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認められた、選ばれた

パウロの挨拶を読むとき、二つのことばが目に留まりました。

パウロはアペレという人について、「彼はキリストにあって認められている人だ」と言いました(10)。

また、ルフォスという人について、パウロは「彼は主にあって選ばれた人だ」と言いました(13)。

実は、パウロはすべてのクリスチャンについて、同じように言うことができたはずです。それなのに、どうして彼は特にこの二人に対して、そのようなことばを添えたのでしょうか。

私たちはその二人についてほとんど何も知りません。だから、これは私のただの意見ですが、もしかしたら、その二人にはパウロの励ましのことばが必要だったのかもしれません。

聖書において「認められる」ということばには、「試された」というニュアンスが含まれています。

ですから、もしかすると、当時アペレは試練のただ中にいたのかもしれません。迫害や苦しみを経験していた可能性もあります。だからこそ、彼は時に「どうして?」と問いかけていたのかもしれません。

でも、パウロは彼に言いました。「あなたは試練に直面し、苦しみました。でも、あなたとあなたの信仰は、火で精錬された金のようです。神様はあなたに『よくやった』と言われています」(第一ペテロ第1:7)。

そして、パウロはルフォスに言いました。「あなたはイエス様にあって選ばれました。キリストにあるあなたのアイデンティティを忘れないでください。」

しかし、パウロが前に言ったように、ルフォスは自分の良い行動や実績によって選ばれたわけではありませんでした。むしろ、神様の恵みと憐れみによって、彼は選ばれました(ローマ書9:11〜17)。

けれども、私はもう一度言います。パウロのことばは、その二人のためだけのものではありません。そのことばは、イエス様に属するすべての人のためのものです。

だから、あなたが試練に直面しているなら、神様を信頼し続け、あなたへの神の慈しみと愛を信じ続けましょう。そして、アペレのように、あなたは火で試練された金のように現れてきます(ヨブ記23:10)。

また、あなたのアイデンティティを忘れないでください。あなたは主にあって選ばれた者です。

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誰のために生きているのでしょうか

今日の箇所を読んだとき、私はパウロの以前のことばを思い出しました。

ローマ書14章では、パウロはこう書いています。

私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。

ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ人への手紙14:7ー9)

このことばを読んだとき、ローマ書11章36節から12章1節が思い浮かびました。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

また、ローマ書14章15節では、パウロはこう書いています。

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。

(そのことばの背景をもっと詳しく知りたい方は、この記事をぜひ読んでみてください。

そのことばを読んだとき、ローマ書第13章のパウロのことばが思い浮かびました。

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。。。

愛は隣人に対して悪を行いません。それゆえ、愛は律法の要求を満たすものです。(13:8,10)

たぶん、イエス様が私に尋ねておられるのは、「あなたは誰のために生きているのでしょうか」ということです。

「自分のためだけに生きているのでしょうか。あなたは自分勝手に生きているのでしょうか。それとも、私のために生きているのでしょうか。

特に、私があなたに与えた人々を愛しているのでしょうか。私は彼らのためにも死にました。あなたも彼らに愛を示しているのでしょうか。」

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私があなたのものだから

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。

それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。(ローマ人への手紙11:36ー12:1)

最近、このことばは、私の毎日の祈りの土台となっています。

天のお父さん、すべてのものは、あなたから発し、あなたによって成り、あなたに至るのです。

あなたはすべてのものを造られ、すべてのものは、あなたとあなたの目的のために造られました。

私も、あなたとあなたの目的のために造られました。

だから、私のからだをあなたに捧げます。

私の人生が、あなたへの礼拝となるように。

私のすべてのことば、思い、行動が、あなたに喜ばれる聖なるものとなるように。

それらが、あなたに対して芳ばしい香りとなるように。

生きたささげ物として、私のからだを捧げます。

あなたは、私が捧げることができるすべてのものにふさわしい方です。

私への、あなたの素晴らしい恵みとあわれみを感謝します。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の残りの者

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。。。

神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。

それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。

「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」

しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。

「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」

ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ローマ人への手紙11:1ー5)

ローマ書9章から11章にかけて、パウロは福音に対するユダヤ人の頑なな心について語っています。そして、彼はこう問いかけます。「神様はユダヤ人たちを退けられたのでしょうか。」

パウロの答えは明快です。「違います。これまでも、そしてこれからも、恵みの選びによって神様に属する残りのユダヤ人がいます。」

私は日本のことを思います。日本にはクリスチャンが少なく、「神様は日本を退けられたのだろうか」と考えてしまうのは、簡単なことかもしれません。

でも、パウロなら、明快に「違います」と答えるでしょう。

もちろん、パウロが語ったユダヤ人に関するすべてのことばを、日本人にそのまま当てはめることはできません。

それでも、私は信じています。日本の各都市には、神様が永遠の昔から知っておられ、選ばれた残りの人々がいると。私たちが福音を伝えるなら、彼らは必ず救われるでしょう。(ローマ書10章13〜15節)

だから、日本にいる神様をまだ知らない人々の数を考えるとき、失望しないでください。

祈りましょう。そして、神様から与えられた人々に福音を伝えましょう。そうすれば、神様の恵みによって、その残りの人々を必ず見つけることができます。

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心を歌わせる言葉

この箇所を読むとき、私には高校生の頃のある思い出がいつも思い浮かびます。

ある日、バス停から高校まで歩いていたとき、私はパウロのことばを思い巡らしていました。

その日、私の心は歌っていました。

そして今日も、私の心は歌っていました。たぶん高校生のときよりも、もっと深く歌っていたかもしれません。

なぜなら、私は罪に定められることは決してないからです。私は赦されました。私はもう、恐れる必要はありません。

私は神の子どもです。私のうちにおられる御霊は、「アバ、父」と叫んでおられます。

私には希望があります。

私の祈りがめちゃくちゃでも、御霊がとりなしてくださっています。

天の父が御霊の祈りを聞いてくださるので、すべてのことがともに働いて、私の益となります。

神様は、私に反対するのではなく、むしろ、私の味方です。

神様は、私をあらかじめ知っておられました。私は、イエス様のかたちと同じ姿にあらかじめ定められていました。

私は、召されました。

私は、義と認められました。

さらに、神様は私に栄光を与えてくださいました。

私は、責められることなく、義と認められました。私は、裁かれることなく、擁護されています。

そして、神の愛から私を引き離せるものは、何一つありません。

あなたの心は、すでに歌い始めているでしょうか。

パウロのことばを思い巡らしましょう。

そのことばに心を向けましょう。

あなたの心は、歌っているでしょうか。

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あなたの者となるため

ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。

それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ人への手紙7:4)

イエス様、私はかつて、サタンの国の奴隷でした。でも、私はもはやサタンのものではありません。

私は、もはや自分自身のものですらありません。私は、ただ自分の罪深い心に従って生きているわけではありません。

私は、他の方のものです。私は、あなたのものです。私は、自分の幸せのためだけに生きているのではなく、あなたのために実を結ぶために生きているのです。私は、あなたのために生きているのです。

私への、あなたの素晴らしい愛を感謝します。私があなたと共に歩み、あなたのために実を結ぶことができますように。アーメン。

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いのちの新しさ

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ人への手紙6:4)

ある英語の訳が大好きです。その訳者たちは、「いのちの新しさ」という表現を使っています。私たちは、いのちの新しさを喜び、歩むべきです。

私は、罪と死の臭いが漂っている墓の中を歩きたくありません。私は、義といのちの新鮮な空気を吸いたいのです。

私は、腐敗している罪の埋葬布に包まれて歩きたくありません。私は、キリストの義の衣を着たいのです。

ちょっと想像してみてください。イエス様がラザロを復活させて、「出てきなさい」と言われたのに、ラザロがこう答えます。

「いや、けっこうです。この布に包まれて、墓の中を歩き回るのが好きなんです。」

ばかげた話でしょう。

私は、新鮮な空気を吸い、新しい衣を着て、自分自身を義の道具、義の武器として神様に捧げ、たくさんの人々を奴隷にしているサタンと戦いたいのです。

イザヤのように、私は神様の前に立ち、自分自身を捧げ、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いたいです。

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平和

こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ローマ人への手紙5:1)

長い文書を読むとき、要点を見逃してしまうのは簡単なことです。しかし、パウロの要点を見逃さないでください。それは何でしょうか。

こうして、私たちは。。。神との平和を持っています。

そのことばを反芻しましょう。

「私は神との平和を持っています。

私はかつて神様の敵でした。でも、今、神様と和解させていただきました。神様との平和を持っているのです。

だから、試練が来るとき、神様は私を罪のために罰しているわけではありません。

神様との平和を持っています。私は神様の恵みに立っているのです。

さらに、毎日、神様は愛を私に注いでくださっています。」

だから、試練に直面するとき、絶望しないでください。

「神様は私を罰している」と考えないでください。

十字架で、イエス様はあなたの罰をすでに受けてくださいました。

あなたは、神との平和を持っているのです。

苦しみのとき、その真理にしがみつきましょう。

その真理こそ、私たちの希望です。

神様の、私たちへの忠実な愛こそ、私たちの希望です。

そして、その希望は失望に終わることがありません。

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神の忠実さ、キリストの忠実さ

日曜日、私の教会で私はメッセージを語りました。そのメッセージの要点は、神への私たちの忠実さではなく、私たちへの神の忠実さによって、私たちが神様に近づくことができるということです。

今日の箇所では、パウロがその真理について語ります。まず、パウロはユダヤ人たちへの神の忠実さ、神の真実さについて語ります。

では、どうですか。彼らのうちに不真実な者がいたなら、その不真実は神の真実を無にするのでしょうか。

決してそんなことはありません。たとえすべての人が偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマ人への手紙3:3ー4)

でも、パウロによれば、ユダヤ人たちだけではなく、私たち皆が神様に対して不忠実な者たちです。(9ー18節)

それでも、神様は、私たちへのご自分の真実さ、忠実さを現されます。では、どのようにそうされたのでしょうか。

しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。(21ー22)

それは普通の訳ですけど、脚注によると、別訳もあります。それは、

すなわち、イエス・キリストの真実によって、信じるすべての人に与えられる神の義です。

イエス様を信じる私たち皆に対して、イエス様はご自身が真実な神、真実な救い主であることを現してくださいます。

私たちがイエス様に対して不真実だったにもかかわらず、イエス様は私たちを諦めませんでした。むしろ、イエス様は十字架にかかり、天の父の御怒りを私たちの代わりに受け、ご自身の血潮によって、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。

私は、そのような忠実さが本当に不思議なことだと思います。イエス様の忠実さのおかげで、私は躓くときにも落ち込むことはありません。私がイエス様に対して真実でなくても、キリストは常に私に対して真実です(第二テモテ2:13)。

だから、私が躓くとき、イエス様は「あなたが私をがっかりさせた」とは言わず、「あなたの破れた誓いを新たにしなさい」とも言わず、むしろ、こう言われます。

「私のことを愛するかい?よし。私についてきなさい。」(ヨハネ21:15ー19)

天のお父さん、私へのあなたの素晴らしい忠実さを感謝します。

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あなたがあがめられるように

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。(ローマ人への手紙1:21)

天のお父さん、

上のことばが、私に関して言われることがありませんように。

私は、あなたによって造られ、あなたのために造られました。だから、私の人生によって、あなたがあがめられるように。

私のことばや思いや行動によって、あなたがあがめられるように。

私の人生全体が、あなたへの礼拝となるように。

また、毎日、私の心があなたへの感謝で溢れ、その感謝の心によって、私の考え方や生き方が変えられるように。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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蛇に注意しなさい

今日、私が初めて気づいたことですが、17〜20節では、パウロはエデンの話によく触れていました(創世記3章)。

神様の望みは、アダムとエバが善には聡く、悪には疎くあることでした。

でも、サタンは滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴なエバの心を騙しました。そしてエバは、学んだ教えに背き、サタンの言葉に従い、罪に落ちてしまい、アダムも罪を犯してしまいました。

だから、パウロは私たちに警告します。「蛇に注意しなさい。」

パウロは主に教会の中の偽教師に関して話しています。でも、教会の外にも偽教師がいます。どのように、誰が偽教師であるかわかるでしょうか。

彼らは神の言葉に反することを教えています。

だからこそ、私たちは神様の言葉をよく知らなければなりません。神様の言葉をよく知っていれば、この世の間違った教えに騙されることはありません。

そういうわけで、パウロはローマ人たちにこの手紙を書きました。パウロは、私たちの信仰の基礎を据え、私たちがどのように生きるべきかを教えたいと思いました。

でも、神様の言葉を知っているだけでは、十分ではありません。

私たちはその言葉を信じ、その言葉に従わなくてはなりません。

だから、パウロは一章にあるテーマに戻ります。それは、信仰の従順です(1:5;16:26)。

キリストはすでにサタンに勝利しておられます(創世記3:15)。

イエス様の十字架の働きによって、私たちもその勝利を得るのです(ローマ16:20)。

その真理を覚えて、感謝を持って、毎日聖書を読みましょう。その言葉を信じましょう。そして、その言葉に従いましょう。

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あなたを信じるよ

私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。

ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私が所々かなり大胆に書きました。。。

それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。(ローマ人への手紙15:14-16)

私たちはどれだけ、キリストにある弟たちや妹たちに「あなたを信じるよ」と言うでしょうか。

私たちは彼らにどれだけ、「あなたが、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、人を訓戒し、また、人を祝福することができると確信しています」と言うでしょうか。

もちろん、時々、私たちは彼らに所々大胆に話さなくてはなりません。

時々、私たちは彼らに信仰に関して、根本的な真理を思い起こさせなくてはなりません(ローマ1〜11章)。

時々、私たちは、神様が彼らをどのように生きるように呼んでおられるかを思い起こさせなくてはなりません(ローマ12〜13章)。

時々、彼らが失敗したり、罪に落ちたりして、私たちは彼らに訓戒しなくてはなりません(ローマ14〜15章)。

でも、そのとき、私たちは彼らを見下すことがあるでしょうか。自分が完全に成熟したクリスチャンになったかのように、彼らに関して「その人はまだまだだね」と思うことがあるでしょうか。

もしくは、私たちは彼らのことを信じ続けるでしょうか。聖霊様が彼らの人生に働いて、日々彼らを神に喜ばれるささげ物としてくださっていることを信じているでしょうか。

私たちは、彼らの人生における聖霊様の働きに参加しているでしょうか。

それは、弟子作りです。

イエス様はご自身の弟子たちのためにそうしてくださいました。

パウロはローマのクリスチャンたちのためにそうしてくれました。

そして、私たちはキリストにある弟たちや妹たちのためにそうするように呼ばれています。

聖霊様、神の御国のために人を育てるあなたの働きに参加するように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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愛によって歩む

今日の箇所の背景と意味をここここで書いています。

でも、今日この箇所を読んだとき、神様は私の心に語り、13ー15の応用をちょっと広げました。つまり、「食べ物」を「行い」として読み替えるように導いてくださいました。

こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。。。

もし(あなたの行い)で、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、

そのような人を、あなたの(行い)で滅ぼさないでください。(ローマ人への手紙14:13,15)

言葉や行いによって、私は人を何度も傷つけたことがあります。

正直に言うと、時々、私は相手が傷つきやすくて過剰反応していると思いました。でも、もし私がその行いを繰り返していたら、私は愛によって歩んでいなかったでしょう。むしろ、私は、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしていたでしょう。

だから、私は自分のプライドを捨てて、謝らなくてはなりませんでした。

あなたは、自分の兄弟か姉妹が傷つきやすくて過剰反応していると思ったことがありますか。

それはそうかもしれません。

でも、あなたがその行動をし続けるなら、愛によって歩んでいるのではありません。むしろ、あなたは、キリストが代わりに死んでくださった人を滅ぼしているのです。

私たちはそうしてはいけません。むしろ、

。。。平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。(19節)

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あなたの目には、私の人生が礼拝になるように

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。

そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ人への手紙12:1-2)

主よ、あなたは私にあわれみを注いでくださいました。だから、毎日、私の人生をあなたに捧げたいです。

私のすべての思い、すべての言葉、すべての行為があなたの目にかなうように。あなたの目には、私の人生が礼拝になるように。

どうか私の心を新たにしてください。私があなたのように考えるように助けてください。あなたの目には何が良いのか、何が喜ばれるか、何が完全なのかを知りたいのです。

私の人生はあなたのものです。私はあなたのものです。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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誇る理由はありません

あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。

そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。

思い上がることなく、むしろ恐れなさい。(ローマ人への手紙11:18-20)

今日の箇所では、パウロは異邦人のクリスチャンたちに向かって話しています。彼らは自分の救いに関して誇り、ユダヤ人たちにこう言っていたようです。

「あなたたちはかつて神の民だったかもしれないが、今や、私たち異邦人たちは神の民です。」

でも、パウロは彼らに言いました。

「あなたたちがユダヤ人たちより優れているかのように誇ってはなりません。神様の恵みだけによって、あなたたちは神様の民になったのです。

イエス様は根です。そして、恵みだけによって、イエス様はあなたを支えてくださっているのです。

あなたたちが素晴らしい人たちだから、神様の民になったわけではありません。むしろ、あなたたちは自分の弱さと救いの必要性がわかったから、イエス様を信じたのです。

そして、恵みによって、神様はあなたたちを自分の家族に受け入れてくださいました。だから、あなたたちはいったい何を誇っているのでしょうか。」

たぶん、「私たちはユダヤ人たちよりも優れている人」と自慢するクリスチャンたちは今あまりいません。でも、ほかのクリスチャンよりも、自分が優秀なクリスチャンだと考えることがありますか。

「私はその人よりも成熟したクリスチャンです。

私はその人よりも聖書のことをよく知っています。

私はたくさんの霊的な賜物をいただいています。

神様は私を用いてくださっています。

でも、その人は、そのようなクリスチャンではありません。」

使徒ペテロの態度は私を驚かせました。ほかのクリスチャンたちに書いたとき、こう言いました。

私たちの信仰と対等の信仰を受けた方々へ」(第二ペテロ1:1、別訳)

ペテロは、「私は使徒ですから、私の信仰があなたのよりも優秀なものだよ。だから、私を尊敬をしなくてはならない。」と言いませんでした。

むしろ、ペテロはこう言いました。「神様の目には、あなたの信仰は私たちの信仰と対等なものです。」

どうして、ペテロはそう言ったのでしょうか。なぜなら、ペテロは、自分が根を支えずに、根が自分を支えてくださっていることが分かったからです。

彼の救いは、自分の義によるものではなく、むしろ、キリストの義によるものだと分かりました。(第二ペテロ1:1b)

だから、その謙遜な態度を取りましょう。ほかのクリスチャンたちを見下さずに、私たちの信仰と対等な信仰を受けた人たちとして考えましょう。

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理解できないけれど、感謝しています

「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。

あなたがたはわたしの民ではない、と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」(ローマ人への手紙9:25-26)

主よ。私はいろんな意味であなたの道が理解できません。

どうしてあなたがある人をあわれんでくださるけれど、ある人を頑なにされるのか、私は理解できません。つまり、私たち皆が罪人で頑なな心を持っているのです。どうして私たち皆を裁かれないのでしょうか。

あなたがどうしてエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、私は理解できません。実のところ、ヤコブもエサウも欠点が多い人たちでした。どうして、そんなに欠点の多い人をイエス様の先祖になるために選ばれたのでしょうか。

どうしてあなたがファラオとエジプト人を裁かれても、イスラエル人たちをあわれんでくださったのか、私は理解できません。エジプト人たちもイスラエル人たちも何回もあなたを拒絶しました。

どうして紅海であなたがエジプト人たちだけではなく、イスラエル人たちをも滅ぼされなかったのでしょうか。

そして、どうしてあなたが私を選んでくださったのか、私は理解できません。私はソドムとゴモラのように滅ぼされるのがふさわしいのです。

でも、なぜか、あなたは私を選び、愛し、自分の民になるように召し、自分の子供としてくださいました。

私は理解できません。でも、私はとっても感謝しています。

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神の律法の弱点

肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。

それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。(ローマ人への手紙8:3ー4)

今週、ヤイロの娘と長血をわずらっている女の人の話を考えていました。(マルコ5章)

私が気づいたのは、神様の律法は、死体や長血をわずらっている女の人を汚れているものと呼ばれるということです。(レビ記15:25ー32;民数記19:11ー13)

また、律法によれば、汚れているものに触れる人自身も、汚れているものになりました。

でも、律法ができなかったのは、汚れているものを清めることです。

律法はその女の人を癒すことができなかったし、ヤイロの娘を復活させることもできませんでした。

でも、律法ができなかったことを、イエス様はしてくださいました。イエス様はその女の人を癒し、ヤイロの娘を復活させてくださいました。そうすることで、イエス様はその女の人とヤイロの娘を清めてくださいました。

そのように、神様の律法は罪を汚れているものと呼び、罪に触れる人を汚れているものと呼ぶことができました。でも、律法は私たちを清めることができないし、私たちに命を与えることもできません。

それは、律法の弱点です。

でも、律法ができないことを、イエス様はしてくださいました。イエス様は十字架で死んでくださって、私たちの罪を清め、私たちに命を与えてくださいました。

私たちがしなくてはならないのは、一つのことだけです。ヤイロとその女の人のように、イエス様を信じることです。

彼らの信仰によって、その女の人とヤイロの娘は救われました。そのように、私たちの信仰によって、私たちも救われました。

だから、パウロと一緒に喜びましょう。

こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)

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真のクリスチャンは。。。

真のクリスチャンたちは、罪との戦いに入っています。

クリスチャンになったからといって、私の罪との戦いが終わるわけではありません。私はよく誘惑されています。誘惑に勝つときも、負けてしまうときもあります。

真のクリスチャンたちは、罪を愛するのではなく、罪と戦おうと思います。

私は神の律法が良いものだと疑いません。むしろ、私はその律法を喜び、律法に従おうと努めています。だから、毎日、私は自分の罪と戦います。それでも、私は自分の失敗をよく知っています。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を敵と見なします。

だから、私は行ってしまう悪を憎んでいます。また、私は、したいと願う善を行わないとき、フラストレーションを感じます。

真のクリスチャンたちは、自分の罪を見ると、苦しみます。

罪を犯すと、私はその罪を悲しみます。私は悔い改めます。私は本当に自分の罪を捨てたいのです。また、私は、自分の罪をすべて捨てて、イエス様のようになる日を待ち望んでいます。

真のクリスチャンたちは喜びます。

なぜなら、私はイエス様にあって希望を持っているからです。私は罪に定められることは決してありません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって、私は神の子供として受け入れてくださいました。

ハレルヤ!

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神との平和

最近、マルコ5章からのメッセージを準備していたので、今日の箇所を読んだとき、イエス様が癒してくださった女の人を連想しました。(マルコ5:25~34)

その女の人は、十二年の間、長血をわずらっていました。その病気のせいで、彼女はのけ者になって、神殿や会堂で神様を礼拝することができませんでした。

でも、信仰をもってイエス様に手を伸ばして触ると、彼女はすぐに癒されました。

そのとき、イエス様は彼女に言いました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して(別訳:平安のうちに)行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(マルコ5:34)

信仰によって、その女の人は神様の前に義と認められました。だから、彼女は神との平和を持ち、神様に近づくことができるようになりました。

そして、その十二年間の苦しみを振り返ると、彼女は希望を持っていました。なぜなら、神様は愛を彼女の心に注いでくださったからです。

その人の人生は、私たちの人生の描写です。私たちは神様から離れていましたが、信仰によって神との平和を持ち、神の息子たちや娘たちとして神様の前に立っています。

以前、私たちは恥を持って神の栄光を受けることができず、自分の罪によって神様から離れていました。(ローマ3:23)

でも今、恵みによって神の愛している子供たちとして、神の栄光にあずかる望みを喜び、神様に近づきましょう。(ローマ5:2)

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自分の信仰が強められる

不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。(ローマ人への手紙4:20-21)

その言葉を読んで、私は「誰によってアブラハムの信仰は強められたのだろうか」と考えました。

私がいつも思っていたのは、アブラハムが自分の信仰を強めたということです。でも、実際のところ、アブラハムの信仰を強めたのは神様でした。

アブラハムは二回、神様がどうやって自分に男の子を与えるという約束を守ってくださるのだろうかと考えました。神様は二回、アブラハムとの約束を再確認されました。

そして、二回、神様の言葉によってアブラハムの信仰が強められ、アブラハムは神様を信じようと思いました。(創世記15:1~6、17章)

主よ、私の信仰が揺らぐ時もあります。あなたの恵みによって、私のことを諦めないことを感謝します。

私の信仰を強めてください。アブラハムにあなたの良い約束を思い出させたように、私にも思い出させてください。

それは、永遠のいのちという約束です。(ヨハネ3:16)

それは、あなたが私と共におられ、私に力を与えてくださるという約束です。(使徒の働き1:8、へブル13:5)

それは、あなたが私の人生に始められた良い働きを完成させてくださるという約束です。(ピリピ1:6)

また、それは、天に蓄えられている遺産という約束です。(ヨハネ14:2~3)

主よ。あなたは良い方です。あなたはいつもご自分の約束を守ってくださいます。私は、あなたには約束したことを実行する力があると確信しています。

だから、あなたの恵みによって、今日だけではなく、毎日、私はあなたを信じます。

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ローマ人への手紙のデボーション

裁判官の立場を取っていませんか

いろんな意味で、パウロの言葉はイエス様の戒めに似ています。つまり、「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」(マタイ7:1~5)

でも、その言葉はどういう意味でしょうか。

多くの人々はその言葉を引用し、「私の罪を指摘してはいけない。私の行為を『罪』と呼ぶな。」と言います。

でも、イエス様とパウロはそう教えていません。

むしろ、彼らが言っているのは、「自分に罪がないかのように人々を裁いてはいけません。回りの人々の罪を指摘する前に、自分の罪を見て、悔い改めなさい。」ということです。

そうすれば、どうなるでしょうか。

私たちは謙虚になります。自分の罪をよくわかっているので、回りの人々の罪を見ても、偉そうな態度を取ることができません。

それに、私たちに対する神の豊かないつくしみと忍耐と寛容がわかっているので、回りの人々を見ると、私たちはそのような態度を取ります。

最後に、回りの人々の罪を見るとき、私たちは単に相手を責めずに、むしろ、その人が私たちのように悔い改めて、神様との関係が回復するように望みます。

でも、私たちが自分の罪を認めず、悔い改めないなら、どうなるでしょうか。

私たち自身が神様に裁かれます。

もう一度言いますが、単に人の罪を指摘するのは、人を裁くことではありません。自分の罪を認めないと、その人は悔い改めることができないからです。

でも、情け深い心を持たずに、ただ人を責めているなら、私たちはイエス様の心を忘れてしまっています。イエス様の使命をも忘れてしまっています。

それは、人々を裁くことではなく、むしろ、人々を救うことです。(ヨハネ1:17)

神様の豊かないつくしみによって、私たちは悔い改めに導かれて、救われました。

人々が私たちを見ると、神の豊かないつくしみを見ることができるでしょうか。

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ローマ人への手紙のデボーション

互いに励まし合う

私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強くしたいからです。

というより、あなたがたの間にあって、あなたがたと私の互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。(ローマ人への手紙1:11ー12)

今朝、パウロの言葉に私の心は打たれました。私はパウロの心がよくわかります。

毎週の日曜日、教会に行くとき、私は、神様が私を用いて、誰かに触れてくださるように祈ります。

でも神様は、私も他のクリスチャンから強められ、励まされることが必要だと、よくご存知です。

クリスチャンたちが信仰をもって神様を賛美し、喜んで神様に仕える姿を見ると、私は励まされます。

また、彼らが自分の人生に神様がどのように働いておられるかを分かち合うとき、そして彼らを祝福した聖書の箇所を分かち合うとき、私は励まされます。

もちろん、彼らが私のために祈ってくれるときも、私は励まされます。

あなたはどうですか。あなたもそのように感じているでしょうか。

もしそうなら、毎週の日曜日、パウロの態度を取りましょう。互いの信仰によって、毎週励まし合いましょう。