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民数記のデボーション

 私があなたをあがめるように

聞け、わたしのことばを。

もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、主であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。

だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。(民数記12:6ー7)

ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。

モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。

家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。。。

モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。

しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。。。(ヘブル人への手紙3:1ー6)

イエス様、モーセは天の父の家全体の中で、しもべとして忠実でした。だから、彼は栄誉や栄光を受けるにふさわしい人でした。

でも、あなたは天の父の家全体の中で、御子として忠実でした。そういうわけで、モーセよりも、あなたは大いなる栄誉と栄光を受けるにふさわしい方です。

だから、私の言動によって、あなたがあがめられるように。あなたは、私の服従と敬いにふさわしい方です。

私があなたに従わないとき、あなたを敬わないとき、赦してください。

そんなときにも関わらず、あなたが私の大祭司として、私のために忠実にとりなし続けてくださり、感謝します。

あなたの素晴らしい恵みを感謝します。

あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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マタイの福音書 マタイ21章 マルコの福音書 マルコ11章 ヨハネの福音書 ヨハネ12章 ルカの福音書 ルカ19章

主がお入り用なのです。

私たちはついに、イエス様の人生の最後の週にたどり着きました。

この箇所では、一つのフレーズが私の心を深く打ちました。イエス様は弟子たちに次のように言われました。

向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。

もし「どうして、ぼくのか」とだれかが尋ねたら、「主がお入り用なのです。」と言いなさい。(ルカ19:30-31)

弟子たちがイエス様の言葉に従うと、その持ち主たちは彼らに問いかけました。

どうして、子ろばをほどくのか。(33)

弟子たちはイエス様の指示に従い答えました。その結果、持ち主たちはその子ろばを貸してくれました。

それを読んで、私は心の中で問いかけました。「主が私に、『私はこれが必要だ』と言う時、私はどう反応するだろうか。」

例えば、イエス様が「その人を助けるために、私はあなたのお金が必要です。その人は経済的に苦しんでいるから」と言ったら、私はすぐに「はい、どうぞ」と答えるでしょうか。

または、私がどこかに向かっている途中で誰かにばったり会った際に、イエス様が「私はあなたの時間が必要です。その人と話しなさい」と言ったら、私はどうするでしょうか。

または、イエス様が「あなたが西宮を去る時が来ました。私に仕えるために別の場所へ行きなさい」と言ったら、私は「はい、行きます」と答えるでしょうか。

それとも、私が自分の持っているものにしがみついてしまうのでしょうか。

実際には、自分自身で確信を持てません。過去を振り返ると、何度もイエス様が「こうしなさい。私はあなたからこれが必要だ」と言われたにもかかわらず、私は拒んでしまったことがあります。

「忙しい。」

または、

「私はそのお金が必要だ。別の物を買いたいから。」

弟子たちはそのろばをイエス様の元に連れて行き、イエス様をそのろばに座らせて、王としてあがめました。

私たちも同じようにするべきです。イエス様が私たちに「これが必要だ」と言われた時、私たちはその物をイエス様にささげ、イエス様を私たちの王としてあがめるべきです。

私はそうできるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ6章 ルカの福音書 ルカ11章

山上の説教:私たちの誉れにふさわしい方

多くの人々は、この祈りを「主の祈り」と呼びます。しかし、実は「弟子の祈り」と呼ぶ方が適切だと思います。なぜなら、この祈りを祈るのはイエス様ご自身ではなく、イエス様の弟子たちだからです。

とにかく、イエス様は、こう言われました。

だから、こう祈りなさい。。。御名があがめられますように。(マタイ6:9)

この箇所では、新改訳聖書の翻訳者は「あがめる」という言葉を使いました。このギリシャ語には確かにその意味があります。

とはいえ、この言葉にはもう一つのニュアンスがあります。それは「聖い」という概念を含んでいます。

そのため、マタイ23:17では「聖いものにする」と翻訳され、ローマ15:16では「聖なるものとされた」と訳されています。さらに、第一テモテ4:5では「聖められる」と訳されています。

つまり、「御名があがめられますように」という祈りの意味は「御名が聖なるものと見なされますように」または「御名が聖なるものとしてあがめられますように」ということです。

もう一つ重要な点があります。聖書時代の文化では、人の名前がその人の性格や本質を表していました。

したがって、「御名が聖なるものとしてあがめられますように」と祈るとき、その意味は「神様ご自身が聖なる方としてあがめられますように」ということになります。

では、私たちが「神様は聖なる方だ」と言うとき、それはどういう意味でしょうか。

基本的には、神様が完全であり、欠点が全くない方だという意味です。神様は全く聖い存在であり、何一つ欠けるところがありません。

その一方で、私たち人間は不完全であり、私たちの性格は全く聖いものではありません。

だから、私たちは神様の完全さと聖さを見ると、神様に畏敬の念を抱くことはふさわしいことです。また、神様の完全さと聖さを見るとき、神様をあがめるのは当然のことです。

けれども、神様をあがめるだけでは十分ではありません。神様を見るとき、私たちは天のお父さんのようになりたいという思いが湧くべきです。つまり、私たちは天のお父さんを喜ばせたいと願い、自分の霊的な不潔と欠点を嘆くのです。

もし、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るなら、罪深い生活を送る余地はありません。「まあ、神様が私を赦してくれるので、罪を犯してもいい」と言うことは全くできません。

もしあなたが本当に神様の子供であるなら、「御名が聖なるものとして、あがめられますように」と祈るとき、その祈りの意味は「神様、私はあなたに畏敬の念を抱きます。あなたを愛しているので、あなたのようになりたいです。どうか私を助けてください」ということです。

そのように祈るなら、神様はその祈りにきっと答えてくださいます。神様はご自身の子供が神様を模倣することを見ると、本当に喜ばれるのです。

そして、もし私たちが罪の泥に落ちるなら、神様は私たちを助けてくださり、イエス様の血によって私たちを清め、導き続けてくださいます。

また、神様は私たちに、神様のように聖い人生を送る力を与え、どのようにそのような生活を送るかを教えてくださいます。

あなたはどうでしょうか。神様に畏敬の念を抱いているでしょうか。そして、天のお父さんのようになりたいと願っているでしょうか。