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士師記

私たちが正しいと思うことによって生きるときに

私は士師記を振り返ったら、士師記が暗いと知っていたけど、もう一度読んだら、どの程度まで暗いか分かるようになりました。

その時代、イスラエル人を救った士師でも、道徳的に疑わしいことをしました。私が以前言ったように、士師記をまとめたいなら、最後の言葉を見たほうがいいです。それは、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。(士師記21:25)

神様の目に正しいことをしませんでした。むしろ、自分の目に正しいことをしました。私たちがそうすると、結果は何でしょうか。士師記の最後の三章を読んだら、分かると思います。

1.道徳観はまったく崩れるようになります。ギブアというイスラエルの都市の行動を見たら、本当にショッキングです。ソドムに住んでいたロトの話と本当に似ています(創世記19章)。

ロトの話のように、ある人と、そのそばめは町に来て、他の人の家に泊まりました。でも、その間に、その都市の人々は家の戸をたたき続けて、叫びました。

あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。(19:22)

ヘブル語で「知りたい」という表現は、彼と性的関係を持ちたいという意味になりますが、この場合は強姦の意図を含んでいます。

ロトの話のように、その家の所有者は拒絶しましたが、自分の娘と、そのお客さんのそばめを彼らに渡そうと思いました。

ロトの話と異なり、そのお客さんは天使ではなかったので、結局、彼がそのそばめを町の者に渡して、彼らが、そのそばめをレイプして、殺してしまいました。

その町の道徳観がそんなに悪くなって、ソドムのようになってしまいました。ソドムの悪によって、神様はその都市を滅ぼされました。

2.私たちは悪のことを守り始めます。他のイスラエル人は、その話を聞くと、ベニヤミンの部族に言いました。

あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。

今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ、彼らを子として、イスラエルから悪を除き去ろう。(20:12-13)

でも、そのベニヤミン人は拒絶しました。むしろ、彼らは女性をレイプして殺した人々を守るために、他のイスラエル人と戦いました。使徒パウロは、このような人について、こう言いました。

彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。(ローマ1:32)

3.正しいことをしたいと思っても、悪いことをしてしまいます。ベニヤミン人を打ち負かした後で、他のイスラエル人は誓約しました。

私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない。(21:1)

私は彼らの怒りがよく分かります。でも、彼らは決して、その誓約をしてはいけませんでした。その誓約をした後で、彼らは、ベニヤミンの部族が、すぐなくなることを分かるようになりました。

だから、最初に、彼らは、あるイスラエルの都市を攻撃しました。(その都市の人々はベニヤミン人との戦いに参加しなかったらしいです)。

その都市の男の人々と、その妻たちをすべて殺してしまって、結婚していなかった女性たちを妻としてベニヤミン人にあげました。

それにしても、女性たちは足りなかったので、どうやって、その誓約を破るか考えました。結局、彼らは、ベニヤミン人が他のイスラエル人の娘たちを誘拐して結婚することを許しました。

つまり、彼らの道徳観は本当にめちゃくちゃでした。でも、私たちは自分の目に正しいことをしたら、そのようなことになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの道徳観はどこから来ますか。神様の言葉から来るでしょうか。もしくは、ただ自分の意見でしょうか。

道徳の標準は一つしかありません。それは、私たちからではないです。だから、道徳的な決断をしなくてはならないときに、自分の知恵に頼らずに、神様の知恵に頼りましょう。

そうしないと、道徳崩壊と私たちの社会の破壊に導きます。

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士師記

偽者の礼拝

この士師記の最後の5章はエピローグです。その箇所の話は、おそらくヨシュアが少し前に亡くなった後に起こりました。なぜなら、アロンの孫ピネハスは、まだ大祭司だったからです。

この二つの話は、かなりショッキングです。この二つの話を一言でまとめたいなら、17章6節と21章25節を読んでください。つまり、

そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

この箇所では、ある人とその家族が自分の目に正しいと見えることによって神様を礼拝する姿が描かれています。

ミカという人は、母から銀を盗みましたが、後で告白して、その銀を戻しました。それは良いことでした。

そして、その母はその銀を主に捧げました。どのように捧げたのでしょうか。その母は彫像と鋳像を作るためにミカに銀をあげました。

しかし、神様は十戒、すなわち第一戒と第二戒において、それを禁じておられます。

どうして、その母が「私は神様に捧げる」と言いながら「彫像と鋳像を作りましょう」と言えるのか私は理解できません。

おそらく彼女は、「この鋳像を作るけれど、ヤハウェ(つまり、神様の名前)と名づける」と思ったのかもしれません。

しかし、神様が命じられた通りに礼拝せず、自分が正しいと思う方法で礼拝したのです。

ミカは、その彫像と鋳像を作り、礼拝し始めました。

そして、ある日、レビ人が訪れました。レビ人たちは幕屋(神殿のようなものです)で神様に仕える人たちでした。そして、ミカは言いました。

私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。(10)

私は信じられませんが、そのレビ人は同意しました。その人は神様の戒めをよく知っていたのに、お金のために背を向けました。

そして、18章で、ダン人の部族は、その彫像を礼拝し始めました。

私たちは何を学べるでしょうか。ミカとその母は自分が正しいと思ったことをしました。神様の彫像に関する戒めをよく知らなかったかもしれません。もしくは、その戒めを無視したのでしょう。

いずれにせよ、彼らはその行動によって神様の祝福を得ると思っていました。ダン人たちも同じように考えました。

けれども、神様はそのような礼拝をお受けになりません。イエス様はこう言われました。

 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23-24)

つまり、礼拝する時に熱心さは大切ですが、神様の目にはそれだけでは足りません。あなたの礼拝は神様の真理によるべきです。

神様が自分を現されたように礼拝するべきですし、神様が命じられる通りに礼拝するべきです。けれども、神様の言葉を知らなければ、それはできません。また、もし神様の言葉に従わなければ、神様を喜ばせることはできません。

あなたはどうでしょうか。神様が自分を現されたように礼拝しているでしょうか。それとも、自分の偽のイメージを作って礼拝しているでしょうか。

神様が命じられる通りに礼拝しているでしょうか。それとも、自分が正しいと思う通りに礼拝しているでしょうか。

神様を霊と真によって礼拝しましょう。

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士師記

もったいない

「彼の才能はすごかったのに、もったいないことをしました。」

どれほど、私たちはそのような言葉を耳にするのでしょうか。スポーツ選手に関してよく聞きます。選手の才能は本当にすごいですが、プライドがありすぎたり、怠けたりするため、その可能性を十分に発揮できないことがあります。

多分、毎日あなたは人に会って、「彼は本当にすごい才能があるのに、なぜもっと努力しないのだろうか」と思うことがあるでしょう。

サムソンの話を読むときに、私はそう思います。神様は彼のためにすごい計画があったのに、彼はその計画を十分に果たすことができませんでした。

彼は生まれる前に神様に聖別され、ナジル人として育てられて、神様に仕えるように訓練されました。けれども、大部分、彼は自分の人生を無駄にしてしまったのです。

神様が彼を用いたときも、それはサムソンの意図ではありませんでした。つまり、サムソンを通して神様の恵みによって、イスラエル人はペリシテ人からある程度救われました。

しかし、それはサムソンの都合によるものであり、時にはサムソンの行動にもかかわらず、イスラエル人は救われたのです。

サムソンの問題は何だったのでしょうか。一番大きな問題は、サムソンが神様の働きに聖別されていたにもかかわらず、彼は神様中心ではなく自己中心でした。

彼は、神様にどうやって仕えるかを考えるよりも、どうやって自分に仕えるかを考えていました。

士師記を読むと、サムソンが神様のアドバイスを求める姿を全く見かけません。サムソンは神様に復讐のための力を求めましたが、神様の導きを求めることは全くありませんでした。

彼の人生にはそのパターンがよく見られます。彼の最初の事件は、ペリシテの女性と結婚することでした。

神様がイスラエル人にカナン人と結婚してはならないと命じられたにもかかわらず、サムソンはその命令を無視し、両親の言葉をも無視して、ペリシテ人(カナン人の一派)と結婚しました。

それでも、士師記14章4節で、これが主によることだと書かれています。それはどういう意味でしょうか。少し矛盾しているように感じます。

おそらく、サムソンが誰の言うことも聞かずにそのペリシテ人と結婚したかったので、神様はその状況を用いようとされたのでしょう。

神様は私たちに何かを無理に強いられることはありませんが、時にはご自身の目的のために、私たちの悪い決断を用いられます。

サムソンは自分の理由でそのペリシテ人と結婚しましたが、神様はその状況をご自身の目的のために用いられました。 このような意味で、それは神様によることでした。

そして、サムソンを通して、神様はイスラエル人をペリシテ人から救われました。

とはいえ、サムソンの動機は、神様を喜ばせたいというものではありませんでした。彼の主な関心はイスラエル人ではありませんでした。

むしろ、何度も、彼の動機は復讐でした。何度も、その言葉が出てきます。

もし、彼の動機が、神様を喜ばせることや、イスラエル人を愛していることだったら、良かったのです。

しかし、彼はそのことを気にせず、また、神様からの召しも気にしませんでした。

さらに2つの事件で、その態度が見られます。

ある日、サムソンは死んだライオンを見つけました。神様はナジル人に死体に近づかないよう命じられましたが、サムソンは近づいて、そのライオンの死体からはちみつを取って食べました。(士師記14:8-9)

そして、デリラというペリシテ人と関係を持ち、彼は彼女にどのように自分の誓約を破るか教えました。つまり、彼の髪の毛を切れば、それは誓約を破ることになるということです。

デリラはサムソンを裏切り、髪の毛を切りました。その結果、サムソンの神様からの力がなくなり、ペリシテ人は彼を捕え、目をえぐり出し、サムソンはペリシテ人の奴隷となりました。

それでもなお、イスラエル人を助けるために、神様は再びサムソンを用い、三千人のペリシテ人を殺されました。けれども、サムソンの動機は何でしたか。彼の最後の言葉はこうです。

神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。(士師記16:28)

サムソンは、多くのことを成し遂げました。20年間ほどイスラエル人を助けました。

けれども、彼は自己中心であり、神様からの召しを真剣に受け止めなかったため、彼の可能性を十分に発揮しませんでした。

あなたはどうでしょうか。神様は、あなたを神の国のために用いたいと望んでおられます。神様はあなたが周りの人々に影響を与えることを望んでおられます。

神様は天国であなたに会う時に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言われるでしょうか。

それとも、「あなたの人生はもったいなかった」と言われるでしょうか?

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士師記

「不思議」という方

イエス様が旧約聖書でどのように現れるかは不思議です。士師記13章では、イエス様が天の父の使いとして現れたとされています。 そして、イエス様は女性と話して、こう言われました。

見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。

今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。

見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。

彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:3-5)

ナジル人についてもっと知りたいなら、こちらをご覧ください。

通常、人々は決まった期間、ナジルの誓約を守ります。けれども、この子供は一生涯ナジル人であることを命じられました。

彼女がその夫マノアに使いの言葉を伝えたとき、マノアは神様に祈りました。「もう一度、その使いを送ってください。どうしたらいいか教えてください。」

神様の恵みによって、その使いは再び送られました。その時、マノアは尋ねました。「あなたのお名前は何ですか。」

使いは答えました。

なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。(18)

それを読んだときに、私はイザヤ書の箇所を思い出しました。メシア、つまり救い主イエス様についての箇所です。こう書かれています。

その名は「不思議な助言者。。。」(イザヤ書9:6)

ある英語の翻訳で、こう書かれています。

その名は「不思議な方、助言者。。。」

この士師記の箇所でどのように、イエス様は不思議な方でしょうか。

1.マノアの妻の恥を取り去ってくださいました。

その時代、子どものない妻は大きな恥とされていました。 多くの人々はマノアの妻を見て、「神様はその人を罰しているのでしょうか」と思ったことでしょう。 しかし、イエス様の一言によって、その恥は取り去られました。

イエス様は私たちの恥をも取り去ってくださいます。私たちは皆、罪による恥で汚れていますが、イエス様の血によって、罪が洗われ、雪のように白くなります。(イザヤ書1:18)

2.イエス様はマノアとその妻にあわれみを示してくださいました。

彼らは罪人であったのに、イエス様は彼らを打ち砕きませんでした。むしろ、供え物を受け、祝福し、子供を約束してくださいました。

同様に、イエス様は私たちにも哀れみを示してくださいます。私たちは皆罪人であり、神様から何も値しない存在です。

それでも、失敗したときでも、神様は私たちを罰するのではなく、祈りと供え物を受け入れ、信頼するならば永遠の命を約束してくださいます。

3.救い主が来る希望を与えてくださいました。

ペリシテ人はイスラエル人を治め、厳しく扱いましたが、マノアの子供を通してイスラエル人はペリシテ人から救われました。

同様に、イエス様は私たちの救い主となりました。私たちは罪に迷い、サタンの国から逃げることができませんでしたが、聖書にはこう書かれています。

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:12-13)

イエス様の名前は本当に不思議です。

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士師記

短気な人々

アメリカでは、ポリティカル・コレクトネス(政治的な適切さ)という表現があります。それは、ちょっと説明しにくい表現です。簡単に言うと、ポリティカル・コレクトネスは自分の言葉で他の人を怒らせないということです。

例えば、アメリカで黒人について話す時、ある言葉は本当に悪い言葉です。黒人に対してその言葉を使ったら、その人は本当に怒ります。(その言葉を私は言いません。その言葉が大嫌いだからです。本当に知りたいなら、Googleで調べてください。)

けれども、ポリティカル・コレクトネスには他の意味もあります。例えば、「Policeman」と言わずに「Police officer」と言います。なぜならば、警官はいつも男の人ではないからです。「Policeman」と言ったら、時々、女性は怒ります。

もし政治家が言葉を気をつけないと、人々を怒らせます。だから、「政治的な適切さ」と言います。

とはいえ、すべてのアメリカ人にとって、ポリティカル・コレクトネスは本当に大事です。

ある意味で、私はポリティカル・コレクトネスが分かります。ある程度まで、私は賛成します。けれども、ある種の人々はそれに対して怒りたいと思います。

もちろん、私たちは他の人々の感情に敏感になるべきです。そして、もし私たちの行動によって他の人々を怒らせたら、将来その行動を避けたほうがいいです。

とはいえ、多くの場合、私たちは「相手が私を怒らせたい」と思わないほうがいいです。なぜならば、多くの場合、彼らは本当に私たちを怒らせたくないからです。

もしその行動を許せないなら、謙虚な態度を取りながら相手と話したほうがいいです。

私は昔のアメリカン・フットボールの選手テリー・ブラッドショーの話を読みました。

彼がプロになったとき、アメリカで人種差別の問題がまだあったため、緊張した空気がありました。

ブラッドショーはアメリカの南部で成長し、プロになる前は黒人との関係が全くありませんでした。だから、ブラッドショーはいつも黒人を「Coloreds」、つまり「色がある人」と呼びました。

ある日、黒人のチームメイトが彼と話して、「色がある人というのはどういう意味でしょうか。私は紫でしょうか。緑でしょうか。赤でしょうか。」と尋ねました。

大切なのは、その黒人の言葉ではありません。大切なのは彼の態度です。彼は「お前は馬鹿な人種差別主義者だ」という態度を取っていませんでした。

むしろ、彼はブラッドショーが本当にその表現が黒人を怒らせることを知らなかったと理解しました。そして、ブラッドショーの性格と動機を疑わずに、その問題について話しました。

けれども、この聖書の箇所で、エフライム人はまったく違いました。士師記を読んでみると、彼らはいつも怒っているようです。

8章では、彼らはギデオンに怒りました。なぜなら、ギデオンがミデヤン人と戦ったときに、エフライム人を遅れて呼んだからです。

12章でも同じようなことがありました。

エフタがアモン人と戦うときに、エフライム人の助けを頼まなかったため、彼らはエフタを批判し、彼を脅しました。「私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う」と言いました。

ギデオンの場合、エフライム人の怒りをなだめることができました。しかし、エフタはそうしませんでした。むしろ、エフタはエフライム人と戦い、4万2千人を殺しました。

どうしてこの問題が起こったのでしょうか。おそらく誤解があったのかもしれません。

エフタは彼らに助けを頼んだと言っていますが、エフタが全イスラエルに助けを求めたにもかかわらず、何かの理由でエフライム人はそれを聞いていなかったのかもしれません。

私はエフタの行動が正しいとは言いません。ギデオンのように、彼はもっと外交的であるべきでした。

かといって、エフライム人は怒りっぽい性格のようでした。このような状況は二度目でした。

彼らがギデオンとエフタの性格や動機を疑わなければ、もっと良かったでしょう。「たぶん、彼らは私たちを怒らせたくなかったのかもしれない」と考えた方が良かったのです。

しかし、彼らはエフタの性格や動機を疑い、怒りを爆発させました。その結果、彼らはその態度のために命を失いました。

あなたはどうでしょうか。短気な方ですか。他人の行動や言葉に対してすぐに怒ることがありますか。

イエス様の使徒ヤコブの言葉を思い出しましょう。

しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(ヤコブ1:19-20)

つまり、相手の説明を早く聞き、遅く責めて、遅く怒るべきです。相手の性格が悪いと常に想定すべきではありません。相手の動機が悪いと常に想定すべきではありません。むしろ、彼らの性格と動機が良いことを想定した方が良いです。

そして、もし彼らと話さなくてはならないなら、愛を持って真理を語るべきです(エペソ4:15)。

そうしないと、エフライム人のようにトラブルが起こります。

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士師記

エフタは本当に娘を全焼のいけにえとして捧げたのか?

聖書の中で、士師記11:29-40は、とても解釈しにくい箇所です。エフタは本当に全焼のいけにえとして神様に娘を捧げたでしょうか。そうだったら、神様はその行動を認められたでしょうか。

その二つ目の疑問には以前のブログに答えがあります。もし、エフタが本当に全焼のいけにえとして娘を捧げたなら、神様はそのいけにえを絶対に受け入れられなかったでしょう。

なぜ私はそう考えるのでしょうか。 それは、モーセを通して神様がそのようないけにえを禁じられたからです。つまり、

あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。。。

これらのことを行う者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。(申命記18:10,12)

それでも、多くの聖書の学者は、エフタが娘を全焼のいけにえとして捧げたと考えています。

けれども、この箇所には他の解釈があるでしょうか。多くの聖書の学者はそう考えています。

新改訳によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。(士師記11:31)

でも、ある英語の聖書によると、エフタはこう言いました。

私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。もしくは、私はそのものを全焼のいけにえとしてささげます。

つまり、もし、エフタが動物を見たら、それを全焼のいけにえとして捧げます。(その時代、多くの家では、家畜小屋は家の一階で玄関の隣でした。)

その一方、人を見たら、その人をしもべとして神様に捧げるということです。

レビ記27章には、そのような例が書かれています。その箇所では、もし、ある人が特別な誓願を立てて、つまり、しもべとして誰かを神様に捧げた場合、その人をどのように買い戻すかの教えがあります。

とはいえ、28節にはこう書いてあります。

しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。

すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。

「絶滅すべき聖絶のもの」というのは、「神様に捧げ、それを自分のために取り戻すことができない」という意味です。サムエルの母はそのような誓願を立てていました。(第一サムエル1:11)

もし、エフタがそのような誓願をしたなら、聖書の教えに合います。そして、私たちはエフタの娘の反応を理解できます。

彼女は自分の死について泣きませんでした。彼女は子供ができないことを悲しみました。そして、彼女はお父さんから逃げずに、お父さんに従いました。

その解釈を受け入れている学者もいるし、受け入れていない学者もいます。

どの解釈を受け入れるにしても、私たちは聖書を読むときに、神様が何を教えておられるのかを考えるべきです。

もし、エフタの行動が罪だと思うなら、私は何を学べるでしょうか。それは、聖書をよく知らなければ、私たちが神様を喜ばせていると思っていても、実際には神様が喜ばれないこともあるということです。

神の御言葉をよく知っているでしょうか。 あなたは本当に神様を喜ばせているでしょうか。 あるいは、神様の言葉を知らないゆえに、知らず知らずのうちに神様が憎まれることをしているのではないでしょうか。

もし、エフタがただ自分の誓いを後悔していたなら、私は何を学べるでしょうか。

それは、神への誓いについて注意しなければならないということです。もしその誓いを立てたら、守らなければなりません。

(ただし、神の律法に違反する誓いは別です。そんな誓いを守ってはいけません。(レビ記5:4))

実は、イエス様が言われたのは、誓わないほうがいいということです。むしろ、

あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。(マタイ5:37)

つまり、あなたは何かをすると言ったなら、それを実行すべきです。神様は私たちがそのような人であることを望んでおられます。

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士師記

気まぐれな人々

イスラエル人は本当に気まぐれな人々でした。神様に対して気まぐれだったし、エフタという人に対しても気まぐれでした。実際、イスラエル人の神様との関係とイスラエル人のエフタとの関係は本当に似ています。

エフタが不品行によって生まれた人だったので、彼の兄弟とその都市の長老たちは彼を追い出して、「あなたはほかの女の子供だから、私たちの父の家を受け継いではいけない」と言っていました。

けれども、大変な時に、イスラエル人はアモン人と戦うために、エフタに「私たちの首領になってください」と願いました。(士師記11:6-8)

神様に対しても、それはイスラエル人の態度でした。全てうまくいったときに、彼らは神様に背を向けて、偶像を礼拝しました。しかし、困った時には、彼らは偶像を捨てて、もう一度神様に仕え始めて、「助けてください」と叫びました。

私は彼らに対しての神様のあわれみを信じられません。神様は彼らの心をよく知っておられました。そして、神様は言われました。

行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らを救うがよい。(士師記10:14)

けれども、彼らが神様に叫び続けたから、結局、

主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。(士師記10:16)

そして、救い主を送ってくださいました。

私たちはどうでしょうか。イスラエル人のように、私たちも神様に対して気まぐれでしょうか。全てうまくいくときに、神様を無視して、自分自身に仕えるでしょうか。そして、ただ困ったときに、神様に戻って、「助けて!」と叫ぶのでしょうか。

もしくは、いつも神様に対して忠実でしょうか。

私はダビデの祈りが大好きです。彼は祈りました。

私の心を一つにしてください。(詩篇86:11)

有名なクリスチャンアウグスティヌスという人はこう言いました。

私の魂が安心な場所はあなたしかありません。そして、私の中でばらばらのものをまとめてください。なぜならば、私の中にあなたから離れる部分がないように望むからです。

時々、あなたが私の中で働くとき、つまり、私のばらばらな魂をあなたに近づけるとき、言葉で言い表せない感情を与えてくれます。それは本当に素晴らしい喜びです。そのような喜びは今まで経験したことがありません。

それが一時的なものではなく、永遠に続く感情になったら、それがこの世界のものではなく、この世界からの経験でもないことがわかります。(告白10)

神様に対して、私たちが気まぐれな心を持たないように。むしろ、私たちはいつも忠実な心を持って、神様に仕えるように。

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何を願っているか気をつけて

英語で、「何を願っているか気をつけてください。なぜならば、それをもらうかもしれないから。」ということわざがあります。つまり、私たちが願っていることは、時々良いことではありません。

イスラエル人は、ずっとカナンに住んでいて、結局王様が欲しくなりました。まず、彼らはギデオンに頼みましたが、彼は拒絶しました。「神様はあなたの王」と言われたのに、イスラエル人はその言葉を受け入れることができませんでした。

だから、ギデオンが亡くなった後で、彼らはギデオンの息子アビメレクを王にする計画をすぐに受け入れました。

アビメレクはギデオンのそばめの息子でした。ギデオンが死んだ後、すぐにアビメレクは母の出身地シェケムの家族とその都市の人たちからサポートを求めました。

彼は成功して、その人たちと一緒にギデオンの他の70人の息子たちを殺しました。だから、アビメレクはイスラエル人の最初の王になりました。(ただし、彼の力はシェケムに限定されていたかもしれません。)

けれども、ギデオンの末っ子ヨタムは生き残って逃げました。そして、彼はシェケムの人たちに例え話をしました。

それは、木々が王を求めましたが、オリーブの木、いちじくの木、ぶどうの木は皆断りました。だから、その木々は茨に頼みました。その茨は王になりましたが、結局その茨が木々を滅ぼしました。

つまり、シェケムは王を見つけましたが、結局彼らを滅ぼす人物を選んでしまいました。

ヨタムの言葉は真実でした。シェケムの人々はアビメレクが悪い王であることを理解しましたが、遅かったのです。

シェケムの人々が彼を選んだにもかかわらず、彼はその人々をたくさん殺しました。しかし、アビメレクはシェケムを攻めたときに、彼自身が殺されました。

同じようなことが私たちにも起こるかもしれません。

私たちが何かを求めるあまり、神様を私たちの王として無視することがどれくらいあるでしょうか。憧れの仕事を見つけますが、日曜日に教会に行けないことを無視します。

または、私たちは夫や妻を求めますが、相手がクリスチャンでないことを無視します。

あるいは、彼や彼女と一緒に寝たいと思いますが、神様の戒めを無視します。つまり、セックスは結婚している人のためのものです。

そのようなことをすると、私たちの人生はめちゃくちゃになります。

だからこそ、何を願っているか気をつけましょう。あなたの願いが神様の願いと合っているかどうかを確かめましょう。そして、イエス様の約束を覚えておきましょう。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

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でも私は良いことに相応しい

私は日曜学校とバイブル・クラブでギデオンの話を聞いた時に、二つの話しか聞いていませんでした。一つはギデオンと神様の出会い。そして、ギデオンのミデヤン人との戦いです。

けれども、私の先生はギデオンの暗い面について全然話していませんでした。それでも、ギデオンには暗い面がありました。

ガドの話を読んで、その暗い面が見えます。この箇所でも、その暗い面が見えます。

この箇所は積極的に始まります。イスラエル人はギデオンに「私たちの王になってください。あなたはミデヤン人から救ってくださったから。」と言いました。

けれども、ギデオンは答えました。「私ではなくて、神様があなたの王です。神様はあなたの支配者です。」

ところが、その後で、ギデオンは言いました。「ちょっとお願いがあります。少し金が欲しいのです。また、ミデヤンの王の赤紫の衣をください。あ、もう一つお願いがあります。その王の首飾りをお願いします。」

その後で、その金からエポデを作りました。どうしてそうしたのか、私には分かりません。

エポデは神様の祭司のためのものでした。祭司たちは神様と相談するときに、エポデを使いました。だから、その行動を通して、ギデオンは祭司の義務を取ったみたいです。

ギデオンは、もう一つのことをしました。他の国々の王のように、ギデオンはたくさんの女の人と結婚して、息子が70人いました。一人の息子をアビメレクと名づけました。その名前の意味は、「私の父は王です」という意味です。

どうして、ギデオンはそうしたのでしょうか。私は分かりません。ただ考えるに、その時代、「私の父」という表現は、時々神様に対して使われました。だから、ギデオンが以前言ったように、「神様は私の王」と言いたかったかもしれません。

そして、イスラエル人に神様に仰ぐことを思い出させるためにエポデを作ったかもしれません。

しかし、彼のすべての行動を見たら、彼の動機がちょっと疑わしいと思います。

彼は、「私はこの良いことに相応しいだろう?私は王のように生きたら、いいんじゃない?私はすごいことをしたから。良いものをもらったら、いいんじゃない?」と考え始めたかもしれません。

けれども、その態度は何に導いたのでしょうか。

一つ目は、そのエポデはギデオンとその一族にとって、落とし穴になったことです。なぜならば、イスラエル人はそのエポデを礼拝し始めたからです。

二つ目は、その態度はギデオンの家族の中でトラブルに導きました。つまり、一人の本当に悪い、また神様を恐れない息子がいました。

私たちが物と地位を追うなら、それは危ないことです。もし、それが私たちの優先事項になったら、私たちの人生を罪と災害に導くかもしれません。

「でも、私はその良いものに相応しいでしょう?私はたくさんの良いことをしたから。報酬を受けたら、いいんじゃない?」

そのように考えるのは簡単なことです。しかし、私たちのすべての持っているものが神様から来たことを思い出さなくてはなりません。もし、神様が私たちに才能と物質的な豊かさをくださらなかったら、私たちは何もできないでしょう。

だから、私たちは謙遜な態度を取ったほうがいいです。また、私たちに値するものを求めるべきではありません。

むしろ、私たちが値するものが死であることを思い出したほうがいいです。しかし、神様は私たちに恵みとあわれみを与えてくださいました。ただ、その恵みとあわれみによって、私たちは良いものを持っています。

あなたはどうですか。あなたが値するものを求めていますか。それとも、神様に対して謙遜と感謝の心を保っていますか。

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士師記

神様はその行動を本当に承認されたのか

時々、私たちは聖書を読むときに、聖書の登場人物が悪いことをするのを見ます。時には、聖書のヒーローですら、本当にひどいことをします。そして、私たちは尋ねます。「神様はそれを承認されたのか。それは神様の御心だったのか。」

特に、神様がその状況について何も解説されないときに、私はそう尋ねます。

時々、誰かが悪いことをしたとき、聖書にはこう書かれています。「その行為は神様の心をそこなった。」

たとえば、ダビデがバテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を殺したとき、聖書にはこう書かれています。

しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。(サムエル記第二11:27)

とはいえ、多くの場合、聖書には神様の感情が全く書かれていません。だから、神様が怒られたか、平気だったか、私たちはよく分かりません。

多くの人々はこう考えます。「神様はその行動を承認されたのかもしれない。もし承認されていなかったなら、なぜ聖書に何も書かれていないのでしょうか。」

けれども、それは誤った考え方です。エフタの話(士師記11章)で、私はこの疑問についてさらに語ります。しかし、この箇所でも、スコテとペヌエルという都市に対するギデオンの行動を考えると、同じような疑問が生じます。

その都市はガドという部族のものでした。イスラエル人がミデヤン人を追ったとき、彼らはその都市の人々にパンを求めました。ところが、その長老たちは拒絶しました。

なぜ拒んだのでしょうか。彼らが恐れたからかもしれません。もしイスラエル人がミデヤン人を征服できなかったなら、ミデヤン人はその都市に復讐したかもしれません。

しかし、この箇所をよく読むと、もう一つの可能性が見えてきます。長老たちがギデオンの願いを拒んだとき、彼らはギデオンを嘲ったのです。

「あなたたちは馬鹿です。あなたたちが300人しかいないのに、1万5千人の軍隊を攻めるつもりか。私たちは絶対手伝ってあげない。」(士師記8:15)

だから、ギデオンの勝利の後で、彼はその二つの都市に対して復讐しました。

神様はその行動を承認されたのでしょうか。聖書は沈黙しています。実際、多くの聖書の解説者はギデオンが正しいと解釈しています。

それでも、私の意見ですが、多分、神様は承認されなかったと思います。なぜ私はそう思うのでしょうか。

このような話を読んで、「神様は承認されたか」と尋ねるとき、ただその一つの話を読むだけではなく、聖書全体の教えを見なければなりません。

神様はこのような状況について何を教えておられるでしょうか。

二つのことを見ましょう。一つは正義についてです。神様はイスラエル人に教えられました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

それは復讐の教えではありませんでした。むしろ、それは罰の制限でした。つまり、その罰は罪と同等でなければなりませんでした。罰は罪より大きくてはなりませんでした。

その二つの都市はギデオンの軍隊にパンをあげることを拒絶し、ギデオンたちをからかいました。荒野の茨やとげの罰、また、やぐらの壊し、また人を殺すことは、その罪に合っていたでしょうか。

私の意見ですが、その罰は彼らの罪に合っていなかったと思います。それがギデオンの傷ついたプライドによる復讐のように見えます。

二つ目のことは、イエス様の申命記の解説です。

イエス様は言われました。

『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)

あなたが考えると、それは本当に心を打つ描写です。

イエス様は言われました。もし、誰かがあなたの右の頬を打ったら、左の頬も向けなさい。

もしあなたが右利きで、相手に向かい合ったなら、どうやって相手の右の頬を打つでしょうか。手の甲で打たなければなりません。

けれども、通常、相手の体を傷つけるために手の甲は使いません。それは侮辱の行為なのです。

だから、イエス様が意味されたのは、もし、誰かがあなたを侮辱するなら、赦しなさいということです。その人と喧嘩しない、という意味です。

ギデオンはそうしませんでした。もちろん、その都市の長老たちは悪かったです。しかし、ギデオンの反応も悪かったです。左の頬も向けずに、彼は復讐しました。

いずれにせよ、私のポイントは、聖書に神様がその行動を見て怒られたと書かれていないからと言って、神様がその行動を承認されているとは限らないということです。

私たちは、聖書の全体の教えを見なければなりません。そうすれば、神様の承認かどうか分かるようになります。

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なだめるような言葉

もし、誰かが不公平に私たちを責めたら、私たちはどう反応するでしょうか。

多くの人にとって、自然な反応は相手を責めることです。また、ひどい言葉を受けたら、私たちはひどい言葉を返します。他の人は何も言わずに、すねます。

しかし、そのような反応は良くありません。ギデオンはそれを知っていました。

ミデヤン人と戦うことを計画したとき、ギデオンはいくつかのイスラエルの部族に助けを求めました。けれども、その戦いがほとんど終わるまで、ギデオンはエフライム人に助けを求めていませんでした。

だから、エフライム人は怒りました。初めから、彼らは助けたかったのに、除外されたように感じました。彼らはギデオンが、他の手段がないときに彼らを呼んだと感じました。だから、彼らは言いました。

あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。(士師記8:1)

そして、彼らはギデオンを激しく責めました。

ギデオンはどう反応したでしょうか。ギデオンは彼らを責めませんでした。彼はすねませんでした。むしろ、ギデオンは言いました。

今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。。。神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。(2-3)

その言葉によって、ギデオンはエフライムのプライドをなだめました。

箴言にこう書いてあります。

柔らかな答えは憤りを静める。(箴言15:1)

あなたはどうでしょうか。誰かがあなたを不公平に責めたとき、あなたはどう反応しますか。

時には、一番良い方法は、自分のプライドを抑えて、謙虚になることです。とはいえ、それは簡単なことではありません。

けれども、もし相手を本当に愛しているなら、そうする方が良いのではないでしょうか。

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誰を信頼しているでしょうか。

誰を信頼しているでしょうか。

神様はギデオンにそう訊いておられたようです。ミデヤン人と戦うために、ギデオンは3万2千の人々を集めました。けれども、神様は言われました。

あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが、『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。(士師記7:2-3)

2万2千人は帰っていきましたが、神様は「それでも、まだ多すぎる」と言われました。

だから、神様はさらに多くの人々を帰らせました。結局、その32千人から、300人しか残りませんでした。どうしてでしょうか。

それは、神様がイスラエル人が自分自身に頼らず、ただ主に信頼することを望んでおられたからです。そして、たった300人で、神様はイスラエル人に勝利を与えてくださいました。

同じように、神様は私たちが神様を信頼することを望んでおられます。

けれども、私たちは誰を信頼するでしょうか。何に頼るでしょうか。お金でしょうか。私たちの仕事でしょうか。私たち自身でしょうか。それとも、神様でしょうか。

もし私たちが他のものに頼るなら、それが私たちの優先事項になります。そして、私たちはそれを神様よりも大切にします。

しかし、もし私たちがただ神様を信頼するなら、私たちの優先順位は正しくなり、勝利を得ます。

あなたの神様との関係はどうですか。強い関係がありますか。それとも、弱い関係でしょうか。あなたは神様と親しい関係があると思いますか。

自分自身に問いかけてください。「私は誰を信頼しているのだろうか。何に頼っているのだろうか」

神様はあなたと親しい関係を望んでおられます。けれども、もしあなたが「神様を他の何よりも信頼する」と答えられないなら、その親しい関係はできません。

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私たちが何者になるかの可能性を見られる神

この箇所は神様がモーセを呼ばれた箇所と似ています。両方の場合、神様は自信がない人を呼び、用いられました。

この場合、天使はギデオンを呼ばれたときに、興味深いことを言いました。(ちなみに、多くの学者は、その「天使」がイエス様だと考えています)。その天使は言いました。

勇士よ。主があなたといっしょにおられる。(士師記6:12)

けれども、ギデオンは全く勇士ではありませんでした。彼はただの農夫でした。そして、彼は全然強くなかったし、全く勇気がありませんでした。神様が彼を呼ばれた時に、彼は答えました。

「私は取るに足りない人ですし、取るに足りない部族の出身です。どうやって、私はイスラエルを救うことができるでしょうか。」

そして、ギデオンはバールの祭壇を破壊する時に、夜に行いました。なぜならば、彼は家族と近所の人々を恐れていたからです。

また、ギデオンはイスラエル人を戦いのために集めた時に、神様が彼らと共におられる証拠を求めました。

それでも、神様はギデオンに恵みを与えてくださいました。ギデオンが神様を試しても、神様は許してくださいました。

そして、ギデオンがやっと「この方は神様です」と分かって、恐れてひれ伏した時に、神様は言われました。

安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。(23)

ギデオンは罪人でした。死に値しました。なぜならば、ギデオンは罪人であったのに、聖なる神様の御顔を見たからです。しかし、神様はギデオンを殺しませんでした。むしろ、神様はギデオンを素晴らしい働きのために呼ばれました。

どうしてでしょうか。それは、神様がギデオンの可能性を見られたからです。神様はギデオンを信じてくださいました。

そのように、神様はあなたを信じてくださいます。あなたが見えなくても、神様はあなたの可能性を見られます。

だから、自己憐憫にふけらないでください。「私は取るに足りない人だ」と言わないでください。

それは嘘です。なぜならば、神様があなたを創造されたからです。そして、神様の目的のためにあなたを造られました。つまり、あなたが神様を知り、神様の国のために仕えるために造られました。

どんな人であっても、神様はあなたに可能性を見られます。

ただ、私たちは神様に「イエス」と言うべきです。

あなたはどうしますか。

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あなたは値する(しない)事を得る?

私たちが悪い決断をすると、どれぐらい他の人々はこう言うでしょうか。

「自業自得でしょう?」

「同情なんてしない。」

「それは当然の報いだよ。」

そして、それはその通りです。聖書では、こう書かれています。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7)

もし、私たちの人生に悪い種を蒔けば、悪い実が出てきます。

この箇所の初めで、神様はイスラエル人にそのようなことを言われました。イスラエル人が神様に背を向けたので、神様はミデヤン人がイスラエル人を迫害することを許されました。

その苦しみの中で、イスラエル人は再び神様に叫び求めました。

すると、神様は答えられました。

イスラエルの神、主はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。

わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」(士師記6:8-10)

つまり、「あなたたちは値することを受けた。私があなたたちに警告したのに、あなたたちはそれを無視したから、今苦しんでいる。」

それでも、神様はイスラエル人を見捨てられませんでした。むしろ、彼らの罪なのに、神様は彼らに手を伸ばして救ってくださいました。

それは恵みです。私たちは神様から何も値しません。むしろ、私たちは皆神様に背を向けて、自分の道を行っていたから、地獄に行くことに値します。

でも、もし私たちが神様に叫び求めたら、神様は応えてくださいます。私たちを愛してくださるからです。

神様は、私たちの罪の結果をすべて取り除かれるわけではありません。あなたの悪い選択によって、苦しむかもしれません。

でも、もし私たちが神様に向かったら、苦しみの中でも希望があります。つまり、神様は私たちをまだ愛してくださるので、私たちの苦しみの中で働いて助けてくださるということです。

あなたは悪い選択をしましたか。その選択によって苦しんでいますか。神様に向かいましょう。神様は、あなたを赦して、助けてくださいます。なぜならば、神様はあわれみ深くて、恵み深い神様だからです。

ダビデが書いたように、

主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求めるすべての者に、恵み豊かであられます。(詩篇86:5)

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試合に参加しているでしょうか。ただ傍観しているのでしょうか。

多分、一番有名なバスケットボールの選手はマイケル・ジョーダンです。

とはいえ、彼のチームメートであるスコッティ・ピッペンも非常に優れた選手でした。彼はNBA(アメリカバスケットボールのリーグ)の歴史の中で、本当にすごい選手でした。

さらに、ピッペンはNBA50周年記念オールタイムチームに選ばれました。

けれども、一つの試合で、彼の評判は悪くなりました。なぜでしょうか。彼はバスケットボール・コートに入ることを拒否しました。

時間が少ししかない時に、最後の逆転を狙うために、コーチは他の選手にシュートを打たせるプレイを指示しました。ピッペンはそれを聞いて、爆発し、出場を拒否しました。

皮肉なことに、そのチームメートはシュートを決めて、そのチームは勝ちました。

ピッペンは最も良いバスケットボールの選手の一人ですが、多くのファンはその試合をまだ覚えています。だから、彼の評判はまだ少し汚れています。

イスラエル人は同じような状況に直面しました。神様はイスラエルの部族のすべてに協力させて、イスラエル人を圧迫する国と戦うよう命じられました。ところが、ある部族は来ることを拒否しました。

なぜでしょうか。私たちには分かりません。

私たちはバラクを批判するかもしれません。なぜなら、デボラが同行しない限り、バラクは行こうとしなかったからです。しかし、結局バラクは出陣しました。

けれども、ある部族はさらに悪い態度をとりました。彼らはまったく来なかったのです。だから、勝利の歌の中で、デボラはそのことを歌いました。

イッサカルのつかさたちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵とともに谷の中を突進した。ルベンの支族の間では、心の定めは大きかった。

なぜ、あなたは二つの鞍袋の間にすわって、羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの支族の間では、心の秘密は大きかった。

ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは舟にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。

ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。(士師記5:15-18)

つまり、イスラエル人が迫害者と戦うために自分の命をかけたとき、ルベンの支族、ギレアデの支族、ダンの支族、アッシェルの支族はただ傍観していました。

クリスチャンとして、私たちも戦争に参加しています。それは霊的な戦争で、毎日多くの人々が地獄に行っています。そして、神様は私たちにお訊きになります。

「あなたはただ傍観しているのでしょうか。それとも、試合に参加して、迷っている魂のために戦っているでしょうか。」

ある人にとって、あなたしかクリスチャンを知りません。そして、あなたが何も言わないと、彼らはイエス様のことを全く聞かないでしょう。その場合、神様はあなたに責任を問われます。

神様はあなたに言われます。

「他のクリスチャンはあちらこちらに行って、福音のために自分の命をかけました。なぜ、あなたは彷徨したのですか。なぜ、家に残ったのですか。なぜ行かなかったのですか。」

神様、私が決して傍観しないように。むしろ、私が試合に参加し、あなたのためにこの世界に影響を与えられるようにしてください。

私があなたの声を聞き、あなたの指示が分かるようにしてください。私が立派な兵士になれるようにしてください。アーメン。

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神様に従う時

私たちは皆、ロールモデルがいます。ある人にとっては、お父さんやお母さんです。他の人にとっては、おじいさんやおばあさん、あるいは先生です。

私たちが若い頃、彼らは私たちの成長にとって本当に大切な存在です。私たちの人格を形づくる手助けをしてくれます。私たちが育っていく過程を支えてくれます。

けれども、私たちが彼らから目を離して、神様に仰がなくてはならない時が来ます。

他のロールモデルは不完全です。時々彼らは失敗します。彼らは時々ミスをします。それに、彼らには弱さがあります。そして、時々、彼らは私たちを助けられません。だから、私たちは彼らに頼らずに神様に頼らなくてはなりません。

この箇所を読むと、バラクがそこまで成長していないことがわかります。その時、デボラという人はイスラエル人の預言者であり、イスラエルを裁いていました。

その時、イスラエル人の敵であるヤビン王は彼らを圧迫していました。デボラはバラクに言いました。

「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。

わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」(士師記4:6-7)

ところが、バラクは言いました。「もし、あなたが私たちと共に行かないなら、私は行きません。」

だから、デボラは答えました。

私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。(9)

どうして、デボラはそう言っていたのでしょうか。バラクの願いは悪かったでしょうか。もしかしたら、悪くなかったけど、理想的な反応ではなかった。なぜでしょうか。

一番の理由は、バラクが神様を信じなかったからです。神様だけに頼りませんでした。むしろ、彼は神様に頼る人に頼りました。

とはいえ、さらに悪いこともあり得ます。もし彼が神様に頼らない人に頼っていたなら、もっと大変なことになっていたでしょう。

しかし、結局、私たちの信仰は他の人の信仰に頼らずに、立たなくてはなりません。つまり、私たちはイエス様だけを信じなくてはなりません。私たちが神様に従う理由が、誰かが私たちに「神様に従いなさい」と言ったことだったら、それはダメです。

私たちは神様に対する愛によって、神様に従うべきです。

クリスチャンホームで育てられた子供たちは皆、その選択に直面します。私もその選択に直面しました。私は自分自身に訊かなくてはなりませんでした。

「どうして神様を信じるのでしょうか。私の両親が信じるからでしょうか。それとも、神様が私に対して本当にリアルだからでしょうか。

私が神様に従う理由が、私の両親が神様に従うからでしょうか。それとも、私の個人の経験によって、神様に信頼できることを知っているからでしょうか。」

いつか、私たちのロールモデルの手を離してイエス様の手を取らなくてはなりません。

もちろん、私たちは他のクリスチャンのサポートが必要です。神様は他のクリスチャンを私たちの人生に置いて、私たちを励まし、成長することを助けてくださいます。

しかし、私たちは不完全なロールモデルに頼るべきではありません。むしろ、イエス様に頼るべきです。

ヘブル人への手紙の著者が言ったように、

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。(へブル12:2)

誰の手をつないでいるでしょうか。

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あなたは自分自身を誰に与えるでしょうか

士師記では、同じテーマが何度も繰り返されます。

士師記3:7-8には、こう書いてあります。

こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行い、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。

それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。

また12節では、

そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。彼らの主の目の前に悪を行ったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。

そして、4:1-2では、

その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。

それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。

士師記を読みながら、何度もそのような言葉を見ます。イスラエル人は偽の神々を礼拝し始めたため、神様がその神々の国の手にイスラエル人を渡されました。

そして、イスラエル人は苦しみ、悔い改めて、神様に「助けてください」と祈り、神様が彼らを救う救助者を起こされました。

この箇所から、私たちは大切なことを学べると思います。

私たちが自分自身を何かに捧げると、そのものの奴隷になります。もし、私たちが自分自身を罪に捧げたら、罪の奴隷になります。

でも、もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様の奴隷になります。

以前言ったように、「あなたは誰かに仕えなくてはならない。」

パウロはこのように言っていました。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)

時々、人々は、「神様から離れたら、私は自由です。私は何でも出来る。」と思います。

でも、彼らが分からないのは、他のものの奴隷になっていることです。たとえば、自分の情欲や貪欲の奴隷になってしまいます。そして、パウロが言ったように、その行き着く所は恥と死です。(ローマ6:21-22)

たくさんの人々は、「どうして、私の人生はめちゃくちゃになったのだろうか」と思います。

「どうして、私の結婚はめちゃくちゃなのだろうか。どうして、私の経済はダメなのだろうか。どうして、私の悪い癖を止められないのだろうか。」

そして、彼らが気づくのは、自由だと思っていたものが本当は奴隷の人生だということです。また、その人生が死に導くことを理解するようになります。

だから、パウロは書きました。

あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(6:19)

あなたはどうでしょうか。あなたは自分自身を誰に捧げているでしょうか。何に捧げているでしょうか。

誰も本当に自由ではありません。

情欲に仕えて奴隷となり、滅びる人生を送ることもできます。

それとも、あなたは神様に仕えて満ち溢れる人生を送ることができます。

あなたはどうしますか。

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子育てを失敗すること

数年前、私は新聞の記事を読んでいました。その記事によると、日本の若い両親たちは、その子どもたちにどのように道徳を教えるか迷っていました。なぜなら、両親たちも道徳について確信がなかったからです。

もちろん、もし両親たちが自分自身道徳について確信がなければ、子どもたちに教えることはできません。

その結果、学校で多くの問題が起こります。15年くらい前、「学級崩壊」という言葉を聞き始めました。その状態は今でもあまり改善されていません。

イスラエル人は学級崩壊を経験しませんでした。彼らは社会崩壊を経験しました。

彼らは初めに、神様を礼拝し、神様の道に従っていましたが、やがて違う神々を礼拝し始めました。すぐに、彼らの道徳は崩れました。どうして、それは起こったのでしょうか。

イスラエル人は子育てに失敗したからです。どのように失敗したのでしょうか。

その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。(士師記2:10)

神様はイスラエル人に命じられました。「あなたの子どもたちに私について教えなさい。私はあなた方のために何をしたか教えなさい。」

それなのに、イスラエル人はその義務を無視しました。その結果どうなったでしょうか。その子どもたちは神様を知らなかったし、主がイスラエル人のために何をしたか全然知りませんでした。だから、その社会はすぐに崩れました。

私たちはどうでしょうか。私たちの子どもたちに神様について教えているでしょうか。神様が私たちのために何をされたかを、教えているでしょうか。

それとも、ただ子どもたちを日曜学校に連れて行って、その義務を先生たちに任せているでしょうか。

それは絶対にダメです。その先生たちは一週間に一回だけ私たちの子どもたちを教えています。でも、私たちは毎日子どもたちと一緒にいます。

先生たちが私たちの子どもたちに教えるとき、神様は喜ばれると思いますが、神様はその責任を両親たちに与えられました。神様は私たちに命じられます。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。(申命記11:18-19)

もし、あなたの子どもたちが神様を知らないなら、それは日曜学校の先生のせいではありません。それは、あなたの責任です。

神様について教えるべきなのは、あなたです。神様との関係をどう築くかを教えるべきなのも、あなたです。

そして、あなたの子どもにとって、あなたはクリスチャンの模範です。

日曜学校の先生たちは私たちの教えを補いますが、私たちの責任を取ることはできません。

もちろん、私たちの子どもたちは自分で決断しなくてはなりません。私たちが義務を果たし、神様について教えても、彼らが神様から立ち去るかもしれません。それをコントロールすることはできません。

でも、私たちが自分の子どもを教えないなら、神様はその責任を私たちに問われます。

時々、クリスチャンは言います。「でも、私は聖書をあまり知らない。神様のこともあまり知らない。私は聖書を教える資格がない。日曜学校の先生はもっと良い資格があるでしょう?」

そうかもしれませんが、それは良い言い訳ではありません。あなたはあまり知らないかもしれませんが、知っていることを教えなくてはならないのです。

そして、毎日毎日、あなたの信仰が成長し、神様についてもっと学ぶべきです。そうすれば、子どもたちにもっと教えることができるようになります。

あなたはどうでしょうか。神様の命令に従って、子どもたちに教えていますか。それとも、ただ日曜学校に連れて行っているのでしょうか。

イスラエル人は子どもたちに教える義務を果たせませんでした。そうしないでください。あなたの子どもに教えてください。そうすれば、あなたのように、彼らも神様を知るようになります。

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でも、私はできない

時々、神様は私たちに何かを命じられますが、私たちはそれは無理だと思います。私たちにとって、その仕事が大きすぎると思うかもしれません。または、私たちは罪と闘っていますが、いつも誘惑に負けてしまいます。

だから、私たちは言います。「神様、ごめんなさい。私はできません。この闘いは大きすぎるから。」

また、「この仕事ができません。私にとっては無理です。」

イスラエル人も同じでした。神様はイスラエル人に「カナン人をすべて土地から追い出しなさい」と命じられました。

けれども、その仕事が難しくなると、イスラエル人は諦めました。

どの程度まで頑張ったのでしょうか。追い出そうとしたのに、圧倒的に敗北したのでしょうか。

または、少し頑張ったけど、すぐに諦めたのでしょうか。

私は分かりませんが、多分、イスラエル人はあまり努力しなかったのでしょう。だから、攻撃を始めたけど、うまく行かなかったから、すぐに諦めてしまいました。カナン人を追い出すのは難しすぎたからです。

だから、神様は彼らに言われました。

「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。

あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を壊さなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。(士師記2:1-2)

神様は彼らの言い訳を受け入れませんでした。なぜでしょうか。なぜなら、神様は彼らと共におられると約束し、また、彼らを助けることを約束してくださったからです。

神様はイスラエル人の目の前に、エリコの壁を壊してくださいました。神様はイスラエル人の敵の上に雹を送り、イスラエル人の刀よりも、雹の方がその敵を殺しました。神様はアイを征服するためにイスラエル人に作戦を与えてくださいました。

それでも、イスラエル人は言いました。「私たちの敵は鉄の戦車を持っているから無理です。」

また、

「カナン人はこの土地から出たくない。彼らは激しく戦っています。彼らを追い出せない。」

神様の大きさに焦点を当てず、彼らは自分の弱さに焦点を当てていました。神様の助けを祈らず、彼らはただ「私たちはできない」と言っていました。だから、神様の命令に従いませんでした。

私たちはどうでしょうか。問題に直面するとき、どのように反応するでしょうか。私たちより大きい仕事を与えられたら、神様の力に頼り、従いますか。それとも、ただ「無理だ」と言って、やってみる前に諦めますか。

あるいは、少しだけやってみるけど、すぐに「もうだめです。残念です」と言いますか。

神様はその言い訳を受け入れません。なぜなら、神様は私たちと共におられるからです。そして、神様が私たちに仕事を与えるときは、いつも助けを備えてくださいます。

だから、私たちが何ができないかに焦点を当てず、神様が何ができるかに焦点を当てましょう。そして、従いましょう。

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容易な道を行くこと

神様の道はいつも容易な道ではありません。神様は容易な人生を約束されませんでした。しかし、問題に直面するとき、神様の民はより容易な道を探すことがあります。ダン族もその通りでした。

ヨシュア19章47節にはこう書かれています。

ダン族の地域は、さらに広げられた。ダン族は上って行き、レシェムと戦って、これを取り、剣の刃で打ち、これを占領して、そこに住み、彼らの先祖ダンの名にちなんで、レシェムをダンと呼んだ。

イスラエル人がカナン人と戦うとき、神様は助けることを約束されました。けれども、ダン族にとって、神様が征服するように命令した土地を占領するのは難しかったのです。

そのような難しい状況の中で神様に信頼したカレブとは対照的に、ダン族は諦めました。むしろ、彼らは、より征服しやすい場所に行き、その土地を占領しました。

士師記18章にはこの話がもっと詳しく書かれています。(ただし、士師記ではレシェムという場所がライシュと呼ばれています。)

ダン族の問題は何だったのでしょうか。彼らは神様に信頼せずに、自分自身に信頼し始めたのです。その結果、士師記18章の最後で、ダン族は神様から離れて偶像礼拝を始めました。

もし私たちが神様の道から離れて、容易な道を選ぶと、同じことが起こるでしょう。神様に信頼しないために、罪と妥協し始めてしまいます。もしすぐに悔い改めなければ、いつの間にか神様から遠く離れてしまうのです。

あなたはどうでしょうか。容易な道を歩んでいるでしょうか。経済的な問題について心配して、疑わしい方法で儲けようとしているでしょうか。

クリスチャンの伴侶が見つからないから、イエス様を信じていない人を考えているでしょうか。ノン・クリスチャンの家族や友人からのプレッシャーを感じているために、もう神様の道を諦めようとしているでしょうか。

そうしないでください。神様はあなたと共におられること、あなたのニーズを満たすことを約束されています。困難な状況にあっても、容易な道を選ばないでください。むしろ、ダビデの言葉を心に留めましょう。

主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:4)