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申命記 詩篇

この世界はあなたをどのように思い出すか

これはモーセ五書の最後の一部です。

しかし、モーセはこの最後の箇所を書いたわけではありません。モーセが亡くなった後に、誰かがこれを記録しました。

モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼をは、顔と顔を合わせて選び出された。

それはが彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行わせるためであり、

また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威とをことごとくふるうためであった。(申命記34:10-12)

それは、すばらしい追悼文です。

モーセは神様が顔と顔を合わせて選び出された人です。

モーセは神様の力に満たされた人です。

モーセは神様の力を通して、イスラエル人をエジプトから救い出した人です。

これを読んだとき、私はこう思いました。「私が亡くなるとき、家族や友達、同僚は私をどのように思い出すでしょうか。」

一昨年、私の父が亡くなりました。私と母、兄弟が父をどのように思い出しているかは分かりますが、他の人々が父をどのように思い出すかについてはよく分かりません。彼らが追悼文を書くなら、何と書くだろうと思います。

そして、私が亡くなった時に、人々は何を言うでしょうか。私についてどのような思い出を持つでしょうか。

私にはその答えがよく分かりません。ただ、神様が望んでおられる人になるには、まだたくさんの時間が必要だと感じます。弱さが多いからです。失敗も多いからです。それでも、もし人々が私を通して少しでも神様を見ることができるなら、それは本当に嬉しいことです。

詩篇90篇で、モーセはこう書きました。

それでも、人々が私を見ると神様がちょっとだけでも見えたら、私は嬉しい。(詩篇90:10)

だから、モーセはこう祈りました。

それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(12)

また、

私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。(17)

それは私の祈りです。

「神様、私に自分の日を正しく数えることを教えてください。賢く生きたいからです。また、私の手のわざを確かなものにしてください。私の人生が空しいものにならないように、何をするべきか教えてください。そのわざが空しいものにならないように。」

私には本当に好きな歌があります。それは私の心の叫びです。

Lord, my friend has gone to be with you.
主よ、私の友達があなたの所に行ってしまいました。
I’m not asking why
どうしてか訊いていないのです。
Or questioning what you do
あなたの御心を疑っていないないのです。
But I’m realizing that my days are numbered too.
けれども、私の人生が短いことが分かるようになりました。
Will my life have been all that I wanted it to?
振り返るときに、希望した通りに生きたでしょうか。

Will my friends reflect on precious memories?
私が亡くなるときに、私の友達は私についていい思い出を持つでしょうか。
And if I sing to the world, will they know you were the love in me?
もし、この世に歌ったら、周りの人々は私の愛があなたから来たことが分かるでしょうか。
And the praise I gave goes on eternally?
私の賛美は永遠に続くでしょうか。
How will they remember me?
すべての人々はどのように私を思い出すでしょうか。

How will they remember?
どのように思い出すでしょうか。
I hope when they remember they see you.
彼らが私を思い出したら、あなたを見るように望みます。

I know that in my heart I must be sure all my days have not just slipped away.
私の心の中で、私の人生が空しいものじゃなかったという確信が欲しいです。
It already seems life will be too short.
私の命は短そうです。
Wasn’t I a child just yesterday?
昨日、私は子供じゃなかったでしょうか。
Time just slips away.
光陰矢のごとしです。

Lord, I’m not afraid to be with you.
主よ、私が天国であなたと共にいることを怖がっていません。
But I feel there’s so much left for me to do.
けれども、まだ、この世界で、たくさんのことをしなくてはならないと思います。
I just had to know that I made you proud too.
あなたが私について考えたら誇ることを知りたいです。
Will they know I love you?
すべての人々は私があなたを愛していることが分かるでしょうか。

How will they remember?
どのように思い出すでしょうか。
I hope when they remember they see you.
彼らが私を思い出したら、あなたを見るように望みます。

I want the world to see Jesus in me
この世界の人々が私の中で、イエス様を見るように望んでいます。

ーーキム・ボイス

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申命記

他の人々の上に神様の祝福のために祈ること

創世記が終わったように、申命記も祝福で終わります。

創世記では、ヤコブが息子たちのために具体的な祈りを捧げたように、モーセもその子孫のために具体的な祈りを捧げました。

それを読んだとき、私はこう思いました。

「どのくらい私は相手の前で、その人のために祈るでしょうか。また、どのくらい具体的な祈りを捧げるでしょうか。」

モーセが何のために祈ったのか、少し考えてみてください。

神様がユダを敵から助けてくださるように祈りました。(申命記33:7)

私たちが心に留めておかなければならないのは、霊的な戦いのただ中にいるということなのです。だからこそ、戦っている間に、他の「兵士」のために祈らなければならないのです。

そして、神様に仕える人々、すなわちレビ人のためにも、モーセは祈ったのです。

彼の資産を祝福し、その手のわざに恵みを施してください。(11)

そのように、私たちも神様に仕える人々のために祈るべきです。特に、牧師たちのために祈るべきです。

彼らは私たちの教会を導いているので、神様が彼らを祝福してくださるように祈らなければなりません。

そのあと、モーセは、安全と安らぎのために祈りました。(12節)

この世では、私たちは多くの心配ごとに囲まれ、圧倒されやすいものです。だからこそ、私たちには「人のすべての考えにまさる神の平安」が必要です。

最後に、モーセは物質的な祝福のためにも祈りました。金持ちになることを願うためではありませんが、神様の祝福を通して私たちが他の人を祝福できるようにと祈るべきです。(第二コリント9:8-11)

他の人のために一般的な祈りをするのは簡単かもしれません。しかし、もっと具体的な祈りを捧げましょう。

あなたも他の人からそのような祈りを望んでいるでしょうし、私もそのような祈りを必要としているのです。

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申命記

命を与える言葉、命を与えてくださる方

神様はイスラエル人の性格に関して、ご自身をごまかしてはおられませんでした。彼らの不誠実な性格をよく覚えておられ、将来においても彼らが不誠実になることをご存知でした。

だから、神様はモーセに歌を書きなさいと命じられました。なぜならば、イスラエル人が神様に背を向けて苦しい状況に陥った時、その理由が分かるためです。

その歌は、イスラエル人に対する神様の慈しみと、彼らの不誠実さについて書かれたものでした。この歌は、イスラエル人を警告するためのものでした。

しかし同時に、イスラエル人に希望を与えるためでもあります。

神様はこう言われました。

今、見よ。わたしこそ、それなのだ。

わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。

わたしは傷つけ、またいやす。

わたしの手から救い出せる者はいない。(申命記32:39)

けれども、一番印象に残っている言葉は46-47節です。モーセはこう言いました。

あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。

これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。(申命記32:46-47)

つまり、「注意しなさい。この言葉に従えば、命を得ることができます。」

神様は私たちに同じことを語られます。

それは書かれた言葉だけではなく、生きている言葉についてもです。

「生きている言葉」というのはイエス様のことです。

イエス様は神様の本質の完全な現れです。イエス様はこの世に来られ、神様の性格を示し、私たちがどのように神様を喜ばせるか教えてくださいました。

そして、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。

私たちにとって、イエス様の人生の話はむなしいものではありません。そのように考えてはいけません。

イエス様を信じれば、イエス様は私たちに命を与えてくださるからです。

ヨハネはこう記しました。

ことば「つまり、イエス様」は人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ 1:14)

また、

しかし、「イエス様」を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:12)

だから、イエス様をむなしい言葉として考えるのをやめましょう。

イエス様を無視する言葉として見なしてはいけません。

むしろ、あなたの命をイエス様に捧げてください。

そうすれば、イエス様は命を与えてくださいます。

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申命記

インマヌエル

私たちは皆、影響を受けた人がいます。それはお父さんやお母さんかもしれません。先生や友達、もしくは牧師かもしれません。

けれども、結局、彼らはいなくなります。引っ越すかもしれないし、亡くなるかもしれません。

だから、私たちが自分自身に問わなければならないのは、彼らがいなくなったとき、私はどうするのかということなのです。

ヨシュアとイスラエル人もその状況に直面しました。モーセは40年間彼らを砂漠で導いてきましたが、今、モーセは彼らにこう言いました。

私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない」と言われた。(申命記31:2)

ヨシュアとイスラエル人は、それを聞いて何を考えたでしょうか。

おそらく、本当に寂しい気持ちや心配があったでしょう。

「モーセは私たちと一緒に来ないのですか?でも、私たちはどうすればよいのでしょうか。モーセが私たちを導いてくださらないと、私たちは続けられません。」と思ったかもしれません。

しかし、モーセはイスラエル人にこう言いました。

あなたの神、ご自身が、あなたの先に渡って行かれ。。。

強くあれ、雄雄しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。。。

ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。

主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(3,6,8)

時々、私たちはつらい状況に直面します。登りにくい山に直面します。私たちを跪かせるような試練に直面します。

しかし、モーセはイスラエル人と私たちにこう言います。

「私たちは一人ぼっちではありません。神様は私たちと共におられます。神様は私たちの先を進んでくださいます。そして、神様は私たちを見放すことも、見捨てることもされません。

だから、強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」

イザヤがイエス・キリストの誕生を予言した時、イザヤはこう言いました。

処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7:14)

インマヌエルというのは、「神は私たちとともにおられる」という意味です。

神様は、私たちがその真理を心に留めておくことを望んでおられます。私たちは一人ぼっちではありません。決して一人ぼっちではありません。

人々が私たちを見放すことやがっかりさせることがあるかもしれません。けれども、神様はいつも私たちと共におられ、決して私たちを見捨てることはありません。

And the years may come, and the years may go
年は来て、また過ぎ去ります。

Though we may forget somehow
そして私たちは子の真理を忘れてしまう時もあるかもしれません。

That the child once born in Bethlehem is still among us now.
それは、ベツレヘムで生まれた子が、今でも私たちと共におられるということです。

Immanuel, God with us.
インマヌエル――神様は私たちと共におられます。

–エイミー・グラント

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申命記

隠れていない、遠くかけ離れたものでもない

祝福と呪い。

根本的に、それがこの箇所の内容です。

神様が言われたのは、もしイスラエル人が神様を愛し、従うならば、神様が彼らを祝福されるということです。

けれども、彼らが神様に背を向けるならば、呪いが臨むと言われたのです。

この祝福と呪いはイスラエル人だけのためだったので、具体的には説明しませんが、私たちが学ぶことがあると思います。

最初に、イスラエル人がどんなに失敗しても、神様はいつも彼らと和解することを望んでおられました。

30章で、神様が言われたのは、罪によってどんなに悪い状態になっても、神様が彼らと和解するために働かれるということです。

神様は彼らの心の中に働き続けることを約束されました。そして、その働きによって、彼らはもう一度神様に戻り、愛し、従うようになるのです。

神様は私たちのためにも同じことをされます。

私たちが神様からどんなに遠く離れても、神様は私たちとの和解のために働いてくださいます。

二つ目は、神様の道は隠れていないということです。

神様は私たちに何をして欲しいかをはっきりと示してくださいます。神様は私たちが知らないことで罰することはされません。

イスラエルの民は神様の要求をよく知っていました。そして彼らの敵でさえ、その要求を知っていました。

神様はこう言われました。

すべての国々は言おう。「なぜ、はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」

人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、(申命記29:24-25)

そして、神様はイスラエル人にこう言われました。

隠されていることは、私たちの神、のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。 (申命記29:29)

だから、イスラエル人が罪を犯したときに、言い訳はありませんでした。私たちにも言い訳はありません。

神様はご自身の言葉を示されました。けれども、それだけではなく、その言葉は私から遠くかけ離れたものでもありません。

まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。

これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。

まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。(申命記30:11-14)

「遠くかけ離れたものでもない」というのは、誰でも神様の御言葉を聞くことができるという意味です。

とはいえ、別の意味では、その言葉は私から遠くかけ離れたものです。つまり、私たちは皆、神様の御言葉に完全に従うことができません。私たちは皆、罪を犯します。

パウロが書いたように、神様の律法は私たちを神様の前に正しくすることはできません。律法は私たちの罪を明らかにするだけです。

けれども、パウロはこの申命記の箇所を通して、イエス・キリストを信じる信仰によって、神様が私たちを義と認めてくださることを教えました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。

また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。

では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:6-10)

だから、私たちは、もはや自分の努力によって義人になろうとしません。むしろ、イエス様の十字架の働きによって私たちは義と認められます。私たちがしなければならないのは信じることだけです。

イエス様はこう言われました。

あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29)

イエス様の御言葉を心に留めておいて、イスラエル人へのモーセの言葉について考えてみましょう。

モーセはこう言いました

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

あなたの神、を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり(ます)。(申命記30:19-20)

イスラエルの民にとって、その意味は神様の命令に従いなさいという意味でした。

しかし、2000年前に、キリストを通して、神様はご自身を私たちに表してくださいました。

だから、今、命を選ぶことはイエス様を選ぶことなのです。

ですから、イエス様を選びましょう。

イエス様こそ、私たちの命なのです。

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申命記

感謝です

この記事を英語で書いたのは、ちょうどクリスマスの頃でした。

クリスマスの時、私はいつも感謝します。神様の御子のために感謝します。永遠の命の賜物のために感謝するのです。

この箇所を読んだら、私はそのことについて考えます。

神様が命じられたのは、イスラエルの民が産物の初物を神様に捧げるとき、神様が彼らのために何をしてくださったかを思い起こさなければならないということなのです。

つまり、アブラハムを呼ばれ、その人から、大きくて強く、人数の多い国民を作り出されました。そして、その国民をエジプトの奴隷の人生から救い出し、乳と蜜の流れる地を与えてくださいました。

そのことを思い起こした後、イスラエルの人々は産物の初物を神様の前にささげて礼拝しました。

そして、その周囲の人々は神様の慈しみを喜び祝ったのです。

私たちも、その態度を取るべきなのです。

私たちは時間を取って、神様が私たちのためにしてくださったことに感謝をささげるべきです。

しかし、それはクリスマスの時だけではなく、通年そうすべきなのです。

神様が私たちを選ばれたからです。

イエス様をこの世に送ってくださったからです。

イエス様が私たちのために死んでくださったからです。

聖霊様を私たちのうちに臨ませるために送ってくださったのです。

そして、私たちには将来の希望があるのです。

私の教会では歌われていませんが、私は「I’m forever grateful」、つまり、「いつまでも感謝している」という歌が好きです。

You did not wait for me to draw near to you
私があなたに近づくのを待っておられたのではありませんでした。
But you clothed yourself in frail humanity.
むしろ、あなたは弱い人間と同じようになってくださいました。

You did not wait for me to cry out to you.
私があなたに呼びかけるのを待っておられたのではありませんでした。
But you let me hear your voice calling me.
しかし、あなたは私にあなたの声を聞かせてくださったのです。

And I’m forever grateful to you.
私はいつまでも感謝します。
I’m forever grateful for the cross.
十字架のゆえに、絶えず感謝します。

I’m forever grateful to you
私はいつまでも感謝します。
That you came to seek and save the lost.
あなたは失われた人を捜し、救うために来てくださったのです。ーーマーティン・J・ナイストロム

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申命記

正直さ

去年、私は若い女性と面白い会話をしました。営業職における正直さについて話しました。そして、私は尋ねました。

「もし二つの会社があなたの商品を買うために競争していて、彼らの提示額が低すぎたら、どうしますか。」

その女性はこう答えました。「私はその二つの会社に『相手の会社がもっと高い値段を提示した』と言います。」

私はさらに尋ねました。「もし、その二つの会社があなたの嘘に気づいたらどうなるでしょうか。」

「多分、うまくいきません。二つの会社のどことも契約できないでしょう。」

「そして、あなたの上司がその嘘について聞いたら、どう反応するでしょうか。」

「全然気にしないと思います。すべての会社はそうするからです。上司は『残念な状況だけど、ほかのクライアントを見つけられるから、大丈夫』と言うはずです。」

その上司が本当にそう思うかどうかは分かりませんが、神様はそのような考え方を忌み嫌われます。神様はこう言われます。

あなたは袋に大小異なる重り石を持っていてはならない。

あなたは家に大小異なる枡をもっていてはならない。

あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。

すべてこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、は忌みきらわれる。(申命記25:13-16)

とはいえ、この世界には違う意見を持つ人たちがいます。

時々、ビジネスの世界では嘘も方便であると考えられることがあります。それでも、そのようなビジネス慣習に対して、一つのルールがあります。それは、もし嘘が明らかにされたら、それを認めなければならないということです。

数年前、雪印乳業が多くの嘘をつき、その嘘が発見されたため、評判が大きく損なわれました。

食中毒の問題が発生しましたが、その会社はその問題を隠そうとしました。

その後、補助金を得るために、牛肉の出所について嘘をつきました。

さらに、バターの賞味期限を変更し、評判はさらに悪化しました。

私たちが「商売をやる以上嘘は仕方ない」と言うなら、そのような結果を招いてしまいます。

神様はそのような言い訳を受け入れられません。ビジネスの場面でも個人的な関係でも、神様は私たちに正直であることを求められます。

そうしなければ、信頼関係が破れ、あなたの評判が傷つきます。神様の民として、他の人が私たちの正直さを疑うことができないはずです。

パウロはこう書きました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

職場でも、家庭でも、どこにいても、あなたはどれくらい正直でしょうか。

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妻(か夫)を喜ばせること

この箇所はとても興味深いです。

この箇所は結婚と離婚についてです。パリサイ人たちはこの箇所を根拠に、妻を離婚することが許されると考えていました。

議論の中心は、「何が恥ずべきことか」という点でした。

私は離婚についてあまり話しませんが、イエス様の言葉を引用します。それは、神様は決して離婚を命令されなかったということです。

しかし、人々の心が固かったため、神様は離婚を許されたのです。

つまり、人々はまず神様に対して心を固め、さらに神様の結婚についての教えに対しても心を固めました。そして、夫と妻は互いに対して心を固め合ってしまいます。

けれども、私にとって一番興味深いのは5節です。神様はこのように言われました。

人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。

彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。(申命記24:5)

神様は結婚の最初の年の大切さをよくご存じでした。

それゆえ、結婚が良い始まりを持つことを望んでおられたのです。

その最後のフレーズが大好きです。「自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」

このフレーズから、私たちは健康的な結婚の鍵を見つけることができます。それは、夫婦がお互いを喜ばせ合おうとする心です。

多くの場合、夫や妻は相手に焦点を当てず、自分自身にばかり焦点を当ててしまいます。その結果、結婚がうまくいかなくなってしまうのです。

相手を喜ばせることなく、相手が自分を喜ばせてくれないことに文句を言うのです。

第1節において、そのような態度が離婚の原因となりました。

人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり。。。

パリサイ人たちにとって、「恥ずべき」ということは、姦淫のことだけを指しているのではありませんでした。料理が上手くない、声が大きすぎる、あるいは以前より美人ではなくなった、ということまで含まれていたのです。

その人のフォーカスはどこにあるのでしょうか。妻を喜ばせることでしょうか。

違います。むしろ、彼のフォーカスは、「私の妻が私を喜ばせてくれない」という自己中心的な考え方です。

そのような態度によって、彼らは妻を離婚しようとしたのです。

ここで、大切なポイントをお伝えしたいと思います。神様は特に夫に、健康的な結婚を守る責任を与えられました。神様は夫に、妻を喜ばせるべきだと命じられました。

では、なぜ神様は夫たちにその命令を与えられたのでしょうか。それは、神様が女性をよく知っておられるからです。神様は女性を応答者として造られたのです。そして、夫が妻を喜ばせると、妻もまた夫を喜ばせようとするのです。

しかし、妻たちがそれに気づかず、また夫が自分自身の幸せにばかり焦点を当てているのを見たら、妻たちは文句を言い始めます。

その結果、夫たちはイライラし、さらに自己中心的になり、愛がますます冷めてしまいます。

結局、その結婚は徐々に悪化し、最終的には離婚に至ることになります。

その一方、もし誰かがこの悪循環を断ち切り、自己中心的な考えを捨てて、相手を喜ばせようとする態度を取ったら、その結婚を守ることができるのです。

もちろん、結婚を守るためには、夫と妻が共に努力しなければなりません。

そして、妻たちも夫を喜ばせる責任があります。また、たとえ夫が妻を喜ばせようとしなくても、妻にはこの悪いサイクルを止める責任があるのです。

けれども、神様は特に夫に、その責任を与えられました。

だからこそ、パウロは夫たちにこの命令を書いたのです。

夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)

キリストは一番最高の夫でした。イエス様は自分自身のことだけを考えずに、教会、つまり私たちのために、すべてを捧げられました。

パウロはこう記しました。

キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)

夫たち、あなたの結婚に不満がありますか。自分自身に焦点を当てるのをやめましょう。妻に焦点を当て始めてください。自分の幸せではなく、妻の幸せに焦点を当ててください。

そうすれば、あなたの結婚は徐々に良くなり、神様があなたに望んでおられる結婚になるでしょう。

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きよい人生を保つ

この箇所で、神様は衛生に関する法律を制定されました。(下水道システムがなかったため、それは非常に重要でした。)

その法律を通して、神様はイスラエル人にきよさの大切さを教えられました。

神様はこう言われました。

あなたが敵に対して出陣しているときには、すべての汚れたことから身を守らなければならない。。。

あなたの神、が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。

あなたの陣営はきよい。主が、あなたの中で、醜いものを見て、あなたから離れ去ることのないようにしなければならない。 (9,14)

私は14節を読んで、本当に印象に残りました。

神様は私たちの中を歩み、私たちをサタンの攻撃から守りたいと望んでおられます。しかし、私たちの陣営、つまり私たちの人生はきよくなければなりません。醜いものや穢れたものがあってはならないのです。

ダビデはこのように言いました。

私は、全き道に心を留めます。
いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。
私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。

私の目の前に卑しいことを置きません。
私は曲がったわざを憎みます。
それは私にまといつきません。(詩篇101:2-3)

多くの人は自分のイメージを守るために人前できよい人生を保とうとします。しかし、自分の家ではどうでしょうか。

自分の家で、正しい心を保っているでしょうか。それとも、心の押し入れの中に醜いものを隠しているのでしょうか。

神様は罪のあるところにおられることはできません

だからこそ、神様は私たちに醜いものを避けるように教えておられるのです。

あなたの心はどうでしょうか。きよいでしょうか。それとも穢れているのでしょうか。

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でも、それは私の責任じゃないよ

「でも、それは私の責任ではありません。」

それは昔からの言い訳です。

カインもそのような言い訳を使いました。神様がカインに、「あなたの弟アベルはどこでしょうか」と尋ねられたとき、カインは答えました。

知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。(創世記4:9)

けれども、神様はその答えを認められませんでした。なぜならば、カインはアベルのために責任があったのに、アベルを殺したからです。

この箇所で、神様は私たちがお互いに対する責任を持っていると教えておられます。

神様はこう言われました。

あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたは同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。

もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。

彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。

すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。

あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。(申命記22:1-4)

私たちの兄弟たちと姉妹たちが助けを必要としているとき、神様は「それは私の責任ではありません」という言い訳を許されません。

神様はそれを私たちの責任とされます。

この箇所で、神様は私たちが周りの人々の持ち物を世話しなくてはならないと命じられました。しかし、そうであるならば、その人々自身も世話すべきではないでしょうか。

ルカ10章で、イエス様の例え話で、サマリヤ人はその態度を取りました。彼は隣人の必要を見たとき、その人を助けたのです。

どうして神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、神様が私たちのためにそのようにしてくださったからです。

少し想像してみてください。私たちは罪に溺れ、希望を失い、地獄への道を歩んでいるとします。それを見て、もしイエス様が「それは私の責任ではない」と言われたとしたらどうでしょうか。

けれども、イエス様はそのようには言われませんでした。むしろ、イエス様はご自身を低くされ、天国を出て人間となられ、値しない私たちのために死んでくださいました。

イエス様が私たちのためにそのようにしてくださったなら、私たちはそのようにするべきではないでしょうか。

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私たちのために呪われた人

この箇所で、神様は犯罪者が殺されたとき、その体をどのように扱うべきか教えられました。神様はこう言われました。

もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、

その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。

木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。(申命記21:22-23)

ガラテヤ人への手紙で、パウロはこの箇所を引用しました。

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13ー14)

もちろん、キリストはご自身の罪のために殺されたのではありませんでした。むしろ、私たちの罪が赦されるために、イエス様は十字架で殺されたのです。

私たちの罪によって神様からの呪いがもたらされました。

しかし、イエス様はその呪いを身に負ってくださり、十字架で私たちの罪のために代価を支払ってくださったのです。

だから、私たちはもう呪われてはいません。むしろ、私たちは神様の祝福を待ち望みます。

それは最高の贈り物でした。

クリスマスの時に、私は「御使いうたいて」という歌を歌うのが大好きです。

最近、歌手がその歌を歌うときに、二つ目のリフレインを歌わないことがありますが、その歌詞がイエス様が来られた理由を説明するので、私は大好きです。

Nails, spears, shall pierce him through
釘と槍はイエス様を刺しました。
The cross be borne for me and you
イエス様は私たちのために十字架を負われました。
Hail, Hail, the Word made flesh
人間になられた神様をほめたたえましょう!
The Babe, the Son of Mary.
マリヤの子よ。

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申命記

一人で戦っている?神様と一緒に戦っている?

スポーツでは、大きな試合の前に、監督や選手がチームに向けて激励演説をすることがあります。

おそらく、祭司がチームに激励演説をすることはないでしょう。

ところが、神様は大きな戦争の前に、イスラエル人にそのようにするよう命じられました。

神様はこのように言われました。

あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、

彼らに言いなさい。

「聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。

弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。

共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、である。」(申命記20:2-4)

もし誰かが軍隊に激励演説をするのであれば、その人は将軍などの地位にあるはずです。けれども、神様は祭司が話した方がよいと言われました。

それはなぜでしょうか。

おそらく、一つの理由は、イスラエル人の力がどこから来るのかを思い出させるためです。

私たちが大きな問題に直面するとき、本能的にまず一人で解決しようとします。自分の力でその問題に立ち向かうのです。

しかし、それに圧倒されたとき初めて、神様に向かって「助けてください」と叫ぶのです。

私自身もよくそうしてしまいます。

けれども、神様は「最初から私に焦点を当てなさい」と言われます。

また、神様は私たちに「一人で戦う必要はないことを思い出しなさい。私はあなたと共におり、私は勝利を与える」と言われます。

あなたはどうでしょうか。試練に直面するときに、神様を仰ぐでしょうか。神様の力を求めるでしょうか。

それとも、自分自身に信頼するでしょうか。

自分に焦点を当てると、その結果はプライドです。しかし、圧倒されたときには、私たちのプライドは潰れ、恐れ始めます。

プライドも恐れも良くないことです。

ですから、あなたの人生が崩れる前に、神様を求めましょう。

毎日の初めに、神様を仰ぎましょう。神様を信頼しましょう。

そうするなら、神様にあって勝利を得ることができます。

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申命記

復讐か正義?

ウサマ・ビン・ラディンが殺されたときに、私は全く泣きませんでした。

実は、彼が亡くなって嬉しく思いました。彼がもういなくなって、この世界はさらに安全になったと考えます。

それでも、ビン・ラディンを殺す方法に対して、私の感情は少し複雑です。私はアメリカが正義のために彼を殺したのか、復讐のために殺したのか分かりません。

ビン・ラディンは軍事目標でしょうか。そうだと考えます。アメリカを攻撃することを計画した時に、ビン・ラディンは軍事目標となりました。

ビン・ラディンを殺さずに、家で捕らえて、裁判官の前に連れて来ることはできなかったでしょうか。

私には分かりません。私には全ての情報がないからです。

「それは正義だ」と言う人もいれば、「それは復讐だ」と言う人もいます。

時々、その境界線は分かりにくいものです。

けれども、この箇所で、神様は原則を与えられます。

神様の律法によれば、もし、誰かが偶然に他の人を殺した場合、特別な都市に行けば安全でした。つまり、殺された人の家族などが、その人を殺してはならなかったのです。

この律法によって、神様は正義の名のもとに、人が他の人を殺すことを阻んでくださいました。

時々、私たちは怒るときに、何が正義か分からなくなることがあります。だからこそ、冷静になるための時間が必要です。その都市は、人々にその時間を与えました。

復讐したい人たちは、その人が意図的に殺人を犯したのではなく、死に値しないことを理解することができるのです。

しかし、神様はさらにもう一つの原則を与えられます。神様は言われました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

つまり、罰は犯した罪と同等であるべきです。

例えば、誰かがあなたを少しだけ怪我させた場合、その人を殺してはなりません。その人を殺すと、それは正義ではありません。それは復讐です。

本当の正義によって裁くなら、犯した罪に対して相応の罰を与えられるはずです。

多分、ビン・ラディンの死はその二つの原則と一致していました。彼は意図的に人々を殺しました。偶然ではありませんでした。だから、彼は犯した罪に対して相応の報いを受けたのです。

とはいえ、もっと良い方法があったのでしょうか。私には分かりません。

けれども、心に留めておきましょう。いつか、神様はその行動を裁かれるのです。

自分の行動が復讐か正義かを考えるとき、そのことを忘れてはなりません。

私たちは皆、神様のみ前で自分のことを申し開きすることになるのです。(ローマ14:12)

そして、神様はあなたを裁かれます。だから、行動する前に、私たちは裁きの日に神様に何を申し上げるか考えなくてはならないのです。

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申命記

偽の預言者、本当の預言者、最高の預言者

私たちの時代にも、多くの偽預言者がいます。

イエス様が「誰も私がいつ帰るか知らない」と言われたにもかかわらず、その偽預言者たちはイエス様の帰る日を予言します。

もし、あなたが十年後にこのブログを読んだとしても、その時にも偽預言者の存在に気づくことでしょう。

しかし、預言者とは未来の出来事を予言するだけの人ではありません。

彼らの最も重要な責任は、神様の言葉を伝えることです。

多くの偽預言者は、神様の名前を用いてメッセージを伝えますが、そのメッセージは神様からの言葉ではありません。

では、偽預言者と本物の預言者をどのように区別できるでしょうか。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたの心の中で、「私たちは、が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。

その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。(申命記18:21-22)

その言葉によって、モルモン教の設立者であるヨセフ・スミスと、エホバの証人の設立者であるチャールズ・ラッセルは偽預言者であると言えます。

さらに、神様は申命記13章で、「預言者」が奇跡やしるしを行うとしても、それだけでは預言者である証拠にならないと教えられています。

神様はこう言われました。

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに聞き従ってはならない。

あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、いのちを尽くして、本当にあなたがたの神、【主】を愛しているかどうかを知ろうとして、あなたがたを試みておられるからである。(申命記13:1-3)

だから、偽の神々を述べ伝える人は偽預言者です。また、「主があなたに歩めと命じた道から、あなたを迷い出させようとする人」も偽預言者です。(申命記13:5)

神様の名前によって語る人々の多くは、モーセの時代に生きていなくて本当によかったと思います。なぜなら、その時代に生きていたら、すでに裁かれて殺されていたかもしれないからです。

そのため、誰の言葉に耳を傾けるべきか、そして私たちが神様の名前によって何を語るべきか、気を付けなければなりません。

しかし、イスラエルには多くの真の預言者がおり、その後、神様は最も偉大な預言者をお送りになりました。

モーセはこう言いました。

あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。。。

わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。

わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。(申命記18:15,18-19)

その人はイエス様でした。イエス様は天の父の言葉を伝え、天の父を表してくださいました。ただ言葉で表されたのではなく、行動を通しても表されました。

さらに、神様はこう言われました。「イエス様に従わない者がいれば、わたしが彼に責任を問う。」

また、イエス様はこう言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

あなたはどの預言者に従っているでしょうか。

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申命記

リーダーシップ

あなたは、「私はリーダーではない。誰も私に従わないのです」と言うかもしれません。

それはその通りかもしれませんが、時には神様があなたの人生に人を送り、「その人を導きなさい」と言われることがあります。

もしあなたが親であれば、あなたはリーダーです。神様はあなたを子供を導くために呼ばれました。

もしあなたが夫であれば、神様はあなたを家族を導くために呼ばれました。

さらに、職場で後輩がいるなら、あなたはリーダーです。

この箇所で、神様は私たちにリーダーシップについて教えておられます。リーダーとして、私たちはこのことを覚えておかなければなりません。

1つ目のポイントは、私たちには神様に対する責任があるということです。

そのため、神様はイスラエルの民にこう教えられました。

「あなたが選んだ王は私の律法を書き、それを読み、従わなければならない。」

なぜなら、王であっても神様に応えなければならないからです。

同じように、私たちも神様に応える責任があります。

ですから、リーダーとして、人々をどのように扱うか、またどのように生きるかに注意しなければなりません。

実際、リーダーとして、それに関して私たちには他の人々よりも大きな責任があるのです。

2つ目のポイントは、リーダーとして他の人々より高い地位にあったとしても、自分がその人々より偉いと思ってはいけないということです。

私たちが持っているものはすべて神様から来ています。私たちの権威も神様から与えられたものです。ですから、私たちは他の人々を尊敬しなければなりません。

3つ目のポイントは、自分自身に楽な人生を与えるために権威を使ってはいけないということです。

私たちの目的は誰かに仕えてもらうことではなく、他の人々に仕えることにあります。(マルコ10:45)

最後のポイントは、神様が私たちを導いてくださるように、私たちも他の人々を導くべきだということです。

神様はイスラエルの王たちにこう命じられました。

「イスラエルの民をエジプトに導いてはならない。この土地に留まらなければならない。」

同じように、私たちは勝手に行きたい所に行ったり、やりたいことだけを行うわけにはいきません。むしろ、私たちは神様の導きに従わなければなりません。

そうすれば、私たちは他の人々を正しい道へ導くことができます。

あなたはどうでしょうか。

良いリーダーでありたいと願っているでしょうか。

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申命記

祝い

年末には、多くの日本人が忘年会に参加します。

ある日、私はある女性と話していて、その人は「今週、6つのパーティーに行くよ」と言いました。

私はおそらく一年間でも6つのパーティーに行くことはないので、少し驚きました。

けれども、年末とお正月は祝う時です。それは素晴らしいことです。

何度も、この箇所で神様はこう言われます。「喜びなさい。」

日本語の聖書ではそうは見られないかもしれませんが、英語の翻訳では「祝いなさい」という表現が繰り返されています。

クリスチャンは喜びにあふれる人であるべきです。それを常に心に留めなくてはなりません。私たちは十年間もレモンを吸っているような顔をしていてはいけません。

私たちは喜ぶべきです。

何のために喜ぶべきでしょうか。

1つ目の理由は、私たちの救いのためです。

ユダヤ人は過越の祭りを祝うとき、救いを思い出しました。つまり、神様は彼らをエジプトから救い出されました。

エジプトでは、彼らは奴隷でした。そして、多くの人が殺されました。しかし、神様は彼らを救い出されたのです。

私たちもまた救われました。2千年前に、イエス様は赤ちゃんとして来られ、人間となられました。そして、十字架で私たちの罪のために死なれ、復活されて、死に打ち勝たれました。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:19)

2つ目の理由は、神様の備えに感謝することです。

収穫の時、イスラエルの民は神様の慈しみにあふれて喜びました。

そのように、私たちも神様の備えに感謝し、喜ぶべきです。つまり、家族や友達、食べ物や家など、私たちの日常生活において与えられているものに感謝するのです。

ですから、どのような状態にあっても、祝うことを覚えていてください。なぜなら、どんな苦しみや悩みを経験しても、私たちは喜びを見いだすことができるからです。

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開いている手

この箇所から、神様が私たちにどのような人になることを望んでおられるかが分かります。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたの神、があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったんら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。

進んであならの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。

あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。

その人があなたのことでに訴えるなら、あなたは有罪となる。

必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。

このことのために、あなたの神、は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。

「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」(申命記15:7-11)

その後、神様は奴隷を解放することについて主人たちに命じられました。

彼を自由の身にしてやるときは、何も持たせずに去らせてはならない。

必ず、あなたの羊の群れと打ち場と酒ぶねのうちから取って、彼にあてがってやらなければならない。

あなたの神、があなたに祝福として与えられたものを、彼に与えなければならない。(13-14)

開いている手。

心に未練を持たずに与えなさい。

気前の良い人。

私たちは、そのような人になるべきです。

なぜでしょうか。それには2つの理由があります。

1つ目の理由は、神様が私たちを祝福してくださったからです。そして、神様はこう言われました。

「私があなたに与えたものを使って、周りの人々を祝福しなさい。」

2つ目の理由は、私たちが周りの人々を祝福すると、私たち自身もさらに祝福されるからです。

パウロはこう言いました。

神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。。。

蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。(第二コリント9:8、10-11)

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申命記

神様の慈しみにあって喜ぶこと

この箇所で、神様は什一献金の目的について語っておられます。

その理由は非常に興味深いものです。

あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。(申命記14:22)

どうしてでしょうか。

それは、イスラエルの民が、誰がその食物を与えたのかを思い出すためでした。

イスラエルの民は、その食べ物を神様が選ばれた礼拝の場所に持って行き、それを食べながら神様の慈しみを祝いました。

私たちも什一献金を捧げるときに同じ態度を持つべきです。つまり、私たちが捧げるときに、神様の慈しみを心から祝うべきです。

とはいえ、私は気をつけないと、什一献金が税金のように感じることがあります。それは、かなり辛い税金のようになってしまいます。

什一献金を捧げるときに、神様の慈しみを祝うことを考えたことはありませんでした。

しかし、それこそが本来の姿であり、そうすべきなのです。

神様、私が什一献金を捧げるときに、その理由を忘れないように助けてください。

什一献金を捧げるのは、あなたの慈しみを祝うためです。

あなたはいつも私の必要を備えてくださり、それ以上のものを備えてくださることを感謝します。

どうか、私が決して渋々捧げることがないように助けてください。むしろ、いつもあなたの慈しみを覚え、それを感謝する心を持たせてください。

あなたの慈しみを心から感謝します。アーメン。

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見るのに、信じるべきではないとき

「私は見ると信じる。」

アメリカ人は何か信じられない時に、その表現をよく使います。

西宮で台風の警告が出るとき、私はいつもそう思います。

どうしてでしょうか。台風は西宮にほとんど来ないからです。西宮において台風とは、少し強い風が吹いて、少し雨が降る程度のものです。

もし私が和歌山や沖縄に住んでいたら、もっと心配するかもしれません。でも、西宮の人々がなぜそんなに心配するのか、私には分かりません。

信仰に関して、時々人々は「物理的な証拠があれば、私は信じる」と言います。

イエス様の弟子トマスもそのような人でした。英語では、彼は「Doubting Thomas」、つまり「疑い深いトマス」と呼ばれています。

しかし、時には、目にしても信じるべきではないこともあります。

モーセはこの箇所でこう言いました。

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。

あなたがたの神、は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうにあなたがたの神、を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。(申命記13:1-3)

モーセがその言葉を言ったとき、エジプトの呪法師たちのことを考えていたかもしれません。

モーセがパロのもとに行った時、多くの奇跡を行いました。ところが、パロの呪法師たちが自分たちの奇跡を行ったため、パロはモーセの言葉に従いませんでした。

だからモーセが伝えたかったことは、超自然的な力を持つ存在が神様だけではないということです。サタンや悪霊も超自然的な力を持っています。

そのため、奇跡やしるしを見ても、それらが神様から来たと決めつけてはいけません。

私たちが自分に尋ねるべきことは、「この奇跡はどこから来たのでしょうか」ということです。神様から来たのでしょうか。サタンから来たのでしょうか。」

それ以外の可能性はありません。

では、どうやって見分けることができるのでしょうか。

2節に答えが記されています。

もし、奇跡を行っている人が偽の神々を述べ伝えているなら、その力はサタンから来ています。

また、その人が聖書に反することを述べ伝えているなら、その人の力はサタンから来ています。

さらに、その人が神様が禁じられたことを教えているなら、その力もまたサタンから来ています。

いつか反キリストが現れる時が来ます。その時、彼はしるしと奇跡を行い、多くの人々を驚かせるでしょう。(黙示録13:11-14;マタイ24:24)。

しかし、それらのしるしと奇跡は神様から来たものではありません。それらはサタンから来たものです。

それでも、多くの人々はその奇跡を目にすることで反キリストを信じ、騙されてしまうのです。

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。

奇跡だけを見て判断するのではなく、自分に問いかける必要があります。

「彼らは何を教えているのでしょうか。その教えは聖書に基づいているでしょうか。その教えは神様の言葉に反していないでしょうか。また、その教えは聖書だけに基づいているでしょうか。

それとも、その人は他の宗教の教えも取り入れているのでしょうか。」

時々、クリスチャンの中には、創価学会の奇跡を見て「私たちもその原則を使えるのではないか」と考える人もいます。

けれども、それは絶対に避けるべきことです。

もちろん、そのようなグループで奇跡が起こることもありますが、その力がどこから来たのかを考えるべきです。「霊的な原則から来た」のでしょうか。それとも、サタンから来たのでしょうか。

ですから、心に留めましょう。時には、目にしても信じるべきではないことがあります。

だからこそ、パウロはこう言いました。

すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

悪はどんな悪でも避けなさい。(第一テサロニケ5:21-22)

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神様の方法で礼拝する

「どうして、天国に行くのにはたくさんの方法がないのでしょうか。どうして、一つの方法しかないのでしょうか。」

多くの人々はクリスチャンにそのように尋ねます。

理由はたくさんありますが、最も重要な理由は、この箇所に書かれています。

神様はこう言われました。

彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。

ああなたがたの神、に対して、このようにしてはならない。(申命記12:3ー4節)

そして、神様は言われました。

あなたがたは、私たちがきょう、ここでしているようにしてはならない。おのおのが自分の正しいと見ることを何でもしている。(8節)

その後、神様はイスラエルの民に詳しく礼拝する方法を教えられました。

この話から私たちは重要な教訓を学ぶことができます。

神様はすべての種類の礼拝を受け入れられるわけではありません。

私たちが良い礼拝の方法だと思っても、神様がそれを受け入れられない場合もあります。

31節で、神様はこう言われました。

あなたの神、に対して、このようにしてはならない。

彼らは、が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

もちろん、私たちはその話を聞いて、そのような礼拝はひどいと思います。

けれども、その時代には、イスラエル周辺の国々で多くの人々がそのようなことを行っていました。その人々は、それらの行いを良いことだと考えていました。戦争の時や、良い収穫を望む時に、神々の助けを得るために、祭壇で子供を焼いたのです。

私たちのこの時代においても、神様は多くの礼拝の方法を忌み嫌われることがあると思います。

日本では多くの人々が仏壇に食べ物などをささげていますが、神様にとってそれは忌み嫌うことです。

そうすると、パウロの教えによれば、私たちは悪霊と交わっていることになります。

第一コリント10:20−21には、次のように書かれています。

いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。

私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。

時々、クリスチャンもそのようなことをします。けれども、神様はそれを受け入れられません。

中にはタロットや占星術を行い、「大丈夫だ」と思うクリスチャンもいます。

しかし、神様はそれを禁じておられます。(申命記18章9-14、イザヤ書47:13-15)

神様が教えられなかった方法で礼拝することは、本当の礼拝とは言えません。

「私は神様を礼拝している」と言っても、そのような行いをしているならば、神様はそれを受け入れられません。

イエス様はこう言われました。

神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:24)

私たちは霊によって礼拝しなければなりません。

神様は礼拝の方法だけが重要だと思っておられるわけではありません。神様は私たちの心と魂を求めておられます。

さらに、私たちはまことによって礼拝しなければなりません。つまり、神様がご自身を表されたように、私たちは礼拝しなければなりません。

神様は御言葉を通してご自身について教えてくださったので、その真理に基づいて神様を礼拝しなければならないのです。

もし私たちが神様の御言葉に反して礼拝しようとするならば、神様はその礼拝を受け入れられません。なぜなら、それはまことによる礼拝ではないからです。

あなたはどうでしょうか。神様の方法で礼拝していますか。

それとも、あなたの勝手な方法で礼拝しているのでしょうか。

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神様から引き離すもの

目に見えない神様に従うことは、時に難しいものです。

その一つの理由は、私たちが見えるものに引き寄せられるからです。

私たちは趣味に引き寄せられることがあります。

特定の彼や彼女に引き寄せられることもあります。

お金や持ち物に引き寄せられることもあります。

それらのものに引き寄せられるのは簡単です。なぜならば、それらが私たちの目の前にあり、私たちはそれらを見ることも、触れることもできるからです。そして、それらによってすぐに満足するようになるからです。

それら自体は悪いものではありません。

しかし、時には私たちにとって神様よりも大切になってしまうことがあります。

そのことを神様はご存じだったので、イスラエルの民にこう言われました。

気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことがないように。(申命記11:16)

イスラエルの民にとって、「神々」とは、周囲の国々が礼拝していた偶像のことでした。

私たちにとっての「神々」は、多分、お金、力、セックスといったものかもしれません。多くの人々は、それらによって神様から引き離されてしまいます。

使徒の時代も同じでした。パウロはデマスという人物について、こう記しました。

デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまいました。(第二テモテ4:10)

デマスは以前、パウロのミニストリーに参加していました(コロサイ4:14;ピリピ1:24)。

しかし、結局彼の心は迷い、横道にそれてしまいました。

理由は分かりません。お金が原因だったかもしれませんし、持ち物への欲望が原因だったかもしれません。

けれども、最終的にデマスはパウロを捨て、神様をも捨ててしまいました。

私たちも気を付けなければ、同じことが起こるかもしれません。

そのため、モーセはイスラエルの民に言いました。

あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。

それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

それは、があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。(申命記11:18-21)

つまり、心と思いと魂の中で、神様を中心にするべきです。

何をしていても、どこに行っても、どこに居ても、あなたの人生の中心には神様があるべきです。

そして、あなたの子供にもそのことを教えなくてはなりません。そうすることで、この世界によって神様から引き離されることを防ぐことができます。

あなたは何を追いかけていますか。誰を追いかけていますか。

この世界のものを中心に据えていますか。

それとも、すべてよりも神様を中心にしているでしょうか。

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神様に愛された

この箇所を読んだ時に、15節は本当に印象に残りました。

は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。

そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。(申命記10:15)

アブラハム、イサク、そしてヤコブは、決して完璧な人たちではありませんでした。

イスラエルの民もまた完璧ではありませんでした。何度も文句を言い、神様に反抗しました。

それでも、神様は彼らを恋い慕われました。

時にはイスラエルの民に怒りを覚えられることもありましたし、時には懲らしめることもありました。

それでも、神様の愛は決して変わることなく、神様はイスラエルの民を恋い慕い続けられました。

この箇所を読むと、私には希望があります。それは、私自身も罪を犯し、失敗するからです。

もし私が神様だったら、きっと自分を諦めてしまうと思います。しかし、神様は私を恋い慕い続けておられます。

神様はあなたのことも恋い慕っておられます。

それを聞いた時、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

神様はこう言われました。

イスラエルよ。今、あなたの神、が、あなたに求めておられることは何か。

それは、ただ、あなたの神、を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じるの命令と主のおきてとを守ることである。(12ー13節)

つまり、神様に愛されているからこそ、私たちは神様を恐れ、愛し、支えにし、従いましょう。

それは神様の愛を得るためではありません。

神様はすでに私たちを愛しておられます。神様はすでに私たちを恋い慕い、私たちを選んでくださっています。

むしろ、神様が私たちを愛してくださっているからこそ、私たちはその愛に応えるべきです。

モーセの時代もそうだったように、今もそれは変わりません。

毎日、神様の愛に応えて生きていきましょう。

私たちは愛しています。

神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:19)

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とりなし

以前、私は「もし私がモーセなら、イスラエルの民を導くことに耐えられないだろう」と言いました。

おそらく、多くの牧師たちは、人々を導くことがどれほど難しいかを理解しているため、モーセに同情するでしょう。

モーセは時々腹を立てました。時には本当にイライラさせられることもありました。

それでも、モーセはイスラエルの民への愛を決して失うことはありませんでした。

何度も何度も、イスラエルの民が罪を犯した時に、モーセは彼らのために祈りました。

何度も何度も、神様が彼らを裁くと決められた時に、モーセは神様とイスラエルの民の間に立ち、神様の恵みとあわれみを求めて祈りました。

もちろん、クリスチャンのリーダーたちには、このような心が必要です。

けれども、すべてのクリスチャンも、周りの人々に対してこのような心を持つべきです。

時には、人々が私たちをいら立たせることがあります。

時には、人々が私たちを怒らせることがあります。

時には、人々が私たちを傷つけることがあります。

そして、「神様、どうか彼らを裁いてください。彼らが受けるべき罰を与えてください。私はもう耐えられません」と祈るのは簡単なことです。

しかし、モーセが値しない人々のために祈ったように、私たちも同じことをするべきです。

多くの場合、問題の根本は、相手の霊的な目が見えないことにあります。サタンが彼らの思いをくらませることもありますし、多くの場合、人々自身が自分の思いをくらませていることもあります。

その結果、彼らは私たちをイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりします。

もちろん、彼らは神様の裁きを受けるに値します。

けれども、私たちも神様の裁きを受けるに値します。そして、私たちが神様をイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりする時には、神様のあわれみを求めます。

同じように、私たちは他の人々のためにも神様のあわれみを求めるべきです。

神様が彼らの霊的な目を開かせてくださるよう祈るべきです。そして、彼らが悔い改め、神様が彼らを赦し、癒してくださるよう祈るべきです。

それは決して簡単なことではありません。

けれども、イエス様はまさにそのようなお方でした。

9年ほど前に「パッション」という映画を見ました。

その中の一つのシーンが印象深く残っています。イエス様が十字架にかけられた時、山上の垂訓のフラッシュバックがありました。その時、イエス様はこう言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43ー45)

十字架の上で、イエス様はご自身の言葉に従われました。イエス様を迫害し、殺そうとしている人々のために祈られたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたを怒らせる人のために祈ることができますか。

あなたをイライラさせる人のために祈ることができますか。

あなたを傷つける人のために祈ることができますか。

彼らに対して、神様のあわれみを求めて祈ることができますか。

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信頼

自立。

私の父は多くのことを教えてくれましたが、その中でも特に、どうやって自立するかを教えてくれました。

兄や姉が同じ意見を持っているかどうかは分かりませんが、おそらく賛成していると思います。

とはいえ、自立は両刃の剣のようなものです。

すべての親が、自分の子供が成長して自立することを望んでいますが、極端な自立は孤立につながる可能性があります。それは良いことではありません。

なぜなら、誰も100%自立するために創造されてはいないからです。どうしても、この人生で全く一人で生きることはできません。

私たちは互いを必要としています。そして、それ以上に、私たちは神様を必要としています。

神様はイスラエルの民にこれを教えようとされました。

神様はこう言われました。

あなたの神、が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。

それは、人はパンだけで生きるのではない、人はの口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、があなたを訓練されることを、知らなければならない。(申命記8:2-5)

イスラエルの民が荒野を通ったとき、神様が彼らに教えようとされた大事なことの一つは、彼らが神様を必要としているという事実でした。

時々、神様は彼らが飢えることや喉が渇くことを許されました。けれども、結局は神様がイスラエルの民のすべての必要を備えられました。彼らの服もボロボロになりませんでした。(私の服もそうだったら良いのに、と思います。)

しかし、彼らを神様が約束の地に導かれる前に、神様は警告を与えられました。

あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。

あなたの神、を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。(17-18)

私たちは何かが必要な時に神様を思い出すことは簡単です。けれども、すべての必要が満たされた時には、神様が必要であることを忘れてしまいやすいものです。

私たちが給料を得るために、神様が力と才能を与えてくださったことを忘れるのは簡単です。むしろ、自分の努力だけを通して成功したと思い始めることもあります。

その結果、神様を信頼するのではなく、自分自身に頼り始めてしまいます。

しかし、私たちは自分自身を信頼人生のために造られたわけではありません。

私の父もこのことを学ばなくてはなりませんでした。父は過度に自立を追求したために、100%神様を信頼することができませんでした。

けれども、父の目が見えなくなった時に、その重要なレッスンを学びました。つまり、父は神様と他の人々を必要としていたのです。盲人となったことで、自立した人生を送ることは不可能になりました。

私はまだそれを学んでいる最中です。

父から自立についての教えを受けたことに感謝しています。その教えによって私は大人になることを学びました。

しかし同時に、その教えは私の霊的な成長を妨げるものとなりました。神様を信頼せずに、私は自分自身を信頼するようになりました。

神様が「信仰によって踏み出しなさい」と言われても、私は踏み出しません。なぜなら、本当に神様を信頼できるかどうかが分からないからです。

だからこそ、父と同じように、私も信頼について学ぶ必要があります。

神様、私があなたを信頼することができるよう助けてください。

あなたを信頼するよう導いてください。あなただけが必要であることを思い出すようにしてください。私があなたを信頼し、あなたに従うことができるよう助けてください。

そして、私があなたの口から出るすべてのもので生きることができますように。

父から自立の意味を学んだことに感謝します。けれども、天のお父様、あなたを信頼することを教えてください。アーメン。

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問題があなたより大きいとき

私の人生を振り返ると、神様がどれほど多くの問題を解決してくださったかに驚かされます。

例えば、日系ビザを申請した時のことです。日系三世の人ならビザを受けられますが、証拠が必要です。

私の場合、祖父の戸籍が必要でした。問題は、その戸籍がどこにあるかが分からなかったことです。私の母もその場所を知りませんでした。

ですから、どうやってその戸籍を見つければいいのだろうかと悩みました。

また、他にもいくつかの書類が必要でした。私の出生証明書や、両親の出生証明書、両親の結婚証明書などです。

母はそれらすべてを持っていたので、私に送ってくれました。そして、もう一つの書類も送ってくれました。それは祖父のパスポートでした。

母はそのパスポートを送った理由は分かりませんでした。ビザ申請には必要なかったですし、私は頼んだ覚えもありません。

ところが、私の日本人の友人がそのパスポートを見て、「あ、お祖父さんの出身地が書いてあるよ」と教えてくれました。

それですぐに戸籍を見つけることができ、ビザを取得しました。

イスラエルの民にも大きな問題がありました。

神様が約束された土地をどうやって受け取るのか、彼らには全く分かりませんでした。なぜなら、その土地にはイスラエルの民よりも強く、大きな人々が住んでいたからです。

しかし、神様は言われました。

あなたが心のうちで、「これらの異邦の民は私よりも多い。どうして彼らを追い払うことができよう」と言うことがあれば、

彼らを恐れてはならない。あなたの神、がパロに、また全エジプトにされたことをよく覚えていなければならない。

あなたが自分の目で見たあの大きな試みと、しるしと、不思議と、力強い御手と、伸べられた腕、これをもって、あなたの神、は、あなたを連れ出された。

あなたの恐れているすべての国々の民に対しても、あなたの神、が同じようにされる。

あなたの神、はまた、くまばちを彼らのうちに送り、生き残っている者たちや隠れている者たちを、あなたの前から滅ぼされる。

彼らの前でおののいてはならない。あなたの神、、大いなる恐るべき神が、あなたのうちにおられるから。(申命記7:17-21)

つまり、「もちろん、その国々の人々は、あなたより強いですが、私は彼らより強いのです。

恐れることはありません。怯えることもありません。

以前、私がどのようにあなたを救ったかを思い起こしなさい。今でも、私はあなたを救います。私は大いなる恐るべき神であり、あなたの問題を解決します。」

そして、神様は言われたとおりにイスラエルの民を助けられました。

神様は私たちにも同じことを言われます。

私たちが大きな問題に直面して、どうすればいいか分からないと考えるときに、神様は言われます。

「もちろん、その問題はあなたより大きいですが、以前、私があなたのために何をしたか思い起こしなさい。私が大いなる恐るべき神であり、どんな問題があっても、あなたを助けることができることを思い起こし、私に信頼しなさい。」

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申命記

次の世代に伝えよう

私の教会では「Pass it On(次の世代に伝えよう)」という曲を歌っています。

その歌詞は以下の通りです:

すべての世代は
あなたの素晴らしい力と御業をその子供たちに伝えます。
彼らはあなたの忠実さと栄光についての話を伝えます。

そして、私たちは次の世代に、
あなたが怒るのにおそく、恵みに富んでおられることを伝えます。
それは、すべての人々が
あなたの御業を祝うためです。

あなたに栄光と誉れと賛美を捧げます。
私たちは一緒に次の世代にあなたの素晴らしい道を伝えます。

私は子供のミニストリーを約7年間行ってきたので、この箇所が本当に印象深く残っています。つまり、私たちは次の世代に神様についての知識を伝えなければなりません。

そうすることで、彼らも神様を知り、信仰を持つことができるようになるからです。

神様はイスラエルの民にそのように命じられました。

後になって、あなたの息子があなたに尋ねて、「私たちの神、が、あなたがたに命じられた、このさとしとおきてと定めとは、どういうことか」と言うなら、あなたは自分の息子にこう言いなさい。

「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。

は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、

私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。

それで、は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、を恐れるように命じられた。

それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

私たちの神、が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」(申命記6:20-25)

残念なことですが、イスラエルの民はそれをしませんでした。その結果、次の世代が成長したときに、偶像礼拝や他の罪に陥ってしまいました。(士師記2:10-13)

あなたはどうでしょうか。あなたの子供が神様を知るために、何を伝えていますか。私たちの神様についての知識や私たちの経験、そして神様が何をしてくださったかを、私たちの子供たちに伝えていますか。

その責任を他の人に渡すのは簡単です。特に日曜学校の先生たちにその責任を渡すのは簡単です。

何も言わずに、ただ私たちの子供がイエス・キリストを知ることを願うだけのこともあるでしょう。

先生は本当に大切な存在だと思います。しかし、神様は両親たちにその責任を命じられました。それは、神様から与えられた大切な責任です。

もし私たちがその責任を避けて、他の人たちに任せてしまったら、私たちの子供が神様から離れてしまうことに驚けるでしょうか。

ですから、神様から任された責任をしっかり果たして、私たちの子供たちに教えましょう。

神様について教えましょう。神様が私たちのために何をしてくださったのかを教えましょう。

そして、彼らがどのように神様との関係を持つことができるのかを教えましょう。

そうすれば、私たちの子供たちも神様を知る機会を得られるのです。

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一番大切な戒め

前回の記事で、私たちが神様の命令に従う理由についてお話ししました。けれども、振り返ってみると、私の答えはまだ不完全だったように感じます。

もちろん、一つの理由は、神様が私たちのために最善を望んでおられ、私たちが神様の命令に従うと祝福を受けることができる、という点です。

しかし、もう一つの重要な理由があります。そしてその理由こそ、私たちが神様の命令に従うことの基礎となるものです。

モーセはこう言いました。

聞きなさい。イスラエル。は私たちの神、はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。(申命記6:4ー5)

イエス様は「それは一番大切な戒めだ」と言われました。では、どうしてこれは一番大切な戒めなのでしょうか。それは、私たちが神様を愛すれば、自然と神様の戒めに従いたいと願うようになるからです。

例えば、カップルがお互いに愛し合っていると、相手を喜ばせたいと思い、それが決して重荷ではありません。むしろ、相手の反応を見て、心から喜びを感じるでしょう。

花やプレゼントを渡す時には、本当に楽しみになりますし、料理を作ったり、掃除をしたりすることも、(まあ、大抵の場合)重荷には感じないのです。

もし私たちの動機が愛であれば、自然に相手を喜ばせたいと願うものです。

神様との関係においても同じことが言えます。私たちが心から神様を愛しているなら、神様を喜ばせたいと願い、また、神様を傷つけたくないと思うのです。

私自身も時々、愛している人々を傷つけてしまうことがあります。それはわざとではなくても、結果的に傷つけてしまったということです。

けれども、相手の気持ちを知った時、自分の行動や態度を変えました。それは、相手を愛しているからこそ、もう傷つけたくないと思ったからです。

私たちが罪を犯す時、神様を傷つけてしまいます。だからこそ、本当に神様を愛しているならば、そのことに気づいた時には、そのような行動を避けたくなるはずです。

もちろん、私たちは「決して失敗しない」「決して罪を犯さない」とは言えません。なぜなら、私たちは皆、罪を犯す者だからです。

しかし、私たちにとって、「神様は私を赦してくださるから、罪を犯し続ける」という考え方は、余地がありません。

その態度は、まるで「妻は私を赦してくれるから、不倫をしてもいい」という考え方のようなものです。

もし私たちが妻を本当に愛しているならば、妻の気持ちを無視して不倫をすることは、決してできないはずです。

同じように、私たちが本当に神様を愛しているならば、神様の気持ちを無視して罪を犯すことはできません。

では、どうして私たちは神様に従うのでしょうか。

その一番大切な理由は、私たちが神様を愛しているからです。

イエス様はこう言われました。

わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。(ヨハネ14:21)

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どうして神様に従うべきですか?

去年、私の娘は、いつも何かを指さして「これは何ですか?」と尋ねていました。

私は英語の言葉を教え、妻は日本語の言葉を教えました。娘がバイリンガルになることを望んでいるからです。

けれども、娘が「どうして」と尋ね始めることを、まったく楽しみにしていません。

「これは何?」という質問は、「どうして?」という質問に比べて答えやすいです。

「どうして?」という質問に答えるのは、時々少し面倒に感じることもあります。

やがて、娘は私たちのルールの理由を知りたいと思うようになるかもしれません。そして、いつも「どうして?どうして?」と尋ね続けるかもしれません。

そのような時、「私がそう言ったから」という答えが最も簡単に感じるかもしれません。

けれども、神様はそうなさらないのです。

この箇所で、モーセはイスラエルの民に神様の命令について話しました。

その際、神様はその命令の理由についても伝えられました。

神様はこう言われました。

どうか、彼らの心がこのようであって、いつまでも、わたしを恐れ、わたしのすべての命令を守るように。そうして、彼らも、その子孫も、永久にしあわせになるように。(申命記5:29)

後で、モーセはイスラエル人に言いました。

あなたがたは、あなたがたの神、が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、が命じられたすべての道を歩まなければならない。

あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。(32ー33節)

神様は決してご自分勝手な規則を設けられることはないのです。

また、理由のない命令を与えられることもないのです。

むしろ、神様の最大の望みは、私たちの人生がうまくいくことであり、私たちがいつもしあわせに生きることなのです。

時には、神様がある命令を与えられる理由がわかりにくいことがあります。

しかし、神様に従うなら、最終的に私たちの人生は良い方向へ導かれます。

今はその理由がわからないかもしれませんが、後になって理解できることもあるでしょう。

ですから、「どうして」と問いかけたい時には、その理由を思い出してください。

それは、神様が私たちを愛し、私たちのために最善を望んでおられるからです。

それを信じますか?

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信仰の出発点

私にとって、この箇所の言葉は非常に印象的です。

きょう、あなたは、上は天、下は地において、だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心を留めなさい。(申命記4:39)

これは、信仰の出発点なのです。

この言葉を告白すること自体で信仰が完全になるわけではありませんが、その告白こそが信仰の始まりなのです。つまり、神様が存在することを認め、告白することが、信仰の第一歩となります。

ヘブル書11章6節にはこうあります。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

これが信仰の出発点ですが、神様が存在することを信じるだけでは十分ではありません。他に神がいないことを信じる必要があります。

仏陀が神であると信じてはいけません。アッラーが神様の名前だと信じてもいけません。

私たちは、神様がご自身をどのように表されたのかをそのまま信じなければならないのです。

皆さんは、象と盲人たちの話を聞いたことがあるかもしれません。

ある盲人は象の鼻に触れて、「象は蛇のようだ」と言いました。

もう一人の盲人は象の足に触れて、「いいえ、違います。象は木の幹のようだ」と言いました。

全ての盲人は象の異なる部分に触ったため、それぞれ異なる意見を持ちました。

この話が伝える教訓は、盲人たちはそれぞれ少しずつ正しかったものの、最終的には誤った結論に至ったということです。彼らは真実を部分的に理解しましたが、完全には理解できませんでした。

宗教もこれと似ています。

すべての宗教は神様についての真実を部分的に知っていますが、異なる視点や考え方を持っています。

すべての宗教が少し正しい一方で少し間違っているという点では似ていますが、同じ神様について教えようとしています。

しかし、この話には問題があります。

その盲人たちが誤った理由は、象が話せなかったことにあります。象は、「違う、違う。あなたたちは間違っています。私はこういう動物です」と言うことができませんでした。

ですが、神様はイスラエルの民にご自身を表してくださいました。彼らは推測する必要がありませんでした。

神様はこう言われました。

さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。

神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

あるいは、あなたがたの神、が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

あなたにこのことが示されたのは、だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

主はあなたを訓練するため、天から御声を聞かせ、地の上では、大きい火を見させた。その火の中からあなたは、みことばを聞いた。

主は、あなたの先祖たちを愛して、その後の子孫を選んでおられたので、主ご自身が大いなる力をもって、あなたをエジプトから連れ出した。

それはあなたよりも大きく、強い国々を、あなたの前から追い払い、あなたを彼らの地に入らせ、これを相続地としてあなたに与えるためであった。今日のとおりである。(申命記4:32-38)

神様がご自身を表されたので、イスラエルの民には言い訳ができませんでした。神様ははっきりとご自身を説明されました。

そのため、神様はこう言われました。「私だけが神であり、ほかに神はないことを認めなさい。」

神様は私たちにも同じことを言われます。

「私を信じない理由はありません。 あなたが私について間違ったイメージを持つ理由もありません。私は聖書の中でご自身を表しましたのです。」

私たちが自分自身に問わなければならないのは、神様を信じるかどうかということです。

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私たちを決して見捨てない神

「私は、あまり良いクリスチャンではありません。何度も失敗してしまいます。神様は私をあきらめられるのでしょうか。神様は私を捨ててしまわれるのでしょうか。」

このような質問をするクリスチャンはたくさんいます。

さらに、彼らは問いを投げかけます。

「私は大きな失敗をしました。 自分の道を進んで神様から離れてしまい、人生は混乱してしまいました。 神様はもう一度私を受け入れてくださるでしょうか。 私を赦してくださるでしょうか。」

この箇所で、その答えが見つかると思います。

神様はイスラエルの民に警告を与えられたのです。それは、彼らが神様に背を向けて偶像礼拝を始めた場合に何が起こるかについてでした。つまり、彼らは追放されるのです。

神様はこう言われました:

「見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕えることになる」(申命記4:28)。

イスラエルの民はやがて、その神々が無力であることを理解するようになります。なぜなら、その神々はイスラエルの民を助けることができないからです。

しかし、29~31節で、神様はこう言われました。

そこから、あなたがたは、あなたの神、を慕い求め、主に会う。あなたが、心を尽くし、精神を尽くして切に求めるようになるからである。

あなたの苦しみのうちにあって、これらすべてのことが後の日に、あなたに臨むなら、あなたは、あなたの神、に立ち返り、御声に聞き従うのである。

あなたの神、は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。  

パウロもこう記しました。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(第二テモテ2:13)

神様はイスラエルの民に約束されました。

あなたたちは私の民となり、私はあなたの神となる。(レビ記26:12)。

イスラエルの民が何度も神様に背を向けたとしても、神様はいつも彼らが戻るのを待っておられました。そして、彼らが戻ってきた時、神様はいつも喜んで受け入れられました。

神様は私たちに対しても同じようにされます。私たちが大きく失敗しても、また人生がどれほどめちゃくちゃになったとしても、神様は待っておられるのです。

そして、心と精神を尽くして神様を求めるなら、神様を見いだすことができるのです。

あなたは失敗したと感じていますか。あなたの人生は混乱しているでしょうか。神様に向き直ってください。神様は、あなたを待っておられるからです。

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知恵と悟り

この世界の人々が私たちを見る時、何を見ているのでしょうか。

彼らが困難に陥った時、またはアドバイスが必要な時に、私たちのところに来るでしょうか。

私たちを見て、神様の近くにいる人々だと感じるでしょうか。神様の知恵と悟りに満ちた人々だと思うでしょうか。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

これを守り行いなさい。

そうすれば、それは国々の民に、あなたがたの知恵と悟りを示すことになり、これらすべてのおきてを聞く彼らは、「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うであろう。

まことに、私たちの神、は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。

このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。(申命記4:6ー7節)

知恵と悟りに満ちた人々になりたいのであれば、神様の近くにいること、そして神様の言葉に従うことが必要です。

周りの人々が私たちを見る時、彼らは正義、知恵、悟りに満ちた人生を見るはずです。

そして、そのような人生を見ることで、私たちに近づきたいと思うでしょう。それは、彼らがそのような人生を持っていないからです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生にはそのような特徴があるでしょうか。

私自身を振り返ると、まだまだ欠けている部分が多いと感じます。多くの場合、私は光になることができず、周りの人々にただ溶け込んでしまいます。

しかし、神様は私たちが光となることを望んでおられます。

イエス様はこう言われました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:16)

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神様の言葉に付け加えず、神様の言葉を取り除かない

ハワイにいた時、私は子供のミニストリーに参加していました。それは本当に楽しいものでした。けれども、最終的には燃え尽きるように感じてしまいました。

少し大変だったので、一度休憩を取り、その後リフレッシュされて、また大丈夫になりました。ところが翌年、再び疲れるようになり、休憩をとってもリフレッシュできませんでした。

それでも、ミニストリーを辞めることを考えると、私は罪悪感を覚えました。

子供たちのために責任を感じていましたし、私の代わりにミニストリーを担う人がいるのかと心配していました。

しかし、最終的には辞めなければならなかったのです。

その時、私は大切なことを学びました。それは、神様の御心に関して、神様の言葉に何かを付け加えることも、神様の言葉から何かを取り除くこともしてはいけない、ということです。

神様は私が日本に引っ越すことを望んでおられたので、子供のミニストリーに対する召しは終わっていました。

けれども、私は日本に行きたくありませんでした。その上、神様が私に子供のミニストリーを続けるための恵みを与えておられなかったのに、私はそれを続けてしまいました。

その結果、私は燃え尽きてしまいました。

この聖書の箇所を読んだ時、その経験を思い出しました。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。

私があなたがたに命じる、あなたがたの神、の命令を、守らなければならない。(2節)

この箇所で、モーセは神様からの律法について語りました。しかし、クリスチャンにとっても、その原則は同じです。

もし神様の命令に従わなければ、それは不服従になります。例えば、私が日本に行くという神様の召しを拒絶した時、それは不服従でした。

また、神様が命令された以上に何かをすることも良くありません。そうすれば、神様が私たちに負わせたくない重荷を、自ら負うことになってしまいます。

例えば、神様が私を子供のミニストリーに召された時、それは私にとって全く重荷ではありませんでした。本当に楽しいものでした。

けれども、その召しが終わった後も、私はそのミニストリーを続けてしまいました。その結果、それは負い切れない重荷になってしまったのです。

これはミニストリーに限らず、どの神様の命令にも当てはまる原則です。

例えば、パリサイ人と律法学者たちは、神様の律法に命じられていないことを付け加えました。その教えによって、彼らはイスラエルの民に重荷を負わせたのです。

その重荷は負い切れないものでしたし、神様もそれを望んではおられませんでした。

だからこそ、イエス様はパリサイ人と律法学者たちにこう言われました。

律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 (ルカ11:46)

あなたはどうでしょうか。

あなたの人生で、神様の言葉から何かを取り除いてしまうことはありませんか。また、神様の命令に従わないことはありませんか。

それがもし当てはまるならば、それは罪を犯していることです。そして、悔い改め、神様の言葉に従い始めるべきです。

あなたは、神様の言葉に付け加えていることはないでしょうか。神様が求めておられる以上のことを、自分で進んでしてはいないでしょうか。

それをしてしまうと、燃え尽きてしまうかもしれません。なぜなら、あなたは神様が与えていない重荷を自分で負っているからです。

神様の言葉を取り除かないようにしましょう。

そして、神様の言葉に付け加えることもしないようにしましょう。むしろ、神様が命じた通りに生きるようにしましょう。

そうするならば、神様があなたのために計画された人生と、その中にある喜びを見つけることができるでしょう。

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神様が「ノー」と答えられる時に

私の父は一年前に亡くなりました。その後、家族みんなで父のことを思い出して、いろいろな話をしました。

2003年、父は事故にあって目が見えなくなりました。その後、父と話した時に、こう言いました。

神様と話し始めましたが、私だけが話していたため、神様の声を聞くことができませんでした。

そして、この聖書の箇所を思い出しました。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」

そのため、私は静かに黙り、神様の声を聞き始めました。そして、

その日曜日の晩に、神様の声を聞くことができました。

次の朝、私は聞いたことをリアン(私の母)に伝えました。それは、皆が奇跡のために祈っていること、つまり、私の目が見えるようになるように祈っていることです。

けれども、神様は私にこう言われました。

「私はその奇跡を行うことができる。しかし、そうはしない。

むしろ、もっと素晴らしい賜物を与えよう。愛と情けと哀れみに満ちた心を与えるのです。」

父が亡くなるまで、目が癒されることはありませんでした。けれども、神様が約束された通り、父は新しい心を与えていただきました。

この箇所では、モーセも神様から「ノー」の答えを聞く経験をしました。

メリバという場所で罪を犯したために、神様はモーセにこう言われました。「あなたは私が約束した土地に入ることはできません。」(民数記20章)

それでも、モーセは神様に懇願しました。「どうか、あなたが約束された土地に私を入らせてください。」

ところが、神様は答えられました。「もう十分です。この件について、もう二度と私に言ってはなりません。」(申命記3:26)

モーセはどのように反応したのでしょうか。彼は拗ねたり、文句を言ったり、「それなら、あなたにはもう従わない」と口にしたりしたのでしょうか?

むしろ、彼は忠実に神様に仕え続けました。

そして、次のイスラエルのリーダーとなるヨシュアを訓練しました。

「もし十分な信仰があれば、あなたが神様に何かを願う時、神様は必ず『イエス』と答えなければならない」と教える人がいるのです。

しかし、この箇所では、神様がその意見に反論しています。

時として、神様はご自身の理由によって、私たちの願いを拒否されます。

モーセの場合は、彼の罪のゆえに神様がその願いを拒絶されました。

一方で、私の父の場合は、神様がさらに素晴らしい奇跡を行おうとされたのです。

それは、新しい心を与えることでした。

私たちが自分に問いかけるべきことは、「神様がノーと答えられた時、私はどう反応するだろうか」ということです。

私は、モーセと私の父のように反応したいと思います。

この二人は、とても失望したことでしょう。

私の父は、目が見えるようになりたいと願っていました。

モーセは、神様が約束した土地に入りたいと願っていました。

けれども


、神様がノーと答えたとしても、彼らは神様に忠実に仕え続けました。

神様、モーセの話を感謝します。

また、私の父の話を感謝します。

どうして時にはあなたが「ノー」と答えられるのか、私は分かりません。それでも、あなたの方法が最善であることを信じます。

あなたが「イエス」と言われても「ノー」と言われても、私が常に忠実に仕え続けることができるように助けてください。アーメン。

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あなたはもう到達した?

この記事は一年前に英語で書きました。その時、私の父が亡くなり、父のためにこの記事を書いたのです。

最近、クロスロード教会のメンバーであるキャサリン・ベントンも亡くなりました。ですから、キャサリンのことも覚えて、この記事を書いています。

神様の御下で完全にされたキャサリンと私の父に、また会える日が来るのです。

前のブログでこの話について触れましたが、この箇所を読むと、もう一つ心に残ることがあります。

それは、モーセがルベン人、ガド人、そしてマナセの半部族にヨルダンの東側の土地を与えたということです。

つまり、これら三つの部族の人々には、神様が約束された土地の外に住むことが許されたのです。 しかし、モーセは彼らに命じました。

あなたがたの神、は、あなたがたがこの地を所有するように、あなたがたに与えられた。

しかし、勇士たちはみな武装して、同族、イスラエル人の先に立って渡って行かなければならない。。。

があなたがたと同じように、あなたがたの同族に安住の地を与え、彼らもまた、ヨルダンの向こうで、あなたがたの神、が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、そのとき、あなたがたは、おのおの私が与えた自分の所有地に帰ることができる。  (申命記3:18、20)

その三つの部族の人々はすでに到達し、自分たちの土地を見つけました。彼らは安住の地を与えられたのです。

けれども、彼らの使命はまだ終わっていませんでした。神様は「まだ辿り着いていない人々を助けなさい」と命じられまたのです。

そして、神様は私たちにも同じ命令を与えておられます。

もちろん、私たちの中で本当に辿り着いた人は誰もいません。私たちは皆、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(ピリピ3:14)。

とはいえ、もしかすると、あなたは他の人よりキリストとの歩みにおいて、少し先を進んでいるかもしれません。

例えば、あなたの経験を通して、人生の戦いの中でどのように勝利を得るかを学んだかもしれません。だからこそ、神様は私たちに、他の人が勝利を得られるよう助けることを望んでおられるのです。

この箇所において、もう一つ興味深い点があります。それは、モーセが「もう着いた」人々に、ただ他のイスラエルの民と一緒に進みなさいと言ったのではないことです。

むしろ、彼らは他のイスラエルの民の先頭に立ち、その道をリードし、準備しなければならなかったのです。

私たちも、キリストにある兄弟姉妹たちのために、同じようにすべきです。

では、どのように助けるべきでしょうか。それは、私たちが学んだことを教えること、私たちの経験を共有すること、彼らのために祈ること、彼らが戦う時に隣に立って一緒に戦うことです。

あなたはもう到達したと思っていますか。クリスチャンとしてすでに成熟していると思いますか。

パウロがピリピ3章で語ったように、この世に生きるクリスチャンの中で、誰も完全には辿り着いていません。

だからこそ、イエス様に召されたように、私たちは目標を目指して一心に走り続けるべきなのです。

そして、もしある程度すでに辿り着いているなら、兄弟姉妹たちがそこまで辿り着けるように助けましょう。

私たちが歩んできた道を示しましょう。つまり、私たちが落ちた落とし穴について彼らに警告し、神様が示された勝利への道を教えましょう。

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不可能だと思うとき

時々、私たちは勝てないと思える戦いに直面することがあります。

それは辛い結婚かもしれません。

罪との戦いかもしれません。

あるいは健康の問題や経済的な問題かもしれません。

イスラエルの民がバシャンの王オグとその軍隊に対して戦った時、おそらく彼らは「この戦いに勝つのは不可能だ」と思ったかもしれません。

バシャンには60の都市があり、それらは高い城壁と門、そして頑丈なかんぬきで守られた要塞でした。そして、オグとその軍隊はイスラエルの民を迎え撃つために出てきました。

しかし、神様はこう言われました。

彼を恐れてはならない。わたしは、彼と、そのすべての民と、その地とを、あなたの手に渡している。(申命記3:2)

そして、イスラエルの民はその軍隊を打ち負かしました。

この箇所から、私は2つのことを学ぶことができます。

一つ目は、もし神様が私たちの味方であるならば、どんな圧倒的な確率も乗り越えることができる、ということです。勝てないと思える戦いでも、勝利が可能になるのです。

二つ目は、過去に神様が何をしてくださったのかを覚えておくことの大切さです。

神様はこう言われました。

あなたはエシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンにしたように、彼にしなければならない。(2節)

つまり、「王シホンを覚えていますか。彼の軍隊が敗れたではないですか。そのように、オグとその軍隊も私によって敗れるでしょう。だから、大胆に出て行って戦いなさい。必ず勝利するのです。」

あなたには、どのような戦いがありますか。それは不可能だと思えるものですか。

もし神様があなたの味方であるなら、どんな圧倒的な確率でも乗り越えられることを覚えておきましょう。

そして、神様が過去に与えてくださった勝利を思い出しましょう。

それによって、未来に直面するとき、また、大きな山を目の前にしたとき、きっと勇気を与えられるのです。

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神様が与えてくださったもので満足する

時々、私はもっと物が欲しくなることがあります。例えば、大きなテレビやI-padが欲しいと思うことがあります。

けれども、この箇所を読むときに特に心に残るのは、私たちは神様が与えてくださったもので満足するべきだ、ということです。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

「あなたがたを恐れる国々がいる。しかし、彼らのものを取るな。なぜなら、私はそれをその人々に与えたからだ。私は彼らの土地を少しもあなたがたに与えるつもりはない。」

なぜ、神様は「満足するべきだ」と言われたのでしょうか。

その理由は7節に記されています。

事実、あなたの神、は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。

あなたの神、は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。(申命記2章:7)

つまり、神様はあなたをすでに祝福してくださったのです。あなたを守り、すべてを満たしてくださいました。だから、他の人のものを貪ってはいけません。

この言葉は、ヘブル人への手紙の著者が語った言葉に似ています。

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。

主ご自身がこう言われるのです。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなた を捨てない。」

そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。(13:5ー6)

神様が私たちの味方であり、さらに私たちの必要を満たしてくださるのであれば、他に何が必要でしょうか。

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申命記

出発時間

私が出席する教会は8年前に始まりました。その8年間で、私たちは12人のチーム(子供3人を含む)から150人の教会へと成長しました。

私たちはずっと同じ場所で集まり、さまざまなミニストリーを行うために、徐々により多くの部屋を借りなければならなくなりました。

けれども、もうすぐ、このビルは私たちの教会には小さすぎるようになります。それは良い問題ではありますが、やはり問題でもあります。だから、神様は私たちのために新しい場所を準備してくださっているのだと思います。

この箇所を読むとき、私は自分の教会のことを考えます。神様はイスラエルの民にこう言われました。

あなたがたはこの山に長くとどまっていた。。。

見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。

行け。その地を所有せよ。これは、が。。。与えると言われた地である。(申命記 1:6、8節)

この箇所で、神様はイスラエルの民にホレブを立ち去り、神様が約束された土地へ行きなさいと命じておられました。ホレブでは、イスラエルの民は神様について多くを学びました。そこでは、モーセが初めて神様に出会いました。

その後、モーセは十戒を授かり、その命令をイスラエルの民に伝えました。さらに、ホレブではイスラエルの民は神様の臨在を直接経験しました。

しかし、今神様はこう言われました。

「出発の時間です。立ちなさい。行きなさい。私はあなたがたのために場所を整えました。その場所を所有しなさい。」

イスラエルの民はホレブで長い間文句を言っていたので、出発することに少なからず喜びを感じたかもしれません。

ところが、神様が約束された土地に入る時間が来ると、彼らは自分の恐れによってその地に入ることを拒んでしまいました。神様がその土地を与えると約束されていたのにもかかわらず、また神様が共にいると約束されていたのにもかかわらずです。

その結果、反抗的な世代が死に絶えるまで、イスラエルの民は砂漠をさ迷わなければなりませんでした。

私たちはこの箇所から何を学べるでしょうか。

いつか、神様はあなたに「出発の時間です」と言われるかもしれません。

私の教会にとっては、きっとその時が来たのだと思います。

私自身にとっては、その時は17年前でした。神様は私に「日本へ行きなさい」と言われました。

私の牧師にとっては、その時は8年前でした。神様はこう言われました。「あなたの教会を出て、新しい教会を始めなさい。」

しかし、その決断は時には恐ろしいものです。信仰によって一歩を踏み出すことは、時に難しいものです。

では、神様が「出発の時間です」と言われた時、あなたはどうしますか。

信仰によって進むでしょうか。

それとも、現在の場所に留まり続けるだけでしょうか。

私自身にとって、それは戦いでした。そして、今でも私は次の一歩が何であるかを考え続けています。まだ分かりません。

私が知っているのは、神様の御声を聞かなければならないということです。そして、もし神様が「出発の時間です」と言われるなら、私はその時に従わなければならないのです。

私たちは皆、そうするべきです。では、あなたはどうでしょうか。神様に従うために、今出発する必要があるでしょうか。