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創世記のデボーション

聖書にはどうしてこんなに酷い話があるの?

「どうして、聖書には、こんなに酷い話が書いてあるのだろうか」と疑問に思ったことがありますか。

ユダとタマルの話は、本当に酷いと思いませんか。でも、聖書には他にも酷い話がたくさん書かれています。

簡単に答えると、それが人間の歴史なのです。人間の歴史は、酷い話に満ちています。

聖書は、理想的な人間の歴史を描いているのではありません。聖書は、罪深い人間の歴史を描いています。

でも、それだけではなく、聖書は、罪に歪んだ人間をあがなうことができる神を描いています。

ユダとタマルの話は本当に酷いですが、最終的に私たちの救い主は、その血筋から来られました。(マタイの福音書1章を調べてください。)

あなたは、この世界や自分の生活の中で、多くのひどい罪やひどい状況を目にするかもしれません。

けれども、私たちが神様に信頼を寄せるなら、神様があがなうことができない人や状況はありません。

だからこそ、パウロはこう書きました。

私は福音を恥としません。福音は。。。信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

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詩篇のデボーション

豊かな贖い

イスラエルよ、主を待て。

主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。(詩篇130:7ー8)

その言葉を読んで、ヨセフに対する天使の言葉を連想しました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。

あなたの人生は自分の罪や失敗によって壊れたかもしれません。

もし神様が私たちの罪に目を留められていたら、私たちは神様の御前に立つことができないでしょう。(3)

でも、主を待ち望みましょう。

主には恵みがあります。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実です。(第二テモテ2:13)

そして、イエス様の血によって、私たちは贖いを得ています。でも、ただの贖いではなく、豊かな贖いを得ているのです。

私たちはみな、(キリスト)の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。

律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。(ヨハネ1:16ー17)

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ルツ記

あがない主

ボアズとルツの関係を通して、私たちはキリストがどのように私たちをあがなってくださるかを知ることができます。それは本当に美しい絵です。

ルツは貧しく、何も持っていませんでしたが、ボアズに近づき、結婚していただけるようにお願いしました。ルツはこう言いました。

あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。(ルツ記3:9)

私たちにとっては、それは少し変わったプロポーズの方法に見えるかもしれませんが、その文化ではそれが普通でした。

今でも、ユダヤ人の結婚式では、花婿が自分のタリス(祈りのためのショール)で花嫁を覆います。その意味は、「私はあなたを世話します」ということを表しています。

ですから、ルツが言ったのは、「私を世話してください。私の夫になってください」ということでした。

しかし、問題がありました。他の親族にはルツと結婚する権利がありました。

この習慣も、私たちにとっては少し変わっているように思えるかもしれませんが、その時代には一般的なものでした。

当時、ある男性が息子を残さずに亡くなった場合、その男性の女性の親族(普通はその男性の妻ですが、この場合はその義理の娘)は他の親族と結婚し、その子供によって亡くなった男性の名前が引き継がれ、その子供がその男性の遺産を継ぐことができました。

ルツの場合、ボアズにはその権利がありましたが、別の親族にはさらに強い権利がありました。

幸いにも、その親族はルツとの結婚を拒否しました。おそらく彼はすでに結婚していたのかもしれません。

その結果、ボアズはルツと結婚する権利を買い取り、その家族の遺産を管理する権利も得ました。

こうして、ルツはもはや貧しく希望がない女性ではなくなりました。今では、裕福で、ルツを愛している夫を持ち、将来と希望を持つことができました。

ルツとボアズが結婚した後、息子が生まれました。その息子オベデには、エッサイという息子が生まれ、エッサイにはダビデという息子が生まれました。

ダビデはイスラエルの王となり、そして、ダビデの家系を通して、私たちの最大のあがない主であるイエス様が来られました。

今、私たちはルツがボアズに近づいたように、何も持たずにイエス様に近づきます。私たちはただ自分自身を捧げることができるだけです。私たちはイエス様の愛と守りを求めるしかできません。

イエス様はそのようにしてくださり、私たちのために代価を払ってくださいました。十字架で、私たちの罪のために死に、ご自身の血を流してくださったのです。その血によって、私たちの罪は洗われました。

そして、その関係とイエス様の愛によって、私たちは将来と希望を持つことができます。

エペソ人への手紙2:12ー13で、こう書かれています。

そのころのあなたがたは、キリストから離れ。。。この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。