カテゴリー
出エジプト記

主が命じられたとおりに

出エジプト記の最後の5章は幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

25章から31章までは、モーセがその命令を聞きました。

そして、36章から40章までは、イスラエル人がその命令に従いました。

その箇所の中で、同じフレーズを何度も読みます。

それは、「モーセとイスラエル人は主が命じられた通りに行った。」

例えば、39章にはこう書かれています。

イスラエル人は、すべて、がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行った。

モーセが、すべての仕事を彼らが、まことにが命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した。(出エジプト記39:42ー43)

40章でも、そのフレーズを8回読むことができます。

イスラエル人は主の命令に従うときに近道をしませんでした。

誰も、「この命令は細かすぎます。私のやり方でする。」とは言いませんでした。

むしろ、イスラエル人は主が命じられた通りに全てを行いました。

全てを仕上げた後、34ー38節にはこう書かれています。

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、の栄光が幕屋に満ちていたからである。

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

イスラエル全家の者は旅路にある間、昼はの雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

あなたの人生に神様の働きを見たいですか。あなたの人生に神様の導きを求めていますか。

神様のポイントははっきりしていると思います。

神様に従いなさい。

大きいことだけでなく、小さいことでも、神様に従いなさい。

私たちが神様に従うなら、私たちの人生が神様の栄光で満たされ、神様の導きを知るようになります。

カテゴリー
出エジプト記

捧げたい心、仕えたい心

それでは、もうすぐ出エジプト記が終わります。残りは大体幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

けれども、この箇所で、私が印象に残っているのは、イスラエル人の心です。

神様はこう言われたのです。

「心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが捧げなさい。

心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが仕えなさい。」

神様はイスラエル人がいやいやながら捧げることを望まれませんでした。

イスラエル人が強いられて、仕えることを望まれませんでした。

神様はイスラエル人が心から与えて、仕えることを望まれました。

そして、皆はそうしました。結局、皆は有り余るほど捧げたのでモーセが「もういいです。もう十分ありますから、もう捧げないでください。」と言いました。

教会はそのような場所であるべきです。

教会の皆は捧げて仕えるべきです。それは、しなければならないという考え方ではなく、むしろ、神様が心に与えた喜びからするべきです。

パウロはこう書きました。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント9:7)

この箇所は与えることについて話していますが、神様に仕えることも同じです。

神様は、私たちがいやいやながら仕えることを望んでおられないのです。

神様は、私たちが心から仕えたいと願って仕えることを望んでおられるのです。

もし、しなければならない気持ちで仕えたり、与えたりしたら、与える喜びと仕える喜びを理解することはできず、神様があなたの供え物を受け入れられません。

あなたはどんな心から与えるでしょうか。どんな心から仕えるでしょうか。

あなたは、皆があなたを見て、「ああ、素晴らしいクリスチャンだね」と言ってほしいでしょうか。

あなたは良いクリスチャンであるためにしなければならないと思って仕えるのでしょうか。

そのような理由で与えるのでしょうか。

それとも、神様があなたに素晴らしい人生を与えてくださっていることに感謝して仕え、与えるのでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

愛の神様、正義の神様

神様はどのようなお方なのでしょうか。

神様の御性質は何なのでしょうか。

神様はご自身をモーセに現わされた時、その質問に答えられました。神様はこう言われました。

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。(出エジプト記34:6-7)

旧約聖書の中で、その言葉は何度も何度も繰り返されています。言葉がほとんど変わらずに、5回も書かれています。(出エジプト記34:6ー7;ネヘミヤ記9:17;詩篇86:15;ヨエル書2:13;ヨナ書4:2)

主はあわれみ深いです。

聖書を読むと、たくさんの例が見られます。

荒野で、神様はハガルという人を二度助けられました。

最初はアブラハムと寝て妊娠した時に、サライに追い出されました。

そして、イサクが生まれた時に、ハガルとイシュマエルがもう一度追い出されました。

けれども、神様はハガルと話し、励まされました。そして、ハガルとイシュマエルを世話されました。

神様は情け深いです。

英語の聖書では「恵み深い」という言葉が使われています。

つまり、私たちが値しないのに、神様は多くの良きものを与えてくださるのです。

例えば、ヤコブは神様から与えられたものに値しなかったのです。

ヤコブは詐欺師であり、とても頑固でした。彼はいつも自分の道を行こうとしていました。

けれども、ヤコブが恐れて兄エサウから逃げた時、神様はヤコブに会いに来られたのです。

そして、アブラハムとイサクに与えられた約束をヤコブにも与えてくださったのです。

さらに、神様はエサウの心の中に働かれたので、ヤコブはエサウと和解することができたのです。

神様は怒るのに遅く、恵みとまことに富む方です。

アダムとエバが罪を犯した時、神様は怒りに燃えておられませんでした。むしろ、愛とご自身の忠実さを表されました。つまり、服を備え、救い主を送ることを約束されました。

神様は恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者です。

神様はその恵みをイスラエル人に示されました。何度もイスラエル人が反抗したのに、何度も神様は赦して下さいました。神様はイスラエル人を絶えず愛し続けておられたのです。

皆は神様についてそのような言葉が大好きです。私たちは神様の愛とあわれみと赦しについて聞くのが大好きです。

しかし、それだけでは神様の全体を理解できません。神様はこれも言われました。

罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(7)

以前、私はその言葉の意味を説明しましたが、覚えておかなければならないのは、神様は正義の神だということです。

多くの人々はそのことが好きですが、自分自身も罰を受けなければならないことを聞いたら、文句を言い始めます。

「私はそんなに悪くないよ。私はたくさんのいいことをしています。

私は時々嘘をつくかもしれないけど、みんなもそうするでしょう?

そして、どうして彼女と関係を持つことが悪いのでしょうか。彼女を愛していますよ。

時々妻と子供に対して怒るけど、仕方ないです。このようなことで私は地獄に行かなければならないのでしょうか。」

そうです。人は地獄に行かなければならないのです。神様はすべての罪を必ず罰しなければなりません。

神様は忍耐強いですが、もし私たちが悔い改めなければ、罰を受けることになるのです。

神様に反抗したまま亡くなるなら、神様と共に住むことはできません。永遠に神様から離れ、地獄に行くことになるのです。

しかし、いい知らせがあります。あなたは地獄に行く必要がありません。

イエス様は十字架で死なれて、あなたの罪のために罰を受けてくださいました。

そして、イエス様の働きを信じて、赦しを求めたら、神様があなたの罪を赦してくださいます。

けれども、自分の道を行き続けてはいけません。神様に反抗し続けるなら、「神様は愛の神だから、もちろん私を赦してくださいます」とは言えません。

神様は愛の神です。しかし、神様は正義の神でもあります。

もし、神様の救いの道を拒絶し、つまりイエス様を拒絶したら、神様の正義に直面することになります。

ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(26-31)

だから、私たちはもはや神様に反抗しないようにしましょう。

神様は私たちにあわれみを与えたいのです。私たちが悔い改めるなら、神様は赦してくださるのです。

もしまだしていないなら、今日こそ悔い改めましょう。

第二コリント6章2節に書かれているように、

今は恵みの時、今は救いの日です。

カテゴリー
出エジプト記

神様に​近づく

モーセとヨシュアはどのように独特だったでしょうか。彼らは他のイスラエル人とどのように違ったのでしょうか。どうして神様はその二人を用いることができたのでしょうか。

この箇所で答えが見つけられると思います。

その二人は、神様に近づきたいという強い願いを抱いていたのです。

他のイスラエル人は神様を恐れましたが、モーセとヨシュアは神様を愛し、近づきたかったのです。

他のイスラエル人は神様から距離を保とうとしましたが、モーセは顔と顔を合わせて神様に話しました。

ヨシュアはモーセと一緒に神様に会いに行きませんでしたが、いつも幕屋の近くにいました。

そして、モーセが幕屋を出ても、ヨシュアは幕屋を離れませんでした。なぜなら、神様の近くにいたかったからです。

モーセが神様と話した時、彼の願いは神様を親しく知り、神様の道をよく知りたいということでした。

モーセは祈りました。

今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。(出エジプト記33:13)

モーセの願いは、彼がどこに行っても、神様がモーセと共におられることでした。だから、モーセは祈りました。

もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。

私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。

それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。(15ー16)

しかし、モーセの一番の願いは神様の顔を見ることでした。

「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」と言いました(18節)。

神様の反応は?

わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。。。

あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。

あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。(14、17)

神様が許されなかったことはただ一つでした。神様はこう言われたのです。

あなたはわたしの顔を見ることはできない。

人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。(20)

神様は聖なる方だから、罪深い私たちが神様の顔を見て生きることはできません。

(モーセが顔と顔を合わせて神様に話したということは比喩です。その意味は、モーセと神様が親しい関係にあったということです。)

それでも、神様はモーセにその栄光を少し表されました。なぜなら、モーセが神様をもっと知りたかったからです。

どうして、神様はモーセのためにそうされたのでしょうか。

なぜなら、神様は私たちに近づきたいと願っておられるからです。

私たちが神様に近づきたいかどうかにかかわらず、神様は私たちに近づきたいのです。

神様は私たちの名前を知っておられ、私たちと共に歩み、ご自身を現したいのです。

けれども、私たちは神様に近づきたいのでしょうか。

神様はこう問いかけられたのです。

わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。(エレミヤ書30:21)

その箇所はイエス様について語っています。

当時、イエス様だけが神様に近づくことができたのです。

なぜなら、イエス様だけが父なる神様のように聖なる方であったからです。

しかし、イエス様の血によって私たちの罪が清められたので、今では私たちも神様に近づくことができます。

ヤコブは書いたように、

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)

カテゴリー
出エジプト記

罪を憎むけど、罪人を愛する

罪を憎みつつ、罪人を愛しましょう。そのバランスを見つけるのは難しいのです。

多くの人々は一方の極端に走り、また他の人々は反対の極端に走ります。

「あなたは地獄に行く!」と言う人もいれば、「大丈夫だ。何をしても構わない。神様はあなたの行動を気にされない。むしろ神様はあなたの行動に同意しておられる。」と言う人もいます。

アメリカでは、同性愛者に対するクリスチャンの反応がその極端に現れることがあります。

クリスチャンとして、私たちは悪を善として扱ってはなりません。罪を耐えてはいけません。

それでも、私たちは人々が悔い改めることを望むべきです。誰かが地獄に行ったら、私たちの心は泣くべきです。

正直に言うと、その原則について考えると、この聖書の箇所は少し難しいのです。

この箇所から一つの真理を学ぶことができます。すなわち、故意に罪を犯したり、神様に故意に反抗したりすれば、最終的に罰せられるということです。

その時、多くのイスラエル人は剣によって殺され、他のイスラエル人は疫病によって殺されました。

神様は罪を必ず罰しなくてはなりません。だから、多くの人は地獄に行くのです。

人々はそのメッセージを知らなくてはなりません。そのメッセージを伝えることに反対するものではありません。

とはいえ、時にクリスチャンは喜びを持って「あなたは地獄に行く!」と言うように見えることがあります。まるで、その人々が地獄に行くことを嬉しく感じているかのようです。

けれども、クリスチャンはその人のために泣き、とりなすべきなのです。

モーセはそうしました。彼は皆の罪に対して本当に怒りました。

モーセは皆の行動を見て、十戒の板を投げ捨てて砕きました。その子牛の偶像を火で焼き、その残りを水に撒き散らし、皆にその水を飲ませました。

それでも、あるイスラエル人は罪を犯し続け、乱れてしまいました。

しかしその後、モーセはイスラエル人のためにとりなしました。モーセはイスラエル人を愛し、心配したので、彼は祈ったのです。

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら―。

しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(32)

「あなたは地獄に行く!」と言う人々は、どれほどモーセの祈りを祈るのでしょうか。

周りの人々の罪を見て、あなたは怒りますか。それは当然のことだと思います。もし怒りがないなら、あなたの心の態度は間違っているのです。

あなたの周りの人々の多くが地獄に行くことを心配しているでしょうか。その人々のために涙を流しているでしょうか。その人々のためにとりなしているでしょうか。

そうでないなら、あなたの心の態度は間違っているのです。なぜなら、神様はその人々を愛し、イエス様を彼らのために死ぬように送ってくださったからです。

私たちもそのような心を持つ必要があるのではありませんか。

カテゴリー
出エジプト記

してはいけないことをする

それでは、モーセの話に戻りましょう。

ずっと律法や幕屋、そして祭司のことについて読んできましたが、ついにアクションが描かれます。

残念なことに、アロンとイスラエル人は大変に悪いことをしました。

モーセが神様に会うために山に登った40日間の後に、また、イスラエル人が神様と神様の道に従うことを約束した40日後に、彼らは忍耐を失いました。

そして、彼らはアロンにこう言いました。

さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。

私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。(出エジプト記32:1)

アロンはそれを聞いて、どうしたのでしょうか。

この大祭司アロン。このイスラエル人の指導者アロン。この神様に従うアロン。彼はどう答えたのでしょうか。

「はい。分かりました。そうしましょう。」

私は信じられません。

アロンはモーセと一緒にパロに立ち向かい、数々の素晴らしい奇跡を見たのに、皆の前に立って「絶対にだめだ。そんなひどいことをしてはいけない。モーセのために待ちなさい。必ず帰ってくる。」とは言わなかったのです。

むしろ、アロンは「はい、分かりました。そうしましょう。金を集めてください」と言いました。

そして、その金で偶像を作りました。そのあと、アロンはこう言いました。

「これはあなたの神です。」

どうして、そんなひどいことをしたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、アロンはこう思ったかもしれません。

「私は本当に神様に背を向けてはいません。神様の御名をまだ呼んでいるからです。」

彼はイスラエル人に言いました。

これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。。。

あすは主(つまり、「ヤハウェ」)への祭りである。(4ー5節)

ようするに、アロンが言ったのは「この偶像はヤハウェの象徴です。ヤハウェをほめたたえよう。明日、ヤハウェへの祭りを祝おう。」ということです。

そして、いつも通りに全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えましたが、その偶像をヤハウェと名付けました。

後に、モーセがアロンに面と向かって、「一体何をしたのか」と聞いたときに、アロンは言いました。

「このイスラエル人のせいです。彼らは見える神が欲しかったのです。そして、私が金を火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。まるで魔法のようでした。」(22ー24節)

まるで8歳の子供の言葉のようです。80歳の人の口から出るとは思えません。

けれども、アロンはそう言っていたのです。

アロンを批判するのは簡単です。しかし、神様の祭司として、私たちも同じようなことをどれほどしているのでしょうか。

私たちは仲間からの集団的な圧力に、どれほど負けてしまっているでしょうか。

例えば、上司からの圧力を感じて、経理の記録に嘘を書いてしまう。

あるいは、家族からの圧力を感じて、洗礼を受けないままでいる。

または、友だちからの圧力を感じて、彼らと一緒に悪いことをしてしまう。

そして、私たちは言い訳をします。

アロンのように、私たちは自分自身にこう言います。

「私の行動はそんなに悪くないだろう。私はまだ神様に仕えている。神様は理解してくださるはずだ。私はそうせざるを得なかった。」

あるいは、「私のせいではありません。私は無理やりさせられたのです。」と言います。

そして、私たちは愚かな言い訳をしてしまうかもしれません。

しかし、神様の祭司として、私たちは正しいことのために戦わなくてはなりません。私たちは立ち上がって、「これは絶対にだめだ。私は絶対に参加しない。」と言わなければなりません。

そうしなければ、私の証を壊し、神様の御名を汚してしまいます。ローマ書2:24で、パウロはこう書きました。

神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。

それが私たちについて決して言われることのないように。

カテゴリー
出エジプト記

神様の働きのために選ばれて、満たされた

ベツァルエルについての神様の御言葉が大好きです。

ベツァルエルを名ざして召し、彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たした。(出エジプト記31:2ー3節)

幕屋のものを作るために、神様はベツァルエルと他の人々を選ばれました。

けれども、神様はベツァルエルを選び、何をすべきか教えるだけでなく、ベツァルエルに御霊を満たしてくださいました。

聖霊はベツァルエルに知恵と英知と知識を与え、神様の働きを成し遂げることができました。

神様に従う人々に対しても、神様は同じことを言われます。神様は私たちに御霊を与え、御霊は私たちに様々な賜物を与えてくださいます。パウロはこう書きました。

しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。(第一コリント12:7)

そして、パウロは賜物のリストを書きました。例えば、知識とか、知恵とか、信仰とか、癒しなどです。そのあとで、パウロはこう記しました。

しかし同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。(第一コリント12:11)

ここで、三つのことに心を留めてみましょう。

一つは、神様は各クリスチャンに賜物を与えてくださいます。賜物のあるクリスチャンと賜物のないクリスチャンがいるわけではありません。クリスチャンはみんな賜物が与えられています。

二つ目は、その賜物は自分に仕えるためではありません。むしろ、その賜物は皆の益となるためです。つまり、私たちはその賜物を通して、人々に仕えなければなりません。

三つ目は、皆それぞれ異なる賜物を持っており、聖霊が誰にどの賜物を与えるかを決めてくださいます。

どの賜物があるかないか心配しないでください。他の人の賜物を見て、妬まないでください。

神様は知恵によって、あなたに賜物を与えてくださったので、満足しましょう。また、その賜物を神様の栄光のために使いましょう。

私は霊的な賜物のために祈るなと言っているわけではありません。

神様は私たちの願いを聞いてくださり、いつも喜んでおられ、もっと賜物を与えてくださるかもしれません。

しかし、神様がもっと与えられないからといって、他の人の賜物について妬まないでください。神様がくださった賜物を通して仕えてください。

私たちが自分自身に問いかけるべきことは、神様がくださった賜物で、私が何をしているのかということです。

ベツァルエルに仕事を与えられたように、神様はあなたにも仕事を与えてくださいました。

ベツァルエルに御霊を満たされたように、神様はあなたにも同じ御霊を満たしてくださいました。

仕事をするためにベツァルエルに知恵と英知と知識を与えられたように、神様はあなたにもそのすべてを与えてくださいました。

その神様がくださったものを、あなたは用いていますか。

あなたは音楽の賜物があるかもしれません。

他の人に教える賜物があるかもしれません。励ましの賜物があるかもしれません。

もてなしの賜物があるかもしれません。

あなたがどの賜物を持っていても、神様は「それを用いなさい」と言われます。

パウロはこう記しました。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて 預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導 し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。(ローマ書12:6ー8)

神様はあなたを選ばれました。

あなたに御霊を満たされました。

神様の働きをするために、あなたに必要なものを全部与えてくださいました。

だから、詩人が言ったように、

喜びをもって主に仕えよ。(詩篇100:2)

カテゴリー
出エジプト記

神様の御前に来る

これは幕屋について、最後の箇所です。私はこれを読んで、私たちの神様との関係について考えます。

例えば、聖所にある壇の上に香を絶えずに炊きました。

聖書の中で、その香の煙は、人々の祈りが神様に上がる象徴でした。(黙示録5:8;8:3ー4)

その象徴を通して、私たちは神様がいつも私たちの祈りを聞いてくださることを思い出します。小さい祈りでも、神様は聞いてくださいます。

しかし、祈る前に、私たちは他のことを思い出さなければならないのです。

一つは、私たちの罪が贖われなければならないことです。つまり、私たちの罪を覆うために、神様はイエス・キリストを通して、代価を払ってくださいました。

イスラエル人は調査の税金を払いました。その税金は贖い金と呼ばれたのです。

各人は、貧しくても、金持ちでも、半シェケルを払わなければなりませんでした。なぜならば、みな神様の目に等しく、みな神様の贖いが必要だったからです。

二つ目は、祭司たちは神様のみ前に来る前に、自分の手と足を洗わなければなりませんでした。

同様に、私たちが神様の前に来る時には、毎日私たちの罪を洗われなければならないのです。私たちの罪は祈りを妨げてしまうからです。

詩篇66:18にこのように書いてあります。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。

だから、神様のみ前に来たら、罪を告白しなければなりません。第一ヨハネ1:9にこう書いてあります。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

最後に、祭司たちは油を注がれなければなりませんでした。

聖書では、油は聖霊の象徴です。私たちはクリスチャンになる時に、聖霊が私たちの中に住むように来られます。(ヨハネ16:7)

それに、聖霊は私たちを導いてくださり、私たちのためにとりなしてくださり、神様の計画を成就するように力を与えてくださいます(ヨハネ16:13;ローマ書8:27;使徒の働き1:8)

神様、私があなたの前に来るときに、あなたが私の祈り一つひとつを聞いてくださいましたことを感謝します。ダビデが祈ったように、私も祈ります。

「私の祈りが御前への香として、私が手を上げることが夕べのささげ物として立ち上りますように。」

私はあなたの前に来るたび、あなたが私のために身代金を払ってくださいましたことを思い出して、感謝します。

私の罪を示してください。そして、赦してください。

あなたの御霊で私を満たしてください。

聖霊が私を導いてくださり、私があなたの声を聞くことができるようにしてください。

あなたの御心に従うために、聖霊の力で私を満たしてください。

そして、聖霊が私のためにとりなしてくださるとき、天のお父さんがその声を聞いてくださいますように。アーメン。

カテゴリー
出エジプト記

神様のために選り分けられた

パウロはこう書きました。

あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(コリント人への手紙第一6:19ー20)

その言葉は大祭司の額の上に置かれた言葉を反映しています。「主への聖なるもの」。

聖なるというのは「選り分けた」という意味です。

神様の祭司として、私は神様のために選り分けられたのです。私たちはもはや自分自身のものではなく、神様のものとなったのです。

祭司たちの聖別式から、私たちは「主への聖なる」の意味を学ぶことができると思います。

一つ目は、私たちは聖なる者になるために代価が必要でした。

アロンとその息子たちを聖別した時に、牡牛が殺されました。牡牛を殺した時に、アロンとその息子たちは手を牡牛の頭の上に置きました。

その意味は、その牡牛は彼らの咎を取り、彼らの罪のために死んだということです。

同様に、私たちはイエス様の血によって買われました。イエス様は私たちの咎を取り、私たちの罪のために死なれました。

4節では、水で祭司たちが洗われたように、イエス様の血によって私たちの罪は洗い去られました。

祭司たちは洗われた後で、祭司の服を着せられました。同様に、私たちもイエス・キリストを着せられました。イエス様はご自身の血によって私たちの罪と咎を覆われるのです。

ゼカリヤ書3:1ー5には、素晴らしい例があります。

その後、全焼のいけにえがありました。その時、雄羊を全部祭壇の上で焼きました。

同様に、私たちは神様の祭司として、私たちの人生のすべてを神様に捧げるべきです。

次に雄羊をもう一匹犠牲にしました。

その血を祭司たちの右の耳たぶと右の手の親指と右の足の親指につけました。なぜなら、祭司たちの耳と手と足が主の働きのために捧げられた象徴だからです。

同様に、私たちは祭司として、主の言葉に聞く耳と神様の命令に従う手と神様についていく足が必要です。

もう一つの興味深いことがあります。

雄羊の脂肪とたねの入れないパンと油を入れた輪型のパンとせんべいを主に向かって揺り動かして、焼きました。

けれども、アロンとその息子たちは雄羊の胸とももを食事として与えられました。

神様はこう語ろうとされたのだと思います。もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様も私たちに良い物を与えてくださいます。

私たちは神様にたくさん捧げると思うかもしれませんが、神様は私たちに豊かな人生を与えてくださいます。

私はイエス様に従うためにハワイを出て、日本に来た時に、多くの事を犠牲にしました。しかし、神様からもっと素晴らしいものをもらったので全然後悔はありません。

誰かが神様に従うなら、神様はその人を必ず祝福されます。

この命令をイスラエル人に与えられた後、神様が約束されたのは、神様がイスラエル人に会い、彼らに語り、彼らの間に住まわれることなのです。

同様に、神様は私たちに会い、私たちに語り、私たちの間に住まわれることを約束しておられるのです。

あなたは主への聖なるものでしょうか。あなたがクリスチャンであれば、それは当然です。

あなたは代価を払って買い取られたからです。

今、あなたは主のものなのです。だから、私たちはこのように祈るのが良いのです。

「主よ。私の耳も、私の手も、私の足も、そして私の人生もあなたのものなのです。」

カテゴリー
出エジプト記

私たちの心の中で神様の真理がある

さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。

アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。(出エジプト記28:30)

ウリムとトンミムとは何でしょうか。簡単な答えは、「誰も知らない」です。

ウリムとトンミムの形や使い方について、具体的な情報は聖書には記載されていません。多くの推測がありますが、確かなことは分かりません。

けれども、神様の御心と導きを知るために、大祭司はウリムとトンミムを使ったと考えられています。ウリムとトンミムという言葉を直訳すると、「光と完璧さ」という意味であり、比喩的には「啓示と真理」という意味です。

私はウリムとトンミムについてあまり知らないですが、大祭司アロンが神様の前に来た時に、それらが胸の上にありました。

ウリムとトンミムの意味について考えると、二つのことが思い浮かびます。

聖書の中で、神様の言葉は私たちの人生のために光であると書かれています。また、神様の御言葉と道は完全であるとも書かれています。

詩篇119:105には、こう書いてあります。

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

また、詩篇18:30で、こう書いてあります。

神、その道は完全。のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

神様の御言葉は、神様がご自身と真理を私たちに示される方法の一つなのです。ほかのどの方法よりも、神様は御言葉を通して私たちに語られます。だから、私たちが人生の導きを求めるなら、私たちの心の中に神様の御言葉が必要なのです。

ヨシュアはイスラエル人をカナンに連れていく前に、かなり心配したようです。なぜなら、モーセが亡くなり、モーセのようにリードできるかどうか、自信がなかったからです。神様は三回言われました。

強くあれ。雄々しくあれ。」

多分ヨシュアは自分にはリーダーの資格がないと思ったでしょう。多分、自分の知恵と知識が足りないと思ったかもしれません。けれども、神様は彼にこう言われました。

この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。

そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア記1:8)

あなたは神様の御心を求めているのでしょうか。神様がどのような方であるかを知りたいのでしょうか。神様の道を知りたいのでしょうか。

そうであれば、聖書を読んでください。その言葉について考えてください。

小説のように聖書を読まないでください。

電車に乗った時に、散歩する時に、家事をする時に、読んだことを考えてください。寝る前に、その言葉を考えてください。

その言葉を暗記してください。

しかし、その全てよりも、その言葉に従ってください。

そうすれば、あなたのすることは繁栄し、また、栄えることができるでしょう。人生でも、仕事でも、人間関係でも、愛の関係でも、何をしても、うまくいくのです。

カテゴリー
出エジプト記

祭司の心

この箇所を読んで、私が印象に残っていることは二つあります。

一つは、エポデ(つまり、祭司の服の部分)の肩当てに二つのしまめのうをつけたことです。

その石の上に、イスラエルの部族の名が刻まれていました。

そして、胸当てには十二の宝石がつけられていました。その宝石の上にもイスラエルの部族の名前が刻まれていました。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ刻まれていました。

つまり、大祭司の肩と胸の上にはイスラエルの部族の名前が書かれていました。

このことによって、神様が二つのことを教えようとされたのだと思われます。

一つ目は、祭司は自分の肩の上に、人に仕える重荷を負うということです。

祭司は仕えられる方ではなく、むしろ、祭司は他の人に仕える方でした。祭司の仕事は人々のために執り成し、神様の道を教えることでした。

二つ目は、祭司は人々を懐に抱かなくてはならないということです。つまり、神様のように祭司は人々を愛し、世話しなくてはならなかったのです。

もちろん、イエス様は完全な大祭司でした。イエス様はこう言われました。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです(マルコ10:45)。

イエス様は全世界の罪を自分の肩に負って、十字架で死なれました。その働きによって、私たちの罪は赦されました。

それに、イエス様は私たちを懐に抱いておられます。私たちの名前がイエス様の心に書かれています。

イエス様は私たちのためにとりなし、教えてくださいます。羊飼いが羊を愛し、世話するように、イエス様は私たちを愛し、世話をしてくださいます。

イエス様はこう言われました。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます(ヨハネ10:11)

でも、私が以前言ったように、あなたがクリスチャンであれば、神様はあなたを祭司として呼んでおられます。

そして、神様の祭司として、私たちの周りの人々の名前が私たちの肩と心の上に書かれているはずです。

イエス様のように、私たちは人々に仕えたり、神様の御言葉を伝えたり、執り成したり、神様の愛を与えたりするべきです。

自己中心になるのは簡単なことです。

私もよく自己中心になります。他の人々の名前が私の肩に書かれていません。私の名前だけが書かれています。私は他の人に仕えず、仕えてほしいです。他の人々の必要を無視して、私の必要と要求を求めます。

でも、それは祭司の心ではありません。そんな心は欲しくありません。

あなたはどうですか。あなたの肩の上には何の名前が書かれていますか。何の名前があなたの心の上に書かれていますか。

ただあなたの名前でしょうか。

それとも、神様があなたに与えられた人々の名前が書かれているのでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

尊厳と名誉を着せられた

この箇所を読んで、心に残ったのは祭司の服についての言葉でした。つまり、その服のデザインは祭司に栄光と美を与えるためのものでした。

英訳では「尊厳と名誉」を与えるためとされています。

もちろん、祭司たちは完ぺきな人ではありませんでした。

大祭司が至聖所に入ったときに、ただイスラエル人のために犠牲の血を捧げるだけでなく、自分自身の罪のためにも犠牲の血を捧げました。

しかし、祭司たちは罪人であったのに、神様は彼らを尊厳と名誉に値する者とみなされました。そして、神様はイスラエル人が祭司たちを尊敬するよう望まれたので、彼らに栄光と美を与える服を着せられました。

この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。

一つ目は、祭司たちが尊厳と名誉に値するものとみなされたように、私たちは教会で牧師やリーダーを尊厳と栄誉に値する人とみなすべきだということです。

祭司たちのように、私たちの牧師たちは完ぺきな人ではありません。それでも、神様は彼らを私たちに仕えるように呼ばれました。

イエス様の十字架の働きによって、彼らの罪は赦され、イエス様を着せられました。神様は彼らに尊厳と名誉を着せられました。

だから、私たちも彼らをそのようにみなすべきなのです。

ヘブル人への手紙の作者はこう書いています。

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。

ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(へブル書13:17)

パウロも書きました。

よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(第一テモテ5:17)

どれほど多くの教会が、牧師が尊厳と名誉に値する者とみなされずに崩壊してしまったことでしょうか。

そのメンバーたちは牧師を攻撃したり、ゴシップのネタにしたり、文句を言ったりして、尊敬しませんでした。神様は牧師を教会の世話をするために呼ばれたのに。

多くの牧師たちはこのような問題によって、ミニストリーが崩壊しました。けれども、それは神様の御心ではありません。私たちは牧師たちが尊厳と名誉に値する人とみなすべきです。神様はそう考えられますから。

しかし、旧約聖書時代の祭司について考えるとき、私たちはあることを心に留めなければなりません。私たちも祭司として呼ばれたのです。(第一ペテロ2:4、9;黙示録1:6)。

そして、神様の前に来るときに、私たちもイエス様を着せられました。

イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、私たちの過去について恥じる必要がありません。私たちは赦され、神様からの尊厳と名誉を与えられました。

多くのクリスチャンは「神様はあなたを神の国のために用いたいのです」と聞きますが、彼らはこう考えます。

「どうやって、神様は私を用いることができるでしょうか。私は価値がない。特別な賜物とか才能がないし。それに、私の過去はすごく悪かった。神様は私のような人を用いることができないでしょう?」

しかし、神様があなたをご覧になるとき、そうは思われません。あなたはイエス様を着せられ、あなたの罪は赦されました。

神様はあなたの罪を見られません。あなたの失敗を見られません。あなたの恥を見られません。むしろ、神様はご自身が尊厳と名誉を着せた人を見られます。

だから、神様はあなたを祭司として呼んでおられます。周りの人に触れるようにあなたを呼んでおられます。

あなたは自分自身をどのように考えていますか。神様が尊厳と名誉を着せられた者として考えていますか。

それとも、ただ自分の恥だけを考えていますか。

神様はあなたが自分自身をそのように考えることを望んでおられないのです。あなたは神様の祭司です。神様からの尊厳と名誉を着ています。だから、そのように生きましょう。

カテゴリー
出エジプト記

罪の問題を扱うこと

私の妻と結婚した直後、そのおじいさんが亡くなり、私たちは通夜と葬式に行きました。おじいさんは仏教徒だったので、仏教の式でした。

通夜の時に、お坊さんは少し興味深いことを語りました。つまり、阿弥陀の愛と恵みによって、人々は天国に行くことができるということです。

キリスト教のメッセージと似ていたので、私の妻は少し驚きました。

私が大学生の時に、私もそう思いました。

その時、私は宗教の授業に出席しました。授業で、教授は阿弥陀の礼拝について語りました。それは、阿弥陀の恵みと愛によって人々が救われるという教えでした。

それを聞いて、私も驚きました。初めて、キリスト教以外にそのようなメッセージを聞いたからです。だから、私は考えました。

「キリスト教とその仏教はどう違うのでしょうか。」

答えはすぐに出ました。阿弥陀の宗教は罪の問題を全然扱っていません。

罪は赦されますが、正義が全くありません。阿弥陀は罪を罰しません。

キリスト教は違います。赦しがありますが、代価があります。正義のために、代価を払わなければなりません。

だから、旧約聖書の時代に、神様は罪のために犠牲を要求されました。

もし、誰かが幕屋の庭に入るなら、一番最初に見るのが犠牲のための祭壇です。

庭に入るには戸口が一つしかなく、祭壇も一つしかありません。なぜならば、神様は皆に何かを伝えたかったからです。それは、神様の前に行く道が一つしかなく、罪を扱うために一つの方法しかないということです。

牡牛か山羊が祭壇に連れて行かれ、殺されて、祭壇の上で焼かれました。

その犠牲を通して、神様が私たちに思い出させたかったのは、二つのことです。

一つ目は、私たちは皆、罪を犯します。そして、罪は深刻な問題なので、その結果はいつも死です。

二つ目は、全世界の罪のためにもっと完全な犠牲を捧げる日を指し示していました。

どうして、イエス様の犠牲はもっと完全だったのでしょうか。

一つ目は、牡牛は死を選択しませんでした。むしろ、祭壇に連れて行かれて死んだのです。

二つ目は、牡牛は正しい行動と悪い行動の違いをよく理解していませんでした。

牡牛は無罪でしたが、罪を犯すかどうかを選択することができませんでした。つまり、選択によって無罪ではなく、無知によって無罪だったのです。

三つ目は、牡牛がどんなに完全であっても、牡牛の命は人間の命とは等しくありません。

しかし、イエス様がこの世界に来られたとき、人間として来られました。人間としては私たちと等しく、神様としては私たちより偉大な方でした。

だから、イエス様はご自身の偉大な命を、私たちの命の代わりに捧げてくださいました。

それに、イエス様は義と罪の意味をよく理解しておられましたが、義の道をいつも選ばれました。イエス様の罪の無さはご自身の選択によるものでした。

最後に、イエス様の犠牲はご自身の選択でした。イエス様は死なないことを選ぶことができましたが、私たちに対する愛のために死んでくださいました。

こういうわけで、イエス様の犠牲はもっと完全でした。そして、イエス様が死んだとき、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。

ヘブル10:14には、こう書いてあります。

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

幕屋の庭にある祭壇は罪の問題を思い出させます。

阿弥陀の宗教はその問題を扱いません。他の宗教は罪を扱うためにいろいろな良い行動を要求します。

しかし、神様の庭に入るには一つの戸口しかなかったように、一つの祭壇しかなかったように、罪の問題を扱うには一つの方法しかありません。それはイエス・キリストです。

イエス様だけを通して、罪を扱うことができます。

あなたの罪はどうですか。もう赦されましたか。ローマ書6:23には、こう書いてあります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

カテゴリー
出エジプト記

一つの道しかない

それでは、幕屋について話しましょう。私にとって一番興味深いのは聖所と至聖所の話です。

聖所の中には供えのパンと燭台と金の香壇がありました。

至聖所の中には契約の箱がありました。

至聖所は神様の住んでおられるところとみなされました。けれども、神様がおられる至聖所に入るには供えのパンと燭台を通り過ぎなくてはなりませんでした。

私たちがもう学んだように、その二つの物はイエス様の象徴でした。

そのように、イエス様は言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 (ヨハネ14:6)

父なる神様との関係を求めるなら、命のパン、また世の光であるイエス様を通して行かなくてはなりません。他の道はありません。

多くの人々はその教えが嫌いです。

どうして、イエス様を通して行かなくてはならないのでしょうか。

なぜ、他の道では神様のもとへ行くことができないのでしょうか。

なぜ、仏陀を通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、モハンマドを通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、ヒンドゥー教や他の宗教ではだめなのでしょうか。

なぜならば、神様は聖なる方ですが、私たちはそうではないからです。

そして、私たちが学んだように私たちのような人々が神様との関係を築くためには、私たちの罪のために贖いが必要です。

それを成し遂げられたのは、ただイエス様おひとりなのです。

イエス様は完全な生涯を送られました。まったく罪を犯されることはありませんでした。

仏陀は完全な人生を生きなかったのです。

モハンマドも完全な人生を生きなかったのです。

イエス様だけが「私は完全だ」と言うことができるのです。

そして、完全で罪のない方だけが、有罪の者の代わりに罰を受けることができるのです。

聖所と至聖所の間には垂れ幕があって、大祭司だけが入ることができました。一年に一回だけ入ることができました。

入る時には、イスラエル人の罪を贖うために、血の供え物を持っていかなければなりませんでした。

しかし、イエス様が死なれた時に、

手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル書9:11-12)

だから、イエス様が死なれた後で、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。(マタイ27:51)

私たちと神様の間に立っていた壁は永遠に降ろされました。だから、私たちは神様との関係を持つことができるようになりました。

仏陀は、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

モハンマドも、他の宗教の指導者たちも、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

イエス様だけがそれを成し遂げてくださいました。だから、イエス様だけを通して、私たちは神様の前に行くことができるのです。

神様を知りたいと願っていますか。もしそうなら、イエス様を通して神様のもとへ行かなければなりません。

イエス様は命のパンです。

イエス様は世の光です。

しかし、何よりも大切なのは、イエス様こそ父なる神様の御前に出ることができる唯一の道です。

カテゴリー
出エジプト記

命のパン、世の光

私は認めます。この箇所はめちゃくちゃつまらないと思います。私たちは本当にそんな細かいことを知らなくてはならないでしょうか。

はい、分かりました。イスラエル人はそれを作らなくてはならなかったから、知る必要がありました。とはいえ、今は21世紀なのです。

いずれにせよ、この箇所の象徴は自分自身についてイエス様の言葉を思い出させます。つまり、イエス様は命のパンであり、世の光です。(ヨハネ6:35;8:12)。

供えのパンは絶えず幕屋の特別な机の上に置かなくてはなりませんでした。

英語の翻訳で、「Bread of the Presence」、つまり、神様の臨在のパンというものでした。

そのパンによって、イスラエル人は神様がいつも共におられ、導かれ、必要を備えられたことを思い出しました。

それだけでなく、イスラエル人が砂漠で生き残るために神様が天からのパンを備えられたことを思い出させました。

さらに、神様はイエス様を指しておられました。つまり、イエス様は、天から下って来て、世に命を与えるパンです。(ヨハネ6:33)

パンが私たちの体に命を与えるように、イエス様は私たちの霊に命を与えます。

もし誰かがイエス様を信じるなら、その人は永遠の命を受けるのです。

二つ目のシンボルは純金の燭台でした。

その燭台は夜から朝まで絶えず灯しておかなければなりませんでした。それを見て、神様がイスラエル人の光であることを思い出しました。

神様は火の柱として、エジプトからイスラエル人を導かれました。夜の時に、神様は彼らの光でした。

けれども、それだけでなく、神様は彼らの霊的な光でした。神様はイスラエル人に聖くて正義の道を示されました。

そのように、イエス様は世の光です。

イエス様は、この暗く罪に満ちた世に、真理と命の光を照らされました。

しかし、その闇は光に打ち勝つことができなかったのです。(ヨハネ1:5)

イエス様は言われました。

わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

たくさんの人はつまずきながら、人生の意味を探しています。

イエス様だけにあって、私たちは人生の意味と目的を見つけることができます。イエス様が私たちの人生に光を照らすと、私たちがどこに行くべきか、何のために作られたかが分かるようになります。

もし、人生の意味を探しているなら、私たちの創造者に尋ねるべきでしょう。

この世の命以上のものを探していますか。命のパンを求めてください。イエス様の前に行けば、あなたはもう飢えることがありません。

暗闇の中でつまずきながら、あなたは人生の意味を探しているのですか。

世の光であるイエス様を仰いでください。

イエス様にあってこそ命の光があり、そこであなたの人生の意味と目的を見いだすことができるのです。

カテゴリー
出エジプト記

神様との関係の出発点

神様が幕屋の作り方について語られるとき、興味深いのは、天幕の外側からではなく、幕屋の中にあるものから語り始められるということです。

神様が最初に語られたのは、最も大切な契約の箱でした。

その箱について、私は印象に残っていることが二つあります。

一つはその箱に入っているものです。それは、十戒です。十戒を通して、人々は神様がどのようなお方であるかを知ることができました。さらに、神様の聖さを知ることができました。

今でも、神様の御前に出るならば、そのことを悟るはずです。すなわち、神様は聖なるお方なのです。

そして、もし私たちが神様との関係を求めるなら、私たち自身も聖くならなければなりません。

けれども、箱の上に「あがないの蓋」というものがありました。

その蓋には他の名前もありました。それは「あわれみの席」です。

どの名前を使っても、神様との関係についてもう一つのことを学びます。

神様は聖い方で、私たちに「聖なるものとなりなさい」と言われますが、私たちは聖くありません。

ローマ書3:23にはこう書いてあります。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

だから、私たちが神様に近づきたいなら、神様のあわれみが必要です。

あわれみとは何でしょうか。別の言い方をすれば、「私たちは自分の罪のゆえに罰に値する者ですが、神様はその罰をお与えにならない」ということです。

しかし、神様が私たちにあわれみをお与えになるためには、あがないが必要でした。

「あがない」とは「覆う」という意味です。すなわち、私たちの罪が覆われたのです。

旧約聖書の時代には、雄牛の血が人の罪を覆いました。

大祭司が契約の箱がある至聖所に入る時、その血を持っていかなければなりませんでした。

けれども、イエス様がこの世に来て、十字架でご自身の血を流されたので、今はイエス様の血が私たちの罪を覆ってくださいます。だから、イエス様の血によって、私たちは神様に近づくことができます。

ヘブル9:22にはこう書いてあります。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

どうしてでしょか。血は命の象徴なのです。(レビ記17:11)

イエス様の血の意味とは、イエス様がご自身の罪のない生涯を捧げ、私たちの罪ある生涯の代わりに、罪のゆえに罰をお受けくださったということなのです。

だから、契約の箱を通して、私たちは神様との関係について、2つの事を学ぶことができます。

一つは神様は聖なる方だから、神様との関係を求めるなら、私たちも聖なる人たちにならなければならないのです。

2つ目は私たちは聖くないから、罪のためにあがないが必要だったのです。だから、イエス様は十字架で私達の罰を受けて下さいました。

けれども、イエス様は無罪でしたから、神様がイエス様を復活させて、イエス様を通して、私達に永遠の命を提供してくださいます。

しかし、私たちがその二つのことを理解していなければ、神様との関係を持つことはできません。

その二つの真理を抱くことこそ、神様との関係の出発点なのです。

あなたは神様との関係を持っているのですか。

カテゴリー
出エジプト記

聖所と幕屋

多くの人にとって、この箇所は少しつまらないと思うかもしれません。

しかし、覚えておかなければならないのは、聖所と幕屋、その中に入っているものが天国にあるものの象徴であるということです。

だから、神様は言われました。

私があなたに示すのと全く同じように作らなければならない。(出エジプト記25:9)

また、

よく注意して、あなたが山で示される型通りに作れ。(40節)

地上の幕屋を作るときに、モーセは具体的なパターンに従わなくてはなりませんでした。

ヘブル人への手紙の著者が言ったのは、地上の幕屋はさらに完全な幕屋のコピーだったということです。(ヘブル9:11)

けれども、それだけではなく、聖所と幕屋はクリスチャンの人生のシンボルです。

その二つの言葉を見てみましょう。

「聖所」というのは聖別した所という意味です。

幕屋という言葉は「住む」という語から来ています。ですから、「住む所」という意味なのです。

神様にとっては、私たちは聖所であり、神様の幕屋です。

クリスチャンとして、私たちは神様の住むところです。

エペソ人への手紙で、こう書いてあります。

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(エペソ3:17)

また、第一コリント6:19で、こう書いてあります。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

ヨハネ14:23で、イエス様はこう言われました。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

父なる神とイエス様と聖霊様は私たちの中に住むように来られます。私たちは神様の生きておられる幕屋です。

神様に会うために、私たちは特別なところに行く必要がありません。私たちがどこに行っても、神様は私たちの中に住んでおられるからです。

しかし、私たちはただの幕屋ではありません。私たちは神様のために聖別された所、つまり神様の聖所です。

「聖別」という言葉は、英語からはやや翻訳しにくいものです。英語では “Set apart” と表現しますが、日本語では少し教会的な響きを持っています。

けれども、「Set apart」というのは「専用」という意味です。

時々、電車に乗る時に「女性専用車」があります。たくさんの車両がありますが、私は男性なので、その女性専用車には入りません。

また、仕事の後で、私の家は私の「聖所」です。

つまり、私の家は私と家族のためです。他の人は私の家を使用できません。

私の近所の中で、たくさんの家がありますが、私の家は城間の家族専用です。

そこで、私の家族はリラックスできるし、互いに話し合うことができます。そして、時々、私たちは友だちを招いて、私たちの家が他の人に触れる道具になります。

そのように、私たちの人生は神様の聖所です。私たちの心の中で、神様はリラックスできるし、私たちと話し合うことができます。

そして、神様は私たちの人生を用いて、他の人に触れることができます。

神様はそのことをイスラエル人に伝えたいと望んでおられました。そして、同じことを私たちにも伝えたいと望んでおられるのです。

あなたはどうですか。あなたがクリスチャンなら、神様の住んでおられる所です。

けれども、あなたは神様の聖所でしょうか。あなたの人生は神様専用でしょうか。神様と時間を過ごしますか。あなたの人生は他の人に触れる道具でしょうか。

神様、私をあなたの幕屋としてくださり、心から感謝いたします。

どうか私があなたの聖所となるようにしてください。

あなたが私の心をご覧になり、「ここは良い場所だ。歓迎され、安らぎを得ることができる。この人を通して他の人に触れることができる」と言ってくださいますように。

私はそのような聖所になりたいのです。アーメン。

聖所として私を整えてください。
清く、聖く
試練を受けても、忠実でいられるように。
感謝を持って、
私があなたのために聖所となりますように。

カテゴリー
出エジプト記

初めの契約、新しい契約

そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべての言葉に関して、主があなた方と結ばれる契約の血である。(出エジプト24:8)

これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

その言葉が私は印象に残っています。

旧約聖書と新約聖書の中で、私たちは初めて「契約の血」という言葉を目にします。

両方の契約は血によって結ばれました。

どちらも神様と神様の民との契約関係の始まりでした。

それでも、この二つの契約には大きな違いがあります。

一つ目の違いは、初めの契約では、神様との関係が全く親しくなかったことです。神様はモーセにこう言われました。

あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝む。

モーセ一人主のもとに近づけ。

他の者は近づいてはならない。民もモーセと一緒に上ってはならない。(出エジプト24:1ー2)

一方で、新しい契約においては、誰もが神様に近づくことを許されているのです。さらに、私たちは「神様に近づきましょう」と招かれているのです。(ヘブル10:19ー22)

二つ目は、初めの契約はその民の行動によるものでした。

モーセはその契約を読んだあとで、みなは答えました。

「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」(7節)

ところが、結局イスラエル人は不従順でした。イスラエルの歴史は彼らの不従順の記録です。だから、何回も彼らはその契約を破りました。

しかし、新しい契約は、十字架におけるイエス様の死によって与えられた恵みに基づいているのです。

パウロはこう記しました

あなたがたは、恵みゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。(エペソ2:8ー9)

初めの契約は雄牛の血でした。けれども、その血は罪を除くことができませんでした。(ヘブル10:4)

新しい契約の血はイエス様の血でした。その血は私たちを罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

初めの契約では、律法が石の板に書いてありました。律法に従うのは私たちの努力だけによるものでした。

新しい契約では律法は私たちの心に書いてあります。(ヘブル8:10)

そして、神様が私たちの心の中で働いて変えるので、私たちは従うことができるようになります。

最後の比較の言葉はヘブル人への手紙の著者に任せます。

あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。

このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。

彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。

また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、

さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。。。

こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。

こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル書12:18ー24;28ー29)

カテゴリー
出エジプト記

罪と戦う

この箇所を読むときに、私は私たちの罪との戦いについて考えます。

神様が言われたのは、イスラエル人がカナンに入ると、神様がその敵を追い出し、全く滅ぼすということです。

そのように、神様は私たちの人生の中で罪を追い出すために働いておられます。だから、神様は私たちの人生の中で、罪がちょっとでも残ることを望んでおられません。

罪はガンのようなものです。もし全部を取り除いてしまわないと、すぐに広がります。だから、神様はイスラエル人に命じられました。

(その偶像を)徹底的に打ち壊し、その(神々の)石の柱を粉々打ち砕かなければならない。(出エジプト記23:23)

そのように、神様の力で罪は私たちの人生から追い出されるけど、私たちがしなければならないことがあります。

神様は「私はカナン人を消し去る」と言われたけど、31節で「あなたが彼らをあなたの前から追い払う」と言われました。

つまり、私たちは積極的に罪と戦わなくてはなりません。

例えば、私たちは罪を引き起こす原因になるものを捨てるべきです。ポルノや悪い友達など、もし何かがあなたに罪を犯させるなら、それを捨てたほうが良いです。

それだけではなくて、神様はイスラエル人に命じられました。

あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。彼らは、あなたの国に住んではならない。

彼らがあなたに、私に対する罪を犯させることのないためである。

それがあなたにとって罠となるので、あなたが彼らの神々に使えるかもしれないからである。(32ー33節)

そのように、罪が私たちの心に住むことを許さないべきです。また、罪と契約を結ばないべきです。

「罪と契約を結ぶ」というのは何でしょうか。一言で言うと、妥協です。

「この映画はちょっと道徳的に怪しいですけど、見る。」

それとも、「怒りを持ち続けるのは良くないと分かっているけれど、彼が謝るまでは、私は怒りを手放さない。」

それとも、「わがままは良くないと分かっているけれど、私は欲しいのです。私はそれに値しているからです。」

私たちはどれほどそのような妥協をしてしまうのでしょうか。

神様は「そうするな」と言われます。

「あなたの心に住むことを許してはならない。それはあなたにとって罠となるのです。」

最後のポイントです。一つの戦いだけでは、罪を征服できません。

神様はこう言われました。

あなた方が増え広がって、この地を相続地とするようになるまで、私は徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。(30節)

そのように、罪に対する勝利は時間がかかります。

徐々に神様は勝利を与えてくださいます。

時々、その戦いは大変に難しいです。

時には、私たちは倒れます。

しかし、私たちは必ず勝利を得るのです。だからこそ、諦めないでください。

カテゴリー
出エジプト記

完全に愛する

多くの人は「敵を愛しなさい」という教えがイエス様から来たと思いますが、その教えの根はこの箇所から来ています。

あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4ー5節)

私たちの敵が大変な状態になったら、私たちはよく喜びます。私たちは「彼はその悪いことに値している。それは良かったです」と言います。

しかし、神様は喜んではならないと言うだけでなく、「わざわざその人を手伝いなさい」と言います。

それはかなり難しいことです。

私を憎んでいる人をわざわざ手伝うことは私の気持ちに反します。

時々、好きな人を手伝ってあげることさえ大変です。けれども、好きではない人を手伝ってあげることはさらに大変です。

しかし、イエス様が命じられたのは、私たちの愛を完全なものにするということです。

つまり、あなたを愛している人だけを愛するのではなく、あなたを愛していない人も愛するべきです。

あなたに親切にする人だけに親切にするのではなく、あなたに親切にしない人にも親切にするべきです。

神様はもう一つのことを命じられました。それは、貧しい人と在留異国人を差別しないことです。

私が大阪に住んでいた時に、ある木曜日か金曜日にホームレスの人が教会に来ました。そして、彼は教会について聞き始めました。

私の日本語があまりよくなかったけど、牧師の妻がたまたま出てきたので、私は来てくださいのジェスチャーをしました。

彼女はちょっと変な顔をして、ホームレスの人と全然話したくなさそうでした。けれども、そのホームレスの人はもう彼女を見てしまったので、その牧師の妻は彼と話をしなければなりませんでした。

私はその牧師の妻の反応を見て、がっかりしました。

しかし、私も人に対する反応が完全だと言えません。特に、私と違う人に対する反応は完全ではありません。

日本では、私は外国人です。私こそが異なる存在です。だからこそ、私の方が努力して周囲の人々と関係を築くべきなのです。

それなのに、私と異なる人に出会うと、私は少し避けてしまいます。

私のような人と時間を過ごしたいのです。多分、皆もそうでしょう。

けれども、例えば、もし教会で一人で座っている人を見たら、私はもっと完全な愛が必要です。つまり、その人に触れるべきです。

イエス様はこの世に来た時に、彼の愛は完全でした。彼と違う人でも、敵でも、友達でも、構いませんでした。イエス様は皆を愛しておられました。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなた方は互いに愛し合いなさい。

私があなた方を愛したように、そのように、あなた方も互いに愛し合いなさい。

もしあなた方の互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

カテゴリー
出エジプト記

群衆にならう

私は幼い頃の思い出があります。ある日、クラスメートたちが私をからかっていました。理由は覚えていませんが、友だちの反応はよく覚えています。彼は私の隣に来て、こう囁きました。

「私もあなたをからかうけど、気にしないでね。本気じゃないから。」

私は頷き、その友だちが私をからかい始めました。

私たちの関係が壊れたわけではありませんが、振り返ってみると、かなりひどいことでした。彼は全然私を守ってくれませんでした。むしろ、彼は皆に合わせて、私をからかいました。

とはいえ、私も同じようなことをしたことがあります。皆が全然人気のない人をからかい始める時に、私も参加してしまいました。その人が私の友だちではなかったけど、私は悪かったです。

神様はこの箇所で言われました。

悪を行う権力者の側に立ってはならない。(出エジプト記23:2)

英語では少し違う翻訳です。それは、「悪を行う群衆にならうな。その悪い行いを真似するな。」ということです。

この箇所は特に不当な証言について述べています。つまり、皆が不当な証言をしても、あなたは皆にならって不当な証言をしてはなりません。

十戒の話で、私はゴシップと中傷について既に書きましたので、今回はそのことをあまり焦点に当てません。

けれども、その二つの点で、群衆(多数決の意見)にならうのは簡単です。誰かが他の人を悪口し始めると、あなたも悪口を言い始める。「そう、そう、彼はね…」

しかし、そんな話は人を破壊し、教会も破壊します。

どれくらい、誰かが牧師を批判し、他の人も参加することで、すぐに牧師が包囲攻撃の状態になるでしょうか。

神様はそのようなことを憎まれます。だから、神様は命じられました。「群衆についていくな。そんな悪い言葉を言うな。」

どの状況でも、悪を行う群衆についていってはなりません。

どれくらい、私たちはそうするでしょうか。

どれくらい私たちは「皆がそうしているから」と言うでしょうか。

それは言い訳にはなりません。

神様は私たちが群衆についていくことを望んでおられません。

私たちが神様についていくことを望んでおられるのです。

それは教会に行くときだけではなく、職場でも、家庭でも、どこにいても、神様は私たちが御自身についていくことを望んでおられるのです。

カテゴリー
出エジプト記

罪の深刻さ

この箇所は十戒の解説のようです。特に、「父と母を敬え」、「殺してはならない」、「盗んではならない」の解説です。

私が思うのは、多分この律法は実際の裁判例から来たということです。

だから、私たちにとってはちょっとつまらないかもしれませんが、彼らにとっては本当に実用的でした。

私が印象に残っていることは、神様は罪が深刻なことだと思っておられるということです。

モーセの時代に、父と母を敬わないことは今より深刻なことでした。

今、子供が両親を殴ったり、呪ったりする話を聞きますが、モーセの時代にそれが起こったら、その子供は死刑に処せられました。

多分、その子供の年齢を考慮されたのでしょう。その息子が五歳だったら、多分殺されなかったでしょう。ユダヤ人の文化では、13歳になったら成人とみなされました。

多分、成人になったら、自分の行動のために責任を持つことになるため、その場合、両親を殴ったり、呪ったりしたら、その息子や娘が死刑に処せられました。

それでも、かなり厳しい罰です。なぜなら、神様は父と母を敬う命令を、それほど大切にしておられるからです。

殺人も死罪でした。

盗難は死罪ではありませんでしたが、罰はかなり厳しかった。盗まれたもののために払わなければならなかったし、懲罰的損害賠償も払わなければなりませんでした。

だから、私たちに問わなければならないのは、神様のように、私たちが罪を深刻に考えているかどうかということです。

多くの場合、私たちはそうしません。

多くの人は言い訳をします。あるいは、人は「私の行動はそんなに悪くなかった。小さいことだけだったし」と言います。

しかし、神様にとっては、罪はとても深刻なことです。だからこそ、イエス様をこの世界に送り、イエス様が十字架で、私たちの罪の罰を受け入れるために死んでくださいました。

イエス様がそうされたのであれば、どうして私たちは罪を軽く考えることができるでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

愛によって仕える

それでは、これからは少しイスラエル人の社会律法を見てみましょう。

実は、この箇所を読むのがあまり楽しみではありませんでした。この律法の文化的な背景を具体的に説明したくないからです。

だから、私はこうします。この箇所を読んで、もし何か面白いことがあれば、そのことについて話します。

このブログがバイブルスタディというよりもディボーションのようなものなので、いつも通りに、私は聖書から実用的なことを見つけたいと思います。

この箇所が少し興味深いと思うのは、私たちのキリストとの関係に結びついているからです。

当時、イスラエル人は他の人に奴隷として自分自身を売ることがありました。なぜなら、払えない負債があったり、犯罪を犯してその償いとして金銭を支払わなければならないのに、お金がなかったからです。

通常は、六年間ほど奴隷として働きました。

けれども、その主人が奴隷に他の奴隷を妻として与えた場合、その奴隷が自由になる時には、妻と子どもを連れていけませんでした。その奴隷が自由になっても、妻と子どもは自由になりませんでした。

実はその律法は少し曖昧です。

おそらく、最終的には妻と子どもも自由になるはずです。なぜなら、多くの場合、その女性が奴隷になる目的は、その主人かその主人の息子と結婚するためだからです。しかし、他の奴隷と結婚した場合、それはもうできません。

7ー11節によると、もし主人が奴隷と結婚しない場合、またはその息子と結婚しない場合、奴隷を自由にしなければなりませんでした。けれども、いつ解放しなければならないかは少し微妙です。

おそらく六年間ほどだと思いますが、私も正確には分かりません。モーセに聞いてみたいものです。

とにかく、奴隷が自由になりたくても、妻と子どもを残したくない場合、その奴隷はいつまでも主人の奴隷でいることを選ぶことができました。

彼は主人の戸口の柱のところに行き、耳を錐で刺し通しました。その時、その奴隷はこう言いました。

私は、私の主人と、私の妻と、私の子供を愛しています。自由の身となって去りたくありません。(出エジプト記21:5)

つまり、妻と子供に対する愛だけでなく、主人に対する愛によっても、ずっと仕えることを選びました。

同様に、詩篇40篇で、メシア、つまりイエス様はこう言われました。

あなたは、いけにえや穀物の捧げ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いて下さいました。

あなたは、全焼のいけにえも、罪のいけにえも、 お求めになりませんでした。

その時私は申しました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神。私は御心を行うことを喜 びとします。あなたの教えは私の心の中にあります。」

「私の耳を開いて下さいました」というのは、多分、この奴隷の耳を刺し通す習慣について話しています。

つまり、イエス様が言われたのは、「父よ、あなたを愛するから、私はあなたに従って仕えます」ということです。

けれども、私たちの場合ちょっと考えてみましょう。

そのイスラエル人の奴隷のように、私たちは大変な状態にあったので、神様の御前に行きました。

私たちの罪の負債は重荷で、人生はめちゃくちゃで、霊的に貧しかったのです。

しかし、私たちが神様のところに行ったとき、神様が良い主人であることが分かりました。そして、神様が私たちを本当に愛しておられることを理解するようになりました。

そして今、キリストの血によって、私たちの罪の負債は支払われ、人生は回復されました。それでも、私たちは神様から離れたくありません。

むしろ、私たちは神様を愛し、神様がしてくださったことを覚えているので、神様に仕え続けます。

あなたはどうでしょうか。神様に仕えていますか。それとも自分自身に仕えていますか。

もし、あなたが神様に仕えているのなら、なぜ仕えているのですか。

義務感から仕えているのですか。

それとも、神様を愛して仕えたいと願っているのですか。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:私たちの心の中にあるもの

今日、十戒の最後の命令を見ます。その命令は十戒の中で独特です。なぜなら、その命令は心の思いを扱うからです。

他の命令は私たちの行動を扱います。

偶像を作るな。神様の御名をみだりに唱えてはならない。安息日を守りなさい、などです。

しかし、十番目の命令で、神様はこう言われました。

「姦淫を犯さなくても、十分ではありません。あなたの隣人の妻を欲しがってはなりません。

盗まなくても、十分ではありません。あなたの隣人のものを欲しがってはなりません。」

神様は私たちの正しい行動だけでなく、心についても心配されます。

イエス様は山上の垂訓でさらに説明されました。イエス様はこう言われました。

「殺人を犯さなくても、十分ではありません。誰かに対して怒りを持ってはなりません。姦淫を犯さなくても、十分ではありません。情欲を抱いて女性を見ると、すでに心の中で姦淫を犯したことになります。」

どうして神様はそれを大切だと思われるのでしょうか。

それは、何よりも神様は私たちの心を求めておられるからです。

多くの場合、神様はイスラエル人に対してフラストレーションを感じられました。なぜなら、彼らが礼拝の行動をしても、神様に心を捧げなかったからです。

同様に、イエス様もパリサイ人に対してフラストレーションを感じられました。パリサイ人も表面上は正しい人たちでしたが、彼らは律法の小さなポイントを守っても、心の中では汚れていました。

イエス様はパリサイ人に言われました。

忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。

あなた方は白く塗った墓のようなものです。

墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなた方も、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27ー28)

私たちはどうでしょうか。

私たちの外側は正しいと見えても、内側は死人の骨や、あらゆる汚れたものでいっぱいでしょうか。

私たちの心は本当に神様のものでしょうか。

それとも、私たちはただ振りをしているだけでしょうか。

周りの人を騙せるかもしれませんが、神様を騙すことはできません。

神様、私の心が本当にあなたのものになるように。私の心の中に死人の骨がたくさんあることが分かります。取り去ってください。

偽善者になりたくありません。私の心があなたのものになることを望んでいます。

私にとっては本当に難しいことです。あなたの力と恵みによって内側から私を変えてください。アーメン。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:破壊する言葉

今まで、十戒で私たちが人に対してしてはならないことを二つ読みました。

一つ目は、その人の命を取り去らないことです。

二つ目は、その人の物を取り去らないことです。

三つ目は、私たちは偽りの証言で人の評判を取り去らないことです。

おそらく、神様は裁判について話されたのです。

もし、誰かが「誰々さんはこの悪いことをした」と言った時に、証人が必要でした。

その場合、神様は「偽りの証言をしてはならない」と言われました。

つまり、もし誰かが何も悪いことをしていないなら、あなたは「彼が悪いことをした」と言ってはいけません。

おそらく、私たちは裁判で証言をする機会がないかもしれませんが、どれくらい私たちはゴシップや中傷によって誰かの評判を失わせているでしょうか。

私たちがゴシップや中傷をすると、大きな被害を引き起こします。結婚やミニストリー、人生はゴシップによって破壊されます。

多くの場合、私たちはゴシップを心配として偽装します。「健二さんのことを聞いた?祈らなければならない。彼はね…」

あるいは、「里沙ちゃんのことについて、ちょっと心配してます。彼女がしたことを聞いた?」

本当に心配しているなら、ゴシップせずに、直接その人と話したほうがいいです。

そして、聞いたことや見たことが本当かどうか確認しなければならないです。

多くの場合、私たちは事実の半分を知っているに過ぎません。普通は半分以下しか知りません。

イエス様はユダヤ人にこう言われました。

うわべによって人を裁かないで、正しい裁きをしなさい。 (ヨハネ7:24)

しかし、ゴシップばかりしていては、事実が分からなくなります。

その人が悪いことをしていると思うなら、その人のところに行って直接話したほうがいいです。それがイエス様の教えです。(マタイ18:15ー17)

あなたはゴシップをしますか?人の評判を失わせる言葉を言いますか?

私たちの言葉は命を破壊せず、命を与えるべきです。

あなたの言葉はどうですか?

カテゴリー
出エジプト記

十戒:盗まれたもの

私が子供の時に、私の家は強盗に入られました。幸いに、貴重品は盗まれなかったと思います。けれども残念ながら、警察はその犯人を捕まえることはできませんでした。

数年前、日本でオレオレ詐欺の話がありました。犯人は高齢者に電話して、「お母さん。俺だよ」と言って、お金を願いました。その被害者は騙されて、多額のお金を失いました。

最近では、アイデンティティ盗難も起こっています。犯罪者は私たちのクレジットカード番号を入手し、自分のために不正に使用してしまいます。

何年か前、誰かが私のカード番号を使おうとしましたが、幸い銀行がすぐに気づいてくれたので、私は何も失わずに済みました。

それだけではなく、多くの人が映画や音楽、ソフトを違法にダウンロードし、企業を困らせています。

けれども、彼らは深く考えずに勝手に行動し、「皆がそうしている」と言います。

多くの場合、彼らは「私にはその権利がある。なぜ支払わなくてはならないのか。その会社には十分なお金があるだろう?ただでダウンロードしても構わないだろう」と思っているのです。

しかし、神様の御目には盗みなのです。神様の御目には罪なのです。

そして、さらに悪い種類の盗みがあります。

どれほど多くの人が「私の人生だ」「私の体だ」と言うのを耳にすることでしょうか。

けれども、その考え方は誤っています。人はそう言いますが、彼らが理解していないのは、自分自身が盗まれた存在であるということなのです。どういう意味でしょうか。

神様は私たちすべてを創造されました。だから、私たちは神様のものなのです。

作家が本を書いたなら、その本は作家のものです。

作家はそれを出版して利益を得るかもしれないし、家族に贈るかもしれないし、あるいは捨てるかもしれません。なぜなら、その本は作家のものだからです。

芸術家が絵を描いたなら、その絵は芸術家のものです。

芸術家はその絵を自由に扱うことができます。売ることもできるし、美術展を開いて展示することもできるし、誰にも見せずに自分の家に置いておくこともできます。

誰かが何かを作ったなら、そのものはその人のものです。

もし他の人がそれを奪って「これは私のものだ」と言うなら、それは盗みなのです。

だから、私たちが神様に「これは私の人生です。私は好きなようにします」と言うなら、それは盗みなのです。神様のものを勝手に用いることになるからです。

これは特にクリスチャンに当てはまります。神様は私たちを創造され、さらにキリストの血によって贖われました。だから、この二つの理由によって、私たちは神様のものなのです。

神様は、闇市場で自分の盗まれたものを見つけて、もう一度それを買い戻す人のようです。

泥棒であるサタンは私たちを盗み、奴隷にしました。しかし、キリストの十字架の死によって、神様は私たちを贖い戻してくださいました。そのため、私たちは再び神様のものとなったのです。

だから、パウロはこう書いているのです。

あなた方は、もはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなた方は、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体を持って、神の栄光を現しなさい。(第一コリント6:19ー20)

だから、クリスチャンには「私の体」や「私の人生」と言う権利はありません。「私のお金」や「私の時間」とさえ言えないのです。

私たち自身も、私たちの持ち物も、本当に神様のものなのです。

ですから、問いは「私の人生で、どうしようか」ではありません。

「私のお金で、どうしようか」という問いでもありません。

「私の時間で、どうしようか」という問いでもありません。

問いはこうです。

「神様、あなたはどのように私を用いようとされるのでしょうか。私はあなたのものです。私の持ち物はあなたのものです。あなたの御心は何でしょうか。」

私は若い時に、神様にその問いを尋ねていたら良かったのにと思います。

実は、私は尋ねましたが、その答えを無視しました。なぜなら、その答えが気に入らなかったからです。

神様は「日本に行きなさい」と言われましたが、私は答えました。「嫌です。これは私の人生です。日本には行きたくありません。」

大学生の時、私は日本語を学ぶことや英語を教えることを身につける機会がありましたが、好きなようにしました。つまり、ビジネスとコンピュータに焦点を当てたのです。

けれども今、その学びは全く用いていません。

振り返ると、私は多くの面で神様の御心を無視し、自分の好きなようにして時間を浪費しました。

永遠に価値あることに焦点を当てず、一時的なことに焦点を当ててしまったのです。

私は神様から盗みました。自分勝手な目的のために、神様のものを用いたのです。すなわち、私の人生とお金と時間です。

もう神様から盗みたくはありません。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは盗まれた存在でしょうか。神様のものを取って、勝手に用いているのでしょうか。

あなたの時間は?

あなたのお金は?

あなたの人生は?

それらはあなた自身のものではありません。あなたは代価を払って買い取られたのです。

だからこそ、それらすべてをもって、神の栄光を現すのです。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:壊してはいけないものを壊す

神様は不倫を憎まれます。

私たちの世界では、そんな話を聞いてももう全然驚かないでしょう。不倫は当然のことのように思えます。テレビドラマでよく見ます。本でも、映画でも、タブロイドでも、新聞でも。

それでも、神様は不倫を憎まれます。

なぜでしょうか。

それは、不倫が壊してはならない基礎を壊すからです。

どのような基礎でしょうか。それは夫婦の一致です。肉体の一致だけではありません。心と霊的な一致も壊します。

夫婦のための一致は別の人と分かち合うものではありません。不倫は夫婦の信頼関係を壊し、多くの場合その結婚自体を壊します。だからこそ、神様は不倫を憎まれます。

多くの人は不倫が性的な行動だけだと思っています。けれども、通常、不倫は性的な行動から始まるわけではありません。心から始まるのです。

例えば、ポルノを見たり、他の人と一緒にいることを想像し始めたりします。

または、女性が好きな男性に自分の結婚の問題を話し始めることから始まります。

あるいは、男性が好きな女性に自分の結婚の問題を話し始めることから始まります。

十年間前に、ある有名なクリスチャンの歌手は離婚しました。しかし、離婚する前に、彼女が他の男性に出会った噂がありました。結局、彼女はその男性と結婚しました。

後で、彼女は「結婚する前に、不倫をしなかった」と言いました。

おそらく、彼女の意味は「私たちは関係をもっていなかった」ということです。私はそれを信じます。

それでも、彼女は離婚してすぐに再婚し、噂の通りその男性と結婚しました。私がそれを見て思うのは、彼女の心の中でずっと不倫をしていたのではないかということです。

ある日、パリサイ人がイエス様に離婚について尋ねました。イエス様は答えられました。

創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れて、二人の者が一心同体になるのです。

それで、もはや二人ではなく、一人なのです。

こういう訳で、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10:6ー9)

後で、イエス様の弟子たちはその教えについてもっと聞きたかったので、イエス様は言われました。

誰でも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。

妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら姦淫を犯しているのです。(マルコ10:11ー12)

イエス様の言葉について、いろいろな意見があります。とはいえ、私は確信を持ってこう言います。

もしあなたが離婚を考えていて、次に結婚したい人をすでに知っているなら、神様の御目から見れば、あなたはすでに不倫をしているのです。すでに姦淫を犯しているのです。

その人と実際に関係をもっているかどうかは問題ではありません。あなたの心の中で、すでに姦淫を犯したのです。

その歌手について、私は間違っているかもしれません。

彼女の最初の旦那さんはずっと麻薬の問題があったのに、彼女は頑張りました。

その二人はずっとその結婚を守ろうとしたようです。離婚のために、正当な理由があったかもしれません。

けれども、私は彼女が他の人に出会ったという噂と、彼女の早すぎる再婚を見て、離婚の時に彼女の心の状態には少し疑わしいところがあったのではないかと思います。

とにかく、私の質問はこうです。

私たちは神様のように不倫を憎むでしょうか。

それとも、私たちは「最近の社会では、普通のことです。仕方がありません。」と言うでしょうか。

私たちの心の中に姦淫についての小さな思いが浮かんだとき、それを許すのでしょうか。それとも、追い出すのでしょうか。

パウロはこう書いています。

あなた方の間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。(エペソ5:3)

カテゴリー
出エジプト記

十戒:命の価値

「殺してはならない。」つまり、殺人を犯してはならない。

十戒の中で、これは最も有名な命令だと思います。

日本ではどうか分かりませんが、アメリカではクリスチャンでない人でも、この命令をよく知っています。

もしアメリカで「十戒の命令の中で何を覚えているか」と尋ねたら、ほとんどの人がこの命令を覚えているはずです。

なぜでしょうか。おそらく、私たちは殺人が人間に対して最も悪い罪だと考えるからです。

おそらく神様もそう思われます。大洪水のあと、神様はノアに言われました。

私はあなた方の命のためには、あなた方の血の値を要求する。。。

人にも、兄弟である者にも、人の井落を要求する。

人の血を流す者は、人によって、血を流される。

神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記9:5ー6)

殺人の罰として、神様は初めて死刑について言及されました。

なぜでしょうか。人を殺すことは、神様のかたちを殺すことになるからです。

他の動物は神様のかたちに造られていません。人間だけです。だから、神様にとって私たちは尊い存在なのです。

では、私たちはどうでしょうか。殺人の悪さは、人を殺すことをいとわずに命の価値を下げることにあります。

けれども、私たちはどれほど人の価値を下げているでしょうか。

最近、私は生徒が先生の腕をカッターナイフで刺したと聞きました。その生徒は先生の命を大切にしませんでした。

しかし、その家庭では互いを大切にし合っていませんでした。つまり、その両親は離婚していたのです。その生徒はその態度を両親から学んだのでしょうか。

オサマ・ビン・ラディンが殺されたとき、私の生徒はこう尋ねました。

「なぜアメリカ人は誰かの死によって、そんなに喜ぶのでしょうか。アメリカ人の多くはクリスチャンではないのですか?」

つまり、「これはクリスチャンの考え方なのでしょうか。」

しかし神様は言われました。

私は決して悪者の死を喜ばない。(エゼキエル書33:11)

神様は聖なる方ですから、罪を罰しなくてはなりません。とはいえ、神様は墓の上で踊っているわけではありません。

むしろ、その人のために泣いておられるのです。なぜなら、彼らは神様のかたちに造られたのに、そのかたちが歪んでしまったからです。

オサマ・ビン・ラディンがもはや人を殺さないことに私は嬉しく思います。それでも、私は彼の墓の上で踊ってはいません。なぜなら、神様はそうされないからです。

神様は人間の命を本当に大切にされるのです。

では、私たちの日常生活ではどうでしょうか。私たちは人をどれほど大切にしているでしょうか。

特に、あなたを傷つけた人に対してどのような態度を取っているでしょうか。

イエス様は言われました。

昔の人々に対して、『殺すな。人を殺す者は裁きを受ける』と言われているのを、あなた方は聞いています。

しかし、私はあなた方に言います。兄弟に怒る者は誰でも裁きを受けるのです。(マタイ5:21ー22)

なぜでしょうか。心の中で怒りや苦い感情を抱えながら、その人の中に神様のかたちを見ることはできないからです。結局、その人の価値を下げることになります。

多くの場合、私たちはその人にラベルを貼ります。

「彼は馬鹿だ」

「わがままだ」

「ひどい人だ」…

そして最悪の場合、「彼には価値がない」と思ってしまいます。

その思いを持ち続けるなら、心の中でその人を殺したことになるのです。

ナイフで殺してはいないかもしれませんが、怒りと許さない心によって人間関係を終わらせてしまうのです。

もちろん、危険な状態だから関係をやめることは悪いことではありません。

しかし、怒りと憎しみによって関係を断つことは、殺人に似ています。

神様のように、人を大切にしているでしょうか。それがこの命令の核心です。

もし神様のように人を大切にするなら、その人を殺しません。ナイフで殺さないし、心の中でも殺しません。

むしろ、その人を神様のかたちに造られた者として見て、大切にするのです。

イエス様はその人を大切にし、十字架で死なれました。あなたはその人を大切にするでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:本当に大事な関係

私にとって興味深いことですが、神様は十戒で人間関係について語り始めたとき、まず親子の関係について言及されました。

「あなたの父と母を敬え」と言われたのです。

申命記5:16で神様はその命令をもう一度繰り返されました。

そして、エペソ6:2ー3でパウロはこう書いています。

これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたは幸せになり、地上で長生きする」という約束です。

どうして神様にとってこの関係がそれほど大事なのでしょうか。それは、親子の関係が他のすべての人間関係に影響を与えるからです。

子供の最初の関係は親子の関係です。もし子供が両親と良い関係を持っていれば、他の人とも良い関係を築く可能性が高いのです。

子供は親を敬うことによって、他の人を敬うことを学びます。もし若いときに両親を敬うことを学ばなければ、他の人を敬うことは難しくなります。

私は小学校と高校で働いていたとき、時々先生を全く尊敬しない生徒を見ました。

先生が話しているとき、その生徒たちは大きな声で喋り、先生を無視していました。他の生徒は机で勉強せず、自分の好きなことをしていました。

なぜでしょうか。彼らは人を尊敬することを学んでいなかったからです。

その多くの子供は崩壊家庭から来ていて、親を敬うことを全く学んでいませんでした。だから権威ある人を尊敬することが理解できなかったのです。

もしそれを学ばなければ、社会に出たときにさまざまな問題が起こります。先生や警察、上司や他の権威ある人との関係はうまくいかないのです。

また、結婚の関係にも影響を与えます。

結婚について考えたとき、私が望んでいたのは父を敬う妻でした。

残念ながら、多くの女性は自分の父を敬わないので、結婚すると夫も敬いません。

同様に、母を敬わない男性は結婚すると妻を敬いません。もし両親を敬わないなら、どうやって妻や夫を敬うのでしょうか。

あなたが誰かと結婚しようと思っているなら、その人の両親との関係をよく見てください。

もしその人が両親を敬わないのであれば、注意したほうがよいです。

幸いに、私の妻は自分の両親を敬っています。

さらに、親子の関係は私たちの神様との関係にも影響を与えます。特に父との関係は神様との関係に影響を与えます。

両親を敬わない子供、両親を信頼できない子供、両親を愛さない子供、両親に従わない子供にとって、父なる神様を敬い、愛し、信頼し、従うことは非常に難しいのです。

しかし、子供が両親を敬うなら、他の関係もうまくいく可能性が高くなり、社会での人生もうまくいく可能性も高くなります。そして一番大切なのは、神様との関係もうまくいく可能性が高いということです。

だから神様は言われました。「もし両親を敬うなら、あなたは幸せになり、地上で長生きする。」

あなたはご両親を敬っていますか。

子供として、私たちは両親に従わなくてはなりません。もし私たちが両親の家に住んでいるなら、その家のルールを守らなくてはなりません。

両親の家を出て自分の生活を始めると、そのルールを守る必要はなくなります。それでも敬わなくてはなりません。

両親の感情を尊重しましょう。

両親の意見を尊重しましょう。

賛成する必要はありません。けれども、人間として、そして両親として尊敬しましょう。

両親が敬うに値しないと思うかもしれません。それはそうかもしれません。

しかし神様は「敬うに値するなら両親を敬いなさい」とは言われませんでした。神様は「両親を敬いなさい」と言われたのです。

だから彼らのために祈りましょう。神様が彼らに触れて変えられるように祈りましょう。それだけでなく、神様があなたにどのように両親を敬うことができるかを教えてくださるように祈りましょう。

あなたは両親を敬っていますか。

あなたは子供にあなたを敬うことを教えていますか。

あなたは子供にとって敬いやすい親ですか。

そうであれば、私たちは神様が望む人生を見つけることができるのです。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:本当の安息日

去年、私の友人は尋ねました。

「どうして、クリスチャンは十戒をだいたい守ろうとするのに、安息日だけは全く守らないのでしょうか。」

その理由には2つの点があります。

1つ目は、ほとんどのクリスチャンが七日の安息日を守らない、つまり土曜日に休まず、教会にも行かないということです。

けれども、教会が始まった時代から、クリスチャンは日曜日に神様を礼拝し始めました。使徒の働き20:7と第一コリント16:2にその様子が見えます。

ですから、クリスチャンは安息日を土曜日から日曜日に変えたのです。おそらく、毎週キリストの復活を祝うために日曜日に変えたのでしょう。

2つ目の理由は、七日の安息日だけが新約聖書で緩められたということです。

コロサイ2:16ー17で、パウロはこう書いています。

こういうわけですから、食物と飲物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、誰にもあなた方を批評させてはなりません。

これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。

ここで2つのフレーズが目立ちます。

1つ目は、「安息日のことについて、誰にもあなた方を批評させてはなりません。」というものです。

つまり、七日の安息日を守るクリスチャンを裁いてはならないし、守らないクリスチャンを裁いてもならないのです。

もし安息日を必ず守らなくてはならないのであれば、パウロはこのように書けなかったでしょう。

2つ目のフレーズは、なぜ安息日を守る必要がないかを説明しています。

パウロは「これらは次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです」と書きました。

つまり、これらすべてはキリストを予示していたのです。しかし、キリストがすでに来られたので、私たちは影ではなく本体に焦点を当てるべきです。その本体はキリストなのです。

ヘブル人への手紙の著者も、3ー4章でそのことについてさらに書きました。特に4章9ー11でこう記しています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。

神の安息にはいったものならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。

ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例に習って落後するものが、一人もいないようにしようでは ありませんか。

著者が言いたいのは、神様の民のために安息が残されているということです。その安息に入った者は、自分のわざを終えて休むのです。その意味には2つの可能性があります。

1つ目は、私たちが天国に行くときに、私たちの働きが終わるということです。

黙示録14:13にはこう書かれています。

また私は、天からこう言っている声を聞いた。「書きしるせ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」

御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについていくからである。」

2つ目は、私たちがクリスチャンになるときに、神様の安息に入り、もはや救いのために働こうとしないということです。むしろ、キリストの働きに信頼するのです。

ヘブル3ー4章によれば、著者はこの2つ目の意味について語っていると思います。

イスラエル人は神様に信頼しなかったため、安息に入ることができませんでした。その不信仰は不従順につながりました。

だから4:1ー3でこう書かれています。

こういう訳で、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなた方のうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないような事のないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。

福音を説き聞かせられていることは、私達も彼らと同じなのです。

ところが、その聞いたみ言葉も、彼らには益になりま せんでした。み言葉が、それを聞いた人たちに、信仰によって、結び付けられなかったからです。

信じた私たちは安息に入るのです。

つまり、本当の安息日は週の最初の日でもなく、週の最後の日でもないのです。

本当の安息日は、私たちが神様の愛と受け入れのために働くことをやめ、イエス様を信じ、キリストの十字架の働きに信頼することなのです。

ユダヤ人がイエス様に「神様のわざを行うために何をすべきでしょうか」と尋ねたとき、イエス様は答えられました。

あなた方が、神が遣わしたものを信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29)

つまり、イエス様が言われたのは、「神様の受け入れを得るために、あなたの働きをやめて、安息して、私を信じなさい」ということです。

だから、一番大切な問題は日曜日か土曜日に神様を礼拝することではありません。安息日は神様が私たちに与えたい安息の影にすぎないのです。

一番大切な問題は、あなたが神様の安息に入っているかどうかです。

神様の愛と受け入れを得るためにあなたの努力をやめたでしょうか。かえってイエス様を信じ、その十字架の働きに信頼しているでしょうか。その安息を求めなくてはなりません。

だからヘブル人への手紙の著者がこう書いたように、

今日、もし御声を聞くならば、あなた方の心をかたくなにしてはならない。(へブル書4:7)

むしろ、キリストに信頼して、神様の安息に入りましょう。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:敬うべき神

日本では、多くの人が「Oh my God」という表現をよく知っています。

高校生でさえ、その表現を知っているのです。

けれども、それを耳にすると、少し不自然に感じることがあります。多くの場合、その使い方が少し間違っていて、イントネーションも異なるのです。

それでも、英会話の生徒たちは何度もその表現を使うのです。

しかし、私が最も心を痛めるのは、彼らが神様をないがしろにする文化的な習慣を真似してしまうことです。

神様に祈っているのではないのです。尊敬の態度で神様について語っているのでもないのです。

ただ、何を言っているか考えずに神様の御名を使っているだけなのです。

これは日本人だけでなく、英語を話すネイティブの人々もよく行っているのです。

神様は私よりもはるかに憐れみ深い方です。

しかし、もし私が神様だったなら、そんな人が私に「助けてください」と言ったとき、私はその人を少し無視してしまうかもしれません。そして、その人に向かってこう言うでしょう。

「あ、今あなたは本当に私に呼びかけているのですか。私は知りませんでした。」

神様は「主の御名を、みだりに唱えてはならない」と語られました。

つまり、「私を敬いなさい。私は敬われるべき神なのです」という意味なのです。

けれども、どれほど多くの人が神様とイエス様の御名を敬わず、呪いの言葉として用いているのでしょうか。

あるいは、驚きやショックを表すために神様の御名を使っているのでしょうか。

私たちの創造主の御名をそのように使ってはならないのです。

私たちの贖い主の御名をそのように使ってはならないのです。

とはいえ、主の御名をみだりに唱える方法は数多くあるのです。

以前も述べたように、「もし信仰が十分にあるなら、神様は何でも与えなくてはならない」と語る人が多くいます。

ところが、祈っても癒されない人に出会うと、彼らはよくこう言うのです。「あなたの信仰は足りないのです。もし十分にあれば、癒されるでしょう」と。

その言葉は、その人を深く傷つけてしまうのです。

ヨブの友人たちも同じようなことを語りました。

ヨブがひどい試練に遭い、苦しんでいたとき、彼らはこう言ったのです。「あなたは罪を犯していたのでしょう?だから、神様があなたを罰しておられるのです。」

もし私たちが神様の御名を用いて、根拠もなく人を裁くなら、神様は罰せずにはおかれないのです。

私たちが神様の御名をないがしろにする方法は、もう一つあります。

それは、人を操作しようとすることです。

昔、ある伝道者がこう言いました。「3月までに八百万ドルを調達しなければ、神様は私を天国に連れて行かれるのです。」

その言葉を聞いたクリスチャンではない人々は、神様の御名をまったく敬わなくなってしまったのです。

時々、夫は妻にこう言います。「あなたは私に従わなくてはならない。神様がそう語られたでしょう?」

確かにそうかもしれませんが、神様の御名を用いて人に命令してはならないのです。

神様の御名の誤った使い方がもう一つあります。それは、自分の意志を通すために神様の御名を利用することです。

最近、ある女性と話したとき、その人はキリスト教に関係する戦争について尋ねました。私の答えはこうです。良い意図を持っていたクリスチャンもいたでしょう。それでも彼らは間違っていたのです。

そして、他のクリスチャンたちは神様の御名を用いながらも、結局は自分の意志を押し通しただけなのです。

昔、私はある話を聞きました。

有名なクリスチャンがミニストリーを始めるとき、他の牧師を真似しようとしましたが、全くうまくいかなかったのです。

そこで彼は祈りました。「神様、あなたは間違ったことをしておられるのでしょうか。なぜ、うまくいかないのですか。」

しかし、神様はこう答えられました。「私は間違ってはいない。あなたが間違っているのだ。」

それを聞いて、彼はこう言いました。 「だって、私はあなたの御心に従っていると思っていたのです。」

神様はこう答えられました。「いいえ。あなたは私の御心に従ってはいない。あなたはただ私の御名を使っているだけなのだ。」

では、彼は神様の御名をみだりに唱えたのでしょうか。おそらくそうではありませんでした。彼は本当に神様に従いたかったのです。ただ、間違っていただけなのです。

けれども、多くの人は自分の意志を通すために神様の御名を用いるので、神様の御名を不名誉なものにしてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。神様の御名を敬っていますか。あなたにとって、神様は敬われるべき存在なのですか。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:罪のDNA

私の娘が生まれたとき、たくさんの人が「彼女はあなたに似ている」と言いました。

彼女は私の眉毛と鼻を受け継いでいるらしいですが、多分お母さんの口を持っているのだと思います。

私の友だちが言ったのは、もし娘が迷子になったら、人々が私たちの顔を見て、「あ、その人はお父さんですね」とすぐに分かるだろう、ということでした。それこそがDNAの力なのです。

とにかく、罪にもDNAがあるのです。そのDNAは人から人へと受け継がれます。特に、家族の中でその通りなのです。

神様はその意味で、このことを語られたのだと思います。

あなたの神、主である私は、ねたむ神、私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼ(します)。(出エジプト記20:5)

初めてこれを読むと、これは不公平のように見えるのです。

神様が父や母の罪のために子どもを罰しておられるように思われるからです。

しかし、後になって神様は明確に語られたのです。

父親が子供のために殺されてはならない。子供が父親のために殺されてはならない。人が殺されるのは、自分の罪のためでなければならない。(申命記24:16)

それに、エゼキエル書で、神様は多くの人々が引用していたことわざを非難されたのです。

そのことわざは、神様が親の罪のために子どもを罰しておられることを暗示していたのです。

けれども、神様が親のために子どもを罰されないのであれば、「三代、四代にまで及ぼす」とはどういう意味なのでしょうか。

私はこう考えます。

特に家族の中で、罪とその結果は人から人へと受け継がれるのです。

例えば、結婚のことです。父と母が自己中心的な生活をし、互いに愛し合わず、敬わず、結局離婚するなら、その子どもは聖書的な結婚をよく理解できません。

そのため、彼らが大人になって結婚すると、両親の罪を繰り返し、彼ら自身の結婚もうまくいかなくなるのです。

親が子どもを虐待する場合、多くの子どもは「自分の子どもは決して虐待しない」と心に誓います。

けれども、いざ両親になると、無意識のうちに自分の子どもを虐待し始めてしまうのです。

また、親がアルコール中毒や麻薬中毒である場合、多くの子どもも同じようにアルコール中毒や麻薬中毒に陥ってしまいます。

そして、その悪循環は途切れることなく続いていくのです。

一人ひとりは自分の罪のために罰を受け、苦しみます。しかし、その罪を次の世代へと受け継いでしまうのです。

だから、その子どもも同じ罪を犯し、両親のように苦しみ、さらに次の世代へ罪と苦しみを受け渡してしまうのです。

この罪の悪循環を断ち切る方法はあるのでしょうか。

罪のDNAを私たちの子どもに受け渡すことを阻む方法はあるのでしょうか。はい、あります。

5節の最も大切な言葉は「神様を憎む者には」です。

神様が語られたのは、もし人が神様を憎むなら、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼすということなのです。

人々が神様を拒絶すると、彼らの人生の中で罪が強い力を持ち、彼らは罪の影響に対して脆弱になります。

そして、もし彼らが自分の力で罪と戦おうとすれば、すぐに分かるのは「自分には力がない」ということなのです。

つまり、両親の罪を繰り返したくないのに、結局そうしてしまい、自分の子どもにその罪と苦しみを受け渡してしまうのです。

罪の悪循環を断ち切りたいなら、生ける神様との関係が必要なのです。

神様の人生を変える力が必要なのです。

私たちはこう祈らなくてはなりません。

「神様、あなたが必要です。あなたの癒しが必要です。罪の奴隷の生活から私を解放してください。私は力がありません。助けてください。」

もし私たちが悔い改め、神様を呼び求め、心の王座を神様に捧げるなら、神様は私たちに勝利を与え、その罪の悪循環を断ち切ってくださるのです。

もはや罪を子どもに受け渡すことはありません。むしろ、神様の愛を受け渡すのです。

神様が語られたように、「私の命令を守る者には、恵みを千代にまで施します。」

あなたの人生の中には、どのようなDNAがあるのでしょうか。

罪のDNAでしょうか。

それとも、人生を変える神様の愛のDNAでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:形作られることのない神

十戒の最初の命令において、神様は唯一の神としてご自身を示されました。神様以外に他の神は存在せず、他の「神」を拝んではなりません。

第二の命令において、神様はさらにご自身についてもう一つのことを示されました。すなわち、神様は形作られることのない神なのです。

イスラエル人に神様はこう命じられました。

あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(出エジプト記20:4ー5)

この命令によって、神様は二つのことを示されました。第一に、私たちは創造物を拝むのではなく、創造者を拝まなくてはならないのです

イザヤ44章で、神様は創造物を拝む人々をあざけられました。特に、自分の手で造ったものを拝む人々をあざけられました。

彼らは木を切り、その半分で火を燃やして家を暖め、料理を作ります。けれども残りの木で偶像を造り、それを拝むのです。

ただの木にすぎないのに、彼らは「あなたは私の神です。私を救い出してください。」と言うのです。

19節で、神様はこう言われました。

彼らは考えてみず、知識も英知もないので、「私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべきものを造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。」とさえ言わない。(イザヤ書44:19)

ローマ書1章で、パウロはこのような人々について記しました。

彼らは真の神様を拝むことをやめ、人間や鳥や獣や這うものの形に似た偶像を造り、それを拝み始めたのです。

このような人々について、パウロは次のように書いています。

「それは、彼らが神の真理、偽りと取り代え、造り主の代わりに造られたものを拝み、これに仕えたからで す。」(ローマ1:25)

神様ははっきりと語られます。「創造物を拝んではならない。創造者だけが、あなたがたの礼拝に値する方なのです。」

昔、人々は太陽や月、そして偶像を拝みました。今でも、そのようなものを拝む人がいます。

けれども、今日では多くの人が、お金や車や持ち物を拝んでいるのです。

では、あなたにとって一番大切なものは何でしょうか。朝に目を覚ますとき、あなたは何を思い浮かべますか。夜に眠りにつくとき、あなたは何を考えますか。

多くの場合、それこそがあなたの神なのです。あなたの心を支配するものが、あなたの神なのです。

第二のことは、神様が形作られることのない神であるということなのです。

もちろん、私たちは偶像を造って拝んではなりません。しかし、それにはさらに深い意味があります。

私たちの心の中に、自分勝手な神様のイメージを築き、それを拝んではならないのです。むしろ、神様がご自身を示されたとおりに、私たちは拝まなくてはならないのです。

それはどういう意味でしょうか。

例えば、多くの人は神様を愛の神だと思いたいのです。

「神様は私を愛しておられる。私を受け入れてくださる。神様はすべての人を愛しておられる」と考えるのです。

それは確かにそうです。

けれども、誰が神様を正義の神だと思いたいでしょうか。誰が神様が聖なる方であるがゆえに、悪を罰しなければならないと思いたいでしょうか。

イエス様に救いのために信頼しない人は、地獄に行かざるを得ません。誰がそのことを好ましいと思うでしょうか。

正直なところ、私は全く好ましいとは思いません。皆が天国に行くと願いたいのです。

しかし、私の希望の通りに神様を造ることはできません。神様は聖なる方であり、罪を憎まれるのです。だから、ある人は地獄に行かざるを得ないのです。

たとえ神様が愛の神であっても、神様は聖なる神であり、罪を罰しなければならないのです。

他の人々は、別の方法で神様を形づくろうとします。彼らにとって、神様はしもべのような存在なのです。

彼らは「もし、私の信仰が十分であれば、神様は私の願いを叶えなければならない」と考えます。金銭やベンツや大きな家など、何を頼んでも神様が叶えなければならないと思うのです。

あるいは、病気であれば、信仰が十分であれば、神様が癒さなければならないと考えます。

しかし、私たちは神様を威圧することはできません。神様は主権を持っておられます。私たちは持っていないのです。

それでも、多くの人々はそのことを認めようとしません。むしろ、彼らは神様を操ろうとします。神様のみ心に従うのではなく、むしろ神様に自分の心に従わせようとするのです。

けれども、神様を操ろうとするなら、それは神様を拝んでいるのではありません。むしろ、あなた自身が神になってしまっているのです。

神様はそのような態度を決して受け入れられません。

あなたは神様について考えるとき、どのような態度をとっていますか。

自分が作り上げたイメージを用いているのですか。神様を形づくろうとしているのですか。

それとも、神様がご自身を示されたとおりに拝んでいるのでしょうか。

それこそが真の礼拝なのです。

そして、神様は本当の礼拝だけを受け入れられるのです

カテゴリー
出エジプト記

十戒:一人で立っておられる神

モーセがパロに、神様に犠牲をささげるためにイスラエル人を行かせてくださるよう願った時、パロは問いかけました。

「主は誰でしょうか。どうして、私は従わなくてはならないでしょうか。」

何千年間がたっても、多くの人はその同じ質問を言います。

「神様は誰でしょうか。なぜ私は神様に従わなくてはならないでしょうか。」

モーセもそう言いました。

神様の答えは変わっていません。

私は「私はある」という者である。

あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。

「私はあるという方が、私をあなた方のところに遣わされた」と。(出エジプト記3:14)

「ヤハウェ」という名前でも、ヘブル語の「いる」という言葉から来ました。

以前言ったように、神様が言われたのは「私は永遠の方です。私は永遠から存在しており、永遠まで存在しておられる。」ということです。

言い換えれば、「私だけが神です。」

なぜなら、神様だけが「私は永遠から存在しており、永遠まで存在しておられる」と言われることができるからです。

そのため、クリスチャンの神が誰であるかと問われれば、答えはこうです。

「唯一の神です。他の神はいません。なぜなら、神様だけが永遠から存在しておられるので、他の方はそれを言うことができないからです。」

ゆえに、神様がモーセに十戒を伝えられた時、最初の戒めは「あなたは、私のほかに、他の神々があってはならない。」ということなのです。

なぜなら、神様は唯一の神であり、他の神は存在しないからです。

他の「神」は真の神ではないのです。ゆえに、その偽りの神を求めてはなりません。

その偽りの神は、あなたの必要を満たすことも、あなたの人生に意味を与えることもできません。

真の神様だけが、それを成し遂げることができるのです。神様は命の源であり、あなたを創造し、あなたの人生に意味を与える方なのです。

多くの人は人生の意味を探すときに、あらゆるところに探しますが、神様に仰ぎません。

多くの人は、お金や力や持ち物を求めます。

ある人は、人生の意味を見いだすために家族を大切にします。

ある人は、人生の意味を見いだすために経歴を第一にします。

しかし、神様だけがあなたに人生の意味を与えることができるのです。なぜなら、神様は命の源であられるからです。

あなたは何を求めているでしょうか。

意味を見いだすためにどの神々を求めているでしょうか。

お金でしょうか。

家族でしょうか。

経歴でしょうか。

それらは全て良いことですが、あなたの人生に意味を与えることはできません。

だからそのような考え方を捨ててください。それらを神として立てないでください。

むしろ、真の神様を求めましょう。

神様は唯一の神であり、永遠から存在しておられるのです。

そして、神様だけがあなたの人生に意味を与えることができます。

カテゴリー
出エジプト記

十戒:勝手なルールじゃない

これから、聖書の中で、とても有名な箇所を見ます。それは十戒です。

私は十戒の概要にしようと思ったけど、これが大切な箇所なので、結局もっと時間をかけるほうがいいと思いました。

十戒を言われる前に、神様はイスラエル人に神様が誰であるのかを思い出させました。つまり、神様はイスラエル人をエジプトから救い出してくださった方です。

どうして、そのように始められたのでしょうか。おそらく、神様はイスラエル人に、神様が彼らを愛しておられ、彼らの最善を望んでおられることを思い出させたかったのです。

多くの人は神様の命令を読み、神様が自分の楽しい人生を取り除きたいと思っておられると思います。また、彼らは神様の命令は勝手なルールだけだと思うこともあります。

「どうして、結婚する前に彼女と関係をもってはいけないのでしょうか。彼女を愛しているのに。」

あるいは、イスラエル人にとっては「どうして、このような食事の規定があるのでしょうか。どうして、牛肉は食べてもよいのに、豚肉は食べてはいけないのでしょうか。」

しかし、神様の律法と命令は勝手なものではありません。神様にはいつも理由があります。

そして、神様がイスラエル人を愛しておられるからこそ、この命令を伝えられたのです。

神様はイスラエル人を愛しておられ、エジプトで彼らの叫びを聞いて、奇跡によって救い出してくださいました。

だから、神様が望んでおられるのは、彼らが神様と良い関係を築き、良い人間関係を築くことです。

けれども、そのためには、彼らは自分の生き方を続けてはなりません。もし、自分の道を行けば、神様を傷つけることになり、周りの人も傷つけることになります。

だからこそ、神様はこの律法と命令を伝えられました。

そのため、私たちがこの十戒を読む時に心に留めなければならないのは、十戒が私たちに惨めな人生を与えるためのものではないということなのです。

神様がこの命令を与えてくださった理由は、「私は権威があるから、あなたにこの規定を守らせる力がある」ということではないのです。

神様は私たちを愛して、私たちのベストを望んでおられるから、この命令を与えてくださったのです。

神様がイスラエル人をエジプトの奴隷の生活から救い出してくださって、自分の民にされたように、神様は私たちをサタンの国の奴隷の生活から救い出してくださって、自分の子供として、養子にしてくださいました。

もし、私たちは神様の愛を知っているなら、ヨハネが書いたように、「その命令は重荷とはなりません。」(第一ヨハネ5:3)

あなたにとって神様の命令は重荷でしょうか。

もしそうなら、十字架を思い起こしましょう。

イエス様があなたのために何をしてくださったかを覚えておきましょう。

イエス様の愛を思い出しましょう。

神様の命令がただ勝手な規定ではないことを心に留めましょう。

神様の命令はあなたに対する愛に基づいているのです。

カテゴリー
出エジプト記

神様から遠く離れて立つこと

どうして、イエス様は死ななければならなかったのでしょうか。

神様との関係を築くために、本当にイエス様が死ななければならなかったのでしょうか。

イスラエルと神様との関係を見れば、その答えがはっきりと分かるのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。神様は彼らが神様の民と祭司と聖なる国になると言われました。

それでも、神様とイスラエル人の間には距離がありました。

神様はモーセに言われました。

あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。

山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、誰でも必ず殺されなければならない。(出エジプト記19:12)

そして、神様が煙と火の中にあって降りられた時に、もう一度モーセに言われました。

下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。

主に近づく祭司たちもまた、その身を清めなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。(21-22)

また、24節で、神様はこう言われました。

祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。

どうして限界があったのでしょうか。どうして、イスラエル人は神様に近づくことができなかったのでしょうか。

それは、神様は聖なる方だからです。

つまり、神様は完全なお方で、全く罪を犯しません。

そして、聖なる完全なお方である神様は、罪深い人に近づくことができないのです。なぜなら、神様は罪を憎んでおられるからです。

神様に近づくために、モーセと祭司たちはその身を清めなければなりませんでした。

それでも、神様に近づくには限界がありました。神様が柴の燃える炎の中に現れた時に、神様は言われました。

ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。

あなたの立っている場所は、聖なる地である。(出エジプト記3:5)

そのあとで、モーセは神様に「あなたの栄光を見せてください」と申し上げました。すると、神様はお答えになったのです。

あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。(出エジプト記33:20)

けれども、イスラエル人たちが神様に近づくことを許されたとしても、多くの人は近づかなかったかもしれません。

イスラエル人はモーセに言いました。

どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。

しかし、神が私達にお話にならないように。私たちが死ぬといけませんから。(出エジプト記20:19)

彼らは自分の罪が分かって、聖なる神様に近づくことを怖がっていました。

だから、モーセが神様に近づいている間、イスラエル人は遠く離れて立っていました。そのため、神様と親しい関係を築くことは非常に難しかったのです。

そういうわけで、神様はその関係を回復するために何かをなさらなければなりませんでした。

神様はこの世界に来て人間となられたのです。なぜなら、人間として神様はもっと近づきやすくなられたからです。そして、神様はご自身の御性格を私たちに示してくださいました。

そのあとで、神様は十字架で私たちの罪のために死なれ、そこで私たちの罰を受けてくださったのです。

だから、今神様は私たちを見たら、私たちの罪を見ません。むしろ、神様の御前で、私たちは聖く、傷のない者です。(エペソ1:4)

イエス様は私たちの罪をもう扱われたから、私たちの神様との関係は、イスラエル人の神様との関係と全然違います。

遠く離れて立つ必要はなく、むしろ私たちは神様に近づくことができるのです。

神様を恐れて震える必要もありません。むしろ、私たちは神様の愛をよく知っているので、大胆に神様に近づくことができるのです。

エペソ2:12ー13でこう書いてあります。

そのころのあなた方は。。。この世にあって望みもなく、神もない人達でした。

しかし、以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

パウロはこれも書きました。

私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信を持って神に近づくことができるのです。 (エペソ3:12)

だから、イスラエル人と異なって、神様から遠く離れて立たないようにしましょう。むしろ、

私たちは。。。大胆に恵みの御座に近づこう。(ヘブル4:16)

カテゴリー
出エジプト記

神様の宝、祭司の王国、聖なる国民

神様はイスラエル人と素晴らしい契約を結ばれました。

神様がエジプトからイスラエル人を救い出されたあとで、彼らを神様の宝にすることを約束されました。それだけではなく、祭司の王国と聖なる国民にすることを約束されました。

すべての国々の民の中から、神様はイスラエル人を選ばれました。彼らは神様の宝となるはずでした。彼らは周りの国々にとって、神様の祭司となるはずでした。

イスラエルを通して、皆が神様を知るようになるはずでした。また、彼らは神様のために聖別された国となるはずでした。

しかし、一つの条件がありました。彼らは神様に従って、その契約を守らなければなりませんでした。

残念ながら、彼らはそれをできませんでした。何度も、何度も、彼らは他の神々に従い、その契約を破りました。

それでも、神様はイスラエル人を捨てられませんでした。

パウロが書いたのは、アブラハムとイサクとヤコブのゆえに、イスラエル人がまだ愛されているということです。そして、神様の賜物と召命は変わることがありません。(ローマ11:28ー29)

だから、私は、神様がイスラエル人のためにまだ特別な計画を持っておられると思います。

とはいえ今、神様がイスラエル人について言われたことを、クリスチャンについても言われます。

第一ペテロ2:9にはこう書いてあります。

しかし、あなた方は、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。

それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしいみわざを、あなたがたが述べ伝えるためなのです。

イスラエル人と私たちはどう違うでしょうか。一つのことです。

彼らの契約は自分の行いに基づく契約でした。神様の律法を守れば大丈夫でした。

しかし、もし失敗すれば、すべてを失ったのです。

一方で、私たちは神様の恵みによって生きています。

私たちが神様の宝、祭司、そして聖なる国となることは、私たちの行いによるのではありません。むしろ、イエス様の行いによって、私たちはそのすべてを受けるのです。

つまり、2000年前に、イエス様は十字架で死んで、私たちの罪の罰を受けてくださった。だから、私たちがするべきなのは、イエス様の十字架の働きを信じることだけです。

神様がイスラエル人をエジプトの奴隷の生活から救い出してくださったように、神様は私たちをサタンの国の奴隷の生活から救い出してくださいました。

そして、神様はご自身に私たちを近づけてくださいました。ペテロが言ったように、神様は私たちを闇の中から驚くべき光の中に招いてくださいました。

ペテロは続けました。

あなた方は、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前は哀れみを受けない者であったのに、今は哀れみを受けた者です。(第一ペテロ2:10)

では、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。

私たちは神様の宝、神様の祭司、神様の聖なる民ですから、そのように生きましょう。

「私は取るに足りない」と思うクリスチャンほど悲しいことはありません。

そのようなクリスチャンは自分が全然スペシャルじゃないと思います。彼らはどうして神様が彼らを選ばれたか分からないし、神様がどうやって彼らを用いることができるか全然分かりません。

しかし、神様はあなたを選ばれたと言います。

ちょっと考えてみてください。

この世界の皆の中から、神様はあなたを選ばれました。

神様はあなたをご覧になり、「この人は素晴らしい」と思われて、あなたを選ばれたのです。

あなたの性格を知っておられました。あなたの長所と短所を知っておられました。神様はあなたの過去と現在と未来をよく知っておられました。

それでも、神様はあなたを選ばれました。

あなたは神様の宝なのです。

神様はあなたのことを天使たちに誇っておられるのです。

イエス様はこのように言われました。「あなたは素晴らしい値打ちの真珠のようです。」

イエス様はあなたのためにすべてを売り払われました。つまり、あなたのために死んでくださいました。

ある人はこう言いました。

「もし、あなただけが罪を犯したとしても、イエス様はあなたのために死なれたのです。」

イエス様にとって、あなたはそれほど大事な人です。

あなたは神様の祭司です。

私たちと神様の間に人間の祭司は必要ありません。イエス様を通して、私たちは神様に直接近づくことができます。イエス様は私たちの大祭司です。

けれども、今イエス様は私たちに何かを願っておられるのです。

それは、私たちが神様の祭司として、周りの人にイエス様のわざを述べ伝えることです。なぜなら、あなたの周りの人もイエス様を知ることができるからです。

あなたは神様の聖なる国です。

あなたは一人ぼっちではありません。あなたは教会という体に属しています。

そして、教会の皆と一緒に、私たちは神様によってこの世界に影響を与えるために呼ばれました。

だから、ヘブル人への手紙の作家はこう書きました。

また、互いに勧めあって、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。

ある人々のように、一緒に集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブル10:24ー25)

カテゴリー
出エジプト記

学ぶ態度をとっている心

去年、私の誕生日の後に、友達と話して、どのように私たちが変わったか話しました。

私が言ったのは、24歳の時に私が今よりたくさん知っていた、ということです。というのは、その時、私は全部を知っていると思っていました。

けれども、今私は。。。歳ですけど、どれくらい知らないか分かるようになりました。

私の知識と知恵が成長していないというわけではありません。むしろ、今、私の知識と知恵がどれくらい足りないか分かるようになりました。24歳の時も不十分でしたし、今でも不十分です。

私の友達は「あなたがそう分かっていることは、知恵のしるしです」と言いました。

そうかもしれません。とはいえ、今でも、私はたくさん学ばなければならないです。

今まで、このモーセとイテロの話を読んで、私が考えたのは、モーセはかなり若い人で、先輩からアドバイスを受けたということです。

けれども、実は、モーセはもう80歳でした。それに、彼は新しい国のリーダーになりました。

だから、皆は、「モーセはすごい知恵がある」と思って、朝から夜まで、モーセが彼らの紛争を捌いて、神様の言葉を教えていました。

だから、モーセにとっては、イテロに「あなたの助言は要りません。私は神様から直接聞きます。もうすべて知っています。知恵も知識も十分あります。あなたは煩わしい。」と言うことは簡単だったでしょう。

しかし、モーセはそうしませんでした。

彼は謙遜な態度で、イテロの言葉を聞いて、その知恵が分かりました。

それだけではなく、モーセは謙遜だったから、神様が他の人も用いることができることが分かり、その人々をトレーニングし始めました。

私たちはどうでしょうか。私たちはどれくらい人や神様の言葉に耳を傾けるでしょうか。

実は、私はもっと謙遜になるべきです。

24歳の時よりも、私がどれほど知らないか分かるようになりました。けれども、私の一部にはプライドがあり、もう知っているという態度を取ってしまうのです。

もし、ずっと前から私がもっと謙遜な態度を持っていたなら、どれほど知恵ある人になっていたでしょうか。

もし、ずっと前から他の人から知恵を受けていたなら、どれほど私は他の人を教えることができたでしょうか。

神様、多くの場合、私の心は頑なです。私が全部知っていると思っていたから、よく知恵を聞くことを拒否しました。赦してください。

私があなたの知恵に耳を傾けることができるように、私の心を和らげてください。私に謙遜な態度をお与えください。

そして、私が他の人から知恵を求め、その知恵を受け入れることができるようにしてください。

私が全部知っている態度を決して取らないように。むしろ、あなたの知恵と知識で成長したい心を与えてください。アーメン。

カテゴリー
出エジプト記

ひとりで戦う必要がない

イスラエルの最初の戦いは、アマレクという国に対して行われました。

イスラエル人が疲れて砂漠を進んでいたとき、アマレク人は後ろにいた弱っている者や病気の者を攻撃したのです。(申命記25:17ー18)

だから、神様はアマレク人と戦いなさいと命じられました。

ちょっと不思議な出来事です。モーセはアロンとホルと一緒に丘に登りました。

モーセの手が上がっていると、イスラエル人が優勢でした。けれども、モーセが疲れて手を下げると、アマレク人が優勢になり始めました。

そこで、モーセは座り、アロンとホルが彼の手を支えました。こうしてイスラエル人はアマレク人を打ち破ったのです。

どうしてモーセは手を上げ続けなくてはならなかったのでしょうか。分かりません。:)

しかし、その戦いは私たちの人生と似ています。つまり、その戦いは私たちの罪との戦いと似ています。私たちが弱くて、疲れているときに、誘惑はすぐに来ます。

私たちが疲れているときに、サタンは「かわいそう。じゃあ、彼が強くなるときに、また戦おう。」とは言いません。

むしろ、「あ!チャンスだ!」と言います。

そして、私たちを攻撃します。

サタンはイエス様を攻撃するとき、その作戦を用いました。

イエス様が荒野で断食し、疲れて弱っておられるときに、サタンはイエス様を誘惑しました。

サタンは立ち去った後も、さらに良い機会を待っていたのです。(ルカ4:13)

しかし、神様は私たちに、「何もしないで、倒れるまでじっと立ちなさい」とは言われません。

「戦いなさい」と命じられるのです。

けれども、戦っているときに、私たちは時に疲れてしまいます。 そして、もう戦えず、誘惑に負けてしまおうと思うこともあります。

しかし、モーセが弱っていたときにアロンとホルが彼を支えたように、私たちにも支えてくれる人がいるのです。

ヤコブ5章16節にはこう書かれています。

だから、互いに罪を告白し合い、また、いやされるように互いのために祈りなさい。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。

私たちが一人で罪と戦うことは、神様の御心ではありません。神様は私たちを支えるために、他のクリスチャンを備えてくださったのです。

だから、神様は私たちに他のクリスチャンへ罪を告白しなさいと言われます。そうすれば、彼らに責任が生まれ、ヤコブが言ったように、その祈りは大いに力があり、効果をもたらすのです。

兄弟たちと姉妹たちが私たちを支えてくれますが、それだけではなく、神様も私たちを支えてくださいます。

モーセは「主は私たちの旗です」と言いました。

戦争の時に、旗はその軍隊が誰のために戦っているかを示しました。そして、皆がその旗を見たら、勝利の希望がありました。

だから、モーセが言ったのは「辛いときに、私たちは神様に焦点を当てたら、勝利の希望がある」ということです。

私たちにとってもその通りです。罪と戦うときに、私たちががっかりして、もう戦えないと思ったら、こうしましょう。

信仰の創始者であり、またその完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

イエスは、ご自分の前におかれてた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました。

あなたがたは、罪びとたちのこのような反抗をしのばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:2ー3)

あなたは罪と戦っていますか。一人で戦う必要はありません。教会の兄弟たちと姉妹たちはあなたを助けてくれるでしょう。

それだけではなく、あなたの信仰を始められたイエス様は、あなたの信仰を完全にしてくださいます。

だからこそ、イエス様を仰ぎ見つめめましょう。イエス様はあなたの旗だからです。

カテゴリー
出エジプト記

キリストの象徴

そして、不平は続きました。

「食べ物がない」と不平を言った後、すぐに「水がない」と不平を言い始めました。

それでも、キリストの素晴らしい象徴を示すために、神様はその状況を用いられました。それだけではなく、私たちの人生におけるキリストの働きまでも示されました。

第一コリント10にこう書いてあります。

(イスラエル人)の皆同じ御霊の食べ物(マナ)を食べ、皆同じ御霊の飲み物(岩からの水)を飲みました。

というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(3ー4節)

その前、神様は天からのパンを与えてくださいました。そのマナはイエス様の象徴でした。イエス様は天からのまことのパンです。つまり、イエス様は霊的に飢えている人を満たしてくださいます。

けれども、今度は神様が岩から水を出されました。そして、モーセに「岩を打ちなさい」と言われました。モーセはその岩を打ってから、水が出ました。

そのように、私たちの御霊の岩イエス・キリストが打たれて、十字架で死なれたので、今は私たちは違う種類の水をもらえます。

ヨハネ4章で、イエス様はそのことについて、女の人と話されました。イエス様はこう言われました。

もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれという者が誰であるかを知っていたなら、あなたの方でその人に求めたことでしょう。

そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。。。

この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがあ りません。

私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命への水がわき出ます。(ヨハネ4:10、13ー14)

あとで、イエス様はエルサレムにいた時に、皆に叫ばれました、

誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。

私を信じる者は、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:37ー38)

ヨハネはイエス様の意味を説明しました。

その生ける水は神様の聖霊様です。

イエス様を受け入れたら、聖霊様は私たちの中に住み始めてくださいます。

聖霊様がおられないと、私たちの心の中に空虚があります。その空虚を感じて、私たちは必死に満たそうとしますが、何をしても、その空虚は残ります。

多くの人はその空虚をお金とか、持ち物とか、成功とか、力とか、セックスで満たそうとします。

この世の水は私たちを一時的に満たしますが、結局私たちはもう一度渇きます。

私たちの心の中にある部分は神様だけが満たせます。そして、私たちがイエス様の前に行き、信じたら、その空虚を満たしてくださいます。

ちょっと出エジプト記の話に戻ります。

その事件の後で、もう一度、イスラエル人は「水がない」と文句を言っていました。

しかし、神様は「打ちなさい」と言われませんでした。

むしろ、「岩に話しなさい。そうすれば、水が出る」と言われました。

ところが、モーセは神様の命令に従わず、その岩を打ちました。

それでも、私たちは神様の象徴をはっきり見ることができるのです。岩はすでに打たれました。もう一度打つ必要はなかったのです。その岩に語りかければ、水が出るのです。

そのように、イエス様は十字架で死なれた後、もう一度打たれて死ぬ必要はありませんでした。イエス様は今も生きておられます。

そして、イエス様に語りかけるなら、私たちは救われます。

パウロもこのように語りました。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。ローマ書10:9ー10)

イエス様、あなたが天からのパンであり、私に永遠の命を与えてくださり感謝します。

あなたが岩であり、私に生ける水を与えてくださり感謝します。

毎日、あなたの聖霊様で私を満たしてください。もっと、もっと、あなたの臨在で私を満たしてください。

あなたの生ける水が私から出て、周りの人々に触れますように。そして、彼らもあなたの生ける水を知るように。アーメン

カテゴリー
出エジプト記

私に信頼するでしょうか

私がモーセだったら、イスラエル人を導くことが大嫌いだったでしょう。なぜなら、その人たちは、すぐに前の経験を忘れ、あまり神様の言葉に注意しなかったからです。

この話で、もう一度、イスラエル人は神様とモーセに対して文句を言っていました。今回は食べ物が無いことについて文句を言っていました。彼らは言いました。

エジプトの地で、肉なベのそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていた時に、私たちは主の手にかかって死んでいたら良かったのに。

事実、あなた方は、私達をこの荒野に連れて出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。(出エジプト記16:3)

エジプトにいた時に、この人たちは奴隷だったから、神様に叫びました。「助けてください!」

けれども、その大変な生活を忘れて、エジプトの食べ物について考え始めました。

だから、神様は天からのパンを与えてくださいました。しかし、イスラエル人は神様の簡単な命令を守りませんでした。神様は言われました。

「その日のためにパンを集めなさい。明日のために蓄えてはならないのです。」

ところが、あるイスラエル人たちは何をしたのでしょうか。次の日のためにパンを蓄えようとしましたが、そのパンは腐ってしまったのです。

そして、神様は言われました。

「毎週の六日目には、二日分を集めなさい。七日目にはパンを見つけることはできないのです。」

七日目に、あるイスラエル人たちは何をしたのでしょうか。パンを探しましたが、何も見つけることができなかったのです。

モーセは非常に怒り、神様も怒られました。「いつまで私の命令と教えを守ろうとしないのか」と言われました。(28節)

つまり、「どうして、あなた方は私に信頼してくれないのか。全てよりも、あなたの信頼が欲しい。」

そういうわけで、「毎日パンを集めなさい」と命令されました。

神様は、イスラエル人が毎日神様に信頼することを学ぶように望んでおられました。

何千年が経っても、神様は変わられませんでした。神様は、まだ私たちとの信頼関係を望んでおられます。

あなたが神様との関係を望むなら、スタート地点は神様に信頼することです。

ユダヤ人はイエス様に「神様を喜ばせるために何をしたらいいでしょうか」と尋ねたら、イエス様は答えられました。

あなた方が、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29)

神様を喜ばせるために、聖書を読んで、祈って、教会に行きなさいとは言われませんでした。それらすべてが良いことですが、神様が一番望んでおられるのは私たちが神様のひとり子に信頼することです。

ユダヤ人はしるしを求めました。「モーセは私たちの先祖にパンを与えてくれました。あなたは何を与えてくださるでしょうか。」(30ー31節)

イエス様は答えられました。

私が命のパンです。

私に来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者どんな時にも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)

つまり、あなたの魂​と霊を満足させるために、イエス様に行かなくてはなりません。

罪の赦しのためにイエス様に信頼すべきです。

神様との関係のために、イエス様を通して行かなくてはなりません。そうしないと、あなたの中で空虚があって、あなたの魂が飢えます。

しかし、イスラエル人はマナを見ても何なのか分からなかったように、ユダヤ人がイエス様に会っても誰なのか分かりませんでした。

イスラエル人はマナを見て、「これは何ですか」と聞いたように、ユダヤ人がイエス様を見て、「あなたは誰ですか」と聞きました。

「あなたはただの人間です。私たちは、あなたの御両親を知っているのに、どうしてあなたが天からのパンと言えるでしょうか。」

そして、彼らはイエス様を信じることを拒否して、立ち去りました。

あなたはどうでしょうか。イスラエル人のように、神様に信頼せずに自分の道を行くのでしょうか。

それとも、イエス様の弟子たちのように、こう言うのでしょうか。

私たちは誰のところに行けばよいのでしょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っているのです。(ヨハネ6:68ー69)

あなたの魂の空虚さを満たすためにイエス様に信頼しますか。

日常の必要を満たすために神様に信頼しますか。

あなたの人生を導くためにイエス様に信頼しますか。

カテゴリー
出エジプト記

苦さ、癒し、服従

以前述べたように、賛美が突然不平へと変わることは信じがたいのです。

イスラエル人は紅海の奇跡からわずか三日後に、水がなくて文句を言い始めました。

紅海を渡った後、イスラエル人は神にはどんなことでもできるのですと信じるべきでした。 もちろん、神様は荒野で水を備えてくださるのです。

やっと水を見つけたものの、その水はあまりにも苦く、再び人々は不平を言い始めました。

けれども、神様はモーセに「一本の木を水に投げ込みなさい」と言われました。

その後、その水は甘くなりました。そして、神様は言われました。

もし、あなた方が私に従うなら、私はあなたの癒し主になる。このマラの水を癒したように、あなた方も癒します。(出エジプト記15:26)

私たちはイエス様に従いながら、時に苦い経験をします。

ある時、それはまったく私たちのせいではありません。すなわち、サタンが私たちを攻撃することもありますし、この壊れた世界の現実によって苦しむこともあります。

とはいえ、時には私たち自身の誤った決断によって苦しむこともあるのです。

どのような原因であれ、苦い時に、神様は私たちの癒し主であることを約束してくださいます。それでも、同時に神様は私たちの従順を求められます。

時々、私たちはそのことを聞きたくないです。私たちは恵みによって救われたでしょう?なぜ服従が必要なのでしょうか。

けれども、以前述べたように、多くの場合、まず服従があり、その後に神様の祝福が与えられるのです。

結婚に癒しが必要でしょうか。癒しのために祈るだけでは十分ではありません。神様の御言葉に従わなければならないのです。

すなわち、妻を愛し、妻のために自分自身を犠牲にし、妻を敬わなければなりません。

また、夫を尊敬し、夫に従わなければなりません。

そうしなければ、結婚に癒しは起こらないのです。

経済に癒しを求めるでしょうか。祈るだけでは十分ではありません。

働かなければならないのです。経済の計画を立てなければならないのです。忠実な管理人としてお金を用いなければなりません。

そのお金は神様から委ねられたものだからです。それを覚えていなければ、経済に癒しは起こらないのです。

モーセは神様の命令に従わないと、その水は甘くなりませんでした。

その命令はちょっとおかしなものでした。おそらく、モーセはこのように考えたのかもしれません。

「もしその木を水に投げ込んだら、どうやって甘くなるのか」ということです。

それでも、モーセは神様の命令に従ったのです。

時に、私たちは神様にこう尋ねます。「十一献金を捧げたら、どうやってお金を蓄えることができるのでしょうか。」

または、こう言います。「私の夫は私を愛してくれない。どうして私は尊敬しなければならないのでしょうか。」

あるいは、こう思います。「私の妻は私に従わない。どうして私は愛を示さなければならないのでしょうか。」

しかし、服従だけによって、神様の癒しと祝福を見つけられます。

もし私たちが不服従の人生を歩み続けるなら、神様は困難が訪れることを許されるのです。エジプト人はそのことを学びました。

けれども、エジプト人への呪いとは異なり、神様が積極的に呪う必要はありません。神様はただ、私たちの行動の結果を刈り取ることを許されるのです。結局、私たちは自分自身の行動によって自らを呪うのです。

あなたはどうでしょうか。今、苦しみの中にあって癒しを必要としていますか。もしそうなら、神様の御言葉に従ってください。

たとえ難しくても、理由が分からなくても、従うのです。そうすれば、神様はあなたを癒してくださるのです。

カテゴリー
出エジプト記

神様は。。。

モーセとミリヤムは才能ある賛美の作り手だったのか、それとも神様がその歌を直接教えられたのか。あるいは、その奇跡の直後にモーセとミリヤムがその歌を作ったのかもしれません。

いずれにせよ、これは神様がどのようなお方であるかを表す素晴らしい歌です。すなわち、神様こそ勝利者です。

馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。(出エジプト記15:1)

イスラエルの敵が彼らを捕らえ、殺そうとして迫ってきた時、神様が臨まれ、イスラエルに勝利を与えられました。

エジプト人のように、サタンは盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかし、コロサイ2:15にはこう書いてあります。

神は、キリスト「の十字架」において、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜​として凱旋の行列に加えられました。

また、モーセはこう言いました。

主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。(出エジプト記15:6節)

神様は私たちの力です。

私たちが弱くて力がなかった時に、神様は力を持って、私たちを助けてくださいました。

ローマ書5:6にはこう書いてあります。

私たちがまだ弱かった時、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んで下さいました。

私たちは罪から自分自身を救い出せませんでした。けれども、神様はエジプト人からイスラエル人を救い出したように、イエス様の死によって、私たちを救い出してくださいました。

そして、私たちが弱くて、敵が近づくときに、神様は私たちにしっかり立つ力を与えてくださいます。

神様は私たちの歌であり、私たちの喜びです。

私たちが苦しむときに、もし、私たちが神様に信頼したら、神様は私たちに歌う心を与えてくださいます。そして、救い出されたあとで、私たちが振り返るときに、神様の愛と忠実さを喜ぶことができます。

神様は私たちの救いです。

神様の愛と恵みによって、私たちを罪と死から救ってくださいました。それだけでなく、私たちを敵と恐れと試練から救い出してくださいます。

神様は私たちのリーダーです。

神様はエジプトからイスラエル人を贖い、絶えず愛を持って、約束の地に導かれました。

同じように、神様はイエス様の血によって私たちを贖ってくださいました。そして、絶えることのない愛をもって私たちをこの世で導き、やがて天国へと連れて行ってくださいます。

モーセは言ったように、

主よ。神々のうち、誰かあなたのような方があるでしょうか。

誰があなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しい業を行うことができましょうか。(11節)

イスラエル人が荒野を歩む時に、すぐに忘れてしまったことは信じがたいことです。

とはいえ、私たちもまたすぐに忘れてしまうことがあります。

だからこそ、私たちの人生の荒野を歩む時に、この歌を思い起こしましょう。神様がどのようなお方であるかを覚えていましょう。

カテゴリー
出エジプト記

しっかり立って、前進する

私の意見ですが、多分、パロはイスラエル人を決して解放するつもりがなかったと思います。

なぜなら、モーセは「解放してください」とは全く願わず、「神様に犠牲を捧げるために行かせてほしい」と言っただけだったからです。

だから、最後の奇跡のあとで、パロが「行きなさい」と言った時、多分彼の意味したことはこうだったのでしょう。

「その犠牲を捧げなさい。羊や家畜を連れて行ってもよい。イスラエル人の皆さんは行って来てもよい。」(出エジプト記12:31ー32)

だからこそ、パロはイスラエル人がエジプトから脱出しようとしていると聞いた時、軍隊をイスラエル人を捕まえるために送ったのです。

イスラエル人にとっては、とても恐ろしい状況だったと思います。荒野と海に閉じ込められ、エジプトの軍隊が急速に迫ってきていました。

そのため、彼らは恐慌に陥り、モーセに向かって叫びました。

エジプトには墓がないので、あなたには私達を連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。 (出エジプト記14:11)

しかし、モーセは答えました。

「恐れてはいけない。しっかり立って、今日、あなた方のために行われる主の救いを見なさい。

あなた方は、今日見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。

主があなた方のために戦われる。あなた方は黙っていなければならない。」(13ー14節)

そして、神様はモーセに言われました。

なぜあなたは私に向かって、叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。(15節)

「しっかり立ちなさい。」

トラブルがあると、私たちはよく震えます。健康のトラブルがある時、経済のトラブルがある時、人間関係のトラブルがある時。

しかし、神様はこう言われます。

「震えるな。しっかり立ちなさい。私はあなたが基づくことができる岩です。私はあなたのために戦います。あなたを救いだします。この問題はすぐに消えます。」

どれほど、私たちは様々なトラブルに直面し、ストレスを感じるでしょうか。それでも、その問題は最終的には解決します。

そして、振り返るとき、神様が私たちを救い出してくださったことが見えるでしょう。

神様は、いつも私たちの問題をすべて取り去ると約束されたわけではありません。時には、私たちは大きな苦しみや悲しみを経験します。

けれども、振り返ると、どれほど神様が私たちを助けてくださったかが分かります。

だから、辛い試練が来る時に震えないでください。しっかり立ってください。

「前進しなさい。」

どれほど問題が私たちを妨げようとするでしょうか。そのとき、前進し続けましょう。

時には、私たちが神様に従う時、敵が攻撃します。

もし私たちが神様の御国のために働くなら、サタンは必ず攻撃してきます。

しかし、たとえサタンがあなたを攻撃しても、神様に従うことを決して諦めず、前進し続けましょう。

そうすれば、神様はあなたを救い出してくださいます。

時には、私たちは誤った決断をしてトラブルを招くことがあります。

それでも、後悔や過去にとらわれず、前進しましょう。

私たちは過去を変えることはできません。けれども、前進して神様に従うなら、将来は必ず良くなるでしょう。

パウロはこう言いました。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。

ただ、捕らえようとして、追求​しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいませ ん。

ただ、この一時に励んでます。すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠 を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12ー14)

どんな試練に直面しても、しっかり立ちましょう。

神様があなたの味方であることを覚えておきましょう。

神様があなたのために戦ってくださることを思い出しましょう。

神様があなたを救い出してくださることを心に留めておきましょう。

そして、前進しましょう。

問題があなたを止めないようにしましょう。

神様の御心にかなうようにし続けましょう。

諦めずに、一心に走り続けてください。

神様はあなたとともにおられ、救い出してくださるからです。

カテゴリー
出エジプト記

神様の導き

今日のブログは短いと思います。この箇所で、神様の導きについて、3つのポイントが印象に残っています。

最初は、神様は私たちが耐えられない状態に導かれません。17節には、こう書かれています。

さて、パロがこの民を行かせた時、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった。神はこう言われた。

「民が戦いを見て、心が変わり、エジプトに引き返すといけない。」

神様はイスラエル人がペリシテ人の国に行くことが耐えられないと知っておられたので、別の道に導いてくださいました。

そのように、私たちの人生に辛い状態が来ても、神様は私たちが耐えられない状態を許されません。

ある人はこう言いました。「私たちが経験した試練は、まず神様の手に通されています。」

パウロもこう言いました。

あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなこ とはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道を備えて下さいます。(第一コリント10:13)

2つ目は、神様の導きが信頼できることです。

神様は何をされているのか、私たちをどこに導いてくださるのかを知っておられます。だから、私たちは神様に頼ることができます。

ヨセフもそう思いました。だから、兄弟たちに言いました。

神は必ずあなた方を顧みてくださる。その時、あなた方は私の遺骸をここから携え上らなければならない。(出エジプト記13:19)

最後に、神様は私たちの前を進んで、導いてくださっています。私たちがするべきなのは、神様に従うことだけです。

この箇所の最後の部分が大好きです。

主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。(21ー22節)

神様はいつも私たちの前を進んで、私たちの道を照らしてくださいます。

私たちがはっきり見ることができる時も、暗くて曇っている時も、神様は決して私たちの前から離れないのです。

カテゴリー
出エジプト記

思い出しなさい

私が大好きな映画は「スター・トレックⅡ カーンの逆襲」という映画です。

クライマックスのシーンで、スポックはエンジンを修理するために、放射能のある部屋に入りました。彼は死ぬとわかっていましたが、入りました。

友だちがスポックを止めようとしたときに、スポックは彼をノックアウトしました。

けれども、その部屋に入る前に、スポックは友達に触れて、「思い出してください」と言っていました。

あとで、私たちはその意味がわかりますが、その時、スポックの意味は「私を思い出しなさい。何をしたか思い出してください。」だと思いました。

そのように、神様はイスラエル人に言われました。

「この日を思い出しなさい。私が何をしたかを思い出しなさい。あなたをエジプトの奴隷生活から解放へと導いたことを思い出しなさい。私はあなたを死から命へと導いたことを思い出しなさい。」

神様は私たちも思い出すことを望まれています。私たちが神様の子供になり、罪の奴隷生活から解放された日を思い出すことを望まれています。どうしてでしょうか。

多分、私たちはすぐに忘れるからです。忘れたら、どうなるでしょうか。

私たちの愛はだんだん減ります。

私たちは初めてクリスチャンになるときに、神様がしてくださったことに本当に感謝して、私たちの愛はものすごく強いです。

私たちの罪のために十字架で死なれ、滅びの穴からも泥沼からも引き上げ、私たちの足を巌の上に置いてくださいました。

けれども、それを忘れると、私たちの愛は次第に弱くなります。イエス様とその愛を当然のことと考えるようになり、やがてイエス様を大切にしなくなり、お金や経歴を求め始めるのです。

だから、神様はイスラエル人に言われました。

「この素晴らしいところに行ったら、この儀式を祝いなさい。なぜなら、あなたは私が何をしたか忘れないからです。

あなたの人生がうまく行ったら、私がしたことを思い出して、祝いなさい。そうすれば、あなたは私の業と愛を忘れない。」

しかし、神様は私たちのためだけではなく、思い出すことを望まれています。イスラエル人にこう言われました。

その日、あなたは息子に説明して、「これは、私がエジプトから出て来た時、主が私にしてくださったことのためなのだ」と言いなさい。(8節)

14ー16節で、神様は言われました。

後になってあなたの子があなたに尋ねて、「これは、どういうことですか。」と言う時は彼に言いなさい。

「主は力強い御手によって、私たちを奴隷の家、エ ジプトから連れて出された。

パロが、私たちを、なかなか行かせなかった時、主はエジプトの地の初子を、人の初子を初め家畜の初子に至るまで、皆殺された。

それで、私ははじめに生まれる雄を皆、いけにえとして、主に捧げ、私の子供たちの初子をみな、私は贖うのだ。」

これを手の上の印とし、また、あなたの 額の上の記章としなさい。それは主が力強い御手によって、私たちをエジプトから連れて出されたからである。」

神様は私たちとの親しい関係を望んでおられます。しかし、それだけではなく、私たちの子どもたちとも親しい関係を持ちたいと願っておられます。将来の世代の人々とも親しい関係を持ちたいのです。

だから十字架を忘れないでください。イエス様の犠牲を忘れないでください。そして、将来の世代にイエス様の業を伝えましょう。

あなたが私の名前を呼んでくださった日を覚えています。
あなたが優しく導いてくださったことを覚えています。

私はひれ伏して、あなたを拝みます。
私のすべての賛美をあなたに捧げます。

 

カテゴリー
出エジプト記

新しいスタート

この箇所はシンボリズムが多いです。特に神様が新しいカレンダーについて話された時です。

イスラエル人にとっては、エジプトから救い出された日が新しいカレンダーの初めでした。

たぶん、神様が伝えたかったのは「これからは新しい人生が始まっている。だから、いつも、この日を思い出してください。」ということです。

その1月の14日に、イスラエル人は子羊の犠牲を捧げました。その後で、その羊肉と種を入れないパンと苦菜を食べました。

羊は完璧でなければならなかったし、骨が折れたらだめでした。

イスラエル人は早く去ることができなければならなかったから、種を入れないパンを作りました。

そして、食べながら、彼らは腰の帯を引き締め、足に靴を履き、手に杖を持ちました。

そして、彼らは羊の​血を取り、二本の門柱と、鴨居につけました。なぜならば、滅ぼす者はイスラエル人の家を過ぎ越して、その家の初子を打たないからです。

私は言ったように、本当にたくさんのシンボリズムがあります。イスラエル人にとっても、私たちにとってもシンボリズムがあります。

苦菜はエジプトの苦い苦しみのシンボルでした。

そのように、私たちも、ずっと神様から離れて、苦い苦しみを経験しました。他の人の罪によって、私たちは苦しんだし、自分自身の罪によっても苦しみました。だから、私たちは神様に必死に叫びました。

聖書では、パン種が罪のシンボルです。

神様は「パン種を捨てなさい」と命じられました。

そのように、彼らは人生から罪を出さなくてはならなかった。つまり、エジプトの偶像礼拝の習慣を止めなくてはなりませんでした。

種のあるパンはエジプトから速い脱出を妨げるように、罪は神様に従うことを妨げます。だから、イスラエル人は直ちにパン種と罪を捨てなくてはならなかった。

次の日でもなかった。次の週でもなかった。直ちに、それらを捨てなくてはならなかったのです。

そのように、私たちも、罪から離れなくてはなりません。つまり、悔い改めなくてはなりません。

もう一つのシンボルは子羊でした。それはキリストのシンボルです。子羊は完璧でした。

死んだ時に、骨は折られませんでした。そして、その死によって、人々を滅ぼす者から救われました。

そのように、キリストが死なれた時、骨は折られませんでした。 そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の死から救い出されたのです。

果たして、神様は偶然に血を二本の門柱と鴨居につけよと命じられたのでしょうか。それとも、それは十字架に流された血の象徴だったのでしょうか。

これら全部は私たちに新しいスタートを与えるためでした。

だから、急ぎましょう。私たちを滅ぼす罪深い生き方を捨てて、イエス様のもとへ走りましょう。なぜなら、イエス様の死によって、私たちは救い出していただいたからです。

一切の重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐を持って走り続けようではありませんか。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

イエスは、ご自分の目に置かれた喜びのゆえに辱しめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなた方は、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方の事を考えなさい。

それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:1-3)

カテゴリー
出エジプト記

頑固さとプライド

私はこの箇所を読むと、パロの頑固さに驚きます。

パロの呪法師が最初の3つの奇跡を真似できたことで、パロの頑固さが少し理解できます。

けれども、その後で、パロには言い訳がありませんでした。なぜなら、モーセの言葉によって、いろんなトラブルが来たり消えたりしたからです。

それに、エジプト人が苦しむ中で、神様はイスラエル人を守られました。

パロの家臣たちさえ信じ始め、パロを説得しようとしましたが、パロは信じることを拒否しました。なぜでしょうか。

たぶん、プライドが強すぎて、「私は絶対に屈服しない。何が起こっても、屈服しない。」という態度だったのでしょう。

最初の奇跡の後、その態度がよく見えます。パロの呪法師がナイル川でモーセの奇跡を真似すると、パロは身を返して、自分の家に入りました。

パロはプライドを放さず、神様を認めることを拒否したため、彼の人生はめちゃくちゃになってしまいました。

エジプトの経済はモーセの奇跡によってだめになり、紅海でパロの軍隊も滅びました。

パロが愚かだったと言うのは簡単です。しかし、私たちはどうでしょうか。

私たちの人生がめちゃくちゃになっても、どれくらい自分のプライドを持ち続けるでしょうか。

夫たちと妻たちが自分のプライドを持ち続けて、神様の道を行かず、自分の道を行くことで、その結婚がだめになってしまうことがどれくらいあるでしょうか。

私たちが自分のお金の使い方が間違っているのに変えず、経済がだめになってしまうことがどれくらいあるでしょうか。

または、ギャンブルによって私たちの経済がだめになってしまうことがどれくらいあるでしょうか。

神様が聖書や他の人を通して、私たちの破壊的な習慣について注意してくださるのに、私たちはどれくらい悔い改めないでしょうか。

高ぶりは破滅に先立ち心の高慢は倒れに先立つ。

私たちがプライドを持って、神様に聞くことを拒否するなら、結局、私たちの人生はめちゃくちゃになります。

パロはその通りでした。私たちもその通りです。

私たちの関係も、経済も、人生の全てがだめになってしまいます。

しかし、もし私たちが神様の前に謙遜になり、プライドを捨てて、神様に従うなら、祝福を見いだすことができます。その祝福は、私たちの人間関係や生活の経済の中に現れ、さらに私たちが何をしても、神様の祝福を見いだすことができるのです。

ヤコブ4:6にこう書いてあります。

神は、高ぶるもの退け、へりくだるものに恵みをお授けになる。

また、ヤコブ4:10にこう書いてあります。

主のみ前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くして下さいます。

イエス様、私は頑固になって、あなたの声を聞きたくない時があります。だから、私は苦しみました。

私がプライドを放せるように助けてください。へりくだる心を私に与えてください。私にあなたの注意を聞く心を与えてください。

そうすれば、私を高くしてくださることを知っているからです。アーメン。

カテゴリー
出エジプト記

偽物

試合を始めましょう!まあ、実は、試合じゃないけど、試合のようなものです。

パロが神様の御言葉を拒絶して、イスラエル人をさらに迫害した後で、神様はご自身をパロに現されました。つまり、神様がすべての主であることを示されました。

最初に、神様はモーセの杖を蛇に変えられました。

次に、ナイル川を血に変えられました。

その後、神様は蛙を用いて打たれました。

ところが、なぜだか、パロの呪法師もその奇跡を行いました。

どうして彼らはそのようなことができたのでしょうか。サタンの力によって行ったのかもしれません。

やがて反キリストが現れる時、彼もまた多くの驚くべき奇跡を行うでしょう。(マタイ24:24)

とはいえ、もしかすると彼らは単なるトリックを知っていて、そのようにしただけなのかもしれません。

けれども、すぐにそのトリックが通用しなくなり、神様の奇跡を真似できなくなりました。

神様の4つ目の奇跡を行うまでに、その呪法師は何もできなくなりました。ブヨを作れないと彼らが言ったのは、「これは神の指です。」ということです。(出エジプト記8:19)

神様の6つ目の奇跡までに、彼らは自分の足で立てなくなりました。足に腫物があったからです。(出エジプト記9:11)

7つ目の奇跡のとき、彼らはモーセの雹の警告を聞いて、自分の家畜としもべを家に避難させました。(出エジプト記9:20)

8つ目の奇跡のとき、彼らは皆と一緒にパロに「イスラエル人を行かせてください!」と言いました。(出エジプト記10:7)

私のポイントは?

神様から私たちを引き離すために、サタンは偽物を使います。偽物の奇跡によって、パロは神様を信じませんでした。

けれども、その偽物は脆い模倣です。そして、私たちが騙されたら、滅びます。

例えば、神様は結婚の中でセックスを祝福として与えてくださいました。特別な方法で、男性と女性を結びます。肉体的にだけでなく、感情的にも、霊的にも結びます。

サタンは何を提供するでしょうか。ポルノ、売春、どこでも、誰とでも、いつでものセックス。

結果は何でしょうか。砕かれた心、壊れた結婚、傷ついた子供、中絶、性病、死。

神様の愛と受け入れと赦しによって、私たちは本当の愛を知ることができます。そして、神様の愛を知れば知るほど、他の人との関係も強くなります。

相手が、私たちが彼らを愛し、受け入れ、許していることを理解すれば、私たちの結婚や友情はさらに強められます。

そして、私たちは神様との関係と友情の中で安心することができます。なぜなら、私たちは受け入れられているからです。愛されているからです。

その一方、サタンが提供するのは条件付きの愛です。

「もし何かを受け取れば、この関係を続ける。だが、受け取らなければすぐに去ってしまう」という愛です。

その結果はどうなるでしょうか。関係は長続きしません。

そして、私たちは問いかけます。

「なぜ私はだめなのでしょうか。どうして、私の関係はいつもだめになってしまうのでしょうか。」

結局、私たちは落ち込み、絶望してしまいます。

神様はご自身との関係によって喜びを提供してくださいます。神様は永遠の方だから、その喜びも永遠に続きます。

サタンは何を提供するでしょうか。一時的な喜びです。お金、車、家、持ち物。

けれども、そのすべては一時的なものにすぎないので、その喜びもまた一時的です。そのため、私たちは空しくなり、いつも何かを求め続けますが、決して満足することはできません。

あなたは何を求めるでしょうか。本物か偽物でしょうか。

偽物を求めるなら、パロのように、あなたが持っていたものも、望んでいたこともすべて失ってしまいます。

しかし、本物を求めるなら、真の命を見いだすことができます。 イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

私が来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)

あなたは誰に従っているのでしょうか。

カテゴリー
出エジプト記

あなたに​従ったけど、どうなったか見てください。

モーセは、神様が何が起こるか言われなかったと言えませんでした。神様は「パロの心が固くなるよ。びっくりしないでください。」と言われていました。

それでも、モーセは文句を言っていました。

モーセとアロンはパロの前に行って、三日間の休みを頼みました。「私たちは神様にいけにえを捧げたいからです。」と言いました。

「イスラエル人を開放しなさい」とは言わず、「ちょっと旅行したいです」と言っただけです。

けれども、パロはこう答えました。

「主とは一体何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。あなたは怠け者なだけです。行け!働け!」

それに、パロは監督に命じました。

お前たちはレンガを作るわらをこれまでのようにこの民に与えてはならない。自分でわらを集めに行かせよ。

そしてこれまで作っていた量のレンガを作らせるのだ。それを減らしてはならない。(出エジプト記5:7ー8)

イスラエル人が文句を言っていたときに、パロは答えました。

「あなたのせいです。あなたは怠け者ですから。働け!」

だから、イスラエル人はモーセに文句を言って、もはやモーセの言葉を聞かなかったのです。

そして、モーセは神様に文句を言いました。

主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。

私がパロのところに行って、あなたの御名によって、語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。

それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。(出エジプト記5:22ー23)

つまり、「私はあなたが言われた通りにしたんだけど、何が起こったか見てください。」

神様はもう一度、モーセにパロのところに行きなさいと言われたとき、モーセは答えました。

イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。

私は口下手なのです。(出エジプト記6:10)

神様はモーセが従ったら、全てがスムーズに行くことを約束されませんでした。神様は何が起こるか教えてくださっていました。

しかし、モーセは忘れてしまったため、うまくいかないと、すぐに諦めたくなりました。

私たちの人生が上手くいかないと、どれぐらい私たちはその態度を取るでしょうか。

時々、私たちは神様が言われた通りにしますが、大変な状態になります。そして、私たちは文句を言って、諦めたくなります。

私たちがクリスチャンになるときに、神様はスムーズな人生を約束されません。幸せで、トラブルがない人生を約束されません。

イエス様はこう言われました。

誠に、あなた方に告げます。私のために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てたもので、その百倍を受けない者はありません。

今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠の命を受けます。(ルカ10:29ー30)

多くの人は神様から良い物をいただくことが大好きです。しかし、神様が言われたのは、クリスチャンの人生には迫害が普通であるということです。

イエス様は言われました。

あなた方は世にあっては患難があります。(ヨハネ16:33)

イエス様は「患難があるかもしれない」とは言われませんでした。

「万が一、患難が来るかもしれない」とも言われませんでした。

「患難が絶対に来る」と言われました。

けれども、その後で、イエス様は言われました。

しかし、勇敢でありなさい。私はすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33b)

つまり、この世に、迫害と試練があっても、神様は私たちを助けてくださいます。

イエス様は私たちの一番大切な必要を十字架で満たしてくださったので、他の必要も満たしてくださいます。

ですから、神様に従うとき、あなたの道がいつもスムーズであるわけではないことを覚えていましょう。

神様が約束されたのは、もし神様に従うなら、その問題を乗り越えて、あなたが喜ぶことができるということです。

だから辛い時に、諦めないようにしましょう。神様に従う人にとっては、結局後悔がないのです。

カテゴリー
出エジプト記

小さい事じゃない

この箇所について書くかどうかちょっと考えていました。少し難しい所ですし、この箇所を読んで、少し驚きました。

モーセがエジプトに向かう途中、突然、神様はモーセを殺そうとされました。どうしてでしょうか。

モーセは神様の命令に従わなかったからです。つまり、息子に割礼を行いませんでした。

そして、神様はそのことを軽く考えておられませんでした。モーセを殺そうと考えられたのです。なぜでしょうか。なぜそんなに大切な事だったのでしょうか。

実は、服従はいつもとても大切なのです。

誘惑が訪れる時、私たちはしばしばこう考えてしまいます。

「これは小さな罪だろう。別に構わないはずだ。神様はそんなに怒られないだろう。」

そして、その思いに引きずられて、私たちは誘惑に敗れてしまいます。

しかし、小さいという罪は全くありません。聖書に書いてあるのは「罪から来る報酬は死です。」ということです。(ローマ6:23)

「大きな罪から来る報酬は死である」とは書かれていません。

「すべての罪から来る報酬は死である」と書かれているのです。

私たちが小さいか大きいかと思うかどうかは関係ありません。

最初の罪、つまり、アダムとエバが禁断の木の実を食べたことについて考えたら、その罪はレイプや殺人ほど悪くないでしょう。

ところが、その罪の結果は死でした。その結果は神様から離れることでした。

その罪が原因で、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださったのです。

もし、私の罪が小さいと言ったら、イエス様の死を軽蔑することになります。

もし、罪が小さいことだったら、イエス様が死ぬ必要はなかったのです。しかし、イエス様が十字架で死んでくださらなかったら、私たちは神様から永遠に離れることになります。

モーセが学んだのは、小さい罪などないということです。すべての罪は重大なことです。

多分、神様は「息子に割礼をしなさい」と命じられたのでしょう。アブラハムとの契約の一部だったからです。それでも、モーセは割礼を行いませんでした。

理由は分かりませんが、細かい事だと思ったかもしれません。

あるいは、モーセの妻は割礼が嫌いだったかもしれません。彼女は息子に割礼を行ったとき、あまり嬉しくなかったようです。

とにかく、モーセが神様の命令に従わなかったため、神様はそれを真剣に扱われました。

あなたはどうでしょうか。

モーセのように神様の言葉を無視しますか。

罪を軽く見て、「神様は気にされないだろう」と思うでしょうか。

神様は、どの罪でも無視されないことを覚えておきましょう。すべての罪は重大なことです。

そう思わなければ、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵の御霊を侮る」 (へブル10:29)

私たちの人生の中の罪を無視することは、決して小さな事ではありません。

だからこそ、神様の御心にかなう態度を取りましょう。

カテゴリー
出エジプト記

心配している?それとも、言い訳を言っている?

神様がエジプトからイスラエル人を救い出すためにモーセを呼ばれた時に、モーセは従いたくなかったから、たくさんの言い訳を言いました。

「私は資格がないです。私は取るに足りない人です。それに、あなたは誰ですか?」

神様が答えられた後で、モーセにはもっと言い訳がありました。

「誰も信じてくれないです。」

それは良い言い訳だと思います。なぜなら、以前、誰もモーセのリーダーシップを受け入れていなかったからです。

それに、もし誰かがあなたの将来について「神様からのメッセージがある」と言ったら、あなたはどう思うでしょうか。信じるでしょうか。

だからこそ、神様はモーセにしるしを与えてくださったのです。

「信じてくれないなら、そのしるしを示しなさい。」と命じられました。

それでも、モーセは、まだ言い訳がありました。

私は言葉の人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く舌が重いのです。(出エジプト記4:10節)

ある人が思うのは、モーセはどもったということです。それとも、モーセはスピーチの障害があったと思います。

それが本当かどうか分かりません。ある可能性はモーセが人の前に立ったら、緊張し過ぎたかもしれません。

とにかく、神様はその言い訳を受け入れませんでした。

「モーセ。私はあなたを造った。あなたの長所も短所もすべて知っている。私はあなたの口を造った。だから、行きなさい。私はあなたの口と共にいて、あなたの語るべきことを教えよう。」

だから、モーセはやっと正直に言いました。

「神様。他の人を遣わしてください。」

つまり、「でも。。。行きたくありません。」

その時、神様は怒られました。

「分かった。あなたの兄アロンがあなたを助けるだろう。だが、この使命から逃れることはできない。アロンと共に行き、パロに面と向かいなさい。」

神様があなたに何かを委ねられる時、あなたはどのように応答するでしょうか。

「はい。行きます。」と答えるでしょうか。

それとも、「でも、神様…」と答えるでしょうか。

ある時、私たちは良い理由で心配しています。

けれども、ある時、その理由は言い訳だけです。つまり、私たちは信仰がないから、神様に従いたくないです。

神様がモーセにいろんなしるしを示してくださっても、励ましてくださっても、モーセは信仰を持っていなくて、全然やる気がありませんでした。

どうしてか分かりませんが、多分失敗を恐れていたかもしれません。以前、努力したのに、失敗しました。もう一回失敗してしまうと思ったかもしれないから、エジプトに行きたくなかったのです。

私は彼の気持ちを理解できます。信仰で歩むのは怖いです。私は失敗が大嫌いです。安全に進みたいです。

しかし、私たちのために神様が準備してくださったプランを知るために、私たちは神様に信頼して、その信仰の一歩を踏み出さなければなりません。

良いことに、私たちが一人でしなくていいです。神様は私たちと共に歩んでおられます。

それに、私たちの周りのクリスチャンがいます。アロンはモーセを励まして手伝ったように、周りのクリスチャンが私たちを励まし手伝ってくれるのです。

カテゴリー
出エジプト記

神様は何者でしょうか。私たちは何者でしょうか。

モーセはイスラエル人を救い出すために、エジプトへ行くことを望みませんでした。数年前、イスラエル人を助けようとしましたが、彼は拒絶されました。それでも、神様は「エジプトに戻りなさい」と命じられたのです。

モーセが力あるエジプトの若い王子であった時に、もし神様が彼を呼ばれていたなら、多分モーセはためらわなかったでしょう。

ところが、呼ばれた時にはモーセはすでに80歳でした。彼の力と権威はとうの昔に失われ、若者の自信と大胆さもすでに消えていました。残されていたのは、砕かれた老人だけでした。

だから、モーセは言いました。

私はいったい何者なのでしょうか。 (出エジプト記3:11節)

「神様、私は取るに足りない者です。羊飼いにすぎません。力もありません。エジプトではもはや影響力を失いました。

それに、かつて自分の民を助けようとしたのに、彼らは私に背を向けました。だから、私はエジプトから逃げざるを得ませんでした。神様、果たしてこの私を遣わそうとしておられるのでしょうか。

神様の答えは興味深いでした。モーセの質問を無視して、答えられました。

私はあなたと共にいる。

これがあなたのための印である。私があなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出す時、あなた方は、この山で、神に仕えなければならない。(12節)

つまり、「あなたが何者か気にしないです。構わないです。大切なのは、私が何者かです。私はあなたと共にいるから、できます。」

どれほど神様が何かをしなさいと命じられる時に、私たちは「私はいったい何者なのでしょうか」と尋ねることでしょう。

「私は才能がありません。私は取るに足りない者です。」

しかし、神様は答えられます。

「あなたが何者か構わないです。私はあなたと共にいるからです。だから、私はあなたを助けてあげます。あなたはできます。」

時々、いったいどうして神様は私を日本に遣わされたかと思います。

宣教師として来ましたが、私は別に外向的な人ではありません。実は、私はかなりシャイです。知らない人に会うことが苦手です。スムーズに会話を続けることが苦手です。

それに、私の日本語もあまり上手ではありません。

だから、どうして神様が私を選ばれたのか、私には分かりません。

ただ一つ確かなのは、神様が私をここに遣わし、私と共にいてくださるということです。そして、私は神様の愛によって人々の人生に触れることができました。

とにかく、神様がモーセの最初の質問を無視されたので、モーセは次の質問をしました。

「あなたは誰でしょうか。イスラエル人のところに行く時に、誰が私を遣わしたかと言いましょうか。あなたの名前は何でしょうか。」

神様は答えられました。

私は「私はある。」という者である。

あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。

「私はあるという方が、私をあなた方のところに遣わされた。」と。(14節)。

それはどういうことでしょうか。

その意味は、「私は永遠の方である。私は初めから存在し、いつまでも存在し続ける。私は決して変わらない方である。だから、私はアブラハム、イサク、ヤコブに約束したことを果たし、私の民を救い出す。」

この話から、私たちは何を学べますか。

アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセと共に歩んでおられた神様が、今も私たちと共に歩んでくださることを確信できます。

彼ら四人が何度も失敗したのに、神様は彼らを諦められませんでした。同じように、神様は私たちをも決して諦めません。

神様が彼らに忠実であったように、私たちにも忠実でいてくださいます。たとえ私たちが罪を犯しても。たとえ私たちが失敗しても。私たちには弱さが多くありますが。

だから、もしあなたが自分を嫌い、「私はダメだ」と思う時には、神様がどのようなお方であるかを心に覚えておきましょう。神様の約束を心にしっかり留めておきましょう。

主ご自身がこう言われるのです。「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)

私たちは​失敗しても、罪を犯しても、神様が私たちを捨てません。

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して、何ができましょう。」(ヘブル13:6)

神様がどうやって私たちを用いることができるかと思うのに、また、他の人の反応を恐れるのに、私たちは確信を持って、「神様は私と共におられ、私を助けてくださいます」と言えます。

イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです。(へブル13:8)

周りの人が変わっても、私たちの状況が変わっても、たとえ私たち自身が変わっても、イエス様は決して変わらず、いつも私たちに忠実でいてくださいます。

カテゴリー
出エジプト記

神様はどこでしょうか

「神様はどこでしょうか。」

辛い時に、多くの人々はそう聞きます。

「神様!苦しんでいますよ。見ておられますか?聞いておられますか?あなたはどこですか?」

エジプトで、イスラエル人はそのように感じていたと思います。2章の最後に、次のように書かれています。

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。(出エジプト記2:23節)

私の大学の宗教の授業で、教授はユダヤ人の大虐殺について話しました。教授が言われたのは、牢屋で、あるユダヤ人が壁に「神様はどこですか」と書いていたということです。

「神様はどこですか。私たちが苦しむ時に、どこにおられるのでしょうか。どうして、助けてくださらないのでしょうか。」

何年か前、私の妻の友人が自ら命を絶ちました。その時、妻はこう問いかけました。

「神様はどこにおられたのでしょうか。どうして、神様は彼を止めてくださらなかったのでしょうか。」

それは難しい疑問です。私は答えられません。私が言えるのは聖書の教えだけです。

イスラエル人について、次のように書かれています。

彼らの労役の叫びは神に届いた。。。

神はイスラエル人をご覧になった。神は御心を留められた。 (出エジプト記2:23,25)

そして、神様はモーセにこう言われました。

私は、エジプトに居る私の民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼の叫びを聞いた。

私は彼らの痛みを知っている。

私は下ってきたのは、彼らをエジプトの手から救い出す。。。ためだ。(出エジプト記3:7-8)

神様は私たちにも同じことを言われます。

「あなたの叫び声を聞いておられます。あなたの惨めさを見ておられます。だから、私はあなたを救い出すために来ました。」

この世界に私たちが見える悪は罪の結果です。

エジプト人の罪によって、イスラエル人は苦しみました。そして、ドイツ人の罪によって、ユダヤ人は苦しみました。

この世界の多くの苦しみは、人が人を傷つけることから来ます。また、多くの人が神様に背を向けて自分の道を行くから、苦しみが来ます。だから、多くの人は苦しんで叫びます。

しかし、神様は私たちの叫び声を聞いてくださいました。私たちの惨めさを見てくださいました。だから、人間としてこの世界に来られ、この罪深い世を癒すために、十字架で死なれました。

神様はどこですか。

神様はここにおられます。それだけではなくて、神様に信頼してイエス様を救い主として受け入れた人の中に住んでおられます。

だから、神様はモーセに言われたように、私たちにも言われます。

「今、行け。私はあなたをパロのもとに遣わそう。私の民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」(出エジプト記3:10)

神様は奴隷の人生からイスラエル人を救い出すためにモーセをエジプトに遣わされました。そのように、神様は罪の鎖から人々を解放するために私たちを遣わされます。

だから、私たちは苦しんでいる人を見て、「神様はどこですか」と聞いたら、答えを忘れないでください。

神様はあなたの中に住んでおられます。だから、あなたは何をしますか。

あなたは、その苦しみを見るけど、何もしないでしょうか。

それとも、その人々にとって、あなたは神様の手と足になるでしょうか。

私たちは苦しむときに、神様があなたの中に住んでおられることを覚えておきましょう。あなたを捨てていません。

神様が約束されたのは、「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ということです。(ヘブル13:5)

でも、神様が教会の兄弟たちと姉妹たちの中に住んでおられることを覚えておきましょう。あなたが苦しむときに、彼らがあなたに触れるための、神様の手と足と耳と口です。だから、彼らから逃げないようにしましょう。

私たちは苦しむときに、他の人から隠れることが簡単です。そして、一人で泣いて苦しみます。

けれども、それは神様の御心ではありません。

そのような場合のために、神様はその人をあなたの人生に与えてくださったのです。

だから、その兄弟たちと姉妹たちのところに行って、あなたの重荷を置きましょう。彼らの慰めを受けましょう。そして、彼らが苦しむときに、彼らを慰めてあげましょう。

パウロはこう書いていました。

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

神様はどこですか。

神様は私たちの中に住んでおられます。

だから、この世界に行って、人々にイエス様の愛で触れましょう。

カテゴリー
出エジプト記

追放人

ヘブル人として、パロの宮殿で育ったモーセはどう感じていたでしょうか。

パロと他のエジプト人はモーセを完全に受け入れたでしょうか。それとも、モーセは本当のエジプト人ではなかったから、ちょっと汚名を着せられたでしょうか。

ヘブル人はモーセのことをどのぐらい知っていたでしょうか。モーセの背景を知っていたでしょうか。モーセがヘブル人だと知っていたでしょうか。

そう知っていたら、ヘブル人はどう感じたでしょうか。モーセを嫌っていましたか。なぜなら、彼らは奴隷なのに、モーセには楽な人生があったからです。

モーセは2つの文化に属していました。けれども、彼は本当に「私はエジプト人だ」と思っていたでしょうか、「私はヘブル人だ」と思っていたでしょうか。

ある日、モーセは選択しなければなりませんでした。

ヘブル人が働く時に、モーセは、あるエジプト人がヘブル人をいじめているのを見ました。

それを見たモーセは激しく怒りました。なぜでしょうか。

不正義だと思ったからでしょうか。

自分の民への忠義からでしょうか。

エジプト人がモーセを本当に受け入れていなかったからでしょうか。

私にはわかりません。いずれにせよ、モーセは突如として怒りに駆られ、エジプト人を殺してしまいました。

多分、そのあとで、モーセはヘブル人の皆が自分を受け入れるはずだと思ったのでしょう。ところが、すぐにそれは間違いだとわかりました。

次の日、二人のヘブル人が喧嘩して、モーセは止めさせようとしました。けれども、一人は言いました。

「あなたは私たちの裁判官でしょうか。あなたは私たちも殺すでしょうか。」

その瞬間に、モーセはヘブル人が彼の犯罪を知っていたけれど、パロから守るつもりがなかったということを理解しました。

もし、パロが何が起こったかを尋ねたら、皆は真実を言うでしょう。そして、パロは真実を知り、モーセを殺そうと思いました。

だから、二つの文化に属するモーセは、その二つの文化から追い出されました。

彼は砂漠をさまよい、ミデヤンに行き、イテロという人がモーセを家に迎え入れました。

イテロはモーセが困っていることを知っていたはずです。

「この人はエジプト人で、以前は高価で綺麗な服を着ていましたが、今はボロボロになってしまった。多分、彼は偉い人でしたが、今はすべてを失い、恐れているようです。なぜだろう。」

しかし、イテロはモーセの中に良いものを見ました。なぜなら、イテロの娘が困っているときに、モーセは助けてくれたからです。

だから、イテロはモーセを家に迎え入れました。

結局、モーセはイテロの娘と結婚し、息子ができました。彼はその息子をゲルショムと名付けました。その意味は寄留者です。なぜなら、「私は外国にいる寄留者だ」と言ったからです。

あなたもそう思うかもしれません。受け入れられないと思うかもしれません。誰もあなたを愛していないと思うかもしれません。だから、この世界で、寂しくて、拒絶されて、さまよいます。

けれども、イテロがモーセの中に良いことを見て、家に迎え入れたように、神様はあなたのためにそうしてくださいます。

拒絶されても、本当に受け入れられていないと思うのに、神様はあなたの中に良いことを見られます。神様はあなたを造られたからです。

あなたが自分がダメだと思うかもしれませんが、神様はあなたのことを信じ、あなたのポテンシャルを知っておられます。もし、神様を求めたら、あなたの人生を変えてくださいます。

ヨハネ1:12に書いてあるのは、

イエス様を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。

あなたは疲れたでしょうか。寂しいでしょうか。拒絶されたでしょうか。

あなたを創造し、愛しておられる神様を求めてください。

あなたが誰であっても、たとえどんなに失敗しても、悪を行ってしまっても、神様はあなたを歓迎してくださいます。

イエスはこう言われました。

私の所に来る者を私は決して捨てません。(ヨハネ6:37)

カテゴリー
出エジプト記

神様のユーモア

神様の冗談?

時々、人々は、神様がユーモアの感覚を持っておられるかどうかと思います。

あるコメディアンは答えました。

「もちろん神様はユーモアの感覚を持っておられる。カモノハシを見たことがありますか。それは冗談かミスです。しかし、神様はミスをされない。」

私はカモノハシが神様の冗談かどうか分かりませんが、神様はユーモアの感覚を持っておられると思います。

2章で、神様のユーモアがはっきり見えると思います。

パロはすべてのヘブル人の赤ちゃんを殺すように命じました。けれども、ある日、パロの娘が帰ってきて、「ただいま!」と言いました。

そしてパロの頬にキスして、「私が見つけたものは何だと思いますか?」と言いました。

「何?」

「川に入ったときに、カゴを見ました。それを開けたら、すごく可愛い男の子がいました。」

「え?男の子?カゴに?川で?」

「そうです。ヘブル人の赤ちゃんです。私は養子にします。」

パロの宮殿で、どんな混乱があったか、想像できますか。

「絶対ダメです。すべてのヘブル人の男の子が殺されるように命じました。その赤ちゃんをこちらに連れてきなさい。今すぐ殺します。」

「お父様はひどいです!赤ちゃんはとてもかわいくて、無力です。その赤ちゃんが欲しいのです。ある女の人にその赤ちゃんを世話するためにお金を払います。モーセはいい名前でしょう。」

「分かった。分かった。一人のヘブル人は別に構わないでしょう。」

パロは、後で、びっくりしたでしょうね。:)

神様はパロの家にヘブル人を救い出す人を連れて来られました。パロの息子として、訓練と教育を受けました。そして、その勉強したことでイスラエルの民をリードしました。

私は神様の考え方を想像できます。

「私の民を奴隷にするのでしょうか。そして、ヘブル人の男の子を殺すのでしょうか。私はどうしようかなあ。そうですねえ。ああ、分かりました。パロの娘は川のそばにいます。完璧。じゃあ、このカゴをちょっと右のほうに押したら…」

パロの娘がお父さんにこの話をしたときに、私は神様の笑いを想像できます。

神様がユーモアの感覚を持っておられること以外に、私たちは何を学べますか。

私たちの人生はどんなにひどくても、神様は支配しておられます。

モーセの両親は必死でした。自分の息子をパロの命令から守りたかった。三ヶ月ぐらいモーセを隠していましたが、結局、隠すのが無理になりました。

だから、祈りながら、川の上にモーセを送りました。しかし、神様はその状態を見て、その祈りに答えてくださり、彼らの圧制者と戦ってくださいました。

あなたはどうですか。大変な状態にありますか。希望がないと思いますか。

どんな状態にあっても、神様は支配しておられることを覚えておきましょう。もし、神様に向かうなら、必ず助けてくださいます。

第一コリント10:13に書いてあるように、

あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道を備えて下さいます。

あなたはどんな試練に直面しても、神様があなたに耐えられないような試練に会わせることはありません。

神様はあなたを一人で立たせることはなく、むしろ、脱出の道をすでに備えてくださいます。

もし、あなたが神様を求めるなら、その道を見つけることができます。

けれども、あなたは神様を求めているのですか。

カテゴリー
出エジプト記

誰を恐れていますか

モーセはこの箇所を書きながら、思わず笑みを浮かべていたのではないでしょうか。特に、ヘブル人の助産婦シフラとプアの話です。

エジプトで最も権威のある者、パロは、その二人にヘブル人の男の子を殺すよう命じました。

けれども、この助産婦たちがその命令に従わなかったと聞いたとき、パロは彼女たちを呼び寄せました。

そして言いました。「どうして、私の命令に従わなかったのか。」

そして、その二人は真剣な顔で答えました。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前にすでに産んでしまうのです。」

私はその場面を思い描くことができます。パロはこれを聞いて、「ああ、なるほど。知らなかった。初めてそんなことを聞いた。活力なのか。なるほど。」と言ったかもしれません。

どうして、この二人はパロに敵対する勇気があったのか。その二人は神様をパロより恐れていたからです。

17節にこう書いてあります。

しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じた通りにはせず男の子を生かしておきました。

そして、神様はその二人を祝福してくださったのです。

20-21節によれば、

神はこの助産婦たちに良くしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

あなたは誰を恐れていますか。あなたにとって、一番尊敬する人は誰ですか。神様でしょうか。それとも、別の人でしょうか。

時々、私たちは人々の反応を恐れるので、神様との関係に影響を及ぼします。

私の友だちはずっとバプテスマを受けるのを伸ばしていました。なぜなら、彼女のご両親の反応を恐れていたからです。

もう一人の友だちはクリスチャンになることをずっと伸ばしていました。なぜなら、ご主人の反応を恐れていたからです。

しかし、その二人が神様を、ご主人やご両親以上にうやまったなら、神様は彼女たちを祝福してくださるでしょう。

もし、神様を他の人々より恐れたら、トラブルが全然起こらないと言っているのではありません。

その選択をして、ある人はあなたに対して怒るかもしれません。

ある友だちは、仕事よりも神様を大切にしたため、同僚が本当に怒りました。もっと残業をしてほしいと言われましたが、彼は拒みました。神様が彼に別の働きを命じておられたからです。

結局、彼はその会社をやめました。けれども、神様はその選択を喜ばれると思います。

神様はイザヤに言われました。

まことに主は強い御手を持って私を捕らえ、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。

「この民の恐れるものを恐れるな。おののく な。万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなた方のおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(イザヤ8:11ー14)

神様はあなたにとって聖所となられます。状態が辛くて、皆があなたに反対するときに、主に走ることができます。

しかし、神様は私たちに注意されます。「この世の道を歩んではなりません。」

むしろ、私たちは神様を恐れて、従うべきです。

そうすれば、神様はその助産婦を祝福してくださったように、あなたも祝福してくださいます。

あなたは誰を恐れているのでしょうか。