、また、サタンとその悪霊と戦うときに、私たちは圧倒的に勝つのです。(7-8節)

私たちは実を結びます。私たちの家族と仕事とミニストリーの中で、神様の国のためにたくさんの実を結びます。

最後に、私たちの人生に神様の臨在を感じることができます(11-12節)。神様は私たちを決して離れず、また私たちを捨てないと約束してくださったのです。

それが神様の望みです。私たちが神様の望みと神様の働きに焦点を当てたら、神様に従うことはそんなに大変な重荷にはならないでしょう。

罪の鎖を砕くために、神様の命令に従うのではありません。神様の愛を得るために神様の命令に従うのではありません。

むしろ、私たちの鎖がすでに砕かれて、私たちがすでに神様の愛を受け取っているから、神様に従うのです。

そのことに焦点を当てたら、服従は重荷にはならないでしょう。むしろ、服従は喜びになります。

ヨハネが書いたように、

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(第一ヨハネ5:3)

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自由

アメリカのフィラデルフィアという都市にベルがあります。そのベルの上に、この言葉が書いてあります。「国中のすべての住民に解放を宣言する。」

このベルは自由の鐘です。けれども、私はその言葉がベルの上に書いてあることを知りませんでした。もしかしたら、聞いたことがあったかもしれないけれど、ずっと前に忘れてしまっていました。

この言葉はレビ記25:10から来ます。神様はこう言われました。

あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。

このヨベルとは何でしょうか。それはキリストにある自由の美しい絵です。

七年おきに、イスラエル人は種を蒔かず、刈り入れもしませんでした。むしろ、七年目は、地の全き休みの安息でした。その時には、六年目の収穫から食べました。また、落ち穂から生えたものを売るために刈り入れてはなりませんでしたが、自分の食事のために食べても大丈夫でした。

そして、安息の年を七たび、つまり、49年おきに、贖罪の日に角笛が鳴り響きました。そして、ヨベルの年が始まりました。

その年には、負債を払うために自分自身を奴隷として売った人は自由にされ、家族のもとに戻りました。

また、もし家族の土地を負債を払うために売っていたら、その土地も戻りました。だから、ヨベルの年は自由と祝いの年でした。

ヨベルの年が贖罪の日に始まったことが大切だと思います。贖罪の日には、罪の代価が支払われました。それから、ヨベルが始まりました。自由の年が始まりました。回復の年が始まりました。つまり、人間関係の回復や土地の回復です。

そのように、イエス様が十字架で私たちの罪のために支払ってくださった時、私たちにとっては新しいスタートでした。私たちと神様の関係が回復されました。また、罪で壊れた人間関係も回復されました。

そして、神様からの遺産も回復されました。それは天国だけではありません。それは、神様が私たちのために初めに計画されたことを回復されたのです。アダムとエバが罪を犯した時に失ったことが回復されます。つまり、愛と平和と喜びと満足です。

しかしそれよりも、神様の子供の自由が回復されました。サタンの国からの自由であり、罪で縛られた人生からの自由です。神様の怒りと裁きを恐れずに、神様を自由に愛して仕えることができるのです。イエス様は十字架で、その怒りと罰を受けてくださったからです。

イエス様はこう言われました。

わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。

主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(ルカ4:18ー19)

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死に導く態度

これはかなりショッキングな話ですが、とても大切なことを学べると思います。

エジプト人のお父さんとイスラエル人のお母さんのいる人がいました。私はちょっと分からないのですが、多分、イスラエル人がエジプトから逃げた時に、そのお母さんは夫をエジプトに残したのでしょう。

ところが、ある日、その息子はケンカしている時に、神様の御名を冒涜して呪いました。

残念なことですが、私たちの時代に、特に英語を話す国で、神様の名前を冒涜して呪うことは珍しいことではありません。しかし十戒で、神様は命じられました。「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)。

そして、その時代のイスラエル人は皆その罪の罰をよく知っていたので、ほとんどしませんでした。

私たちはもう一つのことを覚えておかなくてはなりません。イエス様はこう言われました。

人の口は、心に満ちているものを話す。(ルーか6:45)

つまり、その人の神様に対する憎しみと背きの言葉は言葉だけではありませんでした。その言葉はその人の心から来ました。

多分、その人はずっとその態度を隠していました。その人はエジプトを出たくなかったかもしれません。それなのに、お母さんは彼を連れて行ったのです。だから、心の中に恨みを感じたかもしれません。そして、その日、その怒りが湧き上がり、神様の名前を冒涜して呪ったのです。

普通のイスラエル人だったら、多分すぐに殺されたと思います。けれども、その人はエジプト人のお父さんがいたので、モーセはどうしようかと思ったかもしれません。

しかし、神様はその人に対しても同じ罰を与えなければならないと言われました。だから、その人はその罪のために殺されました。

私たちは何を学べるでしょうか。死に導く態度があります。物理的な死だけではなく、霊的な死に導くものです。私たちに神様に対する反抗的な心があって、悔い改めないと、神様から永遠に離れることになります。

時々、人は生意気な態度をとって、その反抗的な態度を示します。神様に対して、反抗的な言葉を言い、わざと神様の言葉に逆らいます。

他の人はそのエジプト人のようにその態度を隠します。教会に行って、良いことを言い、良いクリスチャンのように見えます。けれども心の中で、神様の名前を呪います。

しかし隠しても、隠さなくても、いつかその態度は現れます。神様はあなたの心を知っておられるので、神様を騙すことはできません。

あなたは神様に対して、どんな態度を持っていますか。神様を愛し、柔らかい心を持っていますか。もしくは固い心を持って、神様をあなたの主として認めないですか。

パウロはこう書きました。

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。

忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、

党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。 (ローマ2:5-8)

あなたの心を神様に対して固くしないようにしましょう。その道は死に導くからです。むしろ、あなたの心を柔らかくしましょう。そうしたら、本当の命を見つけることができるでしょう。

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神様とその​わざを思い出す

私は記憶力がいいと思います。私はたくさんのことをよく覚えています。でも、時間がたつと、ある思い出はちょっと曖昧になります。私の妻は私たちの関係について私が忘れたことを覚えています。

例えば、妻は私たちがいつ市役所に行って結婚を登録する日を覚えていますが、私はよく覚えていません。私は結婚式の日をよく覚えていますけどね。

神様は私たちがすぐに忘れることをよく知っておられます。多分、そういうわけで、いろんな祭りと特別な日を確立してくださいました。

最初に、神様は安息日について話されました。その日の目的は、イスラエル人たちが神様が創造主であることを思い出すためでした。つまり、神様はすべての物を造られて、七日に休まれました。

私たちもそれを思い出すべきです。つまり、神様は全能の方であり、神様の知恵と愛によってすべての物を造られました。だから、神様は私たちの問題よりも大いなる方です。そして、私たちが神様に向かったら、どんな試練があっても乗り越えられます。

次に、神様は過越のいけにえと種を入れないパンの祭りについて話されました。それは、神様がイスラエル人をエジプトから救い出してくださったことを思い出させるためでした。彼らは奴隷でしたが、神様はイスラエル人を開放してくださいました。

そのように、神様は私たちをサタンの国から救い出してくださいました。私たちが罪の奴隷でしたが、神様は私たちを開放して、今私たちは神様の息子たちと娘たちになりました。

だからこそ、イスラエル人がエジプトからの自由を祝ったように、私たちも神様が与えてくださったキリストにあっての自由を祝うべきです。

次に、収穫の初穂の捧げ物と七週の祭りです。この祭りは収穫の時に祝われました。おそらく、神様がイスラエル人の必要を備えてくださる方であることを思い出させるためだったのでしょう。

そのように、神様が私たちの備え主であるから、心配することなく必要なものを受け取ることができます。(マタイ6:33)

次に、ラッパの祭りです。それは、イスラエル人のお正月でした。その時、彼らは以前の年を振り返りました。どうしてでしょうか。なぜなら、神様が私たちを造られたので、私たちは神様に対して責任があるからです。

裁きの日が来ます。その日、私たちは神様の前に立って、自分のことを申し開きしなくてはなりません。だから、その日の前に私たちは悔い改めなくてはならないのです。イスラエル人はラッパの祭りと次の祭りの間にそうしました。

次の祭りは、贖罪の日でした。

以前、この日について私は書きましたが、贖罪の日はイスラエル人が自分の罪を思い出すための日でした。つまり、罪を赦されるためには、誰かが犠牲にならなければならなかったのです。自分の努力や力では清められなかったのです。

そのように、私たちは贖いの必要を思い出すべきです。二千年前にイエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。イエス様は​私たちの罰を受けてくださったので、私たちの罪がイエス様の血で覆われました。

それが聖餐式の意味です。感謝の心から、キリストの十字架の働きを思い出します。

最後に、仮庵の祭りがありました。それは、約束された土地に住むイスラエル人にどこから来たのかを思い出させるためでした。つまり、神様はイスラエル人を無事に砂漠を通って導かれたのです。

そのように、私たちは神様がどのように私たちを導いてくださったのかを思い出すべきです。試練があるときにどのように神様が導いてくださったのか、神様が私たちの必要をすべて備えてくださったこと、そして、敵の攻撃から救ってくださったことを思い出すべきです。

私たちがそれを忘れたら、どうなるでしょうか。

一つ目は、私たちは高ぶる者になります。神様なしで、この人生を生きることができると思い始めます。神様からすべてをもらったことを忘れて、自分の努力でその物を得たと思い始めます。

二つ目は、私たちは心配し始めます。仕事について心配したり、経済について心配したり、私たちの必要について心配したりします。なぜなら、私たちは神様が私たちの必要を備えてくださる約束を忘れるからです。

三つ目は、私たちは神様に対して責任があることを忘れます。そして、私たちは自分自身のために生き始めます。

けれども、イエス様は十字架で大きな代価を払って私たちを買い取ってくださったので、パウロが言ったように、私たちはもはや自分自身のものではないのです。

だから、毎日、私たちはへりくだりの悔い改める心をもって神様の前に来るべきです。また、感謝の心を持ってイエス様の十字架の御業を思い出さなくてはなりません。

最後に、私たちは落ち込むようになります。辛い時に、神様が私たちの問題よりも大いなる方であることを忘れるし、以前神様が私たちをどのように助けてくださったかを忘れるからです。

神様は私たちの創造主、備え主、裁判官、贖い主、そして羊飼いです。私たちがこの砂漠の人生を歩むとき、そのことを思い出しましょう。

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きよくて、傷のない

この箇所で、祭司たちについてのルールがたくさんありましたが、根本的に2つのルールがありました。祭司が神様に仕えるためには、彼らは清くなければならないし、欠陥があってはならないということです。

だから、普通の祭司たちは近親者以外の死体に触ってはなりませんでした。大祭司の場合は、近親者の死体にも触ってはなりませんでした。そうしたら、汚れるからです。

さらに、祭司たちは売春婦か離婚された人と結婚してはなりませんでした。大祭司の場合は、寡婦と結婚してはなりませんでした。

また、体の欠陥がある場合、幕屋で神様に仕えることはできませんでした。例えば、目が見えない人や足が萎えた人は幕屋で仕えることができませんでした。

なぜでしょうか。それは、多分、彼ら、特に大祭司はキリストのシンボルだったからです。つまり、キリストは完全で、罪のない人でした。

死は罪の結果だから、祭司たちは死から離れなければなりませんでした。だから、大祭司は寡婦と結婚してはなりませんでした。

売春婦と結婚してはならないということは当然だと思います。彼らの人生はとても汚れているからです。そして、離婚された人と結婚することは、神様によれば、姦淫でした。(マタイ5章と19章に書いてあるように)。

しかし、私たちの大祭司イエス・キリストとその時代の祭司たちには大きな違いがありました。

その時代の祭司たちは汚れたものに触ったら、例えば、死体やツァラアト(らい病)の者に触ったら、祭司たち自身が汚れました。そして、彼らは自分自身を清くしなければなりませんでした。

その一方、イエス様がツァラアトの者や死体や売春婦や罪人に触れても、イエス様は汚れませんでした。むしろ、彼らを清くしてくださいました。彼らは完全になり、聖なる者になりました。

そのように、神様は罪深い私たちを受け入れて、私たちに触れてくださいます。そして、神様のタッチによって、私たちは清くなり、完全になり、聖なる者になります。神様はこう言われました。「わたしは彼を聖別する主だからである。」

この箇所で、神様は7回その言葉を繰り返して言われます。私たちは自分自身を聖くすることができません。神様はイエス様の血によって、私たちを聖くしてくださるのです。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、  ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)

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ただゲームではない

お正月の時に、多くの人は神社でおみくじを買います。おみくじについて私の生徒たちと話したら、だいたい皆さんはこう言います。「もし、いいことが書いてあれば、信じます。でも、悪いことだったら信じません。」

神戸に住んでいた時に、時々道で占い師を見かけました。また、占星術やタロットカードやウイジャ・ボードに興味がある人を知っています。

たくさんの人はそのことをゲームとして考えます。アメリカでは、おもちゃの会社がウイジャ・ボードを作っています。

アメリカの新聞で星占いがありますが、小さい字で「これはエンターテインメントのため」だと書いてあります。テレビの占いのCMでも、同じ言葉が書いてあります。多分、その人たちは訴えられることを望んでいないのでしょう。

でも、占いはゲームではありません。神様は占いがゲームだとは考えておられません。6節で、神様はこう言われました。

霊媒や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行う者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。(レビ記20:6)

また、27節では、神様は言われました。

男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。

霊媒というのは、将来について聞くために死者と連絡する人です。

どうして神様は霊媒に対して大反対なのでしょうか。多分、一番大切なフレーズは「慕って淫行を行う」ということです。

クリスチャンとして、神様は私たちをキリストの花嫁と呼びます。でも、霊媒や占い師や占星家と相談すると、実は悪霊と連絡することになります。それは神様からの霊的な力ではないので、危ないです。

悪霊の世界のドアは取っ手が一つしかありません。その取っ手は私たちの側にあるから、私たちだけが開けられます。私たちがそのドアを開けたら、非常に危険です。

私たちが将来を知りたいなら、悪霊に行かずに神様に行ったほうがいいです。もし神様が私たちが知らないほうがいいと思ったら、神様を信頼して、信仰によって歩いたほうがいいです。箴言3:5-6でこう書いてあるように、

心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

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傷つけられた時に

人間関係について学びたいなら、だれもレビ記を読もうとは思わないかもしれません。でも、レビ記19章には大切な教えがあります。

一番大切なのは、私たちが周りの人々を尊敬すべきだということです。

神様は目の見えない人と耳の聞こえない人を尊敬すべきだと言われました(14節)。また、老人を尊敬しなさいと言われました(33節)。また、あなたと違う人を尊敬しなさいと言われました(33節)。

でも、その前に、神様は言われました。「あなたの両親を敬いなさい。」

なぜそれが大切なのでしょうか。なぜならば、子供の時に、私たちは他の人よりも両親と時間を過ごします。もし、私たちが両親を尊敬できないなら、他の人を尊敬することが難しくなります。

最近、知り合いと話して、彼のご両親との関係が辛そうでした。私は具体的なことは知らないけど、彼がこう言いました。「私は頑張って仲直りしようとしたけど、結局ダメです。」

彼は傷ついていますが、必ずご両親も傷ついていると思います。

関係の問題は、両方が頑張らなくてはなりません。私たちが頑張って仲直りしようとしても、相手も頑張らないとうまくいきません。

でも、相手の態度をコントロールできなくても、私たちは自分自身の態度をコントロールできます。

17-18節で、神様はこう言われました。

心の中であなたの身内の者を憎んではならない。

あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。

復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。

あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。(レビ記19:17-18)

この箇所で、神様は私たちが難しい関係にあるときや、私たちが傷つけられた時に、どのような態度を持つべきかを教えてくださいます。

一つは、憎しみがあなたの心に入ることを許してはいけないということです。どうしてでしょうか。それは、私たちの人生のために神様のみ心に反するからです。

ヨハネはこう書きました。

神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。

目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えないか神を愛することはできません。

神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。(第一ヨハネ4:20ー21)

神様は私たちの人生に愛を注ぎたいし、私たちの人生から愛が流れることを望んでおられます。でも、心の中で憎しみを持ち続けたら、それは無理です。

二つ目は、問題に直面するべきです。問題を避けてはいけません。神様はこう言われました。「あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。」(17節)英語の翻訳では、「率直に戒めなければならない。」と書いてあります。

イエス様はマタイ18章で同じようなことを言われました。もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したら、その人に面と向かって責めるべきです。

もし相手が聞き入れないなら、もう一人か二人を連れて行って、その人と話すべきです。もしその人がまだ聞き入れないなら、教会の人たちと一緒にその人と話すべきです。

もし相手がまだ聞き入れないなら、その人から離れたほうがいいです。なぜでしょうか。それは、その人を憎んでいるからではなく、自分自身を守るためです。そうしないと、もう一度、傷つけられるかもしれません。

もし離れることができないなら、感情的に離れたほうがいいです。その人に対して冷たい態度を取るというわけではありません。

でも、その人と接するときに、心の周りに盾を建ててください。つまり、彼らがあなたの感情を気にしないことを覚えて、自分の心を彼らの言葉と行動に対して準備してください。

自分自身を騙さないでください。彼らが本当に変化したことを証明するまで信頼しないでください。

でも、彼らが変化するかどうかに関わらず、神様は「心の中で苦い感じを持ち続けてはいけません」と言われます。「復讐を求めるな。」と言われます。

つまり、その人を許すべきです。許しは、「私を傷つけてもいいです」という態度を取るわけではありません。

でも、許しは苦さを手放すという意味です。許しはその人が私に負っている考えを手放すという意味です。また許しは復讐を手放すという意味です。

最後に、神様は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言われます。(18節)

つまり、イエス様が言われたように、「自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)

相手があなたに対して優しくすることを期待しないようにしましょう。多くの場合、そうしてくれないでしょう。でも、愛と親切さをもらいたいように、愛と親切さを相手に与えましょう。

彼らは変化するかもしれません。変化しないかもしれません。あなたは彼らの行動をコントロールできません。

でも、あなたは自分自身の行動をコントロールできます。だから、自分自身に問いかけるべきなのは、「彼らは変化するでしょうか」ではなく、「私は変化するでしょうか」ということです。

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この世の人と違うようになること

私は神戸に住んでいる日本人の友だちがいます。ある日、同僚は彼にタイに行くように誘いました。彼らのプランは売春婦と遊ぶことでした。

私の友だちは断りましたが、最初は彼らが誘い続けました。けれども、やっと彼らは「彼は本当に行きたくない」と分かるようになりました。そして、彼らは本当にびっくりしました。「どうして行きたくないのですか?」

この世はクリスチャンを見たとき、時々、そのように感じることがあります。私たちの考え方が彼らと違うので、私たちが変だと思います。また、私たちの価値観はまったく違います。しかし、神様は私たちが違う人になるように呼んでおられます。

イスラエル人にこう言われました。

あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。(レビ記18:3)

24ー28節では、神様はその理由を言われました。

あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。

わたしがあなたがたの前から追い 出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地 は、住民を吐き出すことになるからである。

あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の 在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行うことがないためである。

—あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべて忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた— あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。

自分の方法で生きて、その人々は自分自身を汚し、その地も汚しました。だから、神様は注意されました。もし、あなたがその風習に従ったら、その地はあなたを吐き出します。

この箇所で、神様が特に定められたことは、性的な罪です。つまり、近親相姦、同性愛、獣姦、そして姦淫です。

もう一つ定められたことは、子供の犠牲です。つまり、子供を殺して、モレクという神に捧げることです。

私は信じられませんが、三千年がたっても、同じようなことがまだ起こっています。

その同じような性的な罪がまだあり、子供を殺して、神々に捧げるのをめったに見ませんが、何百万もの子供たちが中絶で「自己中心の神」に捧げられています。

こんな罪は私たちも汚し、私たちの国も汚します。

それだけではなく、この世の人々はそのひどいことが普通だと思っています。ローマ1:32に書かれたことは、この時代についても本当です。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

クリスチャンとして、私たちはこの行動で、文化についていってはなりません。また、神様の言葉に反するところで、この世に従ってはなりません。

私たちを汚すことから逃げましょう。この世の暗闇と調和せず、むしろ、この世に対して光となるようにしましょう。

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血の意味

日本では、だいたい皆さんは自分の血液型を知っています。だから、多くの人は友達に聞きます。「あなたの血液型は何ですか。」

長い間、たくさんの人が私にその質問をしてきましたが、私は「知りません」と答えてきました。

皆さんは驚いて、こう聞きます。 「でも、もし入院して血液が必要になったら、どうするのですか。」

けれども、多分、そんな状態だったら、私はもう意識がない状態だと思うので、その質問は意味がないと思います。

とにかく、やっと私は自分の血液型を知るようになりました。

私はA型です。血液型について考えると、皆さんはその人にいろいろな意味をつけます。

A型なら、責任感が強いけれど、少し頑固なところがあります。O型なら、責任に対して少しルーズな傾向があります。AB型なら、優しいけれど、決断するのに時間がかかることがあります。

しかし、神様は、人の血と動物の血に対して、それぞれ異なる意味をお与えになりました。そしてこの箇所では、犠牲の意味と、それがなぜ必要なのかを教えてくださいます。11節には、こう書かれています。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ記17:11)

神様は血を命と関連づけておられます。罪のための罰は死であるため、罪深い人が赦されるには、無罪の者がその罰を受けなければなりません。その人の血、つまりその人の命は、私たちの命のために捧げられなければならないのです。

旧約聖書の時代には、動物の命が人の命の代わりに捧げられていました。しかし、それは完全な犠牲の象徴にすぎませんでした。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを指し示していたのです。

イエス様の死によって、私たちはもはや動物を犠牲として捧げる必要はなくなりました。イエス様こそ、最後の、完全な犠牲です。

ヘブル人への手紙の作者はこう言いました。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。。。

しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られ るのです。(ヘブル9:22、26ー28)

私の好きな賛美歌には、次のように書かれています。

あなたの血は私を清めてくださる
あなたの血は私に永遠の命を与えてくださる

あなたの血は贖う犠牲によって
私の罪を取り去ってくださる

その血は私を清めてくださり、
雪よりも私を白くしてくださる
私のイエス様。あなたは神様の尊い犠牲です。

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贖い

毎年一度、イスラエル人は贖罪の日をお祝いしました。その日、皆は罪を告白し、神様は、象徴を通して、本当の贖いがどのように来るかを示されました。

贖罪の日には、いくつか興味深いことがあります。一つは、仕事をしてはいけないことでした。

なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、の前でそのすべての罪からきよめられるのである。(レビ記16:30)

その象徴がはっきりしています。イスラエル人は自分の努力で罪を贖うことができませんでした。むしろ、彼らの贖いがなされたのです。自分の働きによって罪を清めることができず、ただ大祭司の働きによって罪が清められました。

そのように、私たちの働きによって自分の罪を清めることはできません。私たちの努力が私たちを救うことはできず、大祭司イエス・キリストの十字架の働きだけが私たちを救うことができます。

二つ目は、大祭司しかだれも幕屋に入って神様の前に来ることができませんでした。大祭司が皆のために罪を贖う時、他の祭司でも幕屋に入ることができませんでした。

そのように、イエス様が十字架で罪を贖われた時、他の人はその働きをすることができませんでした。使徒でも、祭司でもできませんでした。イエス様だけができたのです。イエス様が言われたように、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

三つ目は、二匹の山羊が選ばれました。一匹は皆の罪のために死にました。そして、大祭司は二匹の山羊の頭の上に手を置いて、皆の罪を告白しました。そのあとで、その山羊を砂漠に連れて行き、解放しました。もはや誰もその山羊を見ませんでした。

これはイエス・キリストの働きの素晴らしい象徴でした。イエス様は十字架で、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。その罪を負った時に、私たちからその罪を取り去ってくださいました。

詩篇103:12で、こう書かれています。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

イエス様、あなたの愛を感謝します。あなたは私たちの大祭司として、罪を贖ってくださいました。私たちが自分を救うために何もできない時に、あなたは助けてくださり、ありがとうございます。

私たちの罪を負って、東が西から遠く離れているように私たちの罪を私たちから取り去ってくださったことを感謝します。

あなたの恵みとあわれみを感謝します。今、私があなたの働きによって神様に近づくことができることを感謝します。アーメン。

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清いもの、汚れたもの

速く進んでいますね。4日間で15章を読みました。すごいです!とにかく、この箇所はイスラエル人にとってとても大切なことです。それは清いものと汚れたものの区別についてです。この箇所の鍵はレビ記11:45に書いてあります。

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したであるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

つまり、神様が聖い方ですから、神様はイスラエル人も聖くなるように望まれました。だから、清いものと汚れたものというコンセプトがありました。47節で、神様は言われました。

汚れたものときよいもの。。。とが区別される。

どうして神様はそんなに細かく清いものと汚れたものというルールを作られたのでしょうか。私がすべてを理解しているとは言えません。一般的に、たぶん健康的および衛生的な理由でそのルールがあったかもしれません。

神様が具体的な科学的な説明をされることもできたでしょうが、そうしたら、たぶんイスラエル人は理解できなかったかもしれません。だから、神様はただ「これは清いものだが、これは汚れたものだ」と言われました。

いずれにせよ、この清いものと汚れたものの話から二つのことが学べると思います。

まず第一に、イスラエル人を汚すものがあったということです。そして、神様は言われました。

あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。(レビ記15:31)

つまり、神様との関係のために、イスラエル人は清くならなければなりません。私たちもその通りです。

しかし、神様は食べ物やかび(レビ記13:47のツァラアトというのはかびということです)、皮膚病についてそんなに心配しておられません。むしろ、神様は私たちの心を汚すものについて心配しておられます。それは何でしょうか。イエス様はこう言われました。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、 盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ 7:20ー23)

つまり、神様の目で、私たちの罪は私たちを汚します。だから、神様と親しい関係が欲しいなら、罪から逃げなければなりません。

二つ目は、かびと伝染病のように、気をつけないと私たちの人生に罪が広がります。それに、罪は私たちから広がって他の人に触れます。例えば、子供たちは両親の罪を見て、真似します。また、私たちの罪で他の人を傷つけます。

だから、かびと伝染病のように、私たちは極端な方法で罪を扱わなければなりません。かびが壁に出ていた時に、イスラエル人は壁の部分を取り除きました。もし、その後で、かびがまた出たら、その家を壊してしまいました。

伝染病の場合は、その皮膚病のある人は皆から離れて、一人で住まなければなりませんでした。

そのように、私たちは罪を扱わなければなりません。イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29ー30)

もちろん、イエス様は大げさに言われましたが、その意味は罪を自分の人生から追い出すために、極端に扱うべきだということです。

この箇所のテーマは聖さです。私たちは神様の前に聖いでしょうか。神様はこう言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

聖なる者になるために、イエス様は十字架で死なれました。私たちを赦してくださったし、私たちが聖なる者となるために力を与えてくださいました。

ペテロはこう書きました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二ペテロ1:3)

良い知らせは、私たちが自分の力で聖なる者になる必要がないということなのです。神様がその力を与えてくださったのですから、そのように生きていきましょう。

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私たちが神様を聖とみなすこと

それでは、レビ記10章を読みましょう。

6-7章は捧げ物についてのさらなる戒めがありました。8-9章は祭司の聖職授任式についてです。その式の意味をすでに出エジプト記のブログで説明しました。

10章では、もう一つの不快な話があります。アロンの二人の息子たちは香を盛ったときに、神様の命令に従わずに捧げたため、神様がその二人を殺されました。

どうして神様はその二人を殺されたのでしょうか。その二人はそんなに悪かったのでしょうか。私たちは二つのことを思い出さなければなりません。

まず第一に、その二人は祭司でした。以前私が書いたように、祭司たちは普通の人よりも神様に対して責任がありました。

第二に、その二人は無意識に罪を犯したわけではありません。その二人は意識して罪を犯しました。

出エジプト記30:9で、神様が特別な香を使いなさいと命じられたのに、その二人は自分の香を使ったようです。それに、神様がつけた火を使わずに(9章)、祭司たちは自分でつけた火を使ったようです。それも神様の命令に対する不従順でした。

もう一つの可能性は、その二人が酔ったときにその香を盛ったことです。だから、9節で神様は命じられました。

会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたがたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。(レビ記10:9)

この箇所の鍵は3節です。神様は言われました。

わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。(レビ記10:3)

つまり、その祭司たちは、神様の方法でせずに、自分の方法ですることによって、神様が聖なる方であることを忘れました。神様が尊敬されるべき方であることを忘れました。

祭司たちにとっては本当に深刻な問題です。なぜなら、皆は祭司たちから霊的なリーダーシップを求めました。もし、リーダーたちが神様が聖なる方とみなさないと、皆はどうするでしょうか。

私たちはどうですか。神様が聖なる方とみなすでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の愛と恵みについて話しますが、神様の聖を忘れます。つまり、神様は罪が大嫌いです。また、神様は聖い方です。そのことを忘れると、私たちは不純なことをします。そして、そのことによって、私たちが祭司たちでも、神様の名前を汚します。

神様はアロンにこう言われました。

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。(10-11)

神様の祭司として、私たちは聖なるものと俗なるものを区別しなくてはなりません。汚れたものと清いものを区別しなくてはなりません。

それに、区別できない人たちに私たちは光になるべきです。しかし、私たちが皆と同じだったら、どのように光になるでしょうか。

もちろん神様は恵みと愛の神なのです。

それでも、私たちは神様が聖なる方であることを思い起こさなくてはなりません。

毎日そのことを心に留めて生きていきましょう。

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罪についての5つのポイント

この箇所で、罪のためのいけにえについてたくさんの興味深いことがあります。そのいけにえを通して、私たちは罪について、さまざまなことを学びます。

誰が罪を犯したかによって、異なる捧げ物が必要でした。

祭司の場合は、雄牛を捧げなければなりませんでした。リーダーの場合は、雄やぎが必要でした。普通の人の場合は、雌やぎか雌子羊か山鳩か家鳩が必要でした。もし、その人が非常に貧しかったら、小麦粉を捧げました。

なぜでしょうか。それは、人の立場が高いほど、また、知識が多いほど、罪のための責任が大きくなるからです。

神様の代表として、祭司は最も大きな責任を負っていました。リーダーは人々の支配者として、大きな責任を負っていましたが、祭司よりは少し小さかったのです。普通の人たちは最も小さな責任を負っていました。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しか し、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者 は多く要求されます。(ルカ12:47ー48)

二つ目のポイントは、人が自分の罪に気づいていなくても、やはり有罪です。自分の罪が分かるようになったら、罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちは自分の罪を無視してはいけません。「私は知らなかったから、仕方がない」とは言えません。

また、「その罪は昔のことだから、もういいです。悔い改める必要がない」とは言えません。

罪は罪です。いつ犯したか、犯したときに気づいたかどうかは関係ありません。私たちは有罪です。だから、罪の償いをしなければなりません。

三つ目のポイントは、罪は悪行だけではなく、罪は正しいことをしないことも含まれます。神様はこう言われました。

人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら—彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに—、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。(レビ記5:1)

この場合、その人は裁判で何かを言わなければなりませんでしたが、黙っていたために、正義が行われませんでした。それも罪です。

ヤコブはこう言いました。

こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

四つ目のポイントは、あなたが罪を犯すつもりがなかったのに、罪を犯したら、やはり有罪です。

レビ記5:2-5では、うっかり罪を犯す場合、または不用意に罪を犯す場合について述べられています。その人たちはわざと罪を犯していませんでしたが、意図があったかどうかは関係ありませんでした。やはり有罪でした。

最後に、償いをしなければならない罪があります。つまり、「ごめんなさい」と言っても足りない場合があります。

レビ記6章では、人を騙したり、人から何かを盗んだりした場合、「ごめんなさい」と言っても足りません。犠牲を捧げても足りません。罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちも誰かを本当に傷つけた場合は、償いをしなければなりません。

ありがたいことに、私たちはもう旧約聖書の捧げ物を捧げなくても良いのです。イエス様は罪のための最後の犠牲でした。しかし、イスラエル人のように、私たちもまだ罪を告白し、悔い改めなければなりません。第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

神様、あなたは私の罪のために代価を払ってくださって感謝します。あなたの前で私の心がいつも清いようにしてください。

私の罪を示し、清めてください。私が意図的な罪を犯さないように。また、私が不用意に罪を犯さないように。私が償いをしなければならない時に、謙遜であるように助けてください。

あなたの恵みと赦しを与えてくださり、感謝します。アーメン。

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神様に近づくこと

それでは、レビ記を始めましょう。

私はレビ記を読むことをとても楽しみだとは言えません。出エジプト記のように、律法や規則、ルールがいっぱいあり、時々とても細かいです。だから、少しつまらないところもありますが、頑張ってみましょう。

今日は捧げ物について話します。

「捧げ物」という言葉は面白いです。「捧げ物」というのはヘブル語で「近づける」という言葉から来ています。つまり、イスラエル人は神様に近づくために捧げ物を捧げたのです。最初の3つの捧げ物を見てみましょう。

最初のは、全焼のいけにえという捧げ物です。私たちは出エジプト記でこの捧げ物について読みました。祭司が神様のために聖別された時に、全焼のいけにえを捧げました。

けれども、レビ記の場合は、皆がその捧げ物を捧げました。

その捧げ物のために、傷のない雄牛を捧げなければなりませんでした。そして、祭司は全部を焼いていました。

この捧げ物には2つの意味がありました。一つは、その捧げ物は罪の贖いのために捧げられました。この捧げ物はイエス様を指していました。つまり、イエス様は完全な神様の子羊として、私たちの罪のために死んでくださいました。

二つ目の意味は、私たちは神様に全てを捧げるということです。何も控えずに全てを捧げるのです。

二つ目の捧げ物は穀物の捧げ物です。これは感謝の捧げ物です。その捧げ物は乳香と一緒に焼かれて、主へのなだめのかおりとなりました。

三つ目の捧げ物は和解のいけにえです。全焼のいけにえのように、「代わり」というシンボリズムがありました。つまり、その動物は人の代わりに罪のために死にました。

しかし、全焼のいけにえと異なり、全部が焼かれたわけではありませんでした。捧げた人はそのいけにえの部分を持って帰り、家族と一緒に食べました。

その捧げ物の意味は、私たちの罪が赦されたことによって、私たちは神様と平和で親しい関係を築くことができるということです。多分、天国の盛大な宴会で食べる日を指しています。

その3つの捧げ物は自発的でした。神様に対する愛によって、皆はこれらの捧げ物を捧げました。

そして、その3つの捧げ物は私たちの神様との関係の絵です。

一つの絵はキリストを通して、私たちは神様と和解することができることです(和解の捧げ物)。ローマ書5:1で、こう書かれています。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

二つ目の絵は私たちが神様にすべてを捧げるということです(全焼のいけにえ)。つまり、私たちの人生のすべては神様のものです。「ローマ書12:1」に、こう書かれています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

三つ目のは神様に対しての感謝です。つまり、神様は私たちの物理的な必要を備え、私たちの霊的な必要を備えてくださいました。ローマ書8:32で、こう書かれています。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神様、イエス様の十字架の働きによって私たちがあなたと和解できることを感謝します。その働きによって、私たちはあなたに近づくことができ、親しい関係を築くことができることを感謝します。

全焼のいけにえのように、私があなたに全てを捧げるように助けてください。感謝で満たされた心を与えてください。あなたを愛して、感謝します。アーメン。