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申命記のデボーション

あなたの御声が聞こえるように

まことに、あなたはもろもろの民を愛する方、 御手のうちにすべての聖なる者がいる。 彼らはあなたの足もとにひれ伏し、 あなたの御告げを受ける。(申命記33:3)

天のお父さん、あなたの御言葉は空虚なものではありません。それらは私のいのちです。

どうか、私があなたの御言葉一つ一つを心にとどめることができるよう助けてください。(申命記32:46ー47)

あなたの御教えは雨のように私の目と心に降り注ぎ、あなたの御言葉は露のように滴るようにしてください。若草の上の小雨のように、青草の上の夕立のように。(32:2)

あなたが私を愛してくださることを信じます。私はあなたの御手のうちにいます。

だから、私はあなたのみもとに来て座ります。そして、あなたから私への御言葉を受け取ります。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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誰について行っているの?

私は今日、百二十歳だ。もう出入りすることができない。。。

あなたの神、主ご自身があなたに先立って渡って行き、この方があなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領する。(申命記31:2-3)

あなたの信仰は誰に基づいているのでしょうか。あなたの牧師ですか。お友達ですか。それとも他の教会のリーダーでしょうか。

いつか、その人たちがもはやあなたを支えることができなくなるでしょう。そのとき、あなたの信仰はどうなるのでしょうか。

私は、あなたが神様に完全に目を留め、従うことを願っています。

また、あなたが強くあり、雄々しくあり、神様が導かれる所にはどこでもついて行けるように祈っています。

神様ご自身も、それを望んでおられます。だから、今、そのような信仰を持つことを学びましょう。

自分自身を霊的に養うために、聖書を読み、祈り、神の御声に耳を傾け、神を恐れ、そして神に従うことを身につけていきましょう。

あなたはどうでしょうか。

そのようなことを学び、実践しているでしょうか。

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命を選びなさい

私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。

まことにこの方こそあなたのいのちで(す)(申命記30:19ー20)

最近、私は私たちの神様との関係について考えていました。その時、鉢植えの花と切り花の違いに思いを巡らしました。

両方とも美しいですが、切り花は実際にはすでに死んだものです。なぜなら、命の源から切り離されているからです。

根元から切り離されたことで、その花はある意味で呪われた存在ともいえます。

私たちの神様との関係も同じです。

神様から切り離されると、私たちは呪われた存在となります。私たちはすでに死んだ者です。

しかし、神様につながり、日々命をいただくならば、私たちは栄えるのです。

では、私たちはどのようにして神様につながることができるでしょうか。

パウロは申命記30章を引用しながら、イエス様を指して、私たちがイエス様を信じ、自分の主とするように促します。(ローマ10:6-13)

ですから、命を選びましょう。

イエス様を選び、毎日愛し、御声に聞き従い、そしてすがりましょう。

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神様の目には忌むべきもの。私たちの目には忌むべきもの?

また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。(申命記29:17)

日本では、偶像や仏壇を見ることに慣れるのは簡単なことです。

しかし、上記の言葉を読んだときに、神様がそのようなものに決して慣れることはなさらないと改めて思い出しました。

モーセの時代でも、私たちの時代でも、神様の目には、それらの偶像や仏壇は忌むべきものです。

そのとき、ふと、神様が忌み嫌うものにはほかに何があるのだろうと考えました。そして、私はそれらにも慣れてしまっているのではないかと自問しました。

最初に思い浮かんだのは、アマゾンプライムのビデオのことです。

もちろん、すべてのビデオが悪いわけではありません。けれども、確かに、10~20年前であれば「それは忌むべきものだ」と感じていたようなビデオもあります。

ところが、今では「この世はそういうものだろう」という態度を取るのは簡単なことです。

しかし、神様の態度は決して変わりません。神様にとって、それらは今もなお忌むべきものなのです。

だからこそ、私たちも同じように考えるべきです。

そこで、私は次のように祈りました。

天のお父さん、どうか私があなたが忌み嫌うものに慣れることがありませんように。私があなたのように考える者となれますように。

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イエス様に聞き従わなければなりません!

あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。

あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(申命記18:15)

ペテロによれば、モーセはイエス様を指していました。(使徒の働き3:19-26)

もしかすると、ペテロは自分、ヤコブ、ヨハネに対する天の父の戒めを思い出していたのかもしれません。

これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。(マルコ9:7)

正直に言うと、私はまだイエス様の言われることに耳を傾けることを学んでいる途中です。

しかし、キリストの弟子として、私たちはこの世の流れに単に従うべきではありません。

モーセもイスラエル人たちに同じような警告を与えました。(申命記18:9-14)

むしろ、私たちはイエス様に聞き従わなければなりません。

日々の生活で決断をするとき、あなたは誰に聞き従っていますか。

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私たちの中にある悪を除き去る

「あなたがたの中からその悪い者(別訳:悪)を除き去りなさい。」(申命記17:7)

神様はイスラエル人たちにこの言葉を二度言われました。最初は偶像礼拝に関して、次に不遜な罪について言われました。

イスラエル人にとって「除き去る」とは「殺す」を意味しました。しかし、新約聖書の時代には「除き去る」とは「教会から追い出す」を意味しました。(第一コリント5:13)

今日、神様が私に思い起こさせたのは、私自身の中にある罪を除き去らなければならないということです。

パウロの言葉を借りれば、罪を殺してしまわなければなりません。(コロサイ3:5ー10)

私の罪を軽んじるべきではありません。私は神様や神様の民からの訓戒や指導を傲慢に無視してはなりません。

むしろ、神様とその民の助けによって、私はその罪を取り除かなければなりません。

そこで私はこのように祈りました。

天のお父さん、私が決して自分の罪を軽んじないように。その罪を取り去ることができるように助けてください。

私の人生には、あなたのみ言葉が清めの火となるように。そして、あなたのみ言葉を通して、私がすべてにおいてあなたを恐れ、従うように助けてください。

私はエジプト、つまり私の古い生活に決して戻らないように。

その道は死に至るものです。でも、あなたの道は命へと導きます。

あなたはいのちであり、良い方です。だから私のすべての行動において、私があなたを愛し、敬うことができるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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あなたのようになれるように

天のお父さん、あなたが私に対して心を頑なにされることも、御手を閉ざされることもありません。(申命記15:7)

また、あなたが与えてくださるとき、物惜しみをされることもありません。(10節)

それどころか、あなたは御手を開かれ、気前よく与えてくださいます。(11節)

さらに、2000年前、十字架であなたは負債の免除を布告し、私の罪を赦してくださいました。(申命記15:2;コロサイ2:13-14)

だから、私も周囲の人々に対してあなたのようになれるよう助けてください。つまり、私がいつも手を開き、気前よく、また私に対する相手の罪を赦せるように助けてください。

私はまだまだそのような人にはなれていません。しかし、あなたのようになりたいのです。

どうか私があなたのようになれるよう助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちが神の子供たちだから

あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。。。

あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。(申命記14:1ー2)

それらが素晴らしい言葉ですね。

その言葉はイスラエル人たちに語られましたが、今は私たちにも語られています。(第一ペテロ2:9ー10)

では、私たちはどのように反応するべきでしょうか。

神様が聖でおられるように、私たちも聖なる者でなければなりません。

イスラエル人たちにとっては、周りの国の宗教的な儀式を避けなければなりませんでした。(1、21節)

また、彼らは食事制限を守らなければなりませんでした。(3ー21節)

もしかすると、その食事制限を通して、毎日神様はイスラエル人たちに思い出させてくださったのかもしれません。

「人は肉体的な食べ物だけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるのです」(申命記8:3)

私たちにはその食事制限を守る必要はありません。(マルコ7:14ー19)

しかし、神様は私たちが聖なる者となることをなおも望んでおられます。

私たちが神様の真似をするように望んでおられます。

だからこそ、何を食べるかに注意するのではなく、心の中にあるものに注意しなければなりません。(マルコ7:20ー23)

では、聖なる者となる動機は何でしょうか。

神様を感動させるためでしょうか。

私たちが神様の受け入れにふさわしいことを証明するためでしょうか。

違います。神様は私たちをすでに受け入れてくださいました。そして、神の子供たちとして、私たちは神の宝の民です。

では、なぜ聖なる者となろうとするのでしょうか。

私たちは天のお父さんのようになりたいのです。

それはあなたの心でしょうか。

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神様を喜ばせる礼拝

申命記12章で神様がイスラエルの人々に教えようとされたのは、彼らが自分自身の方法ではなく、神様の方法に従って礼拝しなければならないということです。

彼らは神様が命じられたとおりに礼拝しなければならなかったのです。

私たちの神様との契約はイスラエル人たちの契約とは異なりますが、新しい契約の下でも、私たちは自分自身が好きなような方法で神様を礼拝することはできません。

イエス様によれば、私たちは霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23ー24)

それは、ただ宗教的な儀式を行うことや賛美をすることではありません。

霊によって礼拝するとは、神様が私たちの心を完全に持っておられることを意味します。私たちの人生、行動、言葉のすべてが神様に対する礼拝となるのです。(ローマ12:1)

さらに、霊によって礼拝するためには、まことによっても礼拝しなければなりません。

神様を喜ばれるため、また私たちの人生が神様への礼拝となるため、私たちは神様のまことによって生きるべきです。

私たちは自分の真理を作ることはできません。

私たちは神様の言葉の中で、何を受け入れるか、何を受け入れないかを勝手に選ぶことはできません。

それは、自分自身の方法で礼拝することに他なりません。そのような「礼拝」は神様を喜ばれません。

あなたはどうですか。

神様の方法に従って礼拝していますか。

霊とまことによって礼拝していますか。

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心の包皮に割礼を施す

主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。

あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者(脚注:すなわち、強情なもの)であってはならない。(申命記10:15ー16)

「心の包皮に割礼を施しなさい。」

それはいったいどういう意味でしょうか。

割礼とは、イスラエルの男性たちに行われた儀式です。それは、彼らが神様の民であることを証明したものでした。

しかし、割礼を受けても、多くのイスラエル人の心はまだ割礼されていないものでした。

つまり、彼らの心は神様のものではなかったということです。むしろ、彼らは古い考え方と古い生活にしがみつきました。それらは、神様との関係を妨げるものとなりました。

私は最近、教会のメッセージでアブラムについて話しました。アブラムもイスラエル人と同じ問題を抱えていました。

自分の心が完全に神様のものになるため、彼は古い考え方や古い生活を切り捨てなければなりませんでした。(創世記12章)

神様はアブラムを慕って愛されたように、私たちを慕って愛してくださいます。けれども、私たちはそれを本当に信じているでしょうか。

もしそう信じるのであれば、神様を完全に信じ、従うことを妨げるものを考えましょう。

神様の助けによって、また他のクリスチャンたちの助けによって、そのものを切り捨てましょう。

そうすれば、私たちは心を尽くし、命を尽くして、神様を愛し、神様を喜ばれる道を歩むことができます。(12節)

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私たちの家に持ち込むもの

忌み嫌うべきものをあなたの家に持ち込んで、あなたもそれと同じように聖絶されたものとなってはならない。それをあくまで忌むべきものとし、あくまで忌み嫌わなければならない。

それは聖絶の物だからである。(申命記7:26)

私はその言葉に心を打たれました。

私は自分の家に忌み嫌うべきものをどれほど持ち込むことがあるでしょうか。

私には、インターネットで見たものに注意しなければなりません。また、私が読むものや聞くポッドキャストにも注意を払うべきです。

神様は昨日私が聞いたポッドキャストを思い出させてくださいました。

そのポッドキャストの内容は大体大丈夫だったけど、5分ほど、ポッドキャスターたちはいろんな下品な冗談を言い始めました。

私は全く笑わなかったけど、なぜか、早送りしたり、聞くのを止めたりしませんでした。

それは、神様がその冗談をどれほど嫌われたかを全く考えていなかったからでしょう。

この先、私は早送りしたり止めたりしなければならないでしょう。なぜなら、神様が意味嫌われるものを私も忌み嫌わなければならないからです。そして、それらのものは滅ぼされると定められているからです。

私たちは主の聖なる民です。

神様は私たちを選んで、ご自身の宝の民としてくださったのです。(6)

だから、感謝を持って、神の民として生き、自分の家に神様が忌み嫌われるものを持ち込まないようにしましょう。

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導き入られるため、導き出された

私たちをそこから導き出された。それは、私たちの父祖たちに誓われた地に私たちを導き入れ、その地を私たちに与えるためであった。(申命記6:23)

今朝、私は上記の言葉に思いを巡らしていました。

神様がイスラエル人たちをエジプトの奴隷生活から導き出してくださったように、私たちもサタンの国の罪の奴隷生活から導き出してくださいました。

しかし、神様は私たちが自ら放浪することを望んでおられるわけではありません。神様と共に歩み、真の命と平和を知るために、私たちをご自身の御国に導き入れるように望んでおられます。

けれども、私たちがそれを願うなら、エジプトを離れなければなりません。

つまり、私たちの古い考え方や生き方を手放さなければならないということです。

そして、神様の御心を抱き、神様の御考えを受け入れる必要があります。

神の御言葉が私たちの心、頭、手に触れることを願って求めなければなりません。

そのため、私はどのような古い考え方や生き方を捨てなければならないのかを考えていました。また、どのような新しい考え方や生き方を受け入れなければならないのかを考えていました。

神様はあなたに何を語っておられるでしょうか。

神様が私たちを導き出してくださいました。神様が私たちを新しい命へ導いてくださるよう、祈り求めましょう。

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 私のすべて

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。

右にも左にもそれてはならない。 あなたがたの神、主が命じられた道をあくまで歩み続けなければならない。

あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(申命記5:32ー33)

天のお父さん、あなたの御言葉は命です。ですから、どうか私がその御言葉から右にも左にもそれないように助けてください。

私が古い考え方を手放し、あなたの戒めの全体に従うように助けてください。

その一部ではなく、一部さえを除かずに全体に従うように助けてください。

どうかあなたを恐れる心を与えてください。あなたを敬う心を与えてください。

私のすべてをあなたに捧げたいのです。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」