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神の知恵を尊ぶ

今日の箇所を読むとき、私たちはよく理想的な妻について考えます。

でも今日、私に思い浮かんだのは箴言8ー9章で、知恵が女性に擬人化されていることです。

残念なことですが、なぜか、新改訳では私たちはその描写を見ることができません。

とにかく、理想的な妻に関する言葉の多くは、知恵に関しても以前に箴言で書かれていました。

例えば、知恵は真珠よりもはるかに尊いものです。(箴言3:13ー15;31:10)

また、知恵は主を恐れることで特徴つけられています。(箴言9:10;31:30)

知恵は、努力や(箴言6:6ー11;31:13ー19)、気前が良い態度や(箴言11:24ー25、31:20)、未来に関する安心で特徴つけられています。(箴言24:14;31:25)

最後に、知恵は自分の言葉で自分自身を表現します。(箴言8:6ー9、14;10:11ー13、20ー21;31:26)

だから、私たち皆が、(女性でも、男性でも)箴言にある知恵を実践し、神様の知恵で特徴づけられる人になることを願います。

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神の前にへりくだる

皮肉なことですが、箴言の終わりに私たちがたくさんの知恵を聞いたのに、アグルという人はこう言います。

まことに、私は粗野で、人ではない。私には人間としての分別がない。私はまだ知恵も学ばず、 聖なる方の知識も持っていない。(箴言30:2ー3)

でももしかしたら、私たちはそんな謙遜な態度を取るべきかもしれません。なぜなら、私たちがどんなに知恵を持っても、私たちの知恵は神様の知恵と比べられないものです。

それでも、苦しむときに、私たちは神様を疑います。

「どうして、神様は、コロナを許しただろうか。」

「どうして、神様は、天災を許すだろうか。」

「どうして、神様は、この世の悪を許すだろうか。」

ヨブのように、私たちは神様から答えを迫ろうとすることができます。ヨブの友達のように、私たちはもうその答えを知っているふりをすることができます。

でも、最終的に、私たちが認めなくてはならないのは、「私は何も知らない」ということです。

すべてのことを知っている方は一人しかおられません。でも、その人は私たちではありません。(4)

だから、私たちは選択があります。私たちは無知なままで、神様を罵ることができます。

もしくは、私たちはヨブのようにへりくだって、神様にこう認めることができます。

あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。

あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。

確かに私は、 自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。(ヨブ記42:2ー3)

箴言の冒頭で、私たちはこの言葉を読みました。

主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。(箴言1:7)

また、

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(箴言9:10)

私たちはすべてのことを理解することはできません。でも理解し始めたいと思うなら、私たちは二つのことをしなくてはなりません。

神様を恐れなくてはいけません。

神様を信頼しなくてはなりません。

あなたはどうするでしょうか。

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自分の群れを心に留める

あなたの羊の様子をよく知り、 群れを心に留めておけ。(箴言27:23)

その言葉を読んで、私は神様からゆだねられた人々を考えました。私の妻。私の娘。私のスモールグループ。

私は彼らの様子をよく知っているでしょうか。私は彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

どうして、それは大切なのでしょうか。

24ー27節で、私たちは一つの理由を読みます。もちろん、その羊は私たちから祝福されます。でも、私たちが彼らから祝福を受ける日が来ます。

しかし、それよりも、私たちの羊飼いの命令を心に留めておかなければなりません。

イエス様はペテロに言われました。「わたしを愛していますか。わたしの子羊を飼いなさい。わたしの羊を牧しなさい。わたしの羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15ー17)

イエス様は私たち皆にも同じことを言われます。

私たちは、イエス様への愛と回りの人々への愛を切り離すことができません。特に、私たちがイエス様を愛しているなら、神様からゆだねられている人々を愛さなくてはなりません。

神様は誰をあなたにゆだねたでしょうか。彼らの様子をよく知っているでしょうか。彼らのニーズを心に留めているでしょうか。

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知恵をもって箴言に向き合う

愚かな者が口にする箴言は、 足の萎えた者の垂れ下がった足。(箴言26:7)

愚かな者が口にする箴言は、 酔った人が手に取り上げる茨。(9節)

箴言を読むときに、多くの人々はどのように箴言を解釈するべきか分かりません。

でも上記の箴言が指摘するように、もし箴言の使い方が分からなければ、最善の場合でも箴言は役に立たないものになります。最悪な場合、箴言によって人は傷ついてしまいます。

ヨブの友達をちょっと考えてみてください。彼らはいつも箴言を語りました。さらに、パウロはその友達のひとつの箴言を引用しました。

だから、その言葉自体は間違っていませんでした。(ヨブ5:13;第一コリント3:19)

でも、その友達は愚か者で、その箴言によってヨブを傷つけてしまいました。

だから、箴言を読むときには、二つの大切なことを心に留めておきましょう。

1. 箴言は神様の約束ではありません。むしろ、箴言は、神様が造られた世界に関する一般的な原則を表現しています。でも、心に留めておいてください。一般的な原則にはいつも例外があります。

例えば、ヨブの友達がいつもヨブに語った一般的な原則は何でしょうか。それは、神様が良い人々を祝福され、悪い人々を呪われるということです。

でも、すべての金持ちが神様に祝福されているとは限りません。また、すべての苦しんでいる人々が神様に呪われているとは限りません。

この壊れた世界では、良い人も苦しむし、悪い人も栄えます。でも最終的に、神様が正義をもたらされて、良い人は栄え、悪い人は苦しみます。

また、箴言22:6をちょっと考えてみてください。

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。 そうすれば、年老いても、それから離れない。

それは神様の約束でしょうか。

それは約束ではありません。それは一般的な原則です。

でも、自分の子供が悪い道を行ってしまう時、どれだけ良い両親が自責の念に苦しむでしょうか。

だから、箴言を読むときには、相手を責めること、また自分を責めることに注意しましょう。

2. 箴言には、適切な時も、不適切な時もあります。

例えば、箴言26:4〜5をちょっと読んでみましょう。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ。

愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、 自分を知恵のある者と思わないだろう。

では、どうすれば良いのでしょうか。愚かなものにはその愚かさに合わせて答えるべきか、答えるべきではないでしょうか。

事情によって違います。あるとき、議論に巻き込まれたら、たくさんの熱は出てくるけど、光はあまり出ません。だから、何も言わない方が良いです。

でも、ある場合には、もしあなたが何も言わなければ、相手が自分の意見に固執し、自分や回りの人々を傷つけてしまいます。

だから、どうすれば良いか考えるときに、神様の知恵が必要です。

5節にも、6節にも知恵のある言葉があります。。。適切な時に使えば。

とにかく、箴言を読むときには、知恵を持って、その箴言を私たちの人生に当てはめましょう。

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銀のように清められる心

銀から金かすを除け。そうすれば細工人に、良い器ができあがる。(箴言25:4)

主よ、私の中にあるかすを除け、汚れたものを清めてください。私があなたの目的のために良い器になりますように。

私の心を探ってください。罪深い思いや習慣を取り除いてください。悪い動機や態度も取り除いてください。

私が不完全な人なのに、あなたが私を用いることを選び、感謝します。恵みによって、あなたは欠点のたくさんある私を用いることができます。それは本当に驚くべきことです。

それでも、私はあなたのようになりたいと思います。私の人生があなたの目に叶うものになりますように。

私が尊いことに用いられる器となり、聖なるものとされ、あなたにとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなりますように。(第二テモテ2:21)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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自分の力では足りない時

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。(箴言24:10)

この言葉を読むと、自分を責めるのは簡単なことでしょう。苦難の日に私たちは気落ちして、「私は弱いなぁ。私はもっと強い人であるはずだ。」と言います。

でも、実は、私たちの力は弱いのです。もし、自分の力に頼ると、結局、私たちは倒れてしまいます。なぜなら、私たちがどんなに強くても、私たちの手に余る状態に直面するときがあるから。

では、私たちはどうすれば良いでしょうか。

主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)

詩人も、私たちにこう言います。

主とその御力を尋ね求めよ。 絶えず御顔を慕い求めよ。(詩篇105:4)

イエス様自身は私たちに言われます。

わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(第二コリント12:9)

だから、試練に直面すると、パウロの態度を取りましょう。

ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。

というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(第二コリント12:9bー10)

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私たちの天の父の心

今日の箇所では、ソロモンは自分の子に書いています。でも、その言葉は、私たちに対する天の父の心を反映しています。

わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、あなたの唇が公正を語るなら、私の心は喜びに躍る。(箴言23:15ー16)

たぶん、多くの親たちはその気持ちが分かるでしょう。私たちの子供たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、私たちは喜ぶでしょう。

そのように、私たちが知恵を持って生活し、正しいことをする時、天の父は喜ばれます。

だから、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ。よく聞いて、知恵を得よ。あなたの心が道をまっすぐ進むようにせよ。(19節)

でも、それだけでなく、天の父は私たちにこう言われます。

わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。あなたの目が、わたしの道を喜ぶようにせよ。(26節)

他のどんなものよりも、神様は私たちの心を望んでおられます。なぜなら、私たちの心が神様のものなら、私たちは喜んで神様に従い、その道を行きますから。

天のお父さん、私の心をあなたにゆだねます。

私の心があなたの道をまっすぐ進むように。私の毎日の生活があなたの心を喜ばせるように。あなたを愛しています。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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私たちの素晴らしいデザイナー

聞く耳と見る目は、 二つとも主が造られた。(箴言20:12)

たぶん、多くの人々はその言葉を読むとき、「で?」と考えるでしょう。

「はい、はい。分かった、分かった。神様は私の目と耳を造った。でも、どうしてソロモンはそんな当たり前のことを言うべきだと思ったのだろうか。」

でも、目と耳がどれほど素晴らしく、不思議なものであるかを考えたことがありますか。

少し目について考えてみましょう。私たちの目は、遠くのものや近くのものに自動的に焦点を合わせることができます。また、光と暗闇にも自動的に適応することができます。

そして、私たちの目は脳と繋がっているので、私たちは何を見ているかを理解することができます。

最先端のテクノロジーを持っていても、技師たちや科学者たちは、神様のデザインを完全にコピーすることがまだできていません。

耳についても、同じことが言えます。

私たちは、この世の主張を信じることができるでしょうか。耳と目がデザイナーなしで造られたものだと、本当に信じられるでしょうか。耳と目が偶然によって造られたものだと、信じられるでしょうか。

私はそれを信じられません。私は知性のあるデザイナーを信じます。

私たちは、なんと素晴らしい神を礼拝していることでしょう。そう思いませんか。

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神様に怒っているの?

人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は主に向かって激しく怒る。(箴言19:3)

私たちは、自分の悪い決断によって困ってしまうことがどれほど多いでしょうか。それなのに、神様に怒りを向けてしまうことがあります。

私たちは、よく考えもせず、神様に相談することもなく、自分の思うままに行動してしまいます(2節、21節)。

あるいは、神様の戒めを無視してしまいます(16節、27節)。

または、すぐに怒りを爆発させてしまいます(11節)。

あるいは、怠けて時間を無駄にしてしまいます(15節)。

ソロモンはこう言いました。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。(23節)

私たちは、神様の前にへりくだり、自分の悪い決断のゆえに神様に怒るのではなく、むしろ、すぐに悔い改め、神様とそのみ言葉に従いましょう。

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和解への道

時々、私たちの人間関係が壊れてしまい、私たちは和解への道を見つけることができません。

そういうわけで、ソロモンはこう言いました。

堅固な城を攻め落とすより、けんかした友人と仲直りするほうが大変です。

怒った相手は、頑としてあなたを受けつけません。(箴言18:19、リビングバイブル)

和解を望むなら、私たちは一つのことを学ばなくてはなりません。それは、相手の話をちゃんと聞くことです。

ソロモンはこう言いました。

よく聞かないで返事をする者は、愚かであり、恥を見る。(13節)

どれだけ、相手が話すとき、私たちはちゃんと聞かずに、むしろ、自分が次に何を言おうと考え始めるでしょうか。

私もそうやったことがあります。

もちろん、私たちがいつも相手の言葉に同意するとは限りません。なぜなら、相手が実際に悪かったかもしれないから。

でも、私たちが彼らの言うことをちゃんと聞かないと、彼らの城壁はもっと高くなるでしょう。

それに、相手ではなくて、私たちの方が実際に悪かったかもしれません。

だから、ソロモンはこう言いました。

最初に訴える者は、相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。(17節)

私たちは、自分の方が正しいと思うかもしれません。でも、相手の話をちゃんと聞くなら、自分が悪かったと分かるようになるかもしれません。

もちろん、和解は双方向の関係でなければなりません。

しかし、私たちは相手の反応をコントロールすることはできません。私たちにできるのは、自分自身の行動を整えることだけです。

もし、私たちが謙遜な態度をもって、相手の話をちゃんと聞くなら、彼らは私たちの話を聞いてくれるかもしれません。そして、和解への戸は開かれるかもしれません。

主よ。私に謙虚な心を与えてください。自分が正しいと思うときにも、私は相手にちゃんと耳を傾けるように助けてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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試練のとき

今日の箇所を読んで、二つの聖句が心に深く響きました。

銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。(箴言17:3)

聖書の著者たちがはっきり教えていることの一つは、神様がご自分の民に試練を経験させるということです。 一つの理由は、神様が私たちの心を試しておられることです。

でも、なぜ神様は私たちの心を試さなくてはならないのでしょうか。神様は私たちの心をすでにご存じではないでしょうか。

もちろん、神様は私たちの心をご存じです。

でも、多くの場合、私たちは自分の心を知らないのです。そして、試練によって、私たちの欠点や弱さが浮かび上がります。その反面、試練によって、自分が思っていたよりも強いと分かることもあります。

どちらにしても、神様の目的は、私たちが滅びることではなく、むしろイエス様のようになることです。

でも、もう一つの大切なことを覚えておきましょう。私たちは一人で試練を通る必要はありません。

ソロモンはこう書いています。

友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。(17節)

神様の望みは、試練を通るとき、兄弟たちや姉妹たちが互いに支え合うことです。

だから、苦しんでいるときに、恥ずかしがる必要はありません。周りの人々の助けを求めましょう。

また、誰かが苦しんでいるとき、その人にすぐに手を差し伸べましょう。

でも何よりも、覚えておきましょう。イエス様はどんなときにもあなたを愛する友です。私たちが最も苦しい試練の中にあるとき、イエス様は私たちと共におられます。

ダニエル書3章にあるシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの話を思い出します。彼らは文字通り火の中を通ったとき、互いに支え合いました。

それだけではなく、火の中でイエス様ご自身が彼らと共におられました。その結果は?彼らは金のようになって出て来ました。

私たちも必ずそうなります。

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神様の忠実な愛

恵みとまことによって、咎は赦され、主を恐れることによって、人は悪を離れる。(箴言16:16)

その言葉を読んだとき、私はこう思いました。「自分の忠実な愛によって、自分の罪が赦されるなら、私たちは本当に困ります。」

なぜなら、私たちの愛はあまり忠実ではないものだからです。

しかし、神様の忠実な愛によって、私たちの罪は赦されます。 新改訳聖書の言葉を借りれば、神様の恵みとまことによって、私たちの咎は赦されます。

私たちが神様に忠実でなかったときも、神様は私たちに忠実でいてくださいました。

だから、私たちがまだ罪人であったとき、キリストは私たちのために死なれました。(ローマ5:8)

自分の罪のゆえに、私たちは神様の怒りを受けるにふさわしく、死に値する者でした。(ローマ5:14)

けれども、十字架で、イエス様は天の父の怒りをなだめてくださいました。

だから今、神様が私たちをご覧になるとき、天の父の御顔は明るくなります。天の父のいつくしみは、後の雨(つまり、春の雨)をもたらす密雲のようです。(ホセア6:3)

イエス様を通して、私たちは神様の恵みとまことを知ることができます。(ヨハネ1:17)

だから、神様の恵みとまことに思いを巡らしましょう。神様の忠実な愛について考えましょう。イエス様の御業によって与えられた神様の慈しみを噛み締めましょう。

そして神様を畏れ、喜びましょう。

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神様は私たちをどのように見ておられるか

今日の箇所を読んだとき、私は神様との関係について思いを巡らせました。 ソロモンはこう記しています。

主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。(箴言15:3)

また、

よみと滅びの淵は主の前にある。人の子らの心はなおさらのこと。(11節)

たぶん、多くの人々にとって、それらは恐ろしい言葉に聞こえるかもしれません。 私たちの心、私たちの人生は、神様にとって開かれた本のようなものです。

私たちは神様から何も隠すことができません。 神様は、私たちが隠そうとするすべての酷いものをご覧になります。

しかし、イエス様のおかげで、私たちは心を探られる神の目を恐れる必要はありません。 むしろ、神様が私たちの心を探られるとき、私たちは喜んで自分の心を開きます。

私たちにとって、神様が心を探られることは、喜びなのです。

なぜでしょうか。

なぜなら、私たちは神様に愛されている子どもたちだからです。 イエス様は、十字架で私たちの罪の罰をすでに受けてくださいました。

「どうして神様は私たちを『正しい人』と呼ばれるのだろうか」と疑問に思ったことがあるでしょうか。

私たちは完全な人間なのでしょうか。 私たちは他の人々よりも良い人間なのでしょうか。

違います。

その理由は、天の父が私たちをイエス様の義で包んでくださったからです。

イエス様の義のゆえに、神様は私たちを受け入れ、喜んでくださいます。(8節)

だから、喜びをもって、ダビデと共に祈りましょう。

神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:23ー24)

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主を恐れる

主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる。(箴言14:27)

その聖句を読んだとき、私は箴言13章にあるソロモンの言葉を思い起こしました。

知恵のある者のおしえはいのちの泉。これによって、死の罠から逃れることができる。(箴言13:14)

主を恐れるとは、どういう意味でしょうか。 その意味の中心は、主の御言葉に耳を傾け、従うことです。

しかし、私たちはどれほど、自分が神様よりも知っているかのように振る舞ってしまうでしょうか。

聖書を読むとき、私たちはこう思うことがあります。 「この言葉には同意できない。これは時代遅れだ。」

ソロモンはそのような考え方について、こう語りました。

人の目にはまっすぐに見えるが、 その終わりが死となる道がある。(箴言14:12)

サタンは偽りの証人です。彼は偽りの父です。 この世の民はサタンの嘘を信じており、私たちにもその嘘を受け入れさせようとします。

しかし、彼らが神様の言葉に反することを語るとき、私たちはその言葉を受け入れてはいけません。

その反面、イエス様は真実で確かな証人です。イエス様は、決して嘘をつかれません。 さらに、イエス様の知恵に満ちた御言葉によって、私たちは死の罠から逃れ、命を得ることができます。(黙示録3:14;箴言14:5;14:25)

忘れないでください。イエス様は、私たちの罪のための償いとして、十字架でご自身を捧げられました。(レビ記5:6;箴言14:9)

そのゆえに、私たちは天の父と和解しました。

だから、神様を恐れ、信頼して従いましょう。また、私たちの子どもたちにもそうするように教えましょう。

そうすれば、神様は彼らにとっても避け所となってくださいます。(箴言14:26)

神様はいのちの泉です。毎日、神様を恐れ、そのいのちの言葉を飲みましょう。

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イライラするとき

愚か者は自分の怒りをすぐ表す。(箴言12:16)

正直に言うと、今日、職場で私は少しイライラしていました。時々、同僚とのコミュニケーションはあまり良くありませんが、最近は特にそう感じています。

そのため、今日、私は自分のフラストレーションを同僚に表してしまいました。

誤解しないでください。怒鳴ったわけではありませんが、私のフラストレーションは明らかだったと思います。

その10分後、私は今日の聖句を読みました。そして、神様と少し話さなくてはなりませんでした。

私のフラストレーションは自然な反応だったと思います。でも、その表し方は良くありませんでした。

今日の聖句を読んだとき、私はこう考えました。 「イライラするとき、私はどれだけ『愚か者』のように振る舞っているだろうか。

私はすぐに、自分の表情やため息、そして言葉によって、そのフラストレーションを表してしまうのだろうか。」

主よ、特に私がイライラするとき、どうか私に忍耐を与えてください。 私が愚か者のように振る舞うことのないように。

むしろ、私のうちに恵みと憐れみと忍耐が満ちあふれますように。 なぜなら、あなたはいつも、私に恵みと憐れみと忍耐を注いでくださる方だからです。

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あなたは神様から潤されていますか?

他人を潤す人は自分も潤される。(箴言11:25)

こんな大変なとき、自分の問題のゆえに、私たちが自己中心になるのは簡単です。私たちは「私の方が潤される必要がある」と言います。

でも、多くの場合、自分に目を向けるのではなく、周りの人々に目を向けて祝福することによって、私たちは潤されます。周りの人々を潤すと、私たち自身も潤されるように感じます。

さらに、人々を祝福すると、いつか彼らから私たちも祝福を受けるでしょう。

でも、覚えていてください。私たちの主な泉は神様です。神様から潤されていなければ、私たちが周りの人々に与えることができるものは限られています。

だからこそ、私たちは毎日、神様との時間が必要です。

イエス様もそのような時間を必要とされました。(マルコ1:35;6:45ー46)

私たちはなおさらです。

だから、自分自身にこう問いかけましょう。

1.私は神様と時間を過ごし、神様から潤されているだろうか。

2.今日、神様は、私が誰を潤すように望んでおられるだろうか。

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人々が私を思い出すとき

主よ、私が亡くなったとき、人々は私について何を思い出すでしょうか。(箴言10:7)

彼らは、私を誠実に歩んでいた人として思い出すでしょうか。(9節)

彼らは「ブルースの口は命の泉だった」と言うでしょうか。(11節)

彼らは「ブルースの言葉は選り抜きの銀だった。その言葉は多くの人々を養った」と言うでしょうか。(20~21節)

彼らは、私をあわれみ深く、恵み深い人として思い出すでしょうか。(12節)

彼らは、私をあなたの訓戒を大切にし、あなたの叱責を受け入れていた人として思い出すでしょうか。(17節)

彼らは、私を主を恐れる人として思い出すでしょうか。(27節)

彼らは、私を喜びと希望に満たされていた人として思い出すでしょうか。(28節)

私はそのような人になりたいです。妻や娘、友人、隣人、同僚にとって、私はそのような人になりたいです。

彼らが私を思い出すとき、何を思い出すでしょうか。彼らが私を思い出すとき、あなたがどのようなお方であるかをはっきりと心に描くことができますように。

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叱責を喜んで受け入れる心

嘲る者を戒める者は、自分が恥辱を受け、悪しき者を叱る者は、自分が傷を受ける。

嘲る者を叱るな。彼があなたを憎まないために。

知恵のある者を叱れ。彼はあなたを愛する。

知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵ある者となる。

正しい人を教えよ。彼は洞察を深める。(詩篇9:7ー9)

その言葉を読むとき、私たちは他の人々の頑固さを思い浮かべるのは簡単です。

でも、私たちはどうでしょうか。私たちは、自分を叱る人を憎み、嘲る者でしょうか。

それとも、私たちは知恵ある者でしょうか。自分を叱る人を愛しているでしょうか。叱られるとき、ますます知恵ある者になるでしょうか。洞察を深めるでしょうか。

正直に言うと、私は頑固な人間です。人々が私を叱ったとき、私は何度もその言葉を無視し、「その言葉は私のためではない」と思いました。

だから、その頑固な態度を砕くために、神様には、私にこう言わなければならない時がありました。「注意しなさい。その言葉はあなたのためです。」

ところで、これはもう一つの大切なポイントです。私たちは周りの人々の叱責を受け入れるべきですが、神様の叱責を受け入れることはなおさら重要です。

だから、ソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、 聖なる方を知ることは悟ることである。(10)

主よ、私がいつもあなたの叱責を受け入れる心を持つことができますように。

あなたが人を私のもとに遣わされるとき、私が聖書を読むとき、あなたの御霊が語られるとき、 どうか私に素直な心をお与えください。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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銀にまさる御言葉

主よ、あなたの御言葉は、銀にも金にも、すべての真珠にもまさるものです。(箴言8:10〜11)

あなたの御言葉は、命の言葉です。(35節)

それでも、私はすぐに自分の知恵に頼ってしまいます。 すると、あなたの語りかけを見逃し、自らを傷つけてしまいます。(36節)

主よ、私はあなたの傍らで見張りたい。 あなたの御声に耳を傾けられるよう、助けてください。 毎日、私を教え導いてください。 私はあなたのように考えたいのです。(9、34節)

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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神の御言葉を子に伝える責任

多分、ソロモンは箴言7章を書いた時、申命記11:18〜19を思い起こしていたのでしょう。

ソロモンは神の御言葉を大切にし、自分の心に蓄えるだけでなく、自分の息子にもそうするように教えていました。

私たちも同じようにしているでしょうか。神様は、私たちが自分の子供たちに神の御言葉を教える責任を委ねてくださいました。

それは、日曜学校の先生たちの責任ではありません。それは、私たちの子供たちの学校の先生たちの責任でもありません。

切ないことですが、私たちの子供たちが学校で学んでいる道徳的価値観が、神様の教えに反していることもあります。

学校で先生たちや友達から学んだ道徳的価値観が神様の教えと異なる時、私たちの子供たちはその違いに気づくことができるでしょうか。それは、私たちの責任です。

神の御言葉を自分の心に蓄えるだけでなく、私たちの子供たちにもそうするように教えましょう。

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旧約聖書を読むとき、イエス様を探す

旧約聖書を読むとき、私はいつもイエス様を捜します。

なぜでしょうか。

それは、イエス様ご自身が、旧約聖書の著者たちはご自分のことについて語ったとおっしゃったからです。(ヨハネ5:39、ヨハネ1:17)

だから、旧約聖書で「恵みとまこと」という言葉の組み合わせを見ると、私はいつもイエス様のことを考えます。

旧約聖書では、その二つの言葉は何回も神様に関して言われていたけど、新約聖書では、その二つの言葉はイエス様に関して言われていました。

特に、ヨハネはイエス様に関してこう言いました。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:17)

神様はどんな神でしょうか。神様は恵みとまことに満ちておられる神です。そして、神様はイエス様を通してその恵みとまことを表してくださいました。

今日の箇所では、ソロモンはこう言いました。

恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。

それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ。神と人の前に好意を得、聡明であれ。(箴言3:3~4)

イエス様は、恵みとまことに特徴付けられました。そういうわけで、イエス様は神と人との前に好意を得ておられました。(ルカ2:52)

だから、今日、私はこのように祈りました。

天のお父様、イエス様が恵みとまことに特徴付けられたように、私も恵みとまことに特徴付けられますように。

私を通して、あなたの恵みとまことが、私の家族、友人、同僚、そして私が関わるすべての人々に輝きますように。

イエス様、私はあなたのようになりたいです。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書を読むとき

私たちは聖書を読むとき、どのような態度を持っているでしょうか。

私たちはその御言葉を受け入れるでしょうか。もしかすると、私たちは自分に都合の悪い言葉を拒むかもしれません。

神様の命令を心に蓄えるでしょうか。あるいは、その命令を時代遅れとして退けてしまうでしょうか。

私たちは自分の耳を神様の知恵に傾けるでしょうか。もしかすると、その知恵に耳を閉ざすかもしれません。

私たちは自分の心を英知に向けるでしょうか。あるいは、英知に背を向けるでしょうか。

私たちは謙遜な態度で、悟りを得るために神様に呼びかけるでしょうか。あるいは、無関心な態度を持っているでしょうか。

聖書が分からない時、私たちは神様に向かって声を上げるでしょうか。それとも、分からないままで沈黙しているでしょうか。

神様の知恵を銀のように探し求めるでしょうか。あるいは、一円玉のように見過ごしてしまうでしょうか。

隠された宝のように、神様の知恵を探し出すでしょうか。それとも、その言葉を昨日のごみのように放置するでしょうか。

神様は私たちに知識と英知を与えようとされています。神様は私たちを祝福したいと願っておられるからです。

しかし、私たちは本当に、その知識と英知を求めているでしょうか。

主よ、私は毎日、聖書を読むときに、私の心の目と耳を開いてください。私があなたの知恵を見て、聞いて、理解できるよう助けてください。

私の頑なな石のような心を取り除いてください。その代わりに、あなたの言葉を受け入れる柔らかい心を私に与えてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

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箴言のデボーション

主よ、私に語りかけてください

主よ、私に語りかけてください。

あなたを恐れることは知識の初めです。私が決してあなたの知恵や訓戒を侮ることのないようにしてください。(箴言1:17)

むしろ、あなたが私を訓戒されるとき、その訓戒を受け入れる謙遜な心を与えてください。あなたの叱責に立ち返る心を与えてください。

そして、私があなたに向かうにつれて、私にあなたの霊を注ぎ、あなたの言葉を知らせてください。(23節)

私が聖書を読むとき、あなたが私に何を語りたいかを理解できるよう、悟りを与えてください。

私にはまだ分からないことがたくさんあります。この人生を歩むために、私はあなたの知恵と導きを必要としています。(2〜6節)

だから、主よ、私に語りかけてください。どうか、私に語りかけてください。

イエス様の御名によって祈ります。アーメン。