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神様の御心

何年か前、神様の御心についてのメッセージを聞きました。

その牧師が話していたのは、神様の御心を的の中心のように考える人たちがいるということでした。つまり、ターゲットの真ん中に当たらないと、神様の御心を逃したと考えるのです。

しかし、神様の御心はそのようなものではありません。むしろ、神様の御心は塀に囲まれた庭のようなものです。

その庭の中で私たちは自由に選択できます。塀の外に出てしまえば神様の御心を逃してしまいますが、その庭の中、つまり神様の御心の中ではさまざまな選択が許されています。

例えば結婚についてです。多くの人々は次のように考えます。

「神様は私のためにたった一人の相手を選んでおられる。だから、その人を見つけなければならない。」

けれども、この考え方は間違っています。神様の御心の中であれば、いろいろな人の中から選んでも構いません。

ただし、その塀の中、つまり神様の御心の中で選ばなければなりません。

民数記36章では、神様はツェロフハデの娘たちに塀を与えられました。

マナセの部族はツェロフハデの娘たちについて心配していました。その娘たちの父親が亡くなり、兄弟がいなかったため、彼女たちは父親の土地を受け継ぎました。

けれども、もし娘たちが他の部族の男性と結婚すれば、マナセ部族の相続地が小さくなってしまうという問題がありました。

そこで神様は次のように命じられました。

彼女たちは、その心にかなう人にとついでもよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。(民数記36:6)

この箇所で、神様の御心が見えます。塀が設けられていました。つまり、その娘たちは父の部族に属する氏族に嫁がなければならなかったのです。

しかし、その塀の中では自由がありました。つまり、彼女たちは自分の心にかなう人に嫁ぐことが許されていました。

私たちのクリスチャン生活も同じです。もちろん結婚についてもそうですが、他のことでも同じです。

超えてはならない塀があります。例えば、結婚に関する神様の命令です。「クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならない。」

けれども、その塀の中であれば、誰と結婚してもよいです。

それは、神様が選ばれたただ一人と必ず結婚しなければならない、ということではありません。

時々、私たちは的に当てるかどうかを心配しすぎて、何かをするのを恐れるあまり、結局何もしないことがあります。

でも、それはよくありません。

神様の御心の中では、私たちには自由があります。そのことを心に留めてください。

結婚でも、仕事でも、どのような事柄でも同じです。まず、塀に囲まれている庭がどこにあるのかを知らなければなりません。その中で生きるべきなのです。

そしてその中にいる限り、神様の御心にかなっているかどうかを心配しすぎないでください。きっと大丈夫です。

もし神様があなたのために別の計画を持っておられるなら、つまりもっと具体的な的があるなら、神様が必ず知らせてくださいます。

ですから、的を外すことへの恐れに惑わされず、ためらわずに行動しましょう。

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命の価値

「私は殺人を認めません。」

それはアガサ・クリスティの本に登場する探偵、エルキュール・ポアロの有名な信条です。

神様も同じ意見をもっておられます。だからこそ、この箇所では殺人について多くの命令が記されています。

つまり、故意に誰かを殺した場合にどうすべきか、また偶然に殺してしまった場合にどうすべきかが教えられています。

その後で、神様はこう言われました。

あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。(民数記35:33)

日本人については分かりませんが、時々、アメリカ人は殺人に対して少し鈍感になることがあります。

最近、アメリカでたくさんの子供が殺された事件があったため、アメリカの人々は大きなショックを受けました。

けれども、普段、殺人のニュースを聞いても特にショックを受けないことが多いです。毎日どこかで殺人が起こっているからです。

しかし、神様にとっては、その血が土地を汚してしまいます。

なぜでしょうか。それは多分、人が他人を殺すということが、命の価値を蔑視する行為だからではないでしょうか。そして、殺人を犯した人はすぐに命の価値が全く分からなくなってしまうのです。

とはいえ、殺人はもっと長いプロセスの最後の段階にすぎません。

そのプロセスの始まりは、私たちが命の価値を尊重しなくなることです。

私たちは他人を見下し、憎むようになります。そして、たとえその人の身体を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺してしまうのです。

だから、イエス様はこう言われました。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがた は聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって『能な し』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21ー22)

私たちは人を憎むとき、その憎しみによって土地を汚してしまいます。なぜなら、本当にその人を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺しているからです。

ヨハネはこう語りました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

一方で、イエス様はどのような方でしたか。

ヨハネは続けてこう言いました。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16a)

イエス様は私たちを大切にしておられたので、ご自分の命を十字架でお捨てになったのです。命を滅ぼすことはなさらず、むしろ命を捧げられたのです。

そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命を受けることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。命を大切にしていますか。

それは言葉だけではなく、行動によっても命を大切にすることです。

それは具体的にどのようなことでしょうか。

ヨハネはこう言いました。

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3:16b)

イエス様がご自分の命を私たちのためにお捨てになったように、あなたも他の人のために命を捧げることができるでしょうか。

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とげと茨

私は草取りが大嫌いです。子供の頃、時々庭で草取りをしなければなりませんでした。それに、その庭はかなり広かったのです。

母は私にこう教えました。

「草取りをするときは、草の根からしっかり引き抜かなければならない。そうしないと、草はすぐにまた生えてくる。」

しかし、根から引き抜いても、時々草はすぐに再び生えてきました。そのため、私は草取りが嫌いでした。

このように、神様はイスラエルの民に何度も警告されたのです。 出エジプト記で警告され、さらに民数記でも再び警告されたのです。

「カナン人を徹底的に追い出しなさい。その偶像と祭壇を壊さなければならない。その宗教的な物も完全に捨て去らなければならない。」

そして、神様はこう語られました。

もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。(民数記33:55)

罪は草やカナン人と同じです。もし、草を完全に追い出さないなら、それはとげや茨になり、最終的には私たちを滅ぼします。

私たちは決して罪と妥協してはなりません。

もし神様を喜ばせたいのであれば、心の中に罪の根を少しでも残してはいけません。

罪を根絶しなければ、それはすぐに戻ってきます。

神様、私が罪と決して妥協しないように助けてください。

私が決して「今回だけ」と言うことがないように。なぜなら、そのようにしてしまうと、何度も罪に陥ることを繰り返してしまうからです。

私の心からその罪の草を根絶してください。私はあなたを喜ばせたいのです。アーメン。

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次善に甘んじる

時々、私は聖書を読むとき、何が神様の完全な意志で、何が神様の寛容な意志なのかを考えます。

神様の完全な意志とは、神様が望まれる通りにすべてが起こることを指します。

一方で、神様の寛容な意志とは、神様が何かを許されるものの、それが神様にとって喜ばしいことではない場合を指します。

例えば、アダムとエバの罪について考えてみましょう。

神様の完全な意志は、彼らが自由意志を持つことでした。けれども、その完全な意志の中には神様の寛容な意志も見られます。

つまり、神様は彼らに自由意志を与えたことによって、彼らが自分の道を選ぶ可能性を許されたのです。

彼らが罪を犯したとき、神様は喜ばれたでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、それを許されたのです。

このように、神様がアダムとエバに自由意志を持つことを望まれた結果、彼らは罪に陥りました。

神様の完全な御心は、彼らが神様に従うことでした。 一方で、神様の寛容な御心は、彼らが神様に従わないことを許されたのです。

時には、神様の完全な意志と寛容な意志が明確に区別できる場合もあります。アダムとエバの場合がその一例です。

けれども、他のケースでは、必ずしも明確ではないことがあります。

例えば、ガド族、ルベン族、ヨセフの子マナセの半部族が約束の地に住まず、別の土地に住むことを選んだとき、それは神様の完全な意志だったのでしょうか?

それとも神様の寛容な意志だったのでしょうか?

モーセはこう語りました。

もしあなたがたがそのようにし、もしの前に戦いのため武装をし、あなたがたがのうちの武装をした者がみな、の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地がの前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたはに対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。

そして、この地はの前であなたがたの所有地となる。(民数域32:20ー22)

でも、それは神様の完全な意志だったのでしょうか。

私の意見では、多分そうではありません。

ガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族が神様が約束された土地に住まなかったことで、彼らは神様の祝福を失ったのでしょうか。

正直に言えば、それは分かりません。何を失ったのか考えるのは難しいです。彼らは幸せだったかもしれません。

でも、もし彼らが神様が約束された土地に住んでいたなら、さらに幸せだったのではないでしょうか。

私たちはどれほど次善に甘んじているのでしょうか。そして、どれほど私たちが持っているものに満足し、それゆえ神様からのより素晴らしいものを断ってしまったのでしょうか。

神様は許してくださるかもしれません。とはいえ、その結果、神様が注ぎたかった祝福を失う可能性もあります。

時々、私たちは神様のタイミングを待ちたくないために次善に甘んじてしまいます。

また、私たちが居心地の良さにとらわれたり、神様の最高の計画を知らなかったりして、次善に甘んじてしまうこともあります。

おそらくガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族もそうだったのではないでしょうか。

彼らは神様が約束された土地を待つのを望まず、その土地の祝福を知らなかったのです。

多分、私が次善に甘んじる理由は、神様のタイミングを待ちたくないからではなく、今の状態に満足してしまっているからです。

もし、あなたが神様の御心に従っているのであれば、満足すること自体は悪いことではありません。

しかし、もしその満足が、神様があなたのために望んでおられる場所や目的に対する障害となるなら、それは良くないことです。

私は今、自分自身に問いかけています。私は今、神様が望んでおられる場所にいるのでしょうか。

それとも、次善に甘んじているだけなのでしょうか。

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誘惑を根絶する

旧約聖書は時に、かなり血まみれの描写があります。この箇所もその一つです。

神様は、イスラエル人に対してミデヤン人を完全に滅ぼすよう命じられました。なぜなら、その人たちがイスラエル人を罪へと導いたからです。

そして、イスラエル人がミデヤン人の女性たちを生かしておいたとき、モーセは怒りました。

その理由は、特にミデヤン人の女性たちが、イスラエル人の男性たちを偶像礼拝に導いたからです。そこで、彼女たちも殺さなくてはならなかったのです。

ただし、性的な宗教儀式にまだ関わっていない若い女の人たちだけは生かしておかれました。

では、この箇所から私たちは何を学べるでしょうか。

聖い人生を生きるためには、罪を根絶し、つまずきとなるものを捨てなくてはならない、という教訓です。

イエス様もこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29-30)

イエス様は本当に極端な言葉を使われますが、実際に目を抉り出したり、手を切り捨てることを求めているわけではありません。

それでも、イエス様のメッセージは明確です。罪を容認してはいけないのです。

もしもつまずきとなるものがあれば、それをすぐに捨てなければなりません。

たとえば、あなたが持っているビデオや雑誌が罪への誘惑となるなら、それを捨てるべきです。

もし、あなたの彼や彼女があなたに罪を犯させるなら、その関係を断つことが必要です。

友人があなたに罪を犯させるのであれば、少し距離を置くべきです。

多くの場合、私たちはつまずきとなるものを持ち続け、その結果として罪を犯してしまいます。そして、「どうして私はいつも罪に落ちてしまうのだろう」と考えるのです。

神様は、その原因となるものを切り離しなさい、と語られています。あなたにとってつまずきになるものは何でしょうか。

パウロはこう書いています。

神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。(テサロニケ4:7)。

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なだめの香り

民数記28~29章では、イスラエル人が捧げる犠牲についての具体的な説明が書かれています。

ただし、ここではその犠牲について詳しく書きません。なぜなら、すでに出エジプト記とレビ記のブログで説明しているからです。

けれども、この箇所で一つのフレーズが心に残りました。そのフレーズは何度も繰り返されているのです。

つまり、「主へのなだめの香りでした」という言葉です。

それと同じように、イエス様が私たちのために十字架で命を捧げられたとき、その犠牲も神様へのなだめの香りでした。それは神様の目において正義を満たし、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。

そして、今では神様は私たち自身が神様へのなだめの香りであると言われます。

第二コリント2章15~16節にはこのように書かれています。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。

神様が私たちを見るとき、キリストの香りを嗅がれます。

そして、私たちがこの世界に出ていくとき、イエス様の香りを広げるべきなのです。

第二コリント2章14節には、このように書かれています。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

16節に書かれているのは、ある人たちにとって私たちが「いのちから出ていのちに至らせる香り」であるということです。つまり、彼らが私たちの中にキリストを見るとき、イエス様に近づきたいと願うのです。

けれども、ある人たちにとっては、私たちは「死から出て死に至らせる香り」です。

なぜなら、キリストを拒絶する人々にとって、私たちは死と裁きが近づいていることを思い出させる存在だからです。そして誰も、そのことを思い出したいとは思わないのです。

もし、私たちがキリストの香りを広げないなら、それは本当に悪いことです。

私たちが神様に自分の体を生きた供え物として捧げないなら、私たちは本当に生きているとは言えません。ただ存在しているだけです。

しかし、神様はそれを望んでおられません。神様は、私たちが自分自身を神様に捧げ、キリストを知る知識の香りを広げることを望んでおられるのです。

あなたからはどんな香りが匂うでしょうか。

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罪から来る報酬

それでは、この箇所で民数記のタイトルの2つ目の理由が分かります。

つまり、エジプトから出た世代が亡くなった後、モーセはもう一度イスラエル人の人数を数えたのです。

けれども、私が興味深いと思うのは、モーセがこの情報を書くときに他の情報も書き加えたことです。おそらく、モーセはその情報を通してイスラエル人に警告を伝えたかったのだと思います。

つまり、罪の結果について警告を与えたかったのです。(26:9-10)

最初に、コラ、ダタン、アビラムとその仲間たちの反抗について書いています。

そして、ユダの息子エルとオナンの罪とその死についても記されています。(26:19;また、創世記38)

さらに、アロンの息子ナダブとアビフの話もあります。その二人は、主の前に異なった火をささげたために死んだのです。(26:61)

最後に、エジプトを出た世代が全員亡くなったことについて書いています。その世代が亡くなった理由は、彼らが主に信頼しなかったためです。

また、27章では、モーセがカナンに入れなかった理由が記されています。つまり、ツィンの荒野でモーセは神様の命令に従わなかったのです。

この箇所のポイントは何でしょうか?

それは、「罪の結果は死である」ということです。

私たちは皆、罪を犯したため、いずれ死にます。

ローマ書6章23節には、こう書かれています。

罪から来る報酬は死です。

その真理から逃れることはできません。罪は本当に深刻な問題です。

もし、イエス様が私たちがこの世を去る前に来られないのなら、私たちは皆死ぬ運命にあります。

それだけでなく、私たちは皆、地獄に行くに値する者です。

けれども、ローマ書6章23節の最後の部分には、素晴らしい知らせがあります。

しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

イエス様は私たちの罪のために十字架でその代価を払われました。そして、もし私たちがイエス様を信じるなら、天国に入ることができます。

今でも、私たちは神様の前に恐れずに近づくことができるのです。

あなたはどうでしょうか。イエス様に信頼していますか。天国に行く確信を持っていますか。

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罪に引き寄せられた

バラムはイエス様について預言しましたが、イエス様の友達ではありませんでした。また、イスラエルの友達でもありませんでした。

神様はバラムにイスラエル人を呪うことを許さなかったため、バラムはモアブの王からお金を受け取ることができませんでした。

それで、バラムはイスラエル人を倒す方法を考え、すぐに良い方法を見つけました。

民数記31章16節によると、バラムの助言に従い、モアブの王バラクがモアブの女性たちをイスラエルに送り、その男性たちを偶像礼拝へと導いたのです。

その計画は成功しました。イスラエル人は偶像を礼拝し始めたため、2万4千人が殺されました。

サタンは私たちに同じ策略を使います。サタンは、神様が私たちを守っていることを知っているため、私たちを神様から引き離そうとします。

サタンは私たちの弱点をよく知っているので、そこに焦点を当てるのです。

ヤコブはこう書いています。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15)

イスラエル人は自分の欲に引かれ、おびき寄せられ、誘惑されました。その欲がはらむと罪を生み、そしてその結果は死でした。

同じように、私たちも自分の欲に引かれ、誘惑されて、罪を犯してしまいます。

では、どうすればよいのでしょうか。

パウロはこう書いています。

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2:22)

まず、私たちは罪から逃げなくてはなりません。

創世記39章では、ヨセフがそのようにしました。ポティファルの妻がヨセフに「私と寝ておくれ」と誘惑しましたが、ヨセフはその場から逃げました。

しかし、罪から逃げるだけでは十分ではありません。

私たちは義と信仰と愛と平和を追い求めなくてはならないのです。

罪から逃げることだけでなく、良いことを求めるべきです。

最後に、自分ひとりで罪と戦う必要がないことを心に留めましょう。

キリストを求める人々と共に戦いましょう。

あなたの弱さを分かち合い、彼らを助け、また助けてもらいましょう。

互いに助け合い、さらに神様に委ねるなら、その戦いはもっと軽くなるのです。

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知っているだけでは不十分

11月なのに、日本ではもうクリスマス気分です。多くのお店でクリスマスの飾りが飾られ、クリスマスの商品が販売されています。

去年、素晴らしいクリスマスカードを見つけました。そのカードは1600円くらいでしたが、16種類のクリスマスのメロディが楽しめるものでした。

買おうか迷いましたが、結局買いませんでした。今年は買うかもしれません。

それはさておき、民数記にクリスマスの預言があるとは思えませんが、実はあるのです。

バラムはこう言いました。

私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。

ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。(民数記24:17)

多分、東方の博士たち(マギ)は東のほうで星を見たとき、この箇所を覚えていて、イスラエルに向かったのではないでしょうか。(マタイ2:1ー2)

神様は、イスラエルから王が出ることをバラムに示されました。バラムはそのことをよく理解していました。

それでも、バラムは神様に心を捧げませんでした。バラムは将来の王に心を開きたくなかったのです。

神様について知っているだけでは不十分です。イエス様について知っているだけでも不十分です。

イエス様がこの世に来て、ベツレヘムの飼葉おけに寝たことを知っているだけでも不十分です。

イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれたことを知っているだけでも不十分です。イエス様が復活されたことを知っているだけでも不十分です。

私たちはイエス様に心を開かなければなりません。

祭司たちと律法学者はメシアの預言をよく知っていました。それでも、イエス様の前で礼拝しませんでした。

ヘロデもその預言を知っていましたが、イエス様を殺そうとしました。

あなたはどうでしょうか。イエス様にどのように反応しますか。イエス様に心を開いていますか。

それとも、ただイエス様について知っているだけでしょうか。

ヨハネ1章10~12節には、こう書いてあります。

このかた「イエス様」はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

バラムのようにならないでください。祭司たちやヘロデのようにもならないでください。

むしろ、イエス様をあなたの王であり救い主として受け入れてください。イエス様を信じ、心を開いてください。

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祝福を決めておられる神

これは興味深い話です。モアブの王バラクは何としてでもイスラエル人を呪いたいと考えていました。バラムもバラクを本当に助けたいと思っていました。

けれども、神様はその二人の計画を止められました。

何度もバラクはバラムに言いました。「その国を呪いなさい。」

しかし、何度もバラムは答えました。「申し訳ありません。私は祝福しなくてはならないのです。」

そこで、バラクはバラムをイスラエル人の一部だけが見える場所に連れて行きました。そしてバラクは言いました。

「わかりました。イスラエル人全員を呪うことができないのなら、この一部の人々だけを呪ったらどうでしょうか。」

けれども、神様はバラムにこの言葉を与えられました。

立て、バラクよ。そして聞け。ツィポルの子よ。私に耳を傾けよ。

神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。

神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。

見よ。祝福せよ、との命を私は受けた。

神は祝福される。私はそれをくつがえすことはできない。(民数記23:18-20)

神様は全く変わらない方です。神様はいつも約束を守ってくださいます。

そして、神様は私たちを愛しておられるので、私たちを祝福したいと望んでおられます。

人間は変わることがあっても、神様は決して変わらないのです。

神様は私たちにどのような祝福を与えてくださるのでしょうか。

それは、神様の臨在(23:21)、救い(23:22)、悪霊からの守り、敵に対する勝利(23:24;24:8–9)、豊かな人生(24:5–7)、そして名誉(24:7)です。

では、この祝福を阻むものは何でしょうか。

それは、神様から逸れた心です。

イスラエル人もそのことを学びました。

しかし、神様の御手に留まるなら、私たちは祝福されます。そして、誰も—人でも悪霊でも—その祝福を奪うことはできません。

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悪いことをすることをもう決めた

去年、私は面白い話を読みました。

ある日、その著者は、ビデオレンタル店に行き、友達と一緒に見るために良いビデオを借りようと思いました。一つのDVDを見て、少し微妙だと思ったそうです。

つまり、クリスチャンにとっては多分見ないほうがいい内容だと思いました。

それでも、彼はこう考えました。

「このビデオはそんなに悪くないかもしれない。私たちは大人だし、少しぐらい悪い言葉やシーンがあっても、大丈夫だろう。」

けれども、レジに向かう途中で、彼は少し不安になりました。

「もし教会の人が私がこのビデオを借りるところを見たら……」

それでも、彼はレジに行き、店員にそのビデオを渡しました。

その時、店員が彼のIDカードを見て、顔が明るくなり、こう言ったそうです。

「確か、あなたは___さんでしょう?あなたの本が大好きです。」

その著者は、死ぬほど恥ずかしかったそうです。

けれども、どれほど私たちは同じことをしているでしょうか。

私たちは何が悪いことかを知っています。

聖霊様の声が聞こえているのに、それを無視して悪いことをしてしまいます。

バラムも同じようにしました。モアブの王バラクはバラムに願いました。「イスラエル人を呪ってください。」

しかし、神様はバラムに「ダメだ」と言われました。

バラクがバラムの答えを聞き、もう一度、人を送り、さらに多くのお金を約束しました。そして、バラムは「少し考えさせてください」と答えました。

神様はバラムがすでに行くことを決めているのをご存じだったため、それを許されましたが、条件を与えられました。

それは、「私があなたに命じた言葉だけを言いなさい」というものでした。

けれども、バラムはバラクに会いに行く途中で、神様の言葉を避ける方法を考えていたかもしれません。

そこで、神様は彼を止めるために天使を送られました。その天使は剣を持ち、道に立ちはだかりました。

多くの人はこの話をすでに知っているかもしれません。これは有名なバラムのろばの話です。

この出来事を通して、神様は明確に言われました。

「私の民を呪うな。もし呪おうとするなら、あなたは死ぬ。」

多くの場合、私たちはバラムのようです。神様の言葉をよく知っているのに、罪の魅力に惹かれて、神様の御言葉をどうやって避けるかを考えてしまいます。

私たちが悪いことを行うことを心の中で決めてしまうと、何も私たちを止めるものはありません。

しかし、罪を犯せば、必ずその結果を刈り取ることになります。

私たちは皆、誘惑に直面します。その時、どうするでしょうか。すぐに逃げるでしょうか。

それとも、バラムのように、心の中でその罪についてよく考えてしまうでしょうか。

私たちは、自分のしたいことを行うために、神様の言葉をどうやって避けるかを考えるでしょうか。

エペソ人への手紙4章30節には、こう書いてあります。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

私たちは肉の欲に負けるために救われたのではありません。むしろ、私たちはその肉の欲から解放されるために救われたのです。

だから、パウロが書いたように、

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かさ れた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたが たは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(ローマ6:13ー14)

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感謝の心

文句、文句、文句、文句。ブツブツ、ブツブツ、ブツ。。。ちょっと待って。

イスラエル人が文句を言っていない?本当に?彼らが喜んで、神様に感謝しているなんて、信じられません!

イスラエル人たちは何度も「水がない、食べ物がない」と文句を言い続けていました。

けれども、今日の箇所では、神様がイスラエル人のために水を備えてくださった後、彼らはこう歌いました。

わきいでよ。井戸。—このために歌え—
笏をもって、杖をもって、つかさたちがうがち、民の尊き者たちが掘ったその井戸に。(民数記21:17ー18)

どれほど私たちは感謝の心を持っているでしょうか。むしろ、どれほど私たちは自分の人生やトラブルについて文句を言っているでしょうか。

私も、よく文句を言ってしまいます。イスラエル人の態度を批判しますが、私自身も同じようなことをしてしまいます。

しかし、神様は私たちにたくさんの良いものを与えてくださいました。素晴らしく、美しい妻。とても可愛い娘。良い友だち。仕事。家。食べ物。

つまり、私は自分の必要をすべて満たされています。

それに加えて、私は永遠の命をいただいています。

イエス様はこう言われました。

しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。

わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)

私は子供の時にこの歌を歌いました。

命の川は私から流れます。
その川の水は、
足が不自由な人が歩けるようになり、
盲人が見えるようになり、
牢屋のドアを開け、
囚人を解放します。

湧き出せ、井戸よ、 私の魂のうちに。

湧き出せ、井戸よ、 私を癒せ。

湧き出せ、井戸よ、 豊かな命を与えよ。

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神様にとっては、何が大切か

人間関係は報いのあるものです。けれども、時には壊れやすいこともあります。

関係を壊す原因の一つは、信頼が失われることです。妻が夫を信頼できず、夫が妻を信頼できないために、多くの結婚が破綻してしまいます。

私たちと神様との関係も同じです。だからこそ、神様が私たちに求めておられるのは、神様を信頼することです。

私たちが神様を信頼することを学べば、その関係はうまくいきます。しかし、そうしないなら、私たちと神様との関係も破綻してしまいます。

エデンの園で、アダムとエバはこの教訓を学びました。神様が彼らに言われたのは、「私を信頼しなさい」ということでした。

また、「その善悪の知識の木から食べてはなりません。悪を知る必要はありません」とも言われました。

ところが、彼らは神様を信頼せず、その実を食べてしまい、すべてが台無しになってしまいました。

同じように、神様はイスラエル人にも「私を信頼しなさい。私があなたを愛し、あなたの必要を備えることを信じなさい」と求めておられました。

けれども、イスラエル人は何度も神様を信頼しませんでした。むしろ、困難に直面するたびに文句を言い始めました。

この場面でも、彼らは同じことをしました。再び文句を言い始めたのです。

「パンもないし、水もないし、この惨めな食べ物が大嫌いです」と。

では、彼らはどの食べ物に文句を言っていたのでしょうか。それはマナでした。天から与えられたパンです。

この発言は少し矛盾していました。

「パンがない」と言いながら、「このパンが嫌いだ」と言っていたのです。

神様が彼らに与えてくださらなかったわけではありませんでした。問題は、彼らが与えられた食べ物に満足していなかったことです。

水が足りないという問題もたびたび起こりました。それでも、どの時も神様はイスラエル人に忠実でおられました。水がない状況で死んだ人はいませんでした。

神様はイスラエル人の必要をすべて備え続けてくださいました。それにもかかわらず、彼らは文句を言い続けていたのです。

そのため、神様は燃える蛇を送り、多くの人が死にました。

なぜでしょうか。それは、神様が彼らに必要なものを備えてくださらなかったからではありません。そうではなく、彼らが神様に信頼しなかったからです。

やがてイスラエル人は悔い改めました。そして彼らはこう言いました。

「モーセ、私たちのために祈ってください。私たちは間違っていました。」

モーセは祈りました。しかし、神様はただ彼らを癒されるだけではなく、彼らがしなければならないことをお命じになりました。

神様はこう言われました。

あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。(民数記21:8)

どうして神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、壊れたものを治したかったからです。それは信頼関係の修復でした。

神様は基本的にこう語られました。

「あなたが私を信頼しなかったことによって、この問題が起きたのです。だから解決は簡単です。私を信頼しなさい。もし、その蛇を仰ぎ見れば、癒されるのです。

あなたは私の言葉を信じるでしょうか。私の言葉に従うでしょうか。」

蛇を仰ぎ見た人々は癒されました。

けれども、神様の言葉を信じなかったために蛇を見ようとしなかった人もいたかもしれません。

神様は信仰を求めておられました。

神様を信頼した人は生きましたが、神様を信頼しなかった人は死んでしまいました。

ある人がこう言いました。

「罪の反対は良い行動ではありません。罪の反対は信仰です。

罪とは、『神様、あなたを信頼しない。あなたの方法が最善であることを信じない』という態度です。

そのような態度によって、他の罪が生じます。

しかし、根本的に罪とは『神様、あなたを信じない』という姿勢なのです。」

ですから、良い行動は悪い行動を相殺するものではありません。神様が求めておられるのは良い行動だけではなく、信仰です。

そのため、神様は救いについて「良い行動をしなさい」とは言われません。むしろ、こう言われます。

「私のひとり子を信頼しなさい。イエスを求めれば、永遠の命を受け取ることができます。」

もちろん、神様は私たちの良い行動を見ることを望んでおられます。けれども、それ以上に神様は私たちが信頼することを望んでおられるのです。

もしその信頼関係がなければ、私たちの良い行動は汚れた服のようなものです。

イエス様はこう言われました。

モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。(ヨハネ3:14ー15)

神様は救いのために良い行動を求めておられるのではありません。信仰を求めておられます。

とはいえ、私たちの良い行動は信仰の実です。

もし私たちが神様に信頼しているのなら、神様が望んでおられることをしないでしょうか。

あなたはどうでしょうか。神様を信頼していますか。

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境界線を尊重する

人には誰でも境界線があります。私たちは皆、人間関係の中で、相手を許すこともあれば、許さないこともあります。

つまり、それぞれに受け入れられる言葉と行動がある一方で、受け入れられない言葉と行動もあります。

もし、私たちが健康的な人間関係を守りたいのであれば、その境界線を尊重しなければなりません。

例えば、何年か前のことですが、私は友達から辛いメールをもらいました。

その前に、私がメールで冗談を書いたところ、友達はそれを本気に受け取ってしまい、怒りのこもった返事を私に送ってきたのです。なぜなら、私は境界線を越えてしまい、友達を傷つけてしまったからです。

そして、彼女ははっきりとこう言いました。「そんな言葉は絶対に許せない。」

その時、私には選択肢がありました。それは、その境界線を守ってその関係を続けること、または、その境界線を無視してその関係を壊すこと。

けれども、私にとってその決断は簡単でした。私は謝り、それ以来、言葉に気をつけるようになったのです。

モーセとイスラエル人がエドム人に出会ったとき、彼らは境界線に直面しました。

彼らの先祖同士は親族であり、イスラエル人はヤコブの子孫、エドム人はヤコブの兄エサウの子孫でした。

イスラエル人はエドムを通りたいと願いましたが、エドムの王は「だめだ」と言いました。

イスラエル人は説得しようとしてこう言いました。

私たちは公道を登って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。(民数紀20:19)

それでも、エドムの王は拒絶しました。そして、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出てきました。

そのため、イスラエル人はエドムを回避しました。

申命記2:4-8で、神様はイスラエル人に「エドムの境界線を尊重しなさい」と命じられました。

だから、イスラエル人はその命令に従いました。

あなたはどうでしょうか。周りの人の境界線を尊重していますか。

もし誰かが「だめだ」と言ったとき、それを無視して境界線を越えてしまうでしょうか。

時々、相手はこう言うかもしれません。「そんな言葉は私を傷つけるよ。そんな言葉を言わないでください。」

または、こう言うかもしれません。「あなたがそのことをしたら、私を傷つけるよ。やめてください。」

境界線を尊重することは、相手の感情を尊重することです。そして、「はい、分かりました。私にとってあなたは大切な人だから、もうしません」と言うことです。

そうすれば、私たちの人間関係は健康的になります。

しかし、相手の感情を無視して何度もその境界線を越えるなら、その関係は壊れてしまいます。

多くの友情や多くの結婚が、その境界線の問題によって破綻してしまったのです。

あなたは、人間関係の中で、どの境界線を越えてしまったことがありますか。イエス様はこう言われました。

もし兄弟にうらまれていることをそこで思い出したなら。。。出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。  (マタイ5:23-24)

つまり、もしあなたが境界線を破ってしまったなら、それを修復してください。

私たちは相手の感情に配慮し、境界線を尊重しながら行動しましょう。

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軽率な言葉、軽率な行動

みんなはいつか限界点に達します。

誰かがあなたを傷つけることがあるかもしれません。

誰かがいつもあなたを怒らせることがあるかもしれません。

そして、あなたはその怒りと傷を心に保ち、隠し続けるかもしれません。けれども、圧力は少しずつ高まり、最終的には爆発してしまうでしょう。

モーセもそのような経験をしました。

モーセは世の中で最も謙遜な人でしたが、40年間ずっとイスラエル人の文句と反抗的な態度に耐えていました。

そして、神様が何度もイスラエル人のニーズを満たされたのに、彼らはまた文句を言い始めました。

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。(民数記20:3-4)

(イスラエル人がその事件を見て、主を恐れたのに、もう一度文句を言い始めるのが私は信じられません。)

なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。(5)

モーセが主の前に出たとき、神様はこのように言われました。

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。

あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。

あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。(8)

モーセが本当にこう考えたかどうかは分かりません。けれども、多分イスラエル人の所に戻る途中で、モーセはこう思ったかもしれません。

「この人たちは信じられない。なぜ彼らの文句を何度も聞かなければならないのでしょうか。

40年だよ!40年間、繰り返し彼らの文句を聞き続けていた。

でも、問題はイスラエル人だけじゃない。なぜ神様は毎日しっかり備えてくださらないのでしょうか。

そうすれば、私は誰の文句を聞く必要もないのに。

「岩を打て!」

「岩に命じよ!」

すべて無駄だ!」

そして、やっと皆が岩に到着すると、モーセのフラストレーションが湧き上がりました。

モーセは皆に向かって叫びました。

逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。(10節)

そして、モーセは岩に命令せず、岩を打つと、水が流れ出てきました。

神様は恵みを示され、水を与えてくださいました。それでも、神様はその行動を喜ばれませんでした。

そして、神様はモーセにこう言われました。

あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。

それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(12)

詩篇106:32-33には、このように書かれています。

彼らはさらに、メリバの水のほとりで主を怒らせた。

それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。

軽率な言葉。

軽率な行動。

その言葉と行動によって、神様への信頼を欠いた態度、また神様を尊敬しない態度を示してしまいました。それは、モーセがコントロールを失い、怒りに負けてしまったからです。

しかし、私たちはどれほど同じことをしているでしょうか。私たちは怒りによって軽率な言葉を口にします。または、傷つけられたことで軽率な行動を取ってしまいます。

以前、私は砂漠の岩がイエス様の象徴であることを話しました。(第一コリント10:4)

その岩を一度だけ打つことで水が出てきましたが、その後は命じるだけで水が流れ出ました。

同じように、イエス様は十字架で私たちの救いのために一度だけ打たれました。そして今、私たちはイエス様に話しかけ、「あなたは主」と告白し、赦しを願うことで、生きた水、つまり永遠の命を受け取ることができます。

しかし、もし私たちが感情に負けて、イエス様への信頼を欠いた言葉を発したり、イエス様を尊敬しない行動を取ったりすれば、それはもう一度イエス様を打つようなものです。

そのように、アダムとエバも神様への信頼を欠き、背いたため、イエス様が十字架に行かなくてはなりませんでした。

なぜ、私たちが救われたのに、不信仰と不尊敬な態度を示し続けるのでしょうか。

私たちは皆、傷つけられることがあります。私たちは皆、怒ることもあります。

けれども、その時に、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。

傷つけられても、神様への信頼を示し行動するでしょうか。神様を敬って行動するでしょうか。

それとも、軽率な言葉や行動によってイエス様を打つのでしょうか。

パウロはこのように書いています。

怒っても、罪を犯してはなりません。

日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが怒りを持ち続け、その怒りが化膿してしまうと、悪魔に機会を与えてしまいます。そして、軽率な言葉や行動が出てきてしまいます。

ですから、悪魔にそのような機会を決して与えないでください。

むしろ、私たちの言葉と行動を通して、イエス様を信頼し、尊敬しましょう。イエス様はその価値があるお方だからです。

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清められた

私は旧約聖書の時代に生きていなくて良かったと思います。宗教的な儀式が数多くあるので、きっと私は混乱してしまうでしょう。

しかし、神様はその儀式を通して、神様がどのような方であるか、私たちが誰であるか、そして神様が私たちにどのような人になってほしいかを示されました。

この箇所で、神様は清める儀式を通して、罪について教えられ、また私たちと神様との関係についても教えられています。

一つ目は、罪を無視することができないということです。

誰かが儀式的に汚れると、水で清めを行わなければなりませんでした。その儀式的な洗いを無視してはなりませんでした。

もし、その儀式を無視すると、集会から断ち切られることになりました。

なぜでしょうか。それは、自分を清めないと神様の聖所を汚してしまうからです。(民数紀19:13、20節)

同じように、私たちが人生の中で罪を持ち続けると、神様の宮、つまり私たちの体を汚してしまいます。

私たちがクリスチャンになった時から、聖霊が私たちの内に住み始めました。ですから、私たちの体は神様の聖所です。

もし私たちの心の中に罪があれば、その心を清めなければなりません。その罪を無視してはならないのです。

そのため、すべての人が天国に行けるわけではありません。清められていない罪深い人たちが天国に入ると、天国の聖所を汚してしまいます。

神様はそれを許されないので、そのような人たちは神様から断ち切られることになります。

二つ目は、清い人だけが汚れた人を清めることができたということです。(18–19節)

そのように、イエス様だけが私たちを罪から清めることができます。それは、イエス様だけが完全に清い方だからです。イエス様は決して罪を犯されませんでした。

興味深いのは、人を清める水を作るために、雌牛の灰が必要とされたという点です。しかし、その灰を作る人は、その行いによって汚れることになりました。

同じように、イエス様も一時的に汚れることになられました。つまり、イエス様が十字架で死なれた時、全世界の罪がイエス様の上に置かれました。

第二コリント5:21には、このように書かれています。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

三つ目は、清めることをしない言い訳がなかったということです。なぜなら、清められる方法は本当に簡単なものでした。その水が必要であれば、誰でも受け取ることができたからです。

ですから、もし誰かが清めをせず、そのために集会から断ち切られることになったなら、それはその人自身の責任です。

同じように、もし誰かが神様の救いを拒絶し、地獄に行くことになったなら、それはその人自身の責任です。

救われることは決して難しいことではありません。イエス・キリストの御名を呼び求めれば、すぐに来て、あなたを救ってくださいます。

ローマ書10:13には、このように書かれています。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

救いは本当に簡単なことです。そのため、誰も言い訳をすることはできません。

イエス・キリストを拒絶する人には、神様の怒りしかありません。そして、その人は永遠に神様から断ち切られることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は清められていますか。あなたは赦されていますか。

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祭司職の賜物

神様の民として、私たちは数多くの賜物をいただきました。救いの賜物をいただき、永遠の命の賜物をいただき、御霊の賜物もいただきました。

しかし、私たちはさらにもう一つの賜物をいただきました。

神様はアロンにこう言われました。

わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える (民数記18:7)

神様は私たちにも、その賜物を与えてくださいました。

イスラエル人の中ではアロンとその息子たちだけがその賜物をいただきましたが、私たちは異なる祭司職をいただきました。

この祭司職はすべてのイエス・キリストを信じる人々のためのものです。男性であっても女性であっても、ユダヤ人であっても異邦人であっても、私たちは皆、神様の前で祭司です。

ガラテヤ人への手紙3:28には、このように書かれています。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

また、黙示録1:6には、このように書かれています。

「イエス様は」私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

どうして祭司職が賜物だと言えるのでしょうか。

それは、私たちがその立場を得るために働くことができないからです。

アロンとその息子たちは神様によって祭司として選ばれました。その後、その子孫だけが祭司になることができました。

けれども、神様がアロンとその息子たちを選ばれた理由は、彼らが他の人々よりも聖なる人だったからではありません。アロンとその息子たちも、しばしば失敗しました。

そのように、私たちはイエス・キリストを信じることによって神様の家族に生まれ、神様の祭司とされました。

私たちはその賜物を得るために働いたわけではありません。また、私たちは他の人々よりも聖なる人ではありません。それでも、この祭司職は賜物として私たちに与えられました。

ですから、この賜物を真剣に考えなければなりません。神様はアロンとその息子たちに、この賜物を大切にしなさいと命じられました。神様はこのように言われました。

あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。

そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。(民数記18:1)

私たちが覚えていなければならないのは、私たちの体が神様の宮であり聖所であるということです。

そして、私たちは祭司として罪を犯すと、神様の聖所を汚します。それに、私たちは神様がくださった祭司職も汚します。

そのような場合、神様の目の前で私たちは責任を負うことになります。

しかし、この賜物は本当に大きな特権です。それは、私たちが神様の前に来ることができるからです。

旧約聖書の時代の祭司たちよりも、私たちはさらに大きな特権があります。

大祭司だけが一年に一度、至聖所に入ることができました。至聖所で大祭司は神様の前に来ることができました。

一方で、私たちは皆、いつでも神様の前に来ることができます。

さらに、この祭司職は生きている神様に仕える特権です。神様は私たちを通してこの世界に触れられます。

アロンの祭司職はイスラエルに触れるためのものでしたが、私たちには全世界に触れる祭司職があります。

あなたはこの賜物についてどのように考えるでしょうか。真剣に考えているでしょうか。

この祭司職のミニストリーを感謝しているでしょうか。そして、この賜物を使って周りの人々に触れているでしょうか。

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誰についていっているでしょうか

ついていったほうがよいリーダーはたくさんいますが、ついていかないほうがよいリーダーもたくさんいます。問題は、悪いリーダーについていくと、彼があなたを穴に引きずり込んでしまうのです。

数年前、私の社長は全くダメなリーダーで、会社は倒産してしまいました。

実は、私はその会社をもっと早く辞めたほうがよかったのですが、ずっとそのリーダーについていたため、結局、私も大変な状態になってしまったのです。

イスラエルの民も同じ教訓を学びました。コラとダタンとアビラムという人々はモーセに反抗し、さらに250人のリーダーとその従う者たちを説得して反抗させたのです。

彼らの最も大きな不満は、モーセがイスラエルの民を神様の約束の地へまだ導いていないということでした。むしろ、皆はずっと荒野をさまよっていたのです。

しかし、彼らは2つのことを忘れていました。

第一に、神様はモーセに何をすべきかを教えておられ、モーセは自分で決断したのではなく、神様に従っていたのです。

第二に、彼ら自身の以前の反抗によってカナンに入ることができなかったのであり、それはモーセのせいではなかったのです。

けれども、もう一つの不満は、コラと他のレビ人が自分の立場に満足していなかったということでした。彼らは祭司を助ける務めを担わなくてはならなかったのですが、むしろ祭司そのものになりたいと望んでいたのです。

だから、彼らは「モーセは力を愛している独裁者だ」と言ったのです。(これは私の意訳です。)

ダタンとアビラムはモーセの前に出ることを拒んだので、モーセとイスラエルの民はその二人のもとへ行きました。

神様はダタンとアビラムに従う者たちを滅ぼそうとされたのですが、モーセがとりなしたため、神様はモーセに語られたのです。

この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。(民数記16:24)

そして地面が割れて、地はその口を開き、コラ、ダタン、アビラム、そしてその家族を飲み込みました。その後、主のところから火が出て、その250人のリーダーたちを焼き尽くしました。

それでも多くのイスラエル人は文句を言い続けました。

あなたがたは主の民を殺した。(民数記16:41)

神様はそれを聞いて怒られ、彼らを神罰で打たれました。

モーセとアロンはすぐに取りなしをしましたが、多くの人々が亡くなりました。

その後、神様はこう言われました。

イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。

その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。

あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。

わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。(民数記17:1ー5)

その12人は杖を持ってきて、次の日には、アロンの杖が芽を吹き、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。

その奇跡によって、皆は神様が誰をリーダーとして選ばれたのかを理解するようになりました。

あなたは誰についていっているでしょうか。どのような状況であれ、それは大切なことですが、霊的な状況において特に重要です。

どのような牧師があなたの教会を導いているでしょうか。

どのクリスチャンの本を読んでいるでしょうか。

インターネットやポッドキャストでどのクリスチャン牧師の話を聞いているでしょうか。

霊的なリーダーにとって何が大切でしょうか。

第一に、その人の心が神様に属していることです。つまり、彼らは心を尽くして神様を愛しているのです。

第二に、彼らが周りの人を真に愛しているかどうかということです。

第三に、彼らが謙遜な人であることです。モーセは世界で最も謙遜な人でした。イエス様もまた謙遜なお方でした。そのような人にこそ、ついていくべきなのです。

自分の立場に全く執着せず、他の人が自分に仕えることを求めるのではなく、むしろ自ら他の人に仕える人です。

第四に、神様の御言葉を正しく教えることです。残念ながら、多くの人はそうしていないのです。彼らは神様を愛し、周りの人をも愛していますが、その教えは神様の御言葉と比べると異なっています。

そのため、その人たちに従う者たちは、神様の御言葉に対して誤った考えを抱くようになってしまうのです。

最後に、そのリーダーの行動は言葉と一致していなければなりません。もちろん、リーダーも罪と戦いますが、その罪について語るときには、「私にとっても難しいのです」と正直に認めるほうが良いでしょう。

イスラエルの民は悪いリーダーに従ったために苦しみました。

同じように、私たちも注意しなければ、苦しむことになるのです。

では、あなたは誰に従っているのでしょうか。

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私の畳の部屋には、キャビネットの扉のハンドルから房が掛けてあります。それは、私の大学の卒業のタッセルです。

どこかに私の高校の卒業のタッセルもありますが、少し汚れているので、私の旅行用荷物に掛けてあると思います。

とにかく、普段、そのタッセルを見ると、私は学校時代を思い出します。

時々、悪い思い出もありますが、大体は良い思い出です。よく勉強しましたが、楽しい時期でもありました。

同じように、この箇所で神様はイスラエル人に房を作りなさいと命じられました。けれども、それは学校時代を思い起こすためではありません。

他のことを思い起こすために、その房を作らせたのです。

神様はこのように言われました。

イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。

そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。(民数記15:38ー40)

イスラエル人は歩きながら、その房に触れるたびに、いつも「私は神様の聖なるものです。だから、私は神様の命令に従うべきです」と思い出しました。

もちろん、私たちはその房を作る必要はありませんが、神様とその言葉を思い出すために、何か物理的に思い出せるものがあるのは良いことだと思います。

私のコンピュータの上には、小さな紙があります。その紙には「神様は私たちの備え主です」と書いてあります。

以前、誰かが一万円と一緒にその紙を封筒に入れてくれました。私はその紙をコンピュータにつけています。

それを見るたびに、私は思い出します。経済的に辛い状態であっても、神様は私の必要を備えてくださいます。

おそらく、一番良い房は私たちの心につける房でしょう。つまり、聖書の御言葉を暗記することです。

物理的に思い出せるものは、だんだん効果が薄れていくかもしれません。私たちは常に目にするため、次第に見ても気づかなくなります。

しかし、神様の御言葉を私たちの心に結びつけると、神様はその房を用いられます。辛いときに、神様はその御言葉を通して、私たちにご自身のこと、御言葉、そして神様のあわれみを思い出させてくださいます。

子供のころ、私は聖書の御言葉をよく暗記していました。私はもう一度、それをすべきだと思います。

何度も神様はその房を通して私を助けてくださいました。

もしもっと多くの聖書の房を作るなら、神様は将来再びそれを用いて私を助けてくださると信じます。

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反抗的

私は娘の結実ちゃんが大好きです。けれども、結実ちゃんはだんだん反抗することが増えてきました。

いつもではありませんし、そこまでひどいわけでもありませんが、時々こういう会話があります。

私: 「じゃあ、ごはんを食べよう。」 結実: 「たべない!」

妻: 「お風呂に入ろう。」 結実: 「はいらない!」

私: 「ねんねの時間だよ。」 結実: 「ねない!」

普段は結実ちゃんがすぐにその態度を捨てて私たちに従いますが、ときどきとても反抗します。

昨年、大変だったときがありました。

朝ごはんのあと、結実ちゃんはいつも「ごちそうさま」と言いますが、その日は全然言いませんでした。

そのため、「ごちそうさま」と言うまで私たちは椅子から降ろしませんでした。(そのとき、結実ちゃんはベビーチェアに座っていました。)

結実ちゃんは泣いて「いやだ!」と叫びながら、「ごちそうさま」と言うのを拒否し続けました。

一時間ほどかかったと思います。

とにかく、神様はそのような反抗的な態度を大嫌いであることが、この箇所からはっきりわかります。

最初に、イスラエル人は神様が約束された土地に入ることを拒否しました。

そして神様が「もう入ってはならない」と言われた後に、イスラエル人は入ろうとしました。その結果、神様はイスラエル人を罰されました。

その後、民数記15章では、神様がイスラエル人に無意識に罪を犯した場合にどうするべきかを教えられました。

神様はすべての罪を憎まれますが、私たちが時々無意識に罪を犯し、その後でその罪に気づくことがあります。

神様は「その場合、犠牲を捧げれば赦される」と言われました。

しかし、反抗的な態度で故意に罪を犯した場合は、結果が非常に厳しくなります。いけにえを捧げても赦されませんでした。むしろ、その人は民の中から断たれました。

そのため、民数記15章では、あるイスラエル人が安息日を破ったとき、彼は殺されました。

その人は安息日を忘れていたわけではありませんでした。その行動が悪いと十分わかっていながら、意図的に行いました。そのため、彼は殺されました。

私たちは皆罪を犯します。とはいえ、あなたは故意に罪を犯されるでしょうか。

時には、人々はこう言います。「私は罪を犯しますが、その後で神様に「赦してください」と言えば大丈夫だよ。」

それは反抗的な態度です。

ヘブル人への手紙の著者は、そのような人について、このように言っています。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(ヘブル10:29)

もしあなたがクリスチャンであれば、もちろん、神様はあなたを赦されます。しかし、その罪の結果から逃れることはできません。

神様はイスラエル人の反抗的な態度を赦されましたが、神様が約束された土地に入ることは許されませんでした。彼らは自分たちの選択によって、本当に苦しみました。

そのように、私たちが故意に神様に対して反抗的な態度を取れば、必ず後で苦しむことになります。

パウロはこのように書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 (ガラテヤ人への手紙6:7-8)

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心を尽くして神様に従う

昔のワーシップソングに、このような歌詞があります。

主よ、私の心をあなたに捧げます。
私の魂をあなたに捧げます。
ただあなただけのために生きます。

私のすべての息のうちに、
私が目覚めている間ずっと、
私の人生で、あなたの御心が成されますように。

教会では、その歌をよく歌いました。そして、多分今でも、多くの歌がその祈りを表現しているでしょう。

けれども、その歌を歌っても、私たちは毎日どれほど神様に心を捧げているでしょうか。

カレブの場合、彼は神様にすべてを捧げました。

たとえ周りが反対意見を言っても、カレブは完全に神様を信頼し、神様に従うことを決心しました。

その結果、ほとんどのイスラエル人が砂漠でさまよい、そこで死んでしまったのに、神様はカレブについてこう言われました。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:24)

違った心とは、「神様を信じる。神様が何でもできることを信じる」といった心です。

また、「神様が良い方だから、いつも約束を守ると信じる」といった心です。

そして、「このことを信じているから、何が起こっても神様に従う」といった心でもあります。

そのような態度を取れば、心を尽くして神様に従うことができます。それどころか、神様に従い通すことが簡単なことになります。

しかし、もし疑いがあれば、神様に従い通すことは難しいものになります。さらに、神様に心のすべてを捧げることも難しくなるでしょう。むしろ、神様に対して私たちのすべてを出し惜しみするようになるかもしれません。

例えば、将来の経歴やお金、またはミニストリーさえも、心から喜んで捧げられなくなるでしょう。

私はその戦いをよく知っています。なぜなら、心を尽くして神様に従うことについて葛藤することがあるからです。

出し惜しみをするのは簡単です。けれども、そのようにすれば神様を喜ばせることができません。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(11:6)

神様はあなたの心をどれほど持っておられるでしょうか。

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神様を信頼するのを学ぶ

時々私は自分の小さい信仰が信じられません。

例えばお金に関してです。

神様はいつも私と家族のために備えてくださいましたが、私はいつも心配しています。

お金を貯めるのが簡単だった時は心配していませんでした。けれども、今お金を貯めるのが難しくなったので、いつも心配しています。

なぜでしょう。神様は私のために備えてくださることを約束してくださいましたし、今まで備えてくださいました。それなのに、なぜ神様をもっと信頼できないのでしょうか。

イスラエルの民も同じ疑問に直面しました。

彼らは一年ほど砂漠を旅し、ついに神様が約束された土地に入る準備を始めました。

そのとき、神様はこう言われました。

人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。(民数記13:2)

その人々は帰ってきて、「本当に良かった」と言っていたのです。

けれども、彼らはこう言ったのです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく。。。

私たちはあの民のと ころに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。。。

私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い 者たちだ。。。

私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。(民数記13:28ー33)

その言葉によって、みんなはもうその土地に入りたいと思わなくなってしまいました。

なぜでしょうか。

もちろん、とても難しいことでした。とはいえ、紅海を分けてパロの軍隊を滅ぼすことよりも難しかったでしょうか。

それに、イスラエル人の目の前で神様は何度も素晴らしい奇跡を行われました。

毎日、彼らは雲の柱と火の柱を見て、神様の臨在を感じていました。それなのに、神様に信頼せずに、反抗したのです。

ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目の教訓は、神様を信頼することを学びたいなら、私たち自身や私たちの状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるべきだということです。

イスラエルの民はそうしませんでした。神様が何をできるかを話すのではなく、カナンの人々とその都市の大きさだけについて語りました。また、自分たちの弱さにばかり目を向けていました。

けれども、ヨシュアとカレブは他のイスラエル人とは違いました。

彼らは自分たちや状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てていたのです。そして、こう言いました。

私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。

あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。

彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(民数記14:7ー9)

2つ目の教訓は、神様に信頼することを拒否する人に耳を傾けるべきではないということです。

イスラエルの民は、神様に信頼するヨシュアとカレブの言葉には聞き従わず、神様に信頼しない人々の言葉を信じてしまいました。

その結果、カナンの土地を偵察に行った人々だけではなく、その偵察隊の意見を信頼した人々も、神様が約束された土地を見ることなく死んでしまいました。

彼らは神様の奇跡を見たにもかかわらず、神様を信頼しなかったからです。

私たちもまた、神様を信頼しない人々に従うならば、最終的には失望し、悲しむことになるでしょう。

最後に、神様が私たちのために何をしてくださったかを心に留めておくべきです。

それを思い出すことで、私たちの信仰は強められるからです。

しかし、忘れてしまうと、私たちの信仰は失われてしまいます。

イスラエルの民は10回も神様を試しました。その10回すべてで、神様はご自身が忠実であることを示されました。

それにもかかわらず、イスラエル人はそれを忘れてしまったのです。

神様の言葉は今も私の心の中で響いています。

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。(民数記14:11)

神様、私がイスラエルの民のようにならないように。

彼らはあなたに信頼しなかったため、あなたの約束された祝福を受け取ることができませんでした。

あなたはいつも私に忠実です。それなのに、イスラエル人のように、私の信仰は揺らぐことがあります。

どうか、私が自分の弱さや状況に焦点を当てないようにしてください。むしろ、私があなたに、そしてあなたのいつくしみに焦点を当てることができますように。

私があなたの御業を絶えず思い起こし続けることができるように助けてください。

これまであなたが私を助けてくださったこと、そして未来においても助けてくださることを信じます。どうか私があなたを信頼できるように導いてください。アーメン。

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妬んでいる

時々、私は自分の性質が違っていたら良かったのにと思います。実際、私はそのように考えることがよくあります。

例えば、私がとてもシャイではなかったらどんなに良いかと思うのです。たくさんの人の前で話すのは全然平気ですけれどね。高校でスピーチクラブに参加していましたから。

でも、新しい人に会うのはどうでしょうか?それはとても難しいです。

パーティーでたくさんの人と一緒にいること?あまり得意ではありません。

めちゃくちゃフレンドリーな人を見ると、少し羨ましく感じます。

「私もそんな性格だったらいいのに。どうして神様は私をこのように創られたのでしょうか」と思ってしまいます。

妬みにはさまざまな種類があります。

そして、特に教会では、妬みが問題を引き起こすことがあります。なぜならば、その結果として人が傷付き、教会が分裂し、ミニストリーが壊れてしまうことがあるからです。

ヨシュアでさえ妬みを抱いていました。

多くの人は自分の役割を他の人に渡したくないと感じます。

民数記11章では、モーセのためにヨシュアがそのように感じました。

それ以前、モーセは神様の御霊に特別なアクセスを持っていました。特に、神様の知恵と力に対してです。他の人々にはそのアクセスがありませんでした。

けれども、ある日モーセは「このリーダーシップの重荷が重すぎる。私はもう耐えられない」と文句を言ったのです。

そこで、神様は答えられました。

イ スラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこ であなたのそばに立たせよ。

わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。

それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あな たはただひとりで負うことがないようになろう。 (民数記11:16ー17)

70人が呼ばれましたが、68人しか来ませんでした。

では、残りの2人はどうして来なかったのでしょうか?私たちには分かりませんが、そのメッセージを聞いていなかったのかもしれません。または、そのメッセージを無視した可能性もあります。忙しすぎたのかもしれません。

いずれにせよ、彼らは来ませんでした。それでも、神様はその68人だけでなく、来ていなかった2人にも御霊を注がれました。

その結果、皆が預言し始めたのです。

ヨシュアはそれを聞くと怒りました。ヨシュアはその2人に対して怒ったのでしょうが、他の68人に対しても怒っていたのでしょうか。私たちには分かりません。

ただ、その2人について聞いたとき、ヨシュアは文句を言いました。おそらくヨシュアはこう考えたのでしょう。

「その2人は私たちの仲間じゃない。最初からここに来ていれば良いのに、来なかった。それなのに、なぜその2人にも神様の御霊が与えられたのだろう。」

この話は、新約聖書の一つの出来事に似ています。

イエス様の名前によって悪霊を追い出している人がいましたが、その人はイエス様の12人の弟子たちの仲間ではありませんでした。そこで、弟子たちは怒り、その人を止めさせたのです。

同じように、ヨシュアもモーセに「その人たちを止めさせてください」と言いました。

しかし、モーセはこう答えたのです。

あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。

の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(民数記11:29)

私たちも、そのような態度を取るべきです。

時々、私たちはミニストリーに参加しますが、他の人も参加したいと思うことがあります。

そのとき、私たちは怒って「これは私のミニストリーだ」と言うことがあります。

けれども、そのような考え方は間違っています。

神様はご自身の目的のためにミニストリーを私たちに与えてくださいました。そのミニストリーは私たちのものではありません。

そして、他の人が参加し始めることを歓迎すべきです。神様がより多くの人に御霊を注がれることを望むべきです。なぜなら、その新しい人々を通して、より多くの人々が祝福されるようになるからです。

教会の中や教会同士の間に妬みの余地はありません。

収穫の主が人々を救うために、さらに多くの働き手を送ってくださるよう祈るべきです。そして、その働き手が私たちよりも優れた方法でミニストリーを行うことができるのなら、感謝すべきです。

なぜなら、神様の国が広がっており、その国の中で私たちはそれぞれの役割を持っているのです。

しかし、もう一つの妬みの形があります。

ミリヤムとアロンにはそのような妬みがありました。その二人はモーセの立場について文句を言いました。そして、彼らはこう言ったのです。

はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。(民数記12:2)

それだけではなく、彼らはモーセのクシュ人との結婚を批判しました。なぜなら、モーセの権威を弱体化させようとしたかったからです。

そのため、神様はその二人を叱られました。

けれども、私たちも時々同じようなことをしてしまいます。

私たちは教会の中で他の人の立場を欲しがり、その人を批判して、「私のほうが上手ですよ」と言ったり、「どうして彼はそのようにするのでしょうか。私なら、違う方法でやりますよ」と言ったりします。

また、彼らのミニストリーを批判できないとき、私たちは他のことを批判します。

しかし、その批判が正しくても正しくなくても、神様は喜ばれません。

神様はご自身の意志によって、それぞれのクリスチャンに霊的な賜物を与えてくださいます。私たちは皆、教会の中でそれぞれの立場があります。

ですから、私たちは神様が与えてくださった賜物に満足し、神様の御心によって仕えるべきです。

たとえ誰かがより高い立場にあったとしても、あるいはミニストリーをうまく進めるために他の人と役割を分けなければならなくても、妬むことなく、喜んでその役割を果たすべきです。

この歌の歌詞を心に留め、その態度を実践しましょう。

あなたの栄光、
あなたの御国、
そしてあなたの名前のために、
私はここにおります。

どうか私を用いてください。

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感謝​を持っている心か不満な心があるでしょうか。

食べ物の中ではチリが大好きです。なぜなら、それしかほとんど料理できないからです。

日本では、私はチリをあまり食べません。最近は、妻が実家に帰るときだけに食べています。私は自分で作るのですが、これは5人前のレシピなので、長い間食べ続けられます。😊

でも、毎日一年中チリを食べ続けるのは無理だと思います。

イスラエル人も、そのような状態に直面しました。彼らはずっと、毎日マナを食べていました。

最初は、本当に感謝していましたが、最終的には飽きてしまいました。

「朝にマナを食べる。昼にマナを食べる。夜もマナを食べる。もう飽きた!他の食べ物が食べたい!肉とか、スイカとか、キュウリとか!」

(なぜキュウリなのか謎ですが。まあまあ好きですが、『本当に食べたい』とは言えません。)

「ニンニクとか玉ねぎとか欲しい!」

(臭い息が好きだったのでしょうか?)

その少し前には、イスラエル人は砂漠での旅について文句を言い、神様に叱られたばかりでした。そのため、神様もモーセも本当に怒っていました。

神様がイスラエル人を奴隷生活から解放し、彼らの必要をすべて備えてくださったにもかかわらず、イスラエルの民はまだ文句を言っていたのです。

そこで、神様は肉を与えてくださいましたが、彼らがそれを食べている間に、神様は疫病をもって人々を討たれ、多くの者が亡くなったのです。

この話から、私たちは何を学べぶことができるでしょうか?

一つ目は、今持っているものに感謝することを覚えておくことです。

イスラエルの民を批判するのは簡単ですが、私たちも同じようなことをどれほどしているでしょうか。

もし第三世界諸国の人たちが私たちが持っているものを手に入れたら、心から喜ぶと思います。食べ物と服と家があれば、本当に満足だと言うでしょう。

それでも私たちは、それらをすべて持っているにもかかわらず、文句を言います。「これが欲しい。あれが欲しい。」と。

もし、私たちが満足を学ぶことができたら、どれほど人生が喜びに満ちるでしょうか。

二つ目は、不満な態度は本当に伝染するということです。

最初に、混じってきた者たちが文句を言い始めましたが、すぐに全員が文句を言い始めました。

同じように、もし私たちの周りの人が常に文句を言っていたら、その態度が私たちに影響を与えないように気をつけなければなりません。

三つ目は、神様が私たちの必要を備える力を持っておられるということです。だから、必要があるときは文句を言わず、神様に祈るべきです。

イエス様はこのように教えられました。

してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。

とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。(マタイ7:11)

モーセが神様の力を疑ったとき、神様はこう答えられました。

主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。(民数記11:23)

そして、神様は皆のために必要なものを備えてくださいました。

最後に、私たちが満たされると思うものは、結局私たちを満たすことができません。

イスラエルの民は肉さえあれば満足できると思いましたが、結局、多くの人が亡くなりました。

彼らはその場所をキブロテ・ハタアワと名付けました。その意味は「欲望の墓」です。

もし私たちの欲望が私たちを支配するなら、私たちも墓に入ることになります。

アルコールや食べ物、タバコ、麻薬などの欲望によって、どれほど多くの人が命を落としたでしょうか。

私たちの欲望によって、私たちの人間関係や経済がどれほど損なわれたでしょうか。

私たちは、私たちを満たすことのできないものを、もう求めないようにしましょう。

むしろ、私たちを本当に満たすことができる神様を求めましょう。そして、感謝をささげましょう。

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私たちの先に行ってください。私たちの間にいてください。

イスラエルの民がシナイから出発する際に、モーセの言葉はとても心に響きます。モーセはこう言いました。

主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。(民数記10:35)

つまり、「主よ、どうか私たちの先を行ってください。あなたが私たちのリーダーであり、私たちはあなたについて行きます。どうか私たちの道をまっすぐにし、あなたの敵、また私たちの敵を散らしてください。」

イスラエル人が出発するたびに、モーセはこのように祈りました。

私たちも、このように祈るべきです。

聖書には、このように書かれています。

身を慎み、目をさましていなさい。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。(第一ペテロ5:8)

主の祈りにおいても、イエス様はそのような祈りを教えてくださいました。つまり、

悪からお救いください。(マタイ6:13)

毎日、サタンは神様と戦っています。神様の民である私たちもまた、サタンのターゲットです。

悪霊がすべての岩陰に隠れていると言っているわけではありません。けれども、サタンとその悪霊は、私たちが神様の御心を成就しないように働いています。

ですから、私たちもモーセのように祈るべきです。

主よ。立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は、御前から逃げ去りますように。

主の雲がとどまるとき、モーセは祈りをささげました。

主よ。お帰りください。イスラエルの幾千万の民のもとに。(36)

つまり、「あなたは私たちを大いなる民にしてくださいました。本当に私たちを祝福してくださいました。しかし、神様の導きによって私たちがここに来たのですから、

どうか私たちの間にいてください。あなたの臨在が決して私たちから遠く離れることのないようにお願いします。」

私たちも、このように祈るべきです。

「神様、あなたは私たちをここまで導いてくださいました。私たちを呼び、あなたの民としてくださったのです。

ですから、私たちから遠く離れないでください。私たちの間にいてください。そして、私たちがあなたの臨在をもっと知ることができるように助けてください。」

神様、あなたがエジプトからイスラエル人を呼び、砂漠で導かれたように、あなたは私をサタンの国から呼び、天国にたどり着くまで導いてくださいます。

ですから、いつも私の先を行ってください。私を攻撃し、破壊しようとする敵から守ってください。

そして、私がどこに行っても、私と共にいてください。私の隣にいてください。私の必要を備えてください。私を導き、守ってください。アーメン。

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あなたを愛しています。あなたを必要としているのです。

「私はあなたを愛しています。」

「私はあなたを必要としているのです。」

私たちが愛している人に、どれくらいこの言葉を伝えるでしょうか。

愛している人がいつもそばにいて、私たちを助けてくれて、私たちを愛してくれるのが当然だと思うのは簡単です。

そのため、無意識のうちに、彼らとの関係が少しずつ離れていくことがあります。

それは結婚の関係でも、家族の関係でも、友達の関係でも同じです。なぜならば、私たちは「あなたは私にとってとても大切な人です」と伝えるのを忘れてしまうからです。

モーセとイスラエル人がシナイを出てカナンに向かうとき、モーセの義理の兄ホバブは自分の国に帰ろうとしていました。

けれども、モーセはこう言いました。

私たちは、主があなたがたに与えると言われた場所へ出発するところです。

私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします。

主がイスラエルにしあわせを約束しておられるからです。(民数記10:29)

しかし、ホバブは答えました。

私は行きません。私の生まれ故郷に帰ります。(30)

それを聞いて、モーセは諦めることもできましたが、それでもなお頼み続けました。

どうか私たちを見捨てないでください。

あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じであり、私たちにとって目なのですから。

私たちといっしょに行ってくだされば、主が私たちに下さるしあわせを、あなたにもおわかちしたいのです。(31ー32)

その言葉によって、モーセはホバブをどれほど愛していて、ホバブが必要であることを伝えました。その結果、ホバブはイスラエルの民と一緒に行くことを選びました。

あなたはどうですか。少し疎遠になっている関係はありますか

。愛している人に、どれほどあなたがその人を愛していて、相手が必要であるかを伝えていますか。

私たちの関係を大切にしましょう。

そして、相手がどれほど大事であるかを伝えましょう。たった2つのシンプルなフレーズで十分です。

「私はあなたを愛しています。」

「私はあなたを必要としているのです。」

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苦しい時、主の前に覚えられている。良い時に、神様を覚えていましょう。

日本では、神社に行くとき、皆は5円ぐらいを捧げ、鈴を鳴らし、手を叩いて神社の神に祈ります。

鈴を鳴らすことと手を叩くことは、その神の注意を引くためだと言われています。

多くの人はこの箇所を読むと、ラッパが同じ機能を持っていると思うかもしれません。

9節には、次のように書かれています。

また、あなたがたの国で、あなたがたを襲う侵略者との戦いに出る場合は、ラッパを短く吹き鳴らす。

あなたがたが、あなたがたの神、主の前に覚えられ、あなたがたの敵から救われるためである。(民数記10:9)

しかし、神様は決して寝ることがないので、起こされる必要はありません。

私たちがここにいて、神様の助けが必要であることを神様に思い出させる必要もありません。

だから、この箇所で、神様はこう言われているのです。

苦しむとき、辛いとき、攻撃されるとき、また神様が遠くに感じられるときでも、神様はあなたのことを忘れてはおられません。

もし神様を呼ぶなら、神様は必ず答えてくださり、助けてくださるのです。

苦しいときに、神様を覚えることは簡単です。しかし、神様は「良いときにも私を覚えていてください」と言われます。

10節にはこのように書かれています。

また、あなたがたの喜びの日、あなたがたの例祭と新月の日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる。わたしはあなたがたの神、主である。

今、苦しいときでしょうか。あなたの祈りが壁に響くだけのように感じるでしょうか。

神様があなたを忘れていないことを心に留めてください。もし神様を呼ぶなら、神様はあなたの声を聞いてくださり、助けてくださいます。

今、良いときでしょうか。

神様を忘れないでください。

神様の善意に感謝することを覚えていてください。 そして、良いことが起こったときには、それを必ず書き留めてください。

そうすることで、苦しいときが訪れたとしても、神様の愛と忠実を決して忘れることはないのです。

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神様の方法に従って、神様のタイミングを待つ

私は20代くらいで結婚すると思っていました。

兄は28歳の時に結婚しましたし、姉は26歳の時に結婚しましたから、「27歳くらいで結婚するのかなあ」と思っていました。

けれども、30代まで待たなければなりませんでした。時々フラストレーションを感じることもありましたが、神様のタイミングで、ふさわしい人を与えてくださいました。

結婚に対して、私は神様の基準を決して妥協しませんでしたが、時々誘惑を感じました。

しかし、クリスチャンの友の中には、その誘惑と戦った末に、結局神様の基準を妥協してしまった人もいたのです。

その人たちを責めているわけではありません。その人たちを裁けば、私自身をも裁かなければならないからです。私はその基準を妥協しませんでしたが、時々他のところで妥協してしまいました。

けれども、クリスチャンとして、私たちは神様の方法に従い、神様のタイミングを待つことを学ばなければなりません。

それが9章の教訓です。

9章の最初は過越の祭りについての話です。

神様は全員がその祭りに参加することを命じられましたが、誰かが亡くなり、その親族がその死体によって「身を汚した」のです。

神様の律法によれば、身が汚れた人は過越のいけにえを捧げることができませんでした。そのため、その人たちはモーセにアドバイスを求めました。

モーセは自分の意見を述べることはせず、こう言いました。

待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。(民数記9:8)

神様の答えを聞いた後、その人たちは神様の言葉に従いました。

その後、この箇所には、神様がどのようにイスラエル人を導かれたかが書かれています。

神様の臨在を表す雲が幕屋を覆いました。

そして、

雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。

そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。(17)

雲が離れて上がらない限り、イスラエル人はどこにも行きませんでした。

一年たっても、イスラエル人は雲の先に進みませんでした。むしろ、彼らは神様のタイミングを待ちました。

聖書には、こう書かれています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

時々、私たちは何をするべきか知っていると思うことがあります。時々、私たちが神様よりも知っていると思うこともあります。

けれども、私たちが神様の導きを求めなければ、大変な状態になります。

また、神様のタイミングを待てないと思い、自分自身の道を行った場合には、大変な問題が起こるのです。

私たちが神様の道を行き、神様のタイミングを待てば、私たちの人生はうまくいくはずなのに、どうして私たちは自分の道を行ってしまうのでしょうか。

妻や夫を探すときに。もっと良い仕事を探すときに。どんな状況でも、神様の道を行くほうが良いのではないでしょうか。

それでも、多くの場合、私たちは自分の道を行ってしまうのです。

神様を信頼することは難しいです。

時々、私たちは長い時間を待たなければなりません。イスラエル人は一年待っていて、少しせっかちになったかもしれません。

きっと、「いつ神様が約束を守られるのでしょうか。いつカナンに行けるのでしょうか」と思ったことでしょう。

しかし、神様は一番良いことをご存じであり、「私を信頼してください」と言われていました。神様は私たちにも同じメッセージを与えてくださるのです。

神様、時々、私は自分の人生について考えると、がっかりしてしまいます。なぜならば、私の人生は希望通りに進まないからです。

そして、私は時々こう考えます。「神様のために待って、神様の道を歩き続けたほうが良いでしょうか。それとも、もう神様の道を諦めて、自分の道を行ったほうが良いでしょうか。」

神様、私があなたに従うように助けてください。

これまで私はあなたの道を行き、あなたのタイミングを待ったときに、あなたはいつも忠実でした。だから私が疲れたとき、そのことを思い出すことができるように助けてください。

また、私ががっかりして、せっかちなときに、あなたが良い方であることを思い出すように助けてください。

私があなたの道を行き、あなたのタイミングを待つことができるように助けてください。アーメン。

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清められて、神様の前​に立たせられる

金の子牛の事件の時に、レビ人が神様のための情熱を示したため、神様は彼らを仕えるために選ばれました。

しかし、神様に仕える前に、彼らの罪は贖われる必要があり、また体は洗われなければなりませんでした。

その後で、神様の前に立たせられたのです。その全てを経てから、彼らは神様に仕えることができました。

この箇所から、4つのことを学べると思います。

一つ目は、神様に仕えるために、私たちは情熱だけでは足りないということです。神様に仕える前に、イエス様の血によって私たちの罪は清められなければなりません。

神様の一番大切な命令は、私たちが悔い改め、罪の赦しのためにイエス様を信じることです。その命令を拒否した場合、私たちがどのようにして神様に仕えることができるでしょうか。

二つ目は、私たちが神様に仕えたいと願うなら、自分自身を神様に捧げる必要があるということです。

ローマ書12:1には、「私たちはからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書かれています。

そうしなければ、神様は私たちを十分に用いることができません。

その決断をする際、私たちはこう言います。「私はあなたに仕えるためのものです。私を用いてください。」

そうすることで、神様は自由に私たちを用いることができます。ローマ書6:13にはこのように記されています。

むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

3つ目は、自分の方法で神様に仕えることができません。

レビ人はそのようなことをしませんでした。むしろ、祭司たちに従ったのです。

そのように、私たちは大祭司イエス様に従います。

最後に、神様に仕える人生の順番は、まず私たちが清められてから仕えることです。

多くの人は「神様に仕えたら、また、良いことをたくさんしたら、私が清められる」と考えます。

しかし、もし私たちの罪が清められなければ、神様の目に私たちの働きは汚れた着物のように映るのです。(イザヤ書64:6)

まず清められる必要があります。その後でこそ、神様は私たちの行動を受け入れてくださるのです。

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神様に捧げるときに

「クリスマスの12日」という歌があります。

その歌は、何度も何度も同じ言葉を繰り返します。その歌が終わるまでに、本当に疲れてしまいます。ですから、その歌があまり好きではありません。

この箇所を読むとき、私は同じような感じがします。

イスラエルの12の部族は神様に同じ贈り物を捧げました。ですから、同じ言葉を12回繰り返します。

モーセの五書の中でこれは一番長い章です(89節です)。

どうして「部族の全ては同じ贈り物を捧げた」と記さなかったのでしょうか。その方がもっと早いでしょう。

おそらく、神様が私たちの贈り物を受け取る際、本当に喜ばれるからです。

神様は「はい、はい、はい。分かりました。ありがとうございます。でも、少し忙しいので、もう行ってください。」と言われません。むしろ、神様は私たちの贈り物を見て、それを尊い物とみなされるのです。

各イスラエルの部族には自分の捧げる日がありました。同じ贈り物を捧げても、モーセはそれをきちんと記録しました。

神様は私たちの贈り物をそのように考えてくださいます。

私たちが何を捧げても、十一献金でも、時間でも、私たちの努力でも、神様はそれをご覧になり、記録されます。

それはなぜでしょうか。私たちが神様の尊い子供だからです。そして、私たちは愛によって神様を喜ばせたいと願うなら、神様の心に触れるのです。

「神様にとって私はあまり大事な存在ではない」と考えたことがありますか。

「私はあまり良いものを神様に捧げることができない」と思ったことがありますか。

神様にとって一番大切なのは、あなたの心だと思います。

もし神様があなたの心を持っておられるなら、あなたが何を捧げても大丈夫です。

神様があなたの心を持っておられるなら、あなたとあなたの贈り物を、世界で最も尊いものとみなしてくださるのです。

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祝福の祈り

民数記6:24-27は、聖書の中で大好きな箇所です。

祭司たちはイスラエル人のために、この祝福の祈りを祈りました。

があなたを祝福し、あなたを守られますように。

が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。

が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』(民数記6:24ー26)

誰かが私のためにその祈りを祈ってくれたら、私は本当に嬉しいです。

神様の祭司として、私たちは他の人々のために、この祈りを捧げるべきです。

何のために祈るのでしょうか。

1.彼らの上に神様の祝福があるように祈ります。

つまり、彼らがキリストにあってすべての霊的な祝福を持っていることを知るように祈ります。

それは、私たちの罪が赦され、私たちが神様の子供となったことです。

そして、神様が彼らを毎日祝福してくださるように祈ります。具体的には、彼らの仕事、人間関係、そして人生のすべてが祝福されるように祈ります。

2.神様が彼らを守ってくださるように祈ります。

つまり、サタンの攻撃から、また災いから守ってくださるように祈ります。

3.神様が御顔を彼らに照らしてくださるように祈ります。

つまり、神様がご自身を彼らに現し、さらに彼らが神様をもっと深く知ることができるように祈ります。

4.神様が恵みを彼らに注いでくださるように祈ります。

私たちが毎日神様の恵みを必要としているように、他の人々にもその恵みが注がれるよう祈りましょう。

5.神様が彼らに御顔を向けてくださるように祈ります。

彼らの罪を見て、神様が背を向けることがないように祈ります。むしろ、神様が積極的に彼らを追い求め、彼らの人生の中で働き、神様に近づけるように祈ります。

この祈りのイメージは、神様が笑顔で私たちをご覧になっている姿なのです。

6.神様が彼らにキリストからの平安を与えてくださるように祈ります。

すべての理解を超える神の平安が彼らに与えられるように祈ります。

英語の翻訳では、27節にこう書かれています。「私の名を彼らに付けます。」

つまり、この祈りを祈ることで、神様は彼らをご自身の尊いものとして考え、祝福してくださるのです。

だから、これはあなたのための私の祈りです。

主があなたを祝福し、あなたを守ってくださいますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたに恵みを与えてくださいますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えてくださいますように。アーメン。

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主のために聖別している

聖書の時代には、人々が時折、自分の人生を一時的に神様に聖別することがありました。その際、ナジルの誓いを立てました。

ナジルとして神様に仕えるために、三つの誓いを守りました。

一つ目は、ぶどう酒を飲まず、ぶどうから作られた食べ物を口にしないことでした。

二つ目は、髪の毛を切らずに伸ばしておくことでした。

三つ目は、死体の近くに近づかないことでした。

聖書の中には、有名なナジルとして知られる人々が何人かいます。例えば、サムソンとバプテスマのヨハネです。

この二人は神様から特別な働きを与えられました。サムソンはイスラエル人をペリシテ人から救い出すために選ばれ、ヨハネはイスラエル人をイエス様に備えるために選ばれました。

では、私たちはそこから何を学べるでしょうか。

ナジルの人々は意識して自分自身を神様に捧げました。

同じように、クリスチャンとして私たちもそのように呼ばれています。パウロはこう書いています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

つまり、私たちは自分の体を神様が用いることができるものとして捧げるべきです。神様に受け入れられるものとして体を捧げるべきです。

パウロの言葉によれば、その行動は神様への礼拝です。

礼拝とは賛美するだけではありません。

礼拝とは、自分の人生を神様に捧げることなのです。

それならば、私たちも髪の毛を伸ばしておかなければならないとか、ぶどう酒を飲んではいけないとか、死体の近くにいてはいけないのでしょうか。

それも違います。とはいえ、ナジルの誓いから学ぶことができるのです。

一つ目は、神様のために聖別された者として、聖霊様に満たされ、自分の人生を聖霊様の導きに委ねるべきだということです。

パウロはこう書いています。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

ぶどう酒を決して飲んではいけない、という意味ではありません。けれども、ぶどう酒があなたの人生を支配することを許してはいけません。

それだけでなく、他のものがあなたの人生をコントロールすることも許してはいけないのです。

インターネット、ポルノ、仕事、趣味など――何があなたの人生を支配していますか。

それとも、他のものがあなたの人生を支配しているのでしょうか。

何があなたの時間を支配していますか。

何があなたの思いを支配していますか。

神様ですか。

それとも、他のものでしょうか。

二つ目は、私たちが神様のために聖別されたことについて、大胆に伝えるべきだということです。

聖書の時代には、ナジルの髪の毛が周りの人々に「私は神様のものです」と示しました。

人々はナジルの人を見ると、すぐに分かりました。「この人は神様に捧げられた人だ」と。

そのように、周りの人々が私たちを見たとき、私たちがクリスチャンであることを知るべきです。

時々、クリスチャンはこう言います。

「私は静かな証人です。私は多くの良い行いをして、多分、彼は私がクリスチャンだと知っているでしょう。だから、何も言う必要はありませんよね?」と。

けれども、多くの「良い人」がクリスチャンではありません。

もし、私たちが何も言わなければ、彼らは「この人は良いクリスチャンだ」とは考えません。

ただ「この人は良い人だ」と考えるだけです。

もちろん、私たちの行動は重要です。それは、私たちの証しの証拠となるからです。

しかし、行動だけでは不十分です。何かを語らなければならないのです。

三つ目は、私たちは死んだものから離れるべきだということです。

ここで言う「死んだもの」とは、文字通りの死体ではありません。むしろ、死へと導く罪から離れるべきだということです。

パウロはこう書いています。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、(第2コリント6:17)

以前言ったように、ナジルの人々は一時的に自分の人生を神様に捧げました。

一方で、私たちは命の限り、神様にすべてを捧げるように呼ばれています。

なぜでしょうか。それは、イエス様がご自身の人生を私たちのために捧げてくださったからです。

イエス様は天国を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。

だからこそ、神様のあわれみに応えて、私たちは神様に人生を捧げるのです。神様がそのあわれみを私たちの人生に注いでくださったからです。

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罪についてのもう3つのポイント

レビ記4ー6章では、罪について五つのポイントを話しました。

この箇所では、罪についてさらに三つのポイントを学べると思います。

一つ目は、人に対して罪を犯すとき、私たちは神様に対しても罪を犯しているということです。

5ー6節で神様は、「人に対して罪を犯したら、私に対しても不信の罪を犯した」と言われました。

たとえば、夫が妻に罪を犯したら、神様に対しても不信の罪を犯しています。両親が娘や息子に罪を犯した場合も同様です。

あなたが隣人、友達、同僚、または知らない人に対して罪を犯したら、それは神様に対しても不信の罪を犯したことになるのです。

ダビデはそのことを理解していました。バテ・シェバと姦淫を犯し、その夫を殺したとき、ナタンがダビデのもとに来て責めました。

ダビデは悔い改めの詩篇にこう記しました。

私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。(詩篇51:4)

二つ目は、罪を犯したら必ず罰を受けるということです。

罪をどんなに上手に隠しても、いずれ明らかにされます。この世で明らかにされなくても、天国で明らかにされるのです。親しい友達や家族に隠しても、神様からは隠すことはできません。

この箇所の最後の部分で、そのことを学ぶことができます。

夫が妻が姦淫を犯したと思った場合、証拠がなくても祭司のもとに妻を連れて行きました。そして、その妻は苦い飲み物を飲むことになりました。

その後、赤ちゃんができなかったり、流産したりすれば、その妻は有罪とみなされました。けれども、何も起こらなければ、その妻は無罪とみなされました。

この飲み物は魔法ではありませんでした。しかし、神様はイスラエル人のためにこの判断方法を与えられたのです。

そして、神様は心を見通し、有罪の者を罰し、無罪の者を守られました。

三つ目は、誰かが私たちに対して罪を犯したとしても、復讐する権利は私たちにはないということです。

なぜ神様がこの判断方法を与えられたのでしょうか。

それは、夫が罪を犯さないようにするためです。つまり、夫が妬みによって妻を虐待したり、殺したりすることを防ぐためです。

あるいは、妻を離婚することを防ぐためでもあります。神様はこの判断方法についてこう言われました。

夫には咎がなく、その妻がその咎を負うのである。(民数記5:31)

つまり、妻が夫に対して罪を犯したとしても、夫は復讐してはいけませんでした。むしろ、神様に妻を委ねるべきでした。

そのように、私たちも決して復讐をしてはいけません。むしろ、神様にその人を委ねるべきなのです。

ローマ12:19には次のように書かれています。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

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民数紀

神様の前に来られないもの

レビ記で、清いものと汚れたものについて話しましたけど、もう一度そのことに戻ります。

印象に残っているのは民数記5:3です。

男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出して、わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。

つまり、神様は聖い方でおられるため、神様の前に汚れたものが来ることはできません。

多くの人は神様と天国について誤解をしています。それは、もし彼らの良い行いの数が悪い行いの数より多ければ、神様が彼らを天国に入れることを許してくださると思っていることです。

彼らは天国の門に、はかりがあると考えています。もし良い行動が悪い行動より「重かったら」大丈夫だと考えています。

しかし、天国の門ははかりのようではありません。それよりも、天国の門は空港のセキュリティゲートのようなものです。

空港では、飛行機に乗る前にセキュリティゲートを通過しなければなりません。そして、もし鋏やナイフ、ペットボトルなどがある場合は、ゲートを通過できません。

ちょっと想像してみてください。誰かがセキュリティゲートに来ますが、鋏とペットボトルを持っています。そして、警備員がこう言います。

「通過できません。鋏とペットボトルを捨てなければなりません。」

けれども、その旅行者は文句を言い始めます。

「だって、鞄の中にはたくさん良いものがありますよ。ほら、おばあさんへのお土産もあるし、新しい服もあります。私の鋏とペットボトルはもう気にしないでください。別にいいでしょう?」

警備員はどう答えるでしょうか。

「絶対にだめです。捨てない限り通過できません。」

このように、神様は罪を扱われます。

良いことをしても、それだけでは天国に入ることはできません。あなたの良い行動は天国に入る障害ではありません。

むしろ、あなたの罪が問題なのです。もし心の中に罪を持っているなら、天国の門を通過することはできません。むしろ、天国の外に追い出されます。

イエス様の血だけがあなたの罪を清めてくださいます。

イエス様は十字架であなたの罪のために罰を受けられました。そのため、もしそのイエス様の働きを信じて、神様の赦しを求めて祈るなら、神様がその罪を取り去ってくださいます。そして、神様は天国の門であなたを喜んで迎えてくださいます。

ローマ10:9には次のように書かれています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

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戦う準備ができた。仕える準備ができた。

それでは、民数記を始めましょう。

モーセがイスラエルの民を二度数えたため、この書は「民数記」と呼ばれているのです。

1ー2章には、十一部族の人数を数えたことについて書かれています。その目的は、イスラエル人がカナンに着いたとき、どれほどの人数が戦いに参加できるのかを知るためでした。

その後、各部族がキャンプの中で、自分たちの場所を割り当てられました。

3ー4章はレビの部族について書かれています。その箇所には、レビ人の責任が示されています。

1ー4章では、四つの言葉が繰り返し登場します。それは、「属する」、「進む」、「任命する」と「任務」です。

このことから、二つの重要な点を学べると思います。

一つ目は、神様の民として私たちが戦いの中にいるということです。

エペソ人への手紙6:12には、次のように書かれています。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

だから、私たちは神様の軍隊に属し、それぞれの場所を割り当てられました。

私たちはイエス様の福音を、この死にかけている世界に携え、サタンの国から人々を解放する使命を与えられました。

ですから、どこにいても、どんな仕事をしていても、そこがあなたの戦いの場なのです。近所でも、職場でも、学校でも、私たちはサタンとその悪霊に立ち向かうように呼ばれています。

しかし、レビ人が幕屋で仕えるように呼ばれたように、私たちもキリストの体、つまり教会の中で仕えるように呼ばれています。

それは教会の建物だけを指すのではありません。むしろ、神様から与えられた賜物を用いて、神様の民に仕えることです。

ローマ書12章には次のように書かれています。

一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。ローマ12:4ー8)

軍人として、またしもべとして、私たちがこの世に生きている間、それこそが私たちの召しなのです。

私たちに与えられた立場を受け入れ、その任命された任務を全うしましょう。