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列王記第一 歴代誌第二

不堅実な付き合い

ヨシャパテ王は概ね良い王でした。彼は神様を愛し、正しいことを行いたいと願っていました。

とはいえ、彼には一つ大きな欠点がありました。それは、交際相手の選び方において不堅実であったことです。

そのため、ヨシャパテは何度も困難な状況に陥りました。

まず、ヨシャパテの息子ヨラムとアハブの娘アタルヤとの結婚によって、アハブと縁を結びました。

この後私たちが見るように、その関係によってヨシャパテの家系はほぼ滅びることになったのです。

さて、この箇所では、アハブがアラムの王と戦いました。そこでアハブはヨシャパテに協力を求めました。

私といっしょにラモテ・ギルアデに戦いに行ってくれませんか。(列王記第一22:4)

ヨシャパテはこう答えました。

私とあなたとは同じようなもの、私の民とあなたの民、私の馬とあなたの馬も同じようなものです。(列王記第一22:4)

そして、400人の預言者たちはその戦争を始めるよう進め、勝利を約束しました。

けれども、ヨシャパテは何か違和感を覚え、これらの預言者が神様からの者ではないと気づいたのです。そこで彼はアハブに尋ねました。

「神様からの本当の預言者がほかにいないのでしょうか。」

アハブは答えました。

「まあ、預言者がもう一人いるけれど、私は彼のことが好きではありません。彼はいつも私について悪いことばかり言うからです。」(列王記22:7-8)

おそらく、アハブの答えはヨシャパテの心を騒がせたのでしょう。それは、アハブが本当の預言者をまったく尊敬せず、さらにその預言者がいつもアハブについて否定的なことを言ったからです。

その後、預言者ミカヤが呼ばれ、その状況はさらに悪化していきました。

ミカヤは皮肉なトーンでこう言いました。

「もちろん、行きなさい。アラム王と戦えば、きっと神様はあなたに勝利を与えるでしょう。」

アハブはミカヤの皮肉なトーンを聞いて、こう言いました。

いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。(列王記第一22:16)

そこで、ミカヤはアハブに警告しました。「もしあなたが行けば、きっとあなたは死に、神様の裁きが下るでしょう。」

その言葉を聞くと、アハブはミカヤを牢に入れました。

そのすべてを目の当たりにしたヨシャパテはどうしたのでしょうか。

彼は、「神様がそう言われたのだから、やはり私は行かない」と言ったでしょうか。

いいえ、それを聞いてもなお、行ってしまいました。

さらに意外だったのは、アハブがヨシャパテに言った言葉です。

私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着てください。(列王記22:20)

そしてヨシャパテは同意しました。

私にはヨシャパテの考え方が理解しがたいところがあります。

しかし、神様の恵みと憐れみにより、ヨシャパテはその戦いを生き延びました。

一方、変装していたにもかかわらず、アハブは殺されました。

ヨシャパテが帰国すると、預言者エフーが彼の前に現れました。そして、エフーはこう言いました。

悪者を助けるべきでしょうか。

あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。

これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。(歴代誌第二19:2)

それでも、ヨシャパテはアハブの息子アハズヤと同盟を結び、彼らは一緒に船団を造りました。

アハズヤがアハブと同じように悪人であったため、他の預言者がヨシャパテのもとを訪れてこう言いました。

あなたがアハズヤと同盟を結んだので、はあなたの造ったものを打ちこわされました。(歴代誌第二20:37)

主がその船団を打ち壊されたため、ヨシャパテはもはやアハズヤと協力することをやめました。

それでも、すぐにヨシャパテは同じような過ちを繰り返しました。

彼はアハブの別の息子ヨラムと手を組み、モアブの王と戦いました。それもまた、すぐに困難な状況に陥りました。(列王記第二3章)

私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

誰と付き合うかについて気を付ける必要があります。

それはすべてのノンクリスチャンと離れることを意味するのではありません。しかし、もし彼らが私たちを悪い方向へ導くなら、彼らとの交わりを避けた方が良いでしょう。

ソロモンは次のように言いました。

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。
愚かな者の友となる者は害を受ける。(箴言13:20)

聖書において、「愚かな者」とは神様に背を向ける人、また神様の道に進まない者のことです。

もし私たちが、そのような人と結びつくならば、私たちは害を受けるでしょう。

最も重要な問いは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたは彼らに影響を与え、彼らを神様に近づけているでしょうか。

それとも、彼らがあなたに影響を及ぼし、あなたを神様から遠ざけてしまっているのでしょうか。

あなたは、誰と交わりを持っているのでしょうか。

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列王記第一

霊的な売春

「あなたの隣人のものを欲しがってはならない。」

「殺してはならない。」

「盗んではならない。」

これらの罪を犯したイスラエルの王について考えると、私はいつもダビデを思い浮かべます。彼は隣人の妻を欲しがり、その夫を殺し、その妻を自分のものにしました。

しかし、アハブもまた、そのような罪を犯しました。彼は隣人のぶどう畑を欲しがり、その隣人を殺し、そのぶどう畑を自分のものにしました。

列王記第一21:25にはこう書かれています:

アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった。

彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。

英語の聖書を直訳すると、「アハブは悪を行うために自分自身を売りました。」とあります。

それはどういう意味でしょうか。

それはまるで売春のようです。売春とは、神様の目に悪を行うために、自分の体を売ることを指します。

アハブの場合、さまざまな意味で霊的な売春を犯しました。

神様を愛することができず、物を愛したために霊的な売春を犯しました。

神様を礼拝せずに偶像を礼拝し、霊的な売春を犯しました。

さらに、神様よりも妻を優先し、霊的な売春を犯しました。

あなたはどうでしょうか。

神様はねたむ神です。(出エジプト記34:14)

神様は永遠に私たちの不忠実な心を忍耐してくださるわけではありません。もし私たちが悪を行うために自分自身を売り続ければ、最終的には神様の裁きを受けることになるのです。

しかし、神様は憐れみ深いお方です。

アハブは神様の裁きについて聞いたとき、すぐに悔い改め、神様は憐れみを与えてくださいました。

ところが、残念ながら、アハブの謙遜な態度はすぐに消え去り、彼は再び悪を行うために自分自身を売り続け、ついには死に至るまでそうし続けたのです。

アハブのようにならないようにしましょう。

むしろ、ダビデのようになりましょう。ダビデは時に罪を犯しましたが、いつも悔い改めて、再び神様を求めました。

私たちも、神様の心にかなう者となりましょう。

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私たちと罪との関係

アハブ王は悪い決断をする習慣がありました。この箇所では、その例を見ることができます。つまり、アハブがアラムの王ベン・ハダデをどのように扱ったかということです。

ベン・ハダデはサマリヤ(イスラエルの首都)を包囲し、攻撃を仕掛けました。

まず、ベン・ハダデはアハブの金と銀、妻たち、そして子どもたちの中で最も美しい者を要求しました。アハブはそれらすべてを差し出しました。

その後、ベン・ハダデはこう言いました。

あすの今ごろ、私の家来たちを遣わす。彼らは、あなたの家とあなたの家来たちの家とを捜し、たとい、あなたが最も大事にしているものでも、彼らは手に入れて奪い取るだろう。(列王記第一20:6)

アハブはその要求を聞いて、拒絶しました。そのため、ベン・ハダデはサマリヤを破壊すると脅しました。

そして、アハブはこう答えました。

武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。(11)

英語のリビング・バイブルのパラフレーズはとても面白いです。

“Don’t count your chickens before they hatch.” 直訳すると、「卵がかえらないうちにヒヨコの数を数えるな」という意味です。

つまり、「勝利を得る前に自慢するな。負ける可能性もあるから」ということです。

さて、主はご自身が本当の神であることを証明するために預言者をアハブに送り、サマリヤを救うと約束されました。

珍しいことに、アハブは神様の指示に従い、二度の勝利を収めました。

その2回目の勝利の後、ベン・ハダデは恐れ、切羽詰まってアハブと契約を結びました。そして、アハブはベン・ハダデに憐れみをかけたのです。

しかし、問題がありました。神様はベン・ハダデが死ぬことを定められていました。

なぜでしょうか。それは、ベン・ハダデが生き続ければ、再びイスラエルを攻撃することを神様が知っておられたからです。

それにもかかわらず、アハブはベン・ハダデに憐れみをかけました。そのため、神様は預言者をアハブに送りました。そして、その預言者はこう言いました。

主はこう仰せられる。

「わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。」(42)

結局、そのようになりました。ベン・ハダデに憐れみをかけたため、後に彼がイスラエルを攻撃し、アハブは命を落としました。(列王記第一22章)

さらに、ベン・ハダデは再びイスラエルを包囲して攻撃し、数多くのイスラエル人が亡くなることになりました。(列王記第二6章)

では、何を学ぶことができるでしょうか。罪について多くを学べると思います。

ベン・ハダデのように、罪は私たちを破壊しようとします。

それだけにとどまらず、罪は私たちを完全に滅ぼそうとするのです。

では、私たちはどうすべきでしょうか。

その罪を完全に除去しなければなりません。

妥協は許されません。

罪と契約を結ぶことはできないのです。

罪は癌のようなものです。

癌と同じく、完全に取り除かなければ、罪は私たちの人生に広がり、私たちを死に至らしめます。

罪に対して勝利を得たと思うかもしれませんが、完全に除去しない限り、罪は再び戻ってくるかもしれないのです。

あなたはどうでしょうか。罪と妥協してしまうことがあるでしょうか。

「多分、この映画は見ない方が良いと思います。多くの性的なシーンが含まれているようですが、私は影響を受けないだろう。」

または、

「自己中心的になるのは良くないと分かっていますが、時々は自分のことを考えなくてはならないでしょう。」

しかし、罪はあなたの一部分だけを望むものではありません。罪はあなたのすべてを求めます。

罪に譲れば、最終的にはあなたを食い尽くしてしまうのです。

だからこそ、罪と妥協してはいけません。むしろ、その罪を完全に取り除き、神様の目に聖く、傷のない者になりましょう。

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列王記第一

視野を失うと

私たちは素晴らしい勝利を収めた直後に、すぐに落ち込んでしまうことがあります。これは本当に不思議なことだと思います。

多くの人々がそのような経験をしています。

エリヤもその経験をした一人でした。

バアルの預言者たちに勝利した後、アハブの妻イゼベルはエリヤを殺そうとしました。

もちろん、エリヤは恐れ、逃げました。そして本当に疲れ果て、木の下に座り、自分の死を願って祈りました。

どうして素晴らしい勝利の後に敗北感を味わってしまうのでしょうか。

それは、私たちが視野を失うとすぐに落ち込み、敗北を感じてしまうからです。

では、どのようにして私たちは視野を失うのでしょうか。

一つ目は、霊的な戦いの中にいることを忘れてしまうことです。

もし私たちが神様の国のために働くなら、サタンはすぐにそれに気づきます。サタンは私たちの働きを見て、決して無視はしません。

すぐに攻撃を仕掛けてきます。他の人々を通して攻撃してくるかもしれませんし、あなたの状況を通して攻撃してくるかもしれません。

勝利を得た後に「これからすべてがうまくいく」と期待することはできません。むしろ、多くの場合、更に困難な状況が訪れるのです。

そのため、パウロはこう書きました。

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。(エペソ6:11-13)

二つ目は、体力的にも精神的にも疲れると、私たちは視野を失ってしまうかもしれないということです。

カルメル山での勝利は本当に素晴らしいものでしたが、その後、エリヤはきっと疲れてしまったことでしょう。

そして、イゼベルがエリヤを殺そうとしているという知らせを聞き、彼は逃げることとなり、さらに疲労が増したのです。

そのため、神様はエリヤと語られる前に、彼を休ませました。

さらに、天使を遣わして食べ物を与え、彼を力づけられました。

もしエリヤが精神的にも体力的にも疲れていたら、神様の言葉を正しく理解することはできなかったでしょう。

三つ目は、自分自身に注目しすぎると、私たちは視野を失ってしまうかもしれないということです。

その日、エリヤはかわいそうパーティーを開いていました。

「私は一人ぼっちです。神様の預言者は私しかいません。私は先祖たちにまさっていません。」と嘆いたのです。

エリヤのすべての言葉は「私、私、私、私」でした。

エリヤは自分自身だけに注目していました。

私たちも同じようにすると、視野を失ってしまうのです。

視野を失ったとき、どうすれば良いでしょうか。

実際的な方法として、まずはしっかりと休むことです。それだけでも、多くの問題が改善されるでしょう。

しかし、それだけでは十分ではありません。

神様を仰ぎ、神様を求め、そしてかわいそうパーティーをやめましょう。

むしろ、パウロが語ったように、神の武具を身に着けましょう。そして、神様の御心にもう一度従い始めましょう。

ある牧師はこう言いました。

「神の武具は、あなたの背中を守るためのものではありません。あなたの前だけを守るものです。」

ですから、神様に従って、前へ進みましょう。

もし、かわいそうパーティーを続けたり、戦いから逃げたりするなら、あなたの背中に矢が刺さってしまうでしょう。

あなたはどうでしょうか。視野を失ってしまったことはありますか。

Turn your eyes upon Jesus
あなたの目をイエス様に向けてください。
Look full in his wonderful face
イエス様の素晴らしい御顔をじっくりと見つめてください。
And the things of earth will grow strangely dim
そうすれば、イエス様の栄光と恵みによって、
in the light of his glory and grace.
この世の問題や困難は薄れていくでしょう。
ーーヘレン・H・レンメル

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列王記第一

イエス様についていくためにすべてを捨てる

ルカの福音書で、イエス様はある人を呼ばれました。「私についてきなさい。」

その人はこう答えました。

主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。(ルカ9:61)

そして、イエス様はこう言われました。

だれでも、手に鋤をつけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。(ルカ9:62)

その話を読むたびに、私はいつも列王記の出来事を思い起こします。

その状況は実に似ているのです。

エリヤはエリシャを自分の弟子にするために呼びました。

(エリヤが自分の外套を彼に掛けたことには、「私の弟子になってください。私が亡くなった後、あなたがイスラエルの次の預言者になる」という意味がありました。)

すると、エリシャはこう言いました。

私の父と母とに口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。(列王記第一19:20)

エリヤはその願いを許しました。なぜでしょうか。

一つ目の理由は、エリヤがただの預言者であったのに対し、イエス様は神の子であられたからです。

二つ目の理由は、呼ばれた人々の心の態度にありました。

つまり、イエス様に呼ばれた人は、おそらく家族から離れることをためらっていたため、イエス様についていく決断を迷っていました。

そして、イエス様は神様の国の働きに集中する人を求めていたので、いつも振り返るような態度の人を望まれませんでした。

一方、エリシャを見てみると、彼はそのような態度ではありませんでした。

エリシャはずっと農家として働いていましたが、エリヤに呼ばれた際に何をしたでしょうか。

彼は自分の牛を殺し、牛の用具を使ってその肉を調理し、家族と一緒に食べたのです。その後、家族から離れてエリヤに従いました。

エリシャはエリヤに従い始めた後は決して振り返ることはありませんでした。すべてを燃やしてしまったため、振り返るものが何も残っていなかったからです。

神様は私たちがそのような者になることを望んでおられます。つまり、過去をいつも振り返るのではなく、私たちを愛し、贖ってくださった方に心を集中することを望んでおられるのです。

また、私たちの持ち物に執着せず、すべてを手放してイエス様に従うことを望んでおられます。

20年ほど前、私は日本の宣教師になることについてのメッセージを聞きました。そのとき、私の牧師はこう言いました。

「日本で宣教師として仕えることを望むなら、プランBについて一切考えないでください。

たとえば、『もし全てがうまくいかなければすぐに帰国する』というようなことを考えないでください。

プランAだけを考えなさい。つまり、ずっと日本にいる計画を立てなさい。

もちろん、神様がプランBを与えてくださるなら、それは構いませんが、最初からプランBを用意しない方が良いのです。

なぜなら、日本では関係を築くのに時間がかかるからです。そして、日本人にとってその関係は非常に重要だからです。」

私はその言葉に従い、プランAだけを持ちました。そして、神様は私を祝福してくださいました。

あなたはどうでしょうか。

イエス様に従うために、すべてを捨てることができるでしょうか。

それとも、いつも振り返ってしまうのでしょうか。

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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本当の神様は誰?

これは聖書の中でも特に印象的な対決の一つです。それは、エリヤとバアルおよびアシェラの預言者たちの対決です。

しかし、この対決の前に、エリヤはこれらの預言者たちではなく、イスラエルの人々に語りかけました。

イスラエル人は、ヤロブアム王とアハブ王の模範に従いながら、神様への礼拝を完全に捨てることなく、他の神々への礼拝を混ぜ合わせていたようです。

そのため、エリヤは叫びました。

彼らは、ヤロブアムの模範に従って、神様の礼拝を捨てずに、他の神々の礼拝と混ぜたらしいです。(列王記第一18:21)

この話を読むと、私はこう思います。

「イスラエル人は神様が本当に存在するかどうか疑い始めたのだろうか。

彼らが神様とバアルおよびアシェラを礼拝していた理由は、神様が本当に存在するかどうか分からなかったからなのだろうか。

もしかしたら、彼らはバアルやアシェラを本当に信じていたわけではなく、ただアハブ王の模範に従っていただけなのだろうか。」

いずれにせよ、エリヤがこれらの質問をイスラエル人に問いかけても、誰も答えませんでした。すべてのイスラエル人は沈黙しました。

その後、対決が始まりました。バアルの預言者たちはバアルの注目を引くために踊り、祈り、さらには槍や剣で自分自身を傷つけて血を流しました。しかし、何も起こりませんでした。

そのため、エリヤは彼らをからかいました。

もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。

きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。

もしかすると、寝ているかもしれないから、起こしたらよかろう。(27)

でも、その預言者が何をしても、

何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。(29)

結局、エリヤは飽きてしまいました。彼は神様の祭壇を建て直し、その上に牡牛を載せました。そして、彼はこう言いました。

四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ(34)。

エリヤは三回水をたきぎの上に注ぎました。

そして、彼は祈りました。すると、

主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。(38)

イスラエル人はそれを見ると、このように叫びました。

主こそ神です。主こそ神です。(39)

もちろん、その通りです。

主は石や木で造られた偶像ではありません。主は架空の人物ではありません。

主は私たちを見てくださる方です。主は私たちの声を聞いてくださる方です。また、主は素晴らしいことを行ってくださる方です。

もしアハブ王がなお疑いを抱いていたなら、神様は三年ぶりに雨を降らせることで、その疑いを取り去られました。

では、あなたはどうでしょうか。

主こそ唯一の神です。あなたは主に従っていますか。

それとも、イスラエルの民のように神様の存在を疑っているのでしょうか。

あるいは、アハブのように、証拠を目の当たりにしても神様に従わないのでしょうか。

疑いを捨てましょう。そして、反抗の態度も捨てましょう。

むしろ、信仰によって神様に従いましょう。

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私たちの問題のために、神様や人々を責める?

エリヤが「三年間雨が降らない」と預言したとき、アハブはエリヤをからかったのではないかと思います。

もしアハブがその預言を本当に信じていたら、きっとエリヤを牢に入れていたことでしょう。

しかし、まもなくアハブはエリヤの預言が事実であることを知りました。そしてそのとき、アハブは飢饉の原因を自分に求めるのではなく、むしろエリヤを責めました。

そこで、アハブはイスラエル国内だけでなく、多くの王国を訪れてエリヤを探しました。

さらに、他の王たちが「エリヤはここにいない」と答えると、アハブはその言葉を誓わせるほどでした。

やっとエリヤがアハブに会ったとき、アハブの苦々しい思いがはっきりと見て取れます。

これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。(列王記第一18:17)

けれども、エリヤは正直に答えました。

私はイスラエルを煩わしません。

あなたとあなたの父の家こそそうです。

現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。(18)

問題が起こると、私たちはアハブのように、自分自身を省みず、他の人々や神様を責めてしまうことがあります。自分の過ちを認めるよりも、他の人々を責める方が簡単だからです。

しかし、そうすることで問題が解決することはありません。

むしろ、私たちは苦々しい思いを抱くようになり、神様に対しても、他の人々に対しても、さらには人生そのものに対しても、苦々しい思いを抱いてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。あなた自身の決断や行動によって引き起こされた問題について、他の人々や神様を責めてはいませんか。

アハブのようにはならないでください。

むしろ、悔い改めましょう。

そして、自分の罪を認めましょう。そうすれば、癒しが始まるのです。

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不敬虔な世界に住んでいるのに

オバデヤ(預言者オバデヤとは別の人物)は、非常に困難な状況に置かれていました。

彼はアハブの王宮を管理していました。当然、アハブはオバデヤを信頼していました。

けれども、アハブ王は不敬虔な人物であり、イスラエルを偶像礼拝に導いていました。

一方で、オバデヤは心を尽くして神様を愛していました。

それにもかかわらず、他の神様を愛する人々とは異なり、彼はユダに移住せず、イスラエルに住み続けました。

なぜでしょうか。私には分かりませんが、彼を批判することはできません。

アハブの妻イゼベルが神様の預言者たちを殺そうとしたとき、オバデヤは100人の預言者を匿い、パンと水で養いました。

時々、私たちも理想的な環境に置かれていないことがあります。つまり、私たちの周囲の人々がクリスチャンではないことがあります。

例えば、あなたがクリスチャンであっても、両親、妻または夫、あるいは同僚がクリスチャンではない場合があります。

そして、あなたはこう考えるかもしれません。

「この状況は難しすぎて、逃げ出したい。クリスチャンがたくさんいる場所に行きたい。」

もちろん、もしあなたが毎日ノンクリスチャンと一緒に過ごしているなら、クリスチャンとの交わりは本当に大切です。

しかし、あなたの状況からすぐに逃げないでください。

神様がオバデヤを用いてくださったように、神様はあなたを通して他の人々に影響を与えることができます。

神様は私たちにこの世から離れなさいと命じられましたが、それは神様を信じない人々から逃げるという意味ではありません。

それでは、このことはどういう意味なのでしょうか。

パウロはこう書きました。

この世と調子を合わせてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

そうすることで、私たちは人々に触れることができ、良い影響を与えることができるでしょう。

イエス様の祈りを心に留めておきましょう。イエス様は弟子たちのために祈られましたが、私たちのためにも祈ってくださいました。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないからです。

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。

わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。(ヨハネ17:14-19)

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神様は私を罰しておられるだろうか

「カルビンとホッブス」というマンガが大好きです。

ある話で、カルビン(6歳の男の子)はホッブス(ぬいぐるみのトラ)をなくしてしまいました。彼はとても悲しみながらこう言いました。

「なぜ僕にこんな悲しいことが起こらなくちゃいけないの?何か悪いことをしたからかな?」と。

結局、彼は神様に向かって叫びました。

「もし僕が悪かったら、もう赦してください。」

この箇所で、ある女性も同じように叫びました。

このやもめはエリヤを助けましたが、その直後に息子が病気になり、命を落としてしまったのです。

当時、そのような状況は本当に困難でした。彼女の夫はすでに亡くなっており、彼女が年老いたとき、その息子が特に重要な存在となるはずでした。

そのため、彼女はエリヤに向かって叫びました。

神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。

あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。(列王記第一17:18)

私たちはどれほどそのようなことを言うでしょうか。悪いことが起こると、神様が私たちを罰しておられると思うことがあります。

しかし、神様はそのやもめを罰しておられたわけではありません。むしろ、私たちは壊れた世界に住んでいるため、その息子が亡くなったのです。

つまり、エデンの園でアダムが犯した罪の結果は死であり、病気もアダムの罪の結果なのです。この世は壊れてしまったものです。

けれども、神様がエリヤを通してその息子に息を吹き込み、命を与えられたように、神様は私たちの絶望的な状況にも息を吹き込み、希望を与えてくださいます。

神様があなたの問題を取り除いてくださるかどうかは分かりません。しかし、たとえ問題が取り除かれなくても、神様はその状況の中であなたを助けてくださいます。

神様は決してあなたをお見捨てになることはありません。

神様はあなたを罰しておられるのでしょうか。

神様はあなたを罰しておられるのではなく、むしろあなたを愛する天の父として懲らしめておられるのかもしれません(ヘブル12:5-11)。

ですから、まず自分の心を探ってみましょう。神様に「私の心の中に罪があるでしょうか」と尋ねてみてください。

もし神様があなたに何かを示されたなら、すぐに悔い改めましょう。そうすれば、神様は必ずあなたを赦してくださいます。

一方で、もし神様から何も示されなければ、自分自身を責めないでください。「私が知らない罪を犯したから、神様が私を罰しておられるのだ」と思わないでください。

神様はあなたを罰する機会を待っておられるのではありません。

神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたを助けてくださり、あなたの状態から救い出してくださいます。

ですから、どのようなことが起こっても、神様の手にすがりましょう。

そうするなら、この壊れた世界で受けた傷も癒されることでしょう。

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どこまで神様に信頼するでしょうか。

税金の日。

私にとって、おそらく一番嫌いな日です。

一昨年、市民税の請求書が届き、私は大きなショックを受けました。それは前年の税金のおよそ倍だったのです。

けれども、私の収入が倍になったわけではありませんでした。

その時、私は思いました。「十一献金を捧げなければ良かったかな。去年、どれくらい払っただろう?」

その翌日、私はこの箇所を読みました。

アハブ王とその妻はイスラエル人を偶像礼拝に導きました。そのため、神様はエリヤをアハブのもとへ送り、裁きを宣言させました。

その後、エリヤはアハブから逃げて身を隠しました。その時、神様は奇妙な指示を与えました。

ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。

そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。(列王記17:3-4)

「川の水を飲みます。了解。カラスは私を養う。え?ええと。つまり、私はカラスを食べるのですか?」

「いえ、違います。カラスがそこに食べ物を持って来ますよ。」

「なるほど。」

それでも、エリヤは神様を信頼し、出かけました。そして、神様が約束されたように、カラスはパンと肉を持ってきました。

その川が涸れた時、神様はエリヤをツァレファという町の貧しいやもめの家に送られました。エリヤが水を頼むと、彼女は喜んで差し出しました。

しかし、食べ物を頼むと、彼女はこう答えました。

あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。

ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。(12)

けれども、エリヤはこう答えました。

恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。

しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。

それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。

イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。

「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。」(13-14)

おそらく、それを聞いたとき、彼女もエリヤのように「え?」と思ったことでしょう。そして、自分自身にこう問いかけました。

「れほど私はこの人、そして神様に信頼できるのでしょうか。」

結局、彼女は神様を信頼することを選びました。

結果はどうだったでしょうか。神様は忠実であり、その飢饉のときに、彼女と彼女の息子、そしてエリヤを養い続けました。

困難な時、私たちもこの問いを自分自身に投げかけるべきです。

「どれほど私は神様に信頼できるのでしょうか。」

あなたなら、どうお答えになるでしょうか。

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誰についていくでしょうか。

この箇所を読むと、日本の政治の状況について考えさせられます。

私は1995年に日本に引っ越しました。それ以来、現在までに総理大臣が12人もいました。

このことから、日本ではあまり強いリーダーシップがなかったことが分かります。

イスラエルも同じような状況でした。ユダの王アサが治めた時代、イスラエルでは7人の王がいました。

アハブ王が登場する前に、20年間治めた王はバシャただ一人でした。

一方で、7日間だけイスラエルを治めた王もいました。

その時代には、2人の王が暗殺され、1人は自殺しました。

しかし、その7人の王には共通点がありました。彼らはヤロブアムの模範に従ったのです。(イスラエルが二つの国に分裂した際、ヤロブアムはイスラエルの最初の王となりました。)

結果はどうだったでしょうか。その王たちは皆悪い王でした。その中でも、アハブは最も悪い王でした。

ユダは少しだけましでした。

アサは人生の前半で神様に仕えました。

その息子ヨシャパテは時々悪い決断をしましたが、ずっと神様に従いました。

その後の王たちの中には良い王もいれば、悪い王もいました。

私たちが自分に問いかけるべきことは、誰の模範に従うのかということです。

イスラエルの王たちはヤロブアムの模範に従いました。その結果、イスラエルは早く滅び、追放されました。

イスラエルの王の中には、「良い王」と呼べる人物が一人もいなかったと思われます。

一方で、ユダの王たちの中にはレハブアムの模範に従った者もいれば、神様に従った者もいました。神様に従った王たちの時には、神様が彼らを祝福されました。

私が伝えたいポイントは、私たちには選択肢があるということです。不敬虔な人の模範に従う必要はありません。

ある人々は壊れた家庭で育ちました。アメリカほどではありませんが、日本でもそのような状況は徐々に増えつつあります。

ひどい模範を示す父親もおり、その子供たちは父の背中を見て育ちます。例えば、不倫や虐待を目の当たりにした子供が成長すると、その父親を真似してしまうことがあります。

しかし、ユダのある王たちが父の模範、つまり父の罪を捨てたように、私たちも同じことができます。

けれども、それは自分の力だけではできません。もし私たちがイエス様に向かって「助けてください」と願うなら、イエス様は私たちを変え、癒してくださいます。

あなたは誰の模範に従っていますか。

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心を全部か、半分か、なしで?

歴代誌第二を読むと、アビヤムが良い王だったと思うかもしれません。ユダがイスラエルと戦う前に、アビヤムの言葉は神様を恐れる人からのスピーチのように聞こえます。

そして、イスラエルの軍隊がユダの軍隊よりも大きかったにもかかわらず、神様の助けによってユダが勝利しました。

とはいえ、列王記によると、アビヤムは本当に悪い王でした。こう書かれています。

彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデのようには、彼の神、と全く一つにはなっていなかった。

しかし、ダビデに免じて、彼の神、は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。(列王記第一15:3ー4)

その父レハブアムは、どのような罪を犯したのでしょうか。

一番悪い罪は偶像礼拝でした。

歴代誌だけを読むと、アビヤムが神様に心の全部をささげたように見えます。けれども、実際は心の半分だけをささげました。

アビヤムが良い王だったから神様がユダを救われたわけではありません。むしろ、その祖父ダビデのために、神様はユダを救われました。なぜなら、ダビデは心の全部を神様にささげたからです。

神様がユダを救われた理由は、もう一つ考えられるかもしれません。それは、イスラエルの王ヤロブアムが神様に心を全然ささげなかったことです。

神様はヤロブアムにイスラエルを与えました。また、預言者を通してヤロブアムに罪について注意しました。ヤロブアムはそのことをよく知っていたのに、神様に背を向けました。

もう一つの理由があります。歴代誌によると、その戦いの日、ユダの軍隊は神様に拠り頼んだからです。

もしかすると、神様はユダの民に「もし私にあなたの心の全部をささげたら、私はあなたを祝福する」と教えたかったのかもしれません。

残念ながら、彼らはそのことを全く学びませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様に対してどのような心を持っているでしょうか。

神様があなたを愛しているのに、あなたが心を全くささげていないのではありませんか。それならば、ヤロブアムのように、あなたも裁かれることになります。

心の半分をささげているのではありませんか。それも、神様は望まれません。

黙示録で、神様はラオデキヤにある教会にこう言いました。

わたしは、あなたの行いを知っている。

あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。

このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示録3:15-16)

私たちはアビヤムやヤロブアムのようにならないようにしましょう。むしろ、ダビデのようになりましょう。

ダビデは完全ではありませんでした。そのことは列王記第一15:5に書かれています。

しかし、ダビデは心を尽くして神様に従ったので、神様はその罪を赦し、ダビデを祝福されました。

あなたはどうでしょうか。

神様に心のすべてをささげますか。

それとも、心の半分だけをささげますか。

あるいは、心をまったくささげないのでしょうか。

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うまく始まり、崩れ去ってしまう

アメリカ人はよくこう言います。

「あなたの始まりはそれほど大切ではありません。大切なのは、どのように終わるかです。」

それは本当です。ユダの王アサの人生において、その真理をはっきりと見ることができます。

王として、彼は良い形で始まりました。

歴代誌第二14:2に、こう書いてあります。

アサは、彼の神、主がよいと見られること、御目にかなうことを行い「ました」。

つまり、彼は偽りの神々の祭壇を取り除き、ユダの民に本当の神様を礼拝するよう命じました。また、神様の祝福によって、アサはユダを強めました。

ある時、より強力な軍隊がユダを攻めてきたとき、アサは神様を信頼したため、神様がユダを救われました。

その時、神様は預言者アザルヤを通してアサを励まされました。

アサおよび、すべてユダとベニヤミンの人々よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたがとともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。

もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自身を示してくださいます。

もし、あなたがたがこの方を捨て去るなら、この方はあなたがたを捨ててしまわれます。。。

しかし、あなたがたこそ強くあってほしいのです。力を落としてはなりません。あなたがたの働きには報いが伴っているからです。(歴代誌第二15:2-7)

アサはそれを聞いて、心から従いました。そのため、偶像をすべて取り除き、自分の祖母を王母の位から退けました。なぜなら、彼女が偶像を礼拝していたからです。

すべてはうまくいっていました。ところが、突然すべてが崩れてしまいました。なぜでしょうか。

一つ目は、アサが神様に信頼することを辞めたことです。むしろ、自分の知恵と力に頼り始めました。

イスラエルの王バシャはアラムの王ベン・ハダデと同盟を結びました。そのすぐ後に、バシャはユダを攻めてきました。

けれども、アサは以前とは異なり、神様に信頼しませんでした。むしろ、アサはベン・ハダデと同盟を結び、自分の金と銀を差し出しただけでなく、神様の宮からの金と銀も差し出しました。

アサの計画はうまくいきました。ベン・ハダデはバシャの国を攻めたため、バシャは速く帰りました。

しかし、神様は喜ばれませんでした。

そして、次の問題が発生しました。

アサは間違っていても、神様からの注意を受け入れませんでした。神様は預言者ハナニを送られました。

ハナニは言いました。

あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車と騎兵は非常におびただしかったではありませんか。

しかし、あなたがに拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。。。

あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。(歴代誌第二16:8-9)

アサの反応はどうだったでしょうか。彼はハナニを牢に入れました。

それに、神様に対する怒りからか、アサは自分の民を踏みにじったようです。

アサは懲らしめられても、決して悔い改めることはありませんでした。年を取ったアサは、両足とも病気にかかりました。それでも、彼は神様にまだ怒りを抱いていたため、

その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者に求めた。(歴代誌第二16:12)

あなたはどうでしょうか。神様との関係で、良い形で始まったのに、今はうまくいっていないのではありませんか。

アサの過ちから学びましょう。良い時も悪い時も、神様を信頼しましょう。

たとえ神様が辛いことを言ったとしても、それを聞き、受け入れましょう。そして、罪を犯したら、すぐに悔い改めましょう。

ハナニが言ったように、

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(歴代誌第二16:9)

私たちの心が神様に完全に委ねられるように。

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神様に仕えることと罪に仕えることとの違い

ヤロブアム王は悪い所から始め、その罪の穴から決して出ることはありませんでした。実は、彼はその穴から出ようとしようと全く思わなかったようです。

レハブアム王もあまり良い王ではありませんでした。

本当の祭司たちやレビ人、神様を恐れる人々は皆、ユダ(レハブアムの王国)に引っ越しました。そのため、しばらくの間、レハブアムは神様に従おうと思っていました。

ところが、急に彼は偶像礼拝をし始めました。もちろん、ユダの人々はレハブアムの模範に従いました。

なぜレハブアムが別の神々を礼拝し始めたのかははっきりしません。

一つの理由は、レハブアムのプライドかもしれません。歴代誌第二12:1によると、

レハブアムの王位が確立し、彼が強くなるに及んで、彼は主の律法を捨て去った。

もしかしたら、レハブアムの母はレハブアムに悪い影響を与えたのかもしれません。列王記第一には、レハブアムの母がアモン人だと2回書いてあります。

私の推測にすぎませんが、もしかすると、その母の影響で彼が堕落したため、そのことが書かれているのかもしれません。(アモン人は偽りの神々を礼拝していました。)

とにかく、先ほど言ったように、レハブアムの民も偶像礼拝をし始めました。だから、神様は彼らに言われました。

あなたがたがわたしを捨て去ったので、わたしもまたあなたがたを捨ててシシャクの手に渡した。(歴代誌第二12:5)

エジプトの王シシャクは、すでにユダの防備の町々を攻め取りました。そして、今はエルサレムを攻めていました。

レハブアムとその民は神様の言葉を聞き、神様の前にへりくだりました。そこで、神様は預言者シェマヤに言われました。

 彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう。シシャクの手によって、わたしの怒りをエルサレムに注ぐことはやめよう。

ただし、彼らは彼のしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王国に仕えることとの違いを思い知るためである。(歴代誌12:7-8)

私たちが神様に背を向け、罪に仕え始めるとき、神様は私たちに同じようなことを言われます。

私たちが悔い改めるまで、神様は罪が私たちを治めることを許されます。そして、私たちは罪に仕えることと神様に仕えることの違いを見ることになります。

その違いとは何でしょうか。罪に仕えるとき、一時的には楽しいかもしれません。けれども、最終的に2つのことが起こります。

一つ目は、最初は私たちが罪に仕えることを選んだと思うかもしれませんが、結局は罪をやめることができないことに気づくことです。

罪に縛られてしまい、私たちにはもはや自分をコントロールする力がありません。つまり、罪が私たちを支配するようになるのです。

例えば、多くの男性がポルノを見ることがあります。最初は、それが自分自身の選択のように思われますが、最終的にはやめることができなくなります。

妻との関係を壊してしまっても、なおやめられないのです。

他の人々はアルコール中毒になり、家族や人生を破壊してしまっても、なお酒をやめることができません。

二つ目は、罪が私たちを破壊し、私たちのために神様が望んでおられる喜びを盗むことです。その代わりに、私たちに悪い代用品を与えます。

例えば、シシャク王が来たとき、ソロモンが作った金の盾をすべて取ってしまいました。それで、レハブアムは新しい盾を作りました。けれども、彼は青銅の盾を作ったのです。

罪は、そのようなことをします。素晴らしい結婚の代わりに、壊れた関係の連続をもたらします。

永遠の喜びの代わりに、一時的な幸せしか与えません。

そして、やがて私たちの人生は空しくなってしまうのです。

しかし、キリストに従うと、イエス様は私たちに永遠の命を与え、この世においても満ち足りた人生を与えてくださいます。

もちろん、私たちの人生が幸せばかりになるわけではありません。けれども、振り返ると、「満ち足りた人生だった」と言えるのです。

あなたは罪に仕えていることで、疲れていて、重荷が大きく感じられますか。

キリストに向かいましょう。主はその重荷を取り去り、あなたを休ませてくださいます。

イエス様はこう言われました。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:28-30)

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列王記第一

侮られるような神ではない

ヤロブアムの話の興味深い点は、その話が短くても、ヤロブアムのレガシーが死の後でも、ずっと続いていることです。

残念なことですが、そのレガシーは全く良くありませんでした。

列王記の中で、何度もこのような言葉を目にします。「彼はヤロブアムの道を歩んだ。」

また、「彼もヤロブアムの罪を犯し続けました。」

とにかく、この箇所では、ヤロブアムの息子が病気になったため、ヤロブアムは預言者アヒヤから神様の言葉を求めました。そのアヒヤは以前、ヤロブアムに「あなたは王になる」と言いました。

私たちはどれほど、そのようなことをしているでしょうか。私たちは神様の言葉を無視しますが、トラブルが来たときに神様を求め始めることがどれほどあるでしょうか。

けれども、ヤロブアムは直接アヒヤのもとへ行きませんでした。その代わりに、自分の妻を送りました。

なぜでしょうか。おそらく彼は自分の罪をわかっていたからです。彼はアヒヤの言葉に逆らい、イスラエルを偶像礼拝に導き、神様に忠実ではありませんでした。

ヤロブアムは妻に言いました。

さあ、変装して、ヤロブアムの妻だと悟られないようにしてシロへ行ってくれ。(列王記第一14:2)

実は、アヒヤは、もう盲人になっていましたが、彼は何も見ることができなくても、ヤロブアムよりも霊的なことを見ていました。

神様がアヒヤにヤロブアムとその妻について注意したので、アヒヤは騙されませんでした。そして、アヒヤはヤロブアムの妻に神様の裁きを宣言しました。

私たちは、この話から何を学ぶことができるでしょうか。それは、神様は侮られるような方ではないということです。

私たちは神様を騙すことはできません。たとえ変装しても、神様を騙すことはできません。私たちの偽りの敬虔な行動も神様を騙すことはできません。

もしヤロブアムのように私たちが神様に背を向けたら、その罪のために裁かれるのです。

ある日、Facebookで私は次の言葉を目にしました。

「あなたには選択する自由があります。しかし、あなたの選択の結果から逃れることはできません。」

ヤロブアムは神様を信頼するかどうか選択しなければなりませんでした。神様は彼にその自由を与えました。

けれども、ヤロブアムは信頼しないことを選び、その結果を受け入れなければなりませんでした。私たちも同じです。

時々、クリスチャンは言います。「私は罪を犯すけど、すぐに悔い改めるので、大丈夫です。」

もちろん、あなたが本当に悔い改めれば、神様はあなたを赦してくださいます。悔い改めれば、地獄に行くことはありません。とはいえ、この世で犯した罪の結果から逃れることはできないかもしれません。

例えば、不倫をしたら、あなたの結婚や評判、そして健康を失うかもしれません。

どんなに罪のために泣いても、その結果から逃れることはできません。

だから、パウロの言葉を思い出しましょう。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

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列王記第一

私たちは聞くことを見分けないと

これは本当に不思議な話です。この話を読むと、私の心にはさまざまな答えの出ない疑問が湧き上がってきます。

ユダから来た預言者がイスラエルに行き、ヤロブアム王に面と向かって語りました。つまり、彼はヤロブアムの罪を厳しく責めたのです。そのためヤロブアムは手を伸ばして、「彼を捕らえよ」と命じました。

ところが、その瞬間、ヤロブアムの手はしなびて動かなくなりました。それでヤロブアムは預言者に「私のために祈ってください」と頼みました。

預言者が祈ると、ヤロブアムの手は癒されました。

けれども、多くの悪い人々と同じように、ヤロブアムはその預言者に賄賂を与えようとしました。しかし、その預言者はこう答えました。

たとい、あなたの家の半分を私に下さっても、あなたといっしょにはまいりません。また、この所ではパンを食べず、水も飲みません。

主の命令によって、「パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない」と命じられているからです。(列王記第一13:8-9)

だから、若い預言者は別の道を通って帰り始めました。

その時、ある年老いた預言者が息子たちからその話を聞きました。その預言者が誰だったのか、私たちには分かりません。

その預言者は本物の預言者だったのでしょうか。おそらく、以前は本物の預言者だったのだと思われます。とはいえ、もしかすると神様はその預言者を通して語ることをやめられたのかもしれません。

その理由は何でしょうか。私には分かりませんが、その預言者がヤロブアムの「ヤハウェ」という偶像を礼拝し始めたからではないかとも考えられます。

とにかく、その年老いた預言者は若い預言者の話を聞くと、彼を追いかけました。そして、若い預言者を見つけると、その年老いた預言者はこう言いました。

私といっしょに家に来て、パンを食べてください。(15)

その若い預言者が拒絶したので、年老いた預言者はこう言いました。

私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に「その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ」と言って命じました。(18)

だから、その若い預言者は年老いた預言者と一緒に行きました。けれども、年老いた預言者の言葉は嘘でした。

一緒に食事をした後、おそらく久しぶりに、年老いた預言者は預言を語りました。

主はこう仰せられる。「あなたは主のことばにそむき、あなたの神、主が命じられた命令を守らず、

主があなたに、パンを食べてはならない、水も飲んではならない、と命じられた場所に引き返して、そこであなたはパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは、あなたの先祖の墓には、入らない。」(21-22)

その若い預言者がその家を出ると、ライオンが彼を襲い、命を奪ってしまいました。

年老いた預言者はその話を聞くと、涙を流し、敬虔な言葉を述べながら、その若い預言者を葬りました。

どうしてその年老いた預言者はそのようなことをしたのでしょうか。なぜ若い預言者を誘惑したのでしょうか。

さらに、なぜ神様はその年老いた預言者を通して若い預言者に裁きのメッセージを与えられたのでしょうか。

そして、その若い預言者の死の後、なぜ年老いた預言者は泣いたのでしょうか。

私にはそれらの答えがよく分かりません。

しかし、一つだけ確かなことがあります。その若い預言者は自分が聞いたことを見分けなかったために命を落としたのです。

年老いた預言者の言葉を聞いた時、若い預言者は自分に問いかけるべきだったのです。「彼の言葉は正しそうに思えるけれど、これは本当に神様からのものだろうか?」

もし彼が神様の言葉と年老いた預言者の言葉を比較していたならば、真理を見極めることができたはずです。そして、その言葉を拒絶すべきでした。けれども、彼はそれをしませんでした。

その結果、神様の言葉に従わなかったため、最終的には命を失うことになったのです。

多くの人々は「これは神様の言葉だ」と語ります。そして多くの場合、それは本当に神様の言葉であり、教会でのメッセージや書籍を通して多くの人々に影響を与えます。

しかし、私たちクリスチャンには、聞くことや読むことを見極める責任があります。有名な牧師であっても、有名な著者であっても、その言葉を見極める必要があります。

つまり、彼らが神様の言葉を忠実に伝えているのであれば、それを聞き従うべきです。けれども、彼らがそうでないのであれば、その言葉を拒絶しなければなりません。

もし私たちが人々の言葉と神様の言葉を比べなければ、深刻な状況に陥ることになります。

残念ながら、多くの人々はそれをしません。

しかし、神様は決して変わることのない方です。そして、神様の言葉も決して変わりません。だからこそ、私たちが耳にするすべての言葉を神様の言葉と比べるべきです。

パウロが書いたように、

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5:21)

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列王記第一

罪とは。。。

日本の教会で罪について語る際には、その定義を明確に説明する必要があります。なぜなら、この社会では「罪」という言葉が犯罪を意味することが多く、多くの日本人は「罪」と聞くと殺人や盗難などを思い浮かべるからです。

しかし、聖書によると、罪は犯罪に限ったものではありません。また、単なる「悪い振る舞い」だけを指すものでもありません。

罪の根本は神様への信頼の欠如です。また、不信仰の態度から生じます。

つまり、私たちは心の中で神様にこう言うのです。「あなたを信じません。あなたの道が最善だとは思いません。あなたが私の最善を望んでおられることを信じません。」

このような態度は、さまざまな罪の行動へと導きます。

それはヤロブアム王の問題でもありました。神様はアヒヤという預言者を通してヤロブアムに語られました。

 しかし、わたしは彼[つまり、ソロモン]の子[レハブアム]の手から王位を取り上げ、十部族をあなたに与える。。。

わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。

もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。(列王記第一12:35、37-38)

ヤロブアムは神様を信じてレハブアムに背きました。けれども、王になった後、彼は心配し始め、「神様はその約束を本当に守ってくださるだろうか」と疑い始めました。

なぜヤロブアムは心配したのでしょうか。それは、神様の宮がエルサレムにあり、エルサレムがユダに属していたからです。

(ところで、ヤロブアムの国はイスラエルの名前を取り、レハブアムの国は「ユダ」と呼ばれるようになりました。)

さらに、神様はこう命じられました。「エルサレムだけで礼拝しなさい。他の場所で犠牲をささげてはならない。」(申命記12:1ー14)

けれども、ヤロブアムが恐れていたのは、もし自分の民が神様を礼拝するためにエルサレムに行き続けたら、最終的に彼らがヤロブアムに背き、レハブアムのもとへ戻るのではないか、ということでした。

だからヤロブアムは選択がありました。つまり、神様の約束を信じるかどうかです。

神様が約束されたのは、もしヤロブアムが神様に忠実に仕えれば、その国を長く支配できるということです。

ヤロブアムは自分に問いかけなければなりませんでした。「それを本当に信じるでしょうか。もしそうなら、その民が神様を礼拝するためにエルサレムへ行っても、心配はないはずです。」

でも、ヤロブアムは神様の約束を信じないことを選びました。結果はどうなったでしょうか。

ヤロブアムはイスラエルで偶像礼拝を始め、多分アロンの模範に従ったのです。つまり、その偶像を建てた時に彼は言いました。

「これはヤハウェです。ヤハウェを礼拝しなさい。」

(ヤハウェは神様の本当の名前です。旧約聖書に「主」とある場合、ヘブル語では「ヤハウェ」です。)

そして、ヤロブアムは別の礼拝する場所を作り、自分の祭司を雇いました。また、モーセを通して神様が定められた祝日の代わりに、ヤロブアムは自分の宗教的な祭りを始めました。

そのため、神様はヤロブアムのために長く続く家を建てられませんでした。むしろ、ヤロブアムの息子からその国を取り去られました。

へブル人への手紙には、こう書かれています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(11:6)

だから、私たちは神様を信じるかどうかを問わなければなりません。神様を信じなければ、神様を喜ばせることはできないのです。

また、神様を信じずに自分の道を進むなら、それは罪を犯すことになります。

このように、C.S.ルイスはこう言いました。罪の解決は、単に良い行動をすることではありません。罪の反対も、単なる良い行動ではありません。

罪の反対は信仰です。

だからこそ、罪の赦しのために神様が求められるのは、私たちが再び神様を信頼することなのです。

その信頼の始まりは、イエス・キリストの十字架の働きを信じることです。

あなたはどうでしょうか。信仰によって生きることを選びますか。

それとも、不信仰によって生きる道を選びますか。

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聞きたいことだけを聞くと

伝道者の書で、ソロモンは書きました。

私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。

後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。

しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。

私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。

どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。

これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。(伝道者の書2:18-21)

ソロモンは、それを書いた時には知らなかったのですが、息子のレハブアムがその言葉の真実を証明しました。

ソロモンが死んだ後、イスラエルの人々はレハブアムのもとに来て、こう言いました。

あなたの父上は、私たちのくびきをかたくしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきとを軽くしてください。

そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。(列王記第一12:4)

レハブアムはそれを聞いた後、父ソロモンの助言者に相談して、どうすればよいか尋ねました。彼らはこう答えました。

きょう、あなたが、この民のしもべとなって彼らに仕え、彼らに答え、彼らに親切なことばをかけてやってくださるなら、彼らはいつまでもあなたのしもべとなるでしょう。(列王記第一12:7)

それは良いアドバイスでした。実は、そのアドバイスはイエス様の言葉を思い起こさせるものでした。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

あなたがたの間でひとの先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人たちのための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(マルコ10:42-45)

けれども、レハブアムはそのアドバイスを気に入りませんでした。

注目してください。助言者は二つの選択を提示したわけではありませんでした。レハブアムが二つのアドバイスを見比べて迷い、偶然に悪い選択をしたのではないのです。

むしろ、良いアドバイスを受けながらも、レハブアムはそれを拒み、一緒に成長した友人たちのもとへ向かいました。なぜなら、彼らがレハブアムの聞きたいアドバイスを与えるだろうと分かっていたからです。

彼らはこう言いました。

「あなたがたの父上は私たちのくびきを重くした。だから、あなたは、それを私たちの肩から、軽くしてください」と言ってあなたに申し出たこの民に、こう答えたらいいでしょう。

あなたは彼らにこう言ってやりなさい。「私の小指は父の腰よりも太い。

私の父はおまえたちに重いくびきを負わせたが、私はおまえたちのくびきをもっと重くしよう。

私の父はおまえたちをむちで懲らしめたが、私はさそりでおまえたちを懲らしめよう」と。(王列記第一12:10-11)

レハブアムはその助言に従いました。ところが、聞きたいアドバイスだけを選んだ結果、彼の国は分裂してしまいました。

その後、良かったことは、レハブアムがシャマヤという預言者の言葉に耳を傾け、従ったことでした。

イスラエルの十部族はレハブアムに背き、分裂し、その地域はイスラエルという名前を取りました。レハブアムは二つの部族だけを支配し続け、その地域はユダと呼ばれました。

けれども、その国を再び統一するために、レハブアムは戦争の準備をしました。その時、神様はシャマヤを送られました。

シャマヤはこう言いました。

主はこう仰せられる。上って行ってはならない。あなたがたの兄弟であるイスラエル人と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰れ。

わたしがこうなるようにしむけたのだから。(列王記第一12:24)

それを聞いたレハブアムは帰りました。しかし、時すでに遅く、彼の国は分裂してしまいました。

時には、人々が私たちに聞きたくないことを言うことがあります。私たちは心の中では、その助言が正しいと分かっているのに、聞きたくないと感じることがあります。

そのような時、私たちはどうするべきでしょうか。

すぐにその助言を拒絶してしまうでしょうか。

それとも、それを受け入れて変わるでしょうか。

時には、それは苦い薬を飲むようなものです。本当に飲みにくく、辛いと感じるかもしれません。

しかし、その薬を飲み込むことで、私たちの人生は健康になり、実り豊かなものとなります。

一方、聞きたいことだけを選んで聞くと、大きな問題を引き起こす可能性があります。レハブアムはそれを学びました。

私たちは謙遜な態度を持ち、聞きたいことだけでなく、聞きたくないことにも心を開き、受け入れるようにしましょう。

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列王記第一 歴代誌第二

神様は私たちを懲らしめられる時

神様は私を罰しておられるでしょうか。

時々、辛い時に、人々はその質問を訊きます。

実は、多くの場合、私たちが自分のせいで辛い時を経験しているのだと思います。つまり、私たちの悪い行動によって大変なことが起こります。それは当然のことと言えるでしょう。

パウロが言ったように、

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

時々、私たちが神様に背を向ける時、神様は私たちが困難を経験することをお許しになります。

しかし、その時、神様の目的は、そのつらい経験を通して、私たちの人生に最終的に良いことをもたらすことです。つまり、私たちが罪に背を向け、再び神様に向かうことです。

神様はソロモンを懲らしめるために、国内の敵(ヤロブアム)と外国の敵(ハダデとレゾン)を起こされました。けれども、神様がソロモンの懲らしめについて何を言われたのかをご覧ください。

何年か前、神様はソロモンの父ダビデに言われました。

わたしは「ソロモン」にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

もし彼が罪を犯すときは、わたしは人の杖、人の子のむちをもって彼を懲らしめる。

しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。

あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。(第二サムエル記7:14-16)

神様が言われたのは、もしソロモンが悪いことをしたとしても、神様は彼を懲らしめられますが、それでもソロモンを愛することをおやめにならないということです。

そのため、列王記第一11:39で、神様はこう言われました。

このために、わたしはダビデの子孫を苦しめる。しかし、それを永久に続けはしない。

二つのことに気づくべきです。

一つ目は、私たちが罪を犯した時、神様は私たちを懲らしめられるということです。

しかし、もし私たちが悔い改めるなら、神様は決して私たちを責め続けることはなさいません。むしろ、私たちを赦してくださいます。

ダビデはこう書きました。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。(詩篇103:9)

二つ目は、私たちが罪を犯したとしても、神様は私たちを愛することをおやめにならないということです。

あなたは悪いことをして、「神様は私を罰している」と思うかもしれません。

確かに神様は、あなたを懲らしめておられるかもしれません。

けれども、心に留めてください。神様は私たちの益のために私たちを懲らしめてくださるのです。

神様は、あなたが罪を犯すのを待っておられるわけではありません。神様にとって、あなたを罰することは決して楽しいことではありません。

むしろ、神様はあなたを愛しておられ、あなたの最善を望んでおられるのです。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。

主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。

もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:5-11)

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列王記第一

霊的な姦淫

二年前、私は英会話の生徒と不倫について話しました。彼とその妻はある夫婦をよく知っていました。

けれども、その旦那さんは既婚者でありながら交際している女性がいました。そのため、その妻は私の生徒の妻に相談をしていました。

けれども、私の生徒は妻に対して友人をかばい、こう言いました。「彼は本当に良い人ですよ。ただ女性が大好きなだけなんです。」

多分、私の生徒の妻は、その「情報」を友人に伝えていないと思います。

その不倫をしている旦那さんは「女性たちが好き」という理由で、すぐに離婚する可能性があるかもしれません。あるいは、すでに離婚しているかもしれません。

ソロモンも同じ問題を抱えていました。彼は「女性たちが大好きでした。」そのため、彼には妻が700人おり、さらにそばめが300人いました。

神様が他の国々から来た女性と結婚してはならないと命じられたのにもかかわらず、ソロモンはそのような女性たちを「愛して、離れなかった」のです。(列王記第一11:2)

ソロモンはどれほど彼女たちを愛していたのでしょうか。一対一で多くの時間を過ごすことは難しかったのではないでしょうか。

多分、そばめたちとは一日、あるいは一週間程度しか時間を過ごせなかったかもしれません。そしてその後、彼女たちは贅沢な生活を送りながらも、孤独な人生を過ごしたのではないかと思います。

妻たちの状態も、あまり良いものではなかったはずです。700人の中で、一年に一日でもソロモンと過ごせたら、それは「ラッキー」と言えるでしょう。

それでも、ソロモンは「皆を愛している」と言っていました。

もちろん、一番大きな問題は、その妻たちの影響によってソロモンが神様に背を向け、彼女たちの神々を礼拝し始めたことです。

聖書にはこのように書かれています。

ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。

ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。

こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行い、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。(列王記第一11:4-6)

ソロモンの心はもはや神様に対して一つではありませんでした。むしろ、心の半分だけで神様を求め始めたのです。その結果、彼はついに様々な悪いことをし始めてしまいました。

なぜソロモンは失敗したのでしょうか。それは、彼が信仰の妥協をしたからです。また、神様の声を無視したからです。

エジプト人と結婚することが悪いと、彼は十分に理解していたはずです。

その時、ソロモンはこう言いました。

私の妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない。主の箱を迎え入れた所は聖なる所だからである。(歴代誌第二8:11)

つまり、神様がその結婚に同意されないと分かっていました。それでも、ソロモンは彼女を「愛していた」のです。

おそらく、彼は自分自身にこう言ったのでしょう。「彼女に影響されることを決して許さない。」

しかし、結局彼は彼女の神々を礼拝し始め、他の妻たちの神々も礼拝するようになりました。それがソロモンの破滅へと繋がったのです。

では、あなたはどうでしょうか。霊的な姦淫を犯しているでしょうか。

持つべきではないものを持っているでしょうか。

何かを神様以上に大切にしているでしょうか。

または、神様の隣に他のものを持ち上げていないでしょうか。

そうしてしまうと、あなたはもはや完全に神様のものではなくなります。そして、ますます妥協し、神様が憎むことをし始めてしまうのです。

この世界のものを愛するのではなく、霊的な姦淫を避けましょう。

そして、私たちの心を奪うものを捨て、すべてよりも神様を大切にしましょう。

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列王記第一 歴代誌第二

周りの人々が私たちをどう思うか

周りの人々は、あなたを見るとどのような印象を持つでしょうか。また、彼らはあなたについてどのようなことを耳にするのでしょうか。

ソロモンは、私たちにとって良い模範となる人物でした。人々がソロモンについて話す時、彼の素晴らしい知恵について語りました。そのため、シェバの女王はソロモンを試すために難問を携えてイスラエルを訪れました。

ソロモンを試した後、彼女は言いました。

私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。

実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。

あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。

なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。

いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできる家来たちは。

あなたを喜ばれ、イスラエルの王座にあなたを着かせられたあなたの神、主はほむべきかな。

主はイスラエルをとこしえに愛しておられるので、あなたを王とし、公正と正義とを行わせられるのです。(列王記第一10:6-9)

彼女はソロモンの中で何を見たのでしょうか。

もちろん、彼女はソロモンの知恵を見ました。また、神様がソロモンをどのように祝福されたかも目の当たりにしました。

しかし、それ以上に、ソロモンの人生の中に神様を見たのです。

同じように、周りの人々は私たちを見る時、神様を見ているはずです。

すなわち、神様の知恵、神様の祝福、そして神様の臨在を感じているはずです。周りの人々は私たちについてこう言うでしょうか。

あなたについて聞いたけど、人々が言ったよりにも、あなたが知恵があるし、祝福されている。

あなたの家族は、なんと幸せでしょう。あなたの職場の先輩と後輩は、なんと幸せでしょう。あなたがいて、あなたの近所の人たちと教会の人たちはなんと幸せでしょう。

私は、周りの人々が私についてそのような言葉を語るのを聞きたいです。

もちろん、たとえあなたが完全なクリスチャンであったとしても、すべての人があなたを好意的に見るとは限りません。

イエス様でさえ、完全で罪のないお方でありながら、ある人々に憎まれていました。

しかし、もし誰かが神様に対して開かれた心を持っているならば、彼らはあなたを見る時、きっとあなたに惹かれるはずです。

あなたは、そのような存在となっているでしょうか。

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列王記第一

私たちの最高のものを捧げる?

ソロモンは賢く、本当に鋭いビジネスマンでした。とはいえ、彼は時として鋭すぎる一面を見せることがありました。

特に、ツロの王ヒラムとの取引では、そのような側面が表れました。ヒラムはソロモンの父ダビデの友人であり、ソロモンとも良好な関係を築いていました。

そのため、ソロモンが宮殿と主の宮を建てた際には、ヒラムは多くの材料を送り助けました。

ソロモンはその材料の対価として20の町を与えましたが、それらの町にはあまり価値がありませんでした。

そのため、ヒラムはその町について不満を言いました。

兄弟よ。あなたが私に下さったこの町々は、いったい何ですか。(列王記第一9:13)

そして、ヒラムはその町をカブルと名付けました。カブルというのは、価値がないという意味です。

ソロモンは具体的に「価値のある町を挙げる」と約束していなかったかもしれませんが、ヒラムが本当に友人だったら、そのような約束が必要だったでしょうか。

ソロモンに非があったと考えます。

しかし、どれほど私たちが神様に対して同じようなことをするでしょうか。どれほど私たちが、お金や時間や努力をわずかしか捧げないでしょうか。

つまり、どれほど私たちが神様に最高のものを捧げないでしょうか。

もしヒラムがその賜物に不満だったのであれば、王の王がそのような賜物に満足されると思いますか。

神様が私たちの捧げものをご覧になると、「それは価値がない」と言われるでしょうか。

神様は私たちがどれほど捧げるかには関心をお持ちではありません。

ある貧しいやもめが神様に硬貨二つしか捧げませんでしたが、イエス様はお喜びになりました。そして、イエス様は言われました。

わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。

みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。(ルカ21:3-4)

神様が求めておられるのは、私たちの心です。神様は、私たちの心を持っておられるでしょうか。

もしかしたら、私たちは時間やお金や力の残り物を捧げているのかもしれません。

私たちは必要のないものを捧げているのでしょうか。それとも、私たちは最初で最高のものを神様に捧げているのでしょうか。

王の王は私たちの最高のものにふさわしいと思いませんか。

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列王記第一 歴代誌第二

どのようにすべてを失ってしまうか

ソロモンはすべてを持っていました。お金、力、知恵、そして誰もが手に入れたいと思うものをソロモンは全て持っていました。

そして、神様がソロモンに約束されたのは、もしソロモンとその子孫が心を尽くして神様に従うなら、神様はソロモンの王国の王座を永遠に確立すると言われたことです。

また、神様の心と目がソロモンの建てた宮に注がれると約束されたのです。

しかし、神様は同時にソロモンに警告も与えられました。

もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わず、あなたがたに授けたわたしの命令とわたしのおきてとを守らず、行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名のために聖別した宮を、わたしの前から投げ捨てよう。

こうして、イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。

この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、『なぜ、はこの地とこの宮とに、このような仕打ちをされたのだろう』と言うであろう。

すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出した彼らの神、を捨てて、ほかの神々にたより、これを拝み、これに仕えた。そのために、はこのすべてのわざわいをこの人たちに下されたのだ』と言うようになる。(列王記第一9:6-9)

残念ながら、ソロモンとその子孫は神様に忠実ではありませんでした。結果として、彼らの王座は取り上げられ、その美しい宮は破壊されてしまいました。

同じように、私たちは時折、尊敬されていたクリスチャンリーダーが失敗してしまう様子を見ることがあります。

最近、アメリカの大きな教会が、その有名な牧師のプライドによって解散するという出来事がありました。

あるミニストリーが多くの人々に影響を与えていたとしても、リーダーがもはや神様に心を尽くして仕えず、自分自身に仕え始めるならば、そのミニストリーも衰退してしまうことがあります。

彼らが神様を求めず、この世のもの、つまりお金やセックスや権力を求め始めるからです。

正直に言うと、そのような人々を見ることは私に恐れを抱かせます。なぜなら、自分自身を振り返った時、同じような弱さが見えるからです。そして、もし私が注意を怠れば、私も倒れてしまうかもしれないという思いに駆られるのです。

あなたはどうでしょうか。心を尽くして神様に従っていますか。それとも、罪に陥り始めているでしょうか。小さなことに妥協していますか。

もし私たちが小さなことに妥協すれば、すぐに大きなことにも妥協し始めます。そして、私たちが築いてきたものはすべて崩れてしまいます。

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列王記第一 歴代誌第二

神様の宮のための祈り

ソロモンの宮の奉献の祈りを読むと、私たちには神様の宮として何を祈らなければならないのかがわかるのです。

まず、ソロモンはその宮が正義のある場所となるように祈りました。つまり、もし二人の人々が争ったとき、神様がその宮で正義を与えてくださるように祈ったのです。

同じように、人々が私たちの判断を信頼できるよう、私たちの人生は敬虔であるべきです。そして、争っている人々が私たちに相談したとき、私たちは正義を与えるために、神様の知恵を求めて祈らなければなりません。

また、ソロモンはもう一つ祈りました。それは、もし人々が罪を犯して苦しんだときに、悔い改めれば、神様が彼らを赦し、癒してくださるようにという祈りです。

同じように、私たちは神様の宮でありながら、ときどき罪を犯します。

ソロモンが言ったように、

罪を犯さない人間はひとりもいない。(列王記第一8:46)

だから、私たちは罪を認識したとき、すぐに謙遜な心で神様の前に来て、悔い改め、赦しを求めて祈らなければなりません。そうするなら、神様は私たちを赦してくださいます。

次に、ソロモンはイスラエルの民が試練を経験したとき、神様がその民の祈りを聞いてくださるように祈りました。

もちろん、時にはイスラエルの民が罪を犯したために苦しみを受けました。

しかし、自分たちに責任がない状況でも、彼らは飢饉や地震、その他の天災によって苦しみました。そこで、ソロモンが祈ったのは、神様がその民の祈りを聞き、助けてくださるようにということでした。

私たちも試練に直面することがあります。時にはそれが私たちの過ちによるものですが、そうでない場合もあります。私たちは壊れた世界に生きているからです。それゆえ、そのような時でも神様の癒しを求めて祈るべきです。

また、ソロモンは祈りました。それは、外国人が神様のことを聞き、宮に来て祈ったとき、神様がその祈りを聞いてくださるようにという祈りです。

そして、彼らが神様を誉めて、自分の国に帰り、その国で神様についての知識を広げることを願いました。(列王記第一8:41-43)

同じように、キリストを知らない人が私たちに「私のために祈ってください」と頼むことがあるかもしれません。

その時、彼らが神様の存在を知り、神様を誉め、愛するようになることを願いながら、私たちは「神様、この祈りを聞いてください」と祈るべきなのです。

そして、彼らが神様との関係を持ち、その良い知らせを周りの人々に伝えることができますようにと祈るべきなのです。

さらに、ソロモンは戦争の時に神様の助けを求めて祈りました。(列王記第一8:44-45)

私たちにも戦いがあります。しかし、その戦いは血肉に対するものではありません。むしろ、その戦いは、

主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

だから、私たちは神様の助けを求めて祈るべきです。誘惑と戦う時や、福音をサタンの国に持っていく時に、勝利のために祈るべきです。

最後に、私たちは神様の宮として、このように祈るべきです。

この[宮]に、夜も昼も御目を開いてくださって、あなたのしもべ[の]祈りを聞いてください。(列王記第一8:29)

主よ、あなたの宮として、ソロモンのように祈ります。知恵を必要とする人々が私のところに来て、あなたの知恵を求めるように、どうか私の人生を光としてください。

また、人々が祈りを求めて私のところに来る時、その祈りを聞いてください。そして、その答えを通して彼らがあなたに近づき、周りの人々にあなたの愛を広げることができますように。

主よ、私が罪を犯す時、どうか赦してください。私はしばしば罪に陥ります。この宮を汚す罪から清めてください。

さらに、霊的な戦争を戦う時に、どうか私の剣と盾となってください。あなたの国のために、この世界に影響を与えたいです。

夜も昼もあなたの目を私に向けてください。私の祈りを聞いてください。

私の神よ、新しい契約の力、すなわちキリストの血の力によって私を清め、私があなたの憩いの場となりますように。

どうか私に住んでください。あなたの復活の力が私の中に宿りますように。

あなたの祭司として、私たちを救いで覆い、またあなたの聖徒たちにいつくしみを喜びとさせてください。

あなたは私たちを地上の民から区別し、ご自身のものとしてくださいました。また、あなたは私たちを暗闇の圧制から救い出し、あなたの驚くべき光の中へと導かれました。

どうか聖霊を注がれた私たちを見捨てないでください。あなたの愛を永遠に思い起こしてください。アーメン。

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列王記第一 歴代誌第二

宮となるのには

ソロモンは本当に美しい宮を建てました。その時代までのイスラエルの歴史において、これほど美しい建物は存在しなかったかもしれません。

しかし、その宮がどれほど美しくても、それはただの建物に過ぎませんでした。

そして、神様がその宮に臨まれました。

列王記第一8:10-11には、こう書かれています

祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。

祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。

宮とはいったい何でしょうか。宮は神様が住まわれる場所です。そして、神様の栄光が輝く場所でもあります。

しかし、もし神様がおられなければ、それはただ空の建物に過ぎないのです。

では、どうして私たちが神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは私たちの外見の美しさのためではありません。つまり、私たちが細くても太っていても、背が高くても低くても、賢くても賢くなくても、美しくてもそうでなくても、才能があってもなくても、それらは全く問題ではないのです。

では、何によって私たちは神様の宮と呼ばれているのでしょうか。

それは、神様の臨在と栄光が私たちの中にあることによるのです。

つまり、私たちがクリスチャンになると、神様は私たちの心の中に住んでくださり、その栄光が私たちを通して輝きます。そのことによって、私たちは神様の宮と呼ばれているのです。

あなたが自分自身を見たとき、何を思うでしょうか。神様の宮として自分を見るでしょうか。それとも、ただの普通の建物として見るでしょうか。

神様はあなたをご自身の宮としてご覧になります。あなたは神様の住まいであり、神様はあなたを通してご自身の栄光を表したいと望んでおられます。そして、周りの人々はそれを見て、神様に近づくのです。

どうかそのことを忘れないでください。この真理を心に留めながら、イスラエルの民のように神様の前に跪き、宣言しましょう。

主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(歴代誌第二7:2)

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私たちの中に住んでおられる神様

ソロモンが建てた宮について読んで考えると、その美しさには本当に驚かされます。実際に見てみたかったです。

とはいえ、どれほど宮が壮麗であっても、ソロモンはこう言いました。

天も、天の天も主をお入れできないのに、いったいだれが主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。(歴代誌第二2:6)

多くの人々は、教会や宮が神様の家だと考えています。しかし、実際には、神様はそのような建物には住んでおられません。

ソロモンが言ったように、「天の天でさえ主をお入れすることはできない」のです。

それにもかかわらず、そのお入れできない神様が人間の心に住んでおられます。その真理は、ソロモンの宮の美しさ以上に不思議で驚くべきことだと思います。

少し想像してみてください。

もしあなたがクリスチャンであれば、宇宙を造られた神様があなたの中に住んでおられるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。(ヨハネ14:23)

パウロも同じようなことを書いています。つまり、聖霊様は私たちの中に住んでおられます。そして、私たちは神様の宮なのです。(第一コリント6:19)

あなたは自分のことを取るに足りない人だと思うかもしれません。また、自分にはあまり価値がないと感じるかもしれません。

しかし、心に留めておいてください。神様の目には、あなたはとても大きな価値を持つ存在なのです。

天の天も神様をお入れすることはできませんが、それでも神様はあなたと共に、そしてあなたの内に住んでおられるのです。

神様にとって、ソロモンの宮よりもあなたこそが美しい宮なのです。

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列王記第一

私たちの賜物は誰のためでしょうか

私たち皆は神様から賜物をいただきました。しかし、時々、その賜物が誰のために使うべきかを忘れてしまうのは簡単です。

その賜物は私たち自身のためのものではなく、私たちの栄光のためでもありません。むしろ、神様の国のために人々に仕えるために使うべきものです。

この箇所によれば、ソロモンはそれを実践しました。二人の女性たちが喧嘩をしたとき、ソロモンは神様から授かった知恵によって正義を行いました。

さらに、ソロモンの治世によってイスラエルの民は栄えました。列王記4:20には、このように書かれています。

ユダとイスラエルの人口は、海辺の砂のように多くなり、彼らは飲み食いして楽しんでいた。

もう一つのことが私の印象に残っています。それは、ソロモンが自分の賜物を使い、その賜物を活かすために懸命に働いたことです。33節には、こう書いてあります。

彼はレバノンの杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣や鳥やはうものや魚についても語った。

神様がその情報をソロモンの脳に直接入れたわけではないと思います。むしろ、ソロモンは物事をよく観察することを通して、神様から洞察力を授けられたのです。

しかし、一番大切なことは、ソロモンが学んだことを他の人々に教えたことです。

彼は三千の箴言を書き、自分の知恵と知識をイスラエル人だけに教えるのではなく、世界中の人々にも教え広めました。そのことを通して、神様は栄光を受けられました。

あなたはどうでしょうか。どのような賜物を持っていますか。その賜物をよく使っていますか。他の人々のために、そして神様の国のために、その賜物を使っているでしょうか。

そうすることによって、あなたも神様に栄光を帰することができます。

神様から与えられた賜物を通して、私たちがこの世の光となりますように。

イエス様が言われたように、

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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列王記第一 歴代誌第二

神様の価値観を反映する

夢のようですね。神様が私に「何が欲しいか」と尋ねて、その願いを叶えてくださったら、私はとても嬉しくなるでしょう。

あなたがソロモンだったら、何をお願いしたでしょうか。

私はさまざまなことを考えることができます。たとえば、私の家のローンがすべて払い終わること、私の日本語がペラペラになること、または私の糖尿病が癒されることなど。欲しいものはいろいろとあります。

ソロモンも何にでも願うことができました。たとえば、富を得ることや、権力を増すこと。それでも、彼はこう願ったのです。

わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入するすべを知りません。

そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。

善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。

さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるのでしょうか。(列王記第一3:7-9)

神様がその願いを聞いて、二つのことについて喜ばれたと思います。

一つ目はソロモンの謙遜な態度です。ソロモンは自分がすべてを知っているわけではないことを認めました。そして、イスラエルを治めるために神様の知恵が必要であると理解していました。

二つ目は、その願いが自分のためではなく、神様の民のためであったということです。

ソロモンは、自分のプライドのために知恵を願ったのではありませんでした。むしろ、彼は神様の民を正しく治めるため、また神様から与えられた役割を忠実に果たすために知恵を願ったのです。

それは、あなたの優先順位にも当てはまるでしょうか。つまり、神様の国と神様の民を大切にしていますか。

私にとって、それは家族から始まります。良い夫であり、父であるために、私は神様の知恵を求めます。

私の妻はクリスチャンですが、彼女が成長し続け、神様の目的を果たすようにと祈っています。

そして、私の娘は5歳で、まだクリスチャンではありません。彼女が主を愛し、求めるようにと祈っています。それと同時に、彼女を正しく育てるために、私は知恵が必要です。

でも、家族だけではなく、私の同僚、近所の人たち、そして教会の人たちにも神様の愛を示したいと思います。

しかし、神様の国のために人々に触れるよりも、私はしばしば他のことに焦点を当ててしまいます。

それは、多くの場合、私が自己中心的であり、自分の必要や願いにばかり焦点を当ててしまうからです。

けれども、イエス様は、この世の物に焦点を当てるのではなく、神様の国に焦点を当てなさいと言われました。そうすれば、私たちの必要はすべて満たされると約束されています(マタイ6:33)。

あなたはどうでしょうか。神様から何を求めているでしょうか。神様が望んでおられることを、あなたも望んでいるでしょうか。

神様の国が広がることを願っていますか。

それとも、この世の物に焦点を当てすぎてはいませんか。

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列王記第一

裁きの時間

正直に言うと、私はこの箇所を読むと、ダビデの戒めに同意できません。特に、シムイとヨアブに関する戒めには同意できません。

もちろん、ヨアブは罰に値しました。ヨアブは将軍として自分の地位を守るために二度も人を殺しました(アブネルとアマサ)。

私が賛成できないのは、ダビデ自身がヨアブを罰しなかったことです。むしろ、息子ソロモンにそれを任せました。だから、結局ヨアブの罰は正義でしたが、それはあまりに遅すぎました。どうしてダビデが待っていたのか、納得のいく理由はありません。

ヨアブに関しては、ダビデの行動に問題があったと思いますが、シムイに関してはダビデがもっと悪かったと感じます。

以前、ダビデはシムイを殺さないことを約束しました(第二サムエル記19:23)。

それにもかかわらず、この箇所ではダビデはソロモンにシムイを罰するように命じたのです。

今は、「シムイ」を罪のない者としてはならない。

あなたは知恵のある人だから、彼にどうすれば彼のしらが頭を血に染めてよみに下らせるかを知るようになろう。(列王記第一2:9)

もちろん、神様の律法によって、シムイが王様を呪ったことは罪に当たります。神様の律法では、王様を呪うことは神様を呪うことに等しいとされています(出エジプト記22:28;列王記21:13)。

ですから、神様の律法によれば、その人は死に値します。

とはいえ、ダビデがシムイを許したことを考えると、ソロモンに対するダビデの戒めは適切ではなかったと感じます。

それでも、もしシムイがソロモンの命令に従っていれば、殺されることはなかったでしょう。シムイはソロモンの戒めを理解し、従うと約束しました。

そのため、私はダビデの戒めが良くなかったと思う一方で、シムイの死は彼自身の責任だったとも思います。

そして、ソロモンの兄アドニヤについて。

アドニヤは最後まで王になる野心を諦めませんでした。そのため、彼はダビデのそばめであったアビシャグと結婚したいと願いました。

その当時の文化では、以前の王のそばめと結婚することは、王位への野心を公然と宣言する行為に等しいとみなされていました。

結果として、ソロモンはアドニヤの過去の罪を許していたのに、次の罪によってアドニヤを処刑しました。

この箇所によって、私たちは何を学べるでしょうか。

ダビデの命令に同意できないため、このアナロジーは完璧ではありませんが、一つのことを学ぶことができると思います。

つまり、裁きの日が来るということです。

ダビデのように、時には神様が忍耐を持って罰の日を延期されることがあります。けれども、もし私たちが悔い改めないならば、裁きは必ずやって来ます。

時には、ヨアブのように私たちは考えることがあります。「神様は私をまだ罰していないから大丈夫だろう。だから、自分が好きにし続けよう。」

しかし、そのような考え方は間違っています。神様は忍耐強い方ですが、最終的には裁きが訪れます。結局ヨアブはそれを学びました。

アドニヤとシムイのように、私たちは神様を私たちの王として拒絶することがあるかもしれません。そして、神様の戒めや警告を知っていても、それらを無視し、自分自身の道を歩き続けることがあります。

しかし、アドニヤとシムイのように、神様の忍耐にも限界があります。そして、裁きが訪れるのです。

これは決して楽しいメッセージではありません。だれも神様の裁きについて聞きたいとは思わないでしょう。けれども、それが現実なのです。

だからこそ、私たちが自問すべきは「私は準備できていますか」ということです。

準備をするためには、あなたの心をイエス様にささげなくてはなりません。イエス様が十字架であなたの罪のために死んだことを信じ、イエス様をあなたの主として受け入れなければなりません。

そうすれば、あなたの罪は永遠に赦されます。

あなたはどうでしょうか。イエス様はあなたの王でしょうか。

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列王記第一 歴代誌第一

私たちの目的を達成する

これはダビデについての最後の脚注です。すこし驚くべきことですが、パウロはこの脚注を私たちに与えました。

その時、ピシデヤのアンテオケで、パウロはユダヤ人たちにイエス様の死と復活について話していました。そのメッセージの中で、パウロはダビデについて語っていたのです。

ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死ん「だ」。(使途の働き13:36)

もし私が亡くなったら、皆にそのようなことを私について言ってほしい。

ブルースはその生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んだ。

私たちはダビデの人生について読み、ダビデの良い時も、悪い時も、ダビデの成功も、失敗も見てきました。また、ダビデの神様に対する深い愛や、ダビデの酷い罪をも目にしてきました。

けれども、結局のところ、パウロはダビデについてこう語りました。

ダビデは神様のみこころに仕えた。

私はもう。。。歳です。もし神様の御心なら、私にはまだたくさんの年が残されているでしょう。

私は良い時もあれば、悪い時もありました。成功した時も、失敗した時もありました。神様を心を尽くして愛した時も、罪に陥った時もありました。

それらの経験は、私が死ぬまで続くはずです。

しかし、天国で神様にやっとお会いできたとき、何よりも欲しいものが一つあります。それは、神様が私にこう言われることです。

「よくやったよ。あなたは忠実なしもべでしたよ。私が頼んだことのすべてをあなたはしてくれました。」

神様が私たち皆にそう言ってくださることを願っています。

私はこの世を去るとき、
私の人生について、
私の周りの人々は結局何を思い出すでしょうか。

彼らは私が家族を愛したと言うでしょうか。
私が忠実な友達だったと言うでしょうか。
私が神様の御子について伝えるために生きたと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

彼らは私がイエス様の帰りを待ち望んだと言うでしょうか。 私が救い主の顔とその微笑みを見て、
「よくやった」と聞きたかったと言うでしょうか。
私の人生が終わる時。

ーージェフ·ムーア

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列王記第一

男らしくなるには

「男らしくありなさい。」

日本では、若い男性がその言葉をどのように受け取っているのか私にははっきり分かりませんが、アメリカではそのような言葉を頻繁に聞くことがあります。

この箇所では、ダビデも死を迎える前に、息子ソロモンに同じことを語りました。(列王記第一2:2)

それは何を意味しているのでしょうか?

多くの人々にとって、「男らしい」というのは強い人を指すようです。

ダビデも確かにそのような内容を語りました。彼はソロモンにこう言ったのです。

強く、男らしくありなさい(2節)

つまり、この世界があなたに反対しても、強くありなさい。プレッシャーに負けないでください。

けれども、男らしくなることはただ強い人になることだけを意味しているのではありません。ダビデはソロモンにこう言いました。

あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。

あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。(3節)

多くの若い男性は、男らしくなりたいなら、自分がしたいことをするべきだし、完全に独立しなくてはならないと思っています。

しかし、ダビデにとって、男らしくなることは、神様に心を尽くして従うことでした。神様の声に耳を傾け、それに従うことです。また、主の権威に従わなければなりません。

そのような人こそ、男らしい人なのです。

あなたはどうでしょうか?若い男性でも、少し年を重ねた男性でも、あなたは男らしいと言えるでしょうか?

あなたは神様に従い、神様の心に従っていますか。それとも、自分自身の心に従っているのでしょうか?

もしあなたが独身の女性なら、どのような男性を求めていますか?神様はあなたのためにどのような男性を望んでおられるでしょうか?

本当に男らしい男性とは、神様の権威に従う人であることを心に留めておいてください。

どのような男性と共に歩みたいですか?どのような男性を求めていますか?

男性でも女性でも、私たち皆が心を尽くして神様に従いましょう。

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列王記第一

王位を奪おうとする

もう一度、私たちはダビデの家族の問題を見ることができます。今回、アドニヤはダビデがソロモンに約束した王位を奪おうとしました。

この問題は、再び父親としてのダビデの失敗によって起こりました。6節には、このように書かれています:

彼の父は存命中、「あなたはどうしてこんなことをしたのか」と言って、彼のことで心を痛めたことがなかった。(列王記第一1:6)

だから、ある日、アドニヤはこう決心しました。「私は王になる。」

そして、彼は支持を得るために、将軍ヨアブと祭司たちを呼び、彼らと相談しました。

けれども、預言者ナタンはその計画を知り、ダビデとバテ・シェバに警告しました。結果として、アドニヤの計画は失敗し、ソロモンが王となりました。

多くの人々はアドニヤのようです。彼らは心の中でこう言います。「私は王になる。」

もちろん、彼らは国の王になろうとしているわけではありません。しかし、彼らは自分の心の王位を神様から奪おうとします。

彼らは神様の支配を拒んで、自分自身の人生を支配しようとするのです。その結果として、彼らの人生は失敗に終わってしまうのです。

多くの日本人は、罪というものを犯罪を犯すことだと考えています。けれども、基本的に、罪とは私たちの人生における神様の支配を拒絶することです。

それはサタンの罪でした。それはアダムとエバの罪でもあり、そして、それは世界中すべての人々の罪でもあります。

何度も、私たちは神様の支配を拒絶し、自分自身で人生を支配しようとします。

その結果、私たちは神様を傷つけ、他の人々を傷つけ、さらには自分自身をも傷つけてしまうのです。

そして、もし私たちが悔い改めないなら、やがて神様の王位が回復される時、神様は私たちを裁かれるのです。

なぜなら、私たちは神様の物を奪ったからなのです。

あなたはどうでしょうか。あなたの心の王位を神様にささげましたか。

神様はあなたを造られました。だからこそ、あなたは神様の者なのです。

それにもかかわらず、あなたの心の王位を奪い、自分自身で支配しようとしていませんか。