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ルカの福音書 ルカ12章

人生の意義

この人生の意義とは何でしょうか。

多くの人々はその答えを知らず、迷い続けています。彼らは、お金や財産の中に人生の意義を見いだせると信じ、それらを追い求めます。

だからこそ、この話の中で、その男性はイエス様に家族の遺産を公平に分けるよう願ったのです。

けれども、イエス様は彼にこう言われました。

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない。(ルカの福音書12:15)

そして、イエス様は周囲の人々にこう言われました。

だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。(22-23)

どうしてイエス様はこのことを言われたのでしょうか。二つの理由があります。

一つ目は、食べ物や服、お金で買えるものよりも、私たちの命がはるかに大切だからです。これらのものは一時的なものであり、瞬く間に存在し、瞬く間に消えてしまいます。

この世のものを手に入れることで、一時的に心や体が満たされるかもしれません。しかし、最終的にはもっと多くを求めるようになり、決して満足することはありません。むしろ、ますます飢え渇くようになります。

二つ目は、神様が私たちを深く愛しておられるからです。神様は私たちの必要をすべてご存知であり、もし私たちが神様を最優先に求めるなら、神様はその必要を満たしてくださいます。

それならば、私たちは他のものを優先するべきではないでしょうか。

では、私たちは何を最優先にするべきでしょうか。それは、神様の国です。

神様の国とは何でしょうか。それは「人々」です。イエス様は彼らのために命を捧げられました。神様は彼らとの関係を強く望んでおられます。だから、私たちは彼らを優先するべきです。

もし誰かが助けを必要としているなら、可能な限りその必要を満たすように努めましょう。お金を愛するのではなく、人々を愛し、惜しみなく与えましょう。なぜなら、神様は惜しみなく私たちに多くのものを与えてくださったからです。

私たちがこのように与えるなら、「自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げるのです。」(ルカ12:33)

とはいえ、彼らの物質的な必要を満たすだけではなく、彼らの霊的な必要にも目を向け、イエス様の愛によって彼らに触れるべきです。

神様は私たちに素晴らしい国を与えてくださいました。私たちの罪を赦すために、神様はイエス様を送ってくださいました。そして、神様は私たちを養子として迎えてくださいました。

だから、一時的なものに心を奪われたり、時間を浪費したりしないようにしましょう。むしろ、永遠に価値のあるものを追い求めましょう。

私たちを愛してくださる神様を求め、その愛をもって周りの人々に触れましょう。そうすれば、彼らも神様を知るようになるでしょう。

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ルカの福音書 ルカ12章

愚かな金持ちのたとえ話:私たちの時間が来るとき

私たちの命は非常にもろいものです。一瞬で、それが奪われることもあります。交通事故や地震などの災害が起これば、私たちは突然亡くなるかもしれません。

その日、私たちが神様の御前に立ったとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

今日の箇所では、一人の男性がイエス様に、家族の遺産を分けるよう求めました。どうやら、彼の兄が遺産を公平に分けていなかったようです。

ところが、おそらくイエス様の目には、さらに大きな問題があったのでしょう。つまり、その男性はお金に心を奪われすぎていたのです。

彼の父親は裕福であり、彼は長い間、その遺産を受け取ることを夢見ていたのかもしれません。けれども、父親が亡くなったとき、彼は期待していたほどの遺産を受け取ることができず、その夢は崩れ去りました。

そこで、彼はイエス様に助けを求めました。

しかし、イエス様はその願いをきっぱりと断られました。

いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。(ルカの福音書12:14)

簡単に言えば、「絶対にだめだ」ということです。

そして、イエス様は彼に警告を与えられました。

それ以前、イエス様は弟子たちに偽善について警告されましたが、その男性の願いを聞いた後、イエス様は彼と弟子たちに対して貪欲について警告されました。

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15)

イエス様は、その男性と弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。

それは、私たちの人生において、この世のものが最も大切なものではないということです。快適な生活や豪華なライフスタイルは、本質的にはそれほど重要ではありません。

そして、イエス様はたとえ話をされました。その話の中に、一人の金持ちが登場します。彼は多くの財産を持ち、贅沢な暮らしをしていました。

そして、ある年、彼の畑は豊作となりました。彼はどのようにしようかと考えました。

彼は貧しい人々に食べ物を分け与えることもできましたし、財産を使って多くの人を助けることもできました。けれども、彼はそうせず、自分自身のことだけを考えました。そして、彼はこう言いました。

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。

「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(18-19)

多くの人々はそのような夢を抱いています。彼らは早く引退し、自分のためだけに生きたいと願っています。

「安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

ところが、神様はその人にこう言われました。

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20)

そして、イエス様はこのたとえ話を次のように締めくくられました。

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(21)

では、私の元の質問に戻りましょう。もし私たちがこの世を去り、神様の御前に立つとき、神様は私たちに何と言われるでしょうか。

神様はこう言われるでしょうか。 「愚か者よ。あなたは人生の中で無駄なものを追い求め、自分の人生を無意味なものにしてしまった。」

それとも、神様はこう言われるでしょうか。

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたに多くのものを任せよう。主人の喜びを共に喜んでくれ。」(マタイ25:23 )

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隠れクリスチャン

私が子供の頃、「Undercover Christian」(隠れクリスチャン)というスキットを聞いたことがあります。そのスキットでは、あるクリスチャンがレポーターにインタビューされたとき、こう言いました。

「私の信仰は個人的なものですので、周りの人々には話しません。」

しかし、イエス様は「隠れクリスチャン」に対して、別の呼び方をされます。それは「偽善者」または「役者」です。

(実は、「偽善者」という言葉の元の意味は「役者」ということでした。)

その人はクリスチャンの世界で歩むとき、クリスチャンのように話し、ふるまいます。けれども、教会を出ると、まるでイエス様を知らないかのようにふるまいます。

そして、この箇所で、イエス様は「最終的にあなたの秘密は明らかになる」と警告されました。

私は、実際にそのようなクリスチャンの話を聞いたことがあります。彼はイエス様を自分の主として受け入れましたが、両親の反応を恐れていました。そのため、仏壇で祈り続け、線香をあげ続けました。そして彼はこう言いました。

「私は両親に愛を示したいから。」

ところが、結局その秘密は明らかになりました。その時、彼の父親は激怒しました。

「お前はクリスチャンなのに、仏教の儀式をし続けていたのか?お前は一体どんなクリスチャンなのか?」

彼は「両親に対する愛を示したい」と言っていましたが、最終的には自分の証を損なってしまいました。

イエス様はこう言われました。

だれでも、わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。

しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカの福音書12:8-9)

では、私たちは、人の前で「イエス様を知らない」と言ったことがあるなら、救いを失ってしまったのでしょうか。

必ずしもそうとは限りません。ペテロも弱さの中で、「イエス様を知らない」と三度言いました。

私自身も、中学生のとき、そして高校生のときに、自分の信仰を友達から隠していました。友達に「あなたはクリスチャンですか」と聞かれても、私はその質問に対して曖昧に答えていました。

しかし、もし私たちが一貫して人の前で「イエス様を知らない」と言い続けるなら、自分がクリスチャンであることを公にすることはできません。

もしあなたがクリスチャンであるなら、そのことを明確に伝えなければなりません。

洗礼式には一つの重要な目的があります。それは、「私はクリスチャンである」ということを宣言することです。あなたは世界に向かって、自分の主を公に表します。

もしあなたが洗礼を受けることを拒むなら、あなたは本当にクリスチャンであると言えるでしょうか。

私たちは隠れクリスチャンにならないようにしましょう。私たちのために死んでくださり、よみがえられたイエス様を大胆に宣言しましょう。

私たちの信仰を拒む人もいるでしょう。けれども、私たちが見つけた喜びを見出す人もいるでしょう。

あなたはどうしますか。

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恐れなさい。恐れるな。

この箇所でのイエス様の言葉は、私の心に深く響きます。

「恐れてはいけません。」

そして、「恐れなさい。」

イエス様はこう言われました。

そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。

恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカの福音書12:4-5)

要するに、「人ではなく、神様を恐れなさい。」ということです。

人々はあなたの身体を殺すことができるかもしれません。しかし、神様はあなたを地獄に投げ込む権威を持っておられます。一瞬のうちに身体は死ぬかもしれませんが、霊的な死は永遠に続くのです。

では、私たちは恐れながら生きるべきなのでしょうか。

神様はじっと私たちを見つめ、私たちの失敗を待っておられるのでしょうか。そして、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちを稲妻で打たれるのでしょうか。神様は人々を地獄に投げ込むことを喜んでおられるのでしょうか。

決してそうではありません。

イエス様はこのことも語られました。

五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。

それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(6-7)

私たちが神様の御性質を考えるとき、二つのことを覚えていなければなりません。それは、神様の聖さと神様の愛です。その二つの概念のバランスを保つことが重要です。

多くの人々は神様の愛に焦点を当てる一方で、神様の聖さを忘れがちです。

けれども、聖書において、人々が神様の栄光を目の当たりにすると、まず神様の聖さに気づきます。そして、神様の聖さを見たとき、自分の汚れを認識するのです。

その結果として生じるものは何でしょうか。

それは、恐れです。

なぜなら、彼らは神様の裁きを受けるに値することを理解し、自分が死ぬべき存在であると悟るからです。

ところが、その後、彼らは神様の愛を知ります。聖書には何度も、神様の最初の言葉として「恐れるな」と記されています。

この箇所においても、イエス様は私たちに同じことを教えられました。

まず、イエス様は「神様を恐れなければならない」と言われました。なぜなら、神様は聖なる方だからです。神様の聖さゆえに、罪は必ず裁かれなければなりません。

もしこの世に生きている間に、あなたが神様のもとに行かず、罪の赦しを得なければ、その罪は地獄で裁かれることになります。

しかし、それは神様の望みではありません。神様は私たちを深く愛しておられ、私たちの最善を願っておられます。

神様の目には、私たちは取るに足りない存在ではありません。それどころか、神様は私たちの名前を知り、私たちの人生の細部に至るまでご存知なのです。

神様は、あなたの罪を背負うためにイエス様をこの世に送られました。それほどまでに、あなたを愛しておられます。もしあなただけが罪を犯していたとしても、神様はイエス様を送られたことでしょう。

私たちがこのことを実感するとき、私たちの最初の恐れは、神様への圧倒的な愛へと変えられます。

私たちはもはや神様を恐れる必要はなく、また、その他の何かを恐れる必要もありません。もし私たちが神様に信頼するなら、この世で何が起ころうとも、私たちには天国における確かな希望があるのです。

だからこそ、ヨハネの言葉を心に留めましょう。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。

神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。

それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:16-19)

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偽善

時々、イエス様は一つのたとえを用いて、さまざまな教訓を示されました。この箇所では、その一例を見て取ることができます。

以前、イエス様が弟子たちを宣教の旅へ遣わされたとき、こう言われました。

おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。(マタイ10:26)

つまり、イエス様は弟子たちに多くのことを教えられましたが、他の人々はまだその教えを聞いていなかったのです。けれども、弟子たちが福音を伝えるとき、彼らはイエス様のすべての教えを人々に伝えなければなりませんでした。

また、イエス様が彼らにささやかれたことを、彼らは屋上で大胆に宣べ伝えなければなりませんでした。(マタイ10:27)

この箇所では、イエス様はほぼ同じたとえを用いながらも、全く異なる教訓を示されました。イエス様は弟子たちにこう言われました。

パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12:1)

そして、イエス様はこう言われました。

「あなたは心の中で様々なものを隠しているかもしれません。けれども、結局それらは明らかになります。あなたが暗闇で語ったことは、光の中で聞かれます。また、あなたがささやいた秘密は屋根の上から宣べ伝えられるのです。」

要するに、あなたは良いクリスチャンのふりをすることができるかもしれません。しかし、もしあなたが偽善者であり、行動が言葉と矛盾しているなら、あなたの偽善は最終的に明るみに出ます。

この世では隠せるかもしれませんが、天国では隠すことはできません。

だからこそ、私たちは偽善者にならないように気をつけなければなりません。私たちは神様と人々の前で正直な人生を歩みましょう。

そうしなければ、私たちに関する真実は、いつか必ず明らかになるのです。