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ルカの福音書のデボーション

いつでも整っている?

腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。(35ー36)

今日の箇所では、イエス様は再臨の準備について語られています。

しかし、私はこう思いました。「イエス様がいつ戸をたたかれるときでも、私にはすぐにお応えできる心が必要です。」

私が全然予想しないとき、イエス様が突然戸をたたき、こう言われるかもしれません。 「今、私はあなたを必要としています。あなたに触れてほしい人がいるのです。」

そのとき、私はすぐにお応えすることができますか。

私にとって、それは決して簡単なことではありません。自分の人生が自分のものであるかのように生きることは容易だからです。けれども、私の人生はイエス様のものです。私はイエス様のしもべです。

だから、イエス様が私の戸をたたかれるとき、いつでも私の心は整えられていなければなりません。

あなたはどうでしょうか。あなたの心は整っていますか。

帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。(37)

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ペテロの手紙第二

イエス様を本当に知り、愛するなら

この話を読んだとき、私はイエス様のミナのたとえ話を思い起こしました。(ルカ19:11ー27)

このたとえ話では、ある主人が三人のしもべたちにお金(ミナ:お金の単位)を投資させるために与えました。二人のしもべたちはそのお金をうまく投資し、利益を得たため、主人は彼らに気前よく報酬を与えました。

ところが、三人目のしもべは、そのミナを安全な場所にただ隠してしまいました。そのしもべの言い訳を聞くと、彼が主人の性格を正しく理解していなかったことが分かります。

そのしもべは主人を厳しい方だと考えました。また、彼は主人が何もせずにしもべたちに苦労させ、彼らの労働でお金を得ていると文句を言いました。そのため、このしもべは主人のお金を投資することを拒否したのです。

多くの人々は、このしもべのようです。彼らは自分がクリスチャンだと自称し、教会に通っているにもかかわらず、神様の性格に疑いを抱いています。彼らは神様が厳しく、不公平な方だと考え、神様が私たちの最善を知り、私たちの最善を望んでおられることを疑っています。

要するに、彼らは神様が良い方であることを疑っているのです。その結果、彼らは神様とその目的のために生きることを拒否します。

けれども、神様を知り、神様を愛する人がそのように生きることができるでしょうか。もちろんできません。

とはいえ、若いクリスチャンは神様をまだ十分に知らず、神様に対する愛もまだ未成熟であるかもしれません。しかし、私たちが成長するにつれて、神様に対する考え方は変わり、神様への愛が深まっていくはずです。

ペテロが言ったように、私たちが神様を知れば知るほど、神様の恵みと平安は私たちに豊かに溢れます。それはどうしてでしょうか。それは、神様が良い方であると悟るからです。

例えば、私たちは神様から次のような賜物を与えられます。赦しの賜物、永遠のいのちの賜物、御霊の賜物などです。神様が良い方であることを知るにつれて、私たちはさらに神様を愛し、神様のようになりたいと願うのです。つまり、

  • 私たちは神様の良い性質を見て、神様の性質を自分のものとしたいと願います。
  • 私たちは神様の知恵を目にし、それを学び取りたいと思います。
  • 誘惑の中で示されたイエス様の自制を見ると、私たちもその自制を身につけたいと願います。
  • イエス様が十字架の苦しみにさえ耐え抜かれたので、私たちも試練の時には忍耐と勇気を持つことができます。
  • イエス様が天の父の御声を聞き、それに従う姿を見ると、私たちもその模範に従いたいと願います。
  • 私たちは神様の愛と親切を知り、その愛と親切を周りの人々に示したいと思います。

だからペテロはこう言います。

これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。(ペテロの手紙第二1:8)

そして、イエス様のたとえ話に出てくるしもべたちのように、

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。(11節)

しかし、ペテロは私たちに警告します。

これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。(9節)

三人目のしもべは、そのような人でした。彼は主人の良い性質を忘れてしまい、その結果、彼は盲目的になり、自らの来たる破滅を予測することができませんでした。

あなたはどうでしょうか。あなたは神様をどのように見ていますか。神様の本当の性質を見ていますか。それとも、もしかすると、神様に対するあなたの考え方は歪んでいるかもしれませんか。

神様に対するあなたの考え方は、あなたの人生全体を形作ります。そして、裁きの日には、あなたの態度が明らかになります。

その日、神様はあなたについて何を言われているでしょうか。

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ペテロの手紙第一

神様のしもべとして生きる

以前の記事で私は言いましたが、あるクリスチャンたちは神様を自分の人生のアップグレードとして考えます。そういうわけで、彼らはほとんどいつも通りの生活を続けながら、自分の人生に宗教的な要素を付け加えます。

例えば、彼らは教会に行ったり、祈ったり、聖書を読んだり、ある悪い習慣を捨てたりします。けれども、それ以外の点では、自分勝手に生きているのです。

しかし、神様はただ私たちの人生をアップグレードしたいとは思っておられません。神様は私たちの主になりたいのです。

さらに、神様はただ私たちの人生を改良したいと思っているのではありません。神様は私たちを新しい者にしたいと望んでおられるのです。

神様は、私たちがイエス様のようになり、この世の人々に神様の代表者となるようにと望んでおられます。

だからこそ、ペテロはこう言うのです。

異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(ペテロの手紙第一2:12)

その言葉は、イエス様の言葉に似ています。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

キリストのしもべとして、私たちはこの世におけるイエス様の代表者です。私たちはもはや自分のために生きるのではなく、むしろイエス様の代表者として生きるのです。

だからこそ、神様は私たちの言動を気にかけておられます。というのも、私たちの言動によって、神様の御名が栄光を受けることもあれば、逆に恥をかけられることもあるからです。

私たちが神様を反映する方法の一つは、権威にどのように反応するかということです。私たちは神様が立てられた政府に尊敬を払うべきでしょうか。ペテロによれば、私たちはそうすべきです。(13-14)どうしてでしょうか。

善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。(15)

私たちが政府を尊重しない、つまり、権威を持つ人を尊重しない場合、私たちが代表する神様の御名を汚すことになります。そのうえ、それを人前で行うと、さらにその影響は大きくなります。

パウロは、大祭司の命令で打たれたときにもそれを心がけました。(使徒の働き23:2-5)

しかし、16節で私たちはペテロの主な要点を見ることができます。

自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。(16)

簡単に言うと、私たちは宗教のルールから解放されました。

けれども、その自由は罪や自分勝手な生活の言い訳として使うべきものではありません。私たちはもはや自分自身のものではないのです。なぜなら、私たちは代価をもって買い取られたからです。(第一コリント6:19-20)

だからこそ、神様のしもべとして生きましょう。では、そんな人生とはどのようなものでしょうか。ペテロはこう言うのです。

すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。(17)

あなたはどうでしょうか。あなたは良い代表者として生きているでしょうか。周りの人々があなたを見るとき、彼らはあなただけを見ているのでしょうか。それとも、もしかしたら、彼らはあなたを通して神様を見るでしょうか。

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コリント人への手紙第一

どのような心で主に仕えるか?

ある程度、私は前回のブログの内容を繰り返します。しかし、今回は特に強調したい点があります。

まず第一に、神様と共に働くことは私たちの特権です。パウロは次のように語りました。

私たちは神のために働く同労者であります。(コリント人への手紙第一3:9)

聖書の脚注を参考にすると、別の訳を見ることができます。

「私たちは神の協力者。」

この言葉について少し考えてみましょう。神様は実際には私たちの助けを必要とされません。神様は一人でご自身の働きを成すことができます。

しかし、神様は私たちを用いることを選ばれます。そして、神様は私たちをその働きに参加するよう招いておられます。それは本当に驚くべきことです。

神様が私たちを救われた目的は、単に座って神様の恵みを享受することではありません。神様は、私たちが御国において積極的に働くことを望まれます。

だから、神様は私たちを招いておられます。「私の働きに参加しませんか。一緒に働きましょう。」

しかし、二つ目のポイントは、神様が私たちを招かれる目的が、私たちの栄光ではないということです。パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。

あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。(5)

しもべは周囲の人々の注意を引こうとはしません。本当に良いしもべは、人に気づかれることがありません。それでも、その人は与えられた務めを忠実に果たします。

そして、一日の終わりに、その人はこう言います。

私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです。(ルカ17:10)

この世の主人はしもべを評価しないかもしれず、あるいは見下すことさえあるかもしれません。しかし、神様は私たちを協力者として見なされ、私たちと共に働かれます。

なぜなら、神様が私たちの人生の中で働かれず、また私たちを通して働かれなければ、私たちは何も達成することができないからです。だから、パウロは次のように書きました。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。(6)

したがって、私たちには誇るべき余地はありません。パウロは続けてこう言います。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。(7)

最後に覚えておくべきことは、神様の働きに参加する人々は教会のリーダーたちの労働者ではないということです。彼らは神様の畑であり、神様の建物なのです。(9)

多くの人々は、ミニストリーの縄張りを作りがちです。同じミニストリーに携わっていると、それを自分の縄張りと考え、そこで働く人々を自分の労働者のように思い始めてしまうことがあります。

しかし、主はそれぞれの人々に働きを任命されます。そして、主は常に人々をその働きに参加するよう招いておられるため、新しい人々が加わると、既存の人々の責任が変わることもあります。それは御国の成長のためなのです。

しかし、イエス様が他のクリスチャンを招くとき、あるクリスチャンは怒ることがあります。なぜなら、新しく加わった人々が自分の縄張りを脅かしていると感じるからです。

そして、もしその人々がより才能に恵まれていたなら、彼らは嫉妬してしまうでしょう。

しかし、心に留めておきましょう。すべてのクリスチャンはキリストの体の中で、それぞれの役割を持っています。神様は一人ひとりに異なる働きを与えてくださいました。

私たちはもちろん神様と共に働きますが、同時に他のクリスチャンたちと協力して働くのです。

だからこそ、縄張り意識と嫉妬を手放しましょう。教会は神様の畑であり、神様の建物なのです。

何よりも、私たちは神様との関係に焦点を当てるべきです。神様が私たちをご自身の働きに招く理由は、私たちが神様とより多くの時間を過ごすことです。その中でこそ、私たちは本当の喜びを見つけるのです。

あなたは神様の働きをするとき、どのような心構えを持っていますか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章

私たちの模範

聖書では、神様はイエス様とその十字架の働きについて、さまざまな生々しい描写を与えてくださいました。

まず、神様はアダムとエバに、「やがて、ある者が蛇の頭を踏み砕く。しかし、その時、その者のかかとも傷つけられる」と約束されました。(創世記3章)

また、神様がアブラハムに、イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じられた場面があります。(もちろん、アブラハムがイサクを殺す前に、神様は彼を止められました)(創世記22章)

さらに、神様の律法において、多くのいけにえや捧げものがイエス様を指し示していました。

それだけでなく、預言者イザヤはイエス様について詳しく預言しています(特にイザヤ53章)。ダビデの詩篇もまた、イエス様を指し示しています(例えば詩篇22篇)。

けれども、イエス様が十字架で死ぬ前に、もう二つの重要な描写を与えてくださいました。一つ目は、もちろん聖餐式です。(別の記事でそのことについて触れます。)

そして二つ目は、この箇所にあります。それは、とても美しい描写だと思います。

イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を抜き、手ぬぐいを取っ手にまとわれた。(ヨハネの福音書13:4)

それは何の描写なのでしょうか。パウロはこう語りました。

キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。(ピリピ2:5-7)

イエス様は神でありながら、ご自身を空しくされました。もちろん、イエス様は依然として神でしたが、栄光の衣を脱ぎ、人間となられました。

それだけでなく、王として来られたのではなく、しもべのかたちを取られました。

パウロは続けてこう言いました。

人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。【ピリピ2:8)

イエス様がご自身を低くされ、弟子たちの足を洗われたように、イエス様はさらにご自身を低くされ、十字架で死なれました。その結果、今、私たちの罪はイエス様の血によって洗われています。

だから、ペテロがイエス様の奉仕を遠慮しようとしたとき、イエス様はこう語られました。

わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。(ヨハネ13:8)

要するに、「ペテロ、あなたは私のたとえを妨げています。私があなたの足を洗うように、私はあなたの心を洗わなくてはなりません。もし私があなたの罪を清めなければ、あなたは私と関係がなくなってしまいます。」ということです。

イエス様は彼らの足を洗われた後、上着をまとい、再び席に戻って、彼らの主として振る舞われました。

そのようにして、パウロはこう語りました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエス様の名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ2:9-11)

イエス様が弟子たちに問いかけられたように、今も私たちに同じ質問を投げかけられます。

わたしがあなたがたに何をしたのかわかりすか。(ヨハネ13:12)

あなたは理解しているでしょうか。

あなたの罪が許されるために、イエス様が何を捨て、何をささげられたのかを分かっていますか。

もしそれを理解しているなら、イエス様はあなたにこう語られます。

あなたがたは私を「先生」とか「主」とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。その通りなのですから。

主である、師でああるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたにも範を示したのです。。。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:13-15、17)

イエス様は私たちの模範です。イエス様はしもべとして歩まれました。そして、イエス様は私たちをご自身のように生きるように招いておられます。

あなたは、しもべとして歩んでいるでしょうか。

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ヨハネの福音書 ヨハネ13章 ルカ22章

本当のリーダーシップ

私は以前にも述べましたが、四つの福音書を統合するのは時として難しいものです。

多くの場合、著者たちは出来事を年代順に伝えておらず、時には話の途中で脱線することもあります。最後の晩餐について読むと、私はそのように感じます。

弟子たちが食事をしているとき、彼らは誰が一番偉いかについて議論を始めました。なぜその話題になったのかは分かりませんが、もしかすると、過ぎ越しの祭りを祝うために二階の大広間に入った際、一人一人の席を巡って言い争いが起こったのかもしれません。

なぜなら、その文化では、イエス様の右に座る者が最も偉い弟子とされ、左に座る者が次に偉い弟子とされたからです。そして、イエス様から離れた席に座るほど、その弟子の地位は低く見なされました。

そのため、彼らは誰がイエス様の隣に座るべきかを巡って争っていたのかもしれません。

例えば、ペテロはこう言ったかもしれません。「俺はお前たちのリーダーだ。イエス様の右に座るのは当然だろう。」

するとヨハネは、「でも、イエス様は俺のことを一番好きだよ。」と言ったかもしれません。

また、ユダは「でも、俺は財務を担当している。だから、一番偉いはずだ。」と言ったかもしれません。

イエス様がこの言い争いをどれほどの時間見ていたのかは分かりませんが、ようやく弟子たちは不満げに席につきました。そして、そのときイエス様は驚くべき行動をとられました。

このような状況では、食事の前に誰かが他の人々の足を洗うことが習慣でした。当時、人々はサンダルを履き、未舗装の道を歩いていたため、すぐに足が汚れてしまいました。

通常、しもべが足を洗いましたが、しもべがいない場合は最も若い者がその役目を担うことになっていました。したがって、本来であればヨハネが行うべきだったかもしれません。

けれども、彼は何とかイエス様の隣の席を確保した(ヨハネ13:23)ため、しもべの役を引き受けるのを避けたかったのかもしれません。そして、その大喧嘩の末、他の弟子たちも足を洗う気にはなれませんでした。

イエス様は弟子たちを叱責する権利がありました。しかし、イエス様は責めるのではなく、愛を示されました。

イエス様は席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻かれました。そして、弟子たちの足を洗い、拭かれました。

それを見て、弟子たちは恥ずかしい思いに駆られたでしょう。特に、イエス様がその仕事をしているのは、彼らがそれを避けたせいでした。彼らの中で、誰もその仕事を引き受けたくなかったのです。

イエス様はその務めを終えると席に戻り、彼らに問いかけられました。

わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。あなたがたはわたしを「先生」とか「主」とか呼んでいます。

そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。(ヨハネ13:12-14)

イエス様は続けてこう言われました。

異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。

あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。(ルカ22:25-27)

そして、イエス様は結論を述べられました。

わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。(ヨハネ13:15-17)

イエス様は、彼らに何を教えようとされたのでしょうか。

イエス様は、彼らを大きな責任を担う者として選ばれました。やがて、イエス様は彼らに王権を委ねられます。彼らはイスラエルの十二部族を治め、イエス様の国でその食卓に着き、共に食べたり飲んだりするのです。

とはいえ、イエス様が以前言われたように、リーダーシップとはただ人々に命令を下すことではありません。本当のリーダーは人々に仕える者です。そのため、イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして、イエス様は私たちの罪のために死なれました。

だからこそ、私たちリーダーも同じことを実践すべきです。

リーダーシップの祝福は、私たちの権利にあるのではありません。それは、人々に命令することではなく、むしろイエス様のように人々に仕えることにあります。それこそが、本当のリーダーシップなのです。

あなたは、リーダーシップをどのように定義するでしょうか。それは、人々があなたに仕えることでしょうか。それとも、あなたが人々に仕えることでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ20章 マルコの福音書 マルコ10章

全く違う態度

前回の記事で述べたように、イエス様は弟子たちにはっきりとご自分のミッションを説明されましたが、彼らはまだ理解していませんでした。

彼らは、なぜイエス様がこの世に来られたのか、また、間もなく訪れる試練について理解していませんでした。

もし彼らがそのことを正しく理解していたなら、おそらくヤコブとヨハネ(そして彼らの母親)は、イエス様にこの願いをしなかったでしょう。彼らは次のように頼みました。

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。(マルコ10:37)

イエス様はその願いを聞いて、どのように感じられたでしょうか。その直前に、イエス様は彼らに「私はすぐに殺される」と語られたばかりでした。

それにもかかわらず、弟子たちは自分たちの地位のことを気にしていたのです。そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けることができますか。(マルコt10:38)

つまり、「私の話を全然聞いていないのですか。私は死にます。あなたたちは私の右と左で死にたいと思うのですか」ということです。

それがイエス様が意味されたことでした。けれども、いつものように、ヤコブとヨハネはその言葉を完全に誤解しました。そのため、彼らは「できます」と答えたのです。

そこで、イエス様は彼らにこう言われました。

確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(39)

実際、その二人は後にイエス様のために大きな苦しみを経験しました。ヤコブは殉教し、ヨハネは追放されました。

それでも、イエス様は彼らにこう言われました。

しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。(40)

他の弟子たちはヤコブとヨハネの願いを聞くと、本当に怒りました。なぜでしょうか。ヤコブとヨハネがイエス様の感情を全く考えなかったからでしょうか。

いいえ、そうではありません。おそらく、彼ら自身がヤコブやヨハネよりも、自分たちのほうが資格があると思っていたからでしょう。

それでも、イエス様は彼らを集めて、こう言われました。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。(マルコ10:42-45)

要するに、イエス様はこう言われていました。

「あなたたちは自分自身の態度を変えなくてはなりません。

あなたたちは、私の王国においてどのような位置を持つかを心配しています。それは、偉い人が楽な人生を送るものだと思っているからです。あなたたちは、周りの人々に命令し、彼らがあなたたちに仕えるだろうと思っています。

けれども、私の王国では、それが偉い人ではありません。もしあなたたちが偉くなりたいのであれば、人々に仕えなければなりません。そして、もし先頭に立ちたいのであれば、皆のしもべにならなければなりません。

なぜなら、私は仕えられるために来たのではないからです。私は人々に仕えるために来たのです。さらに、私は彼らのために命を捧げるために来たのです。」

実際、私自身もそのような態度が必要です。私はしばしば自分自身を他の人々と比べたり、競争したりしてしまいます。けれども、ミニストリーにおいて、そのような態度は適切ではありません。私たちは仕える心が必要です。

この態度はミニストリーだけでなく、私たちの日常生活にも欠かせないものです。

職場では、私たちは同僚や顧客に仕えるべきです。

家庭では、夫たちは妻や子供に仕える心を持たなければなりません。

正直に言うと、この三つの場面において、私はよく失敗します。

それゆえ、ある古い英語の讃美歌が、私の祈りそのものです。

また、「The Witness」(目撃者)というクリスチャンのミュージカルの中で、ヤコブとヨハネは次のように歌いました。

Lord make me like you.  Please make me like you.
主よ、私をあなたのように変えてください。
You are a servant.  Make me one too.
あなたはしもべです。私もしもべとなれるようにしてください。
O Lord I am willing.
主よ、私の心は開いています。
Do what you must do to make me like you Lord.
あなたがしなければならないことをどうぞしてください、私があなたのようになれるように。
Make me like you.
あなたのように私を変えてください。
Whatever you do Lord, please make me like you.
何をされても、どうしても私をあなたのように変えてください。

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最も偉い人

時々、私はクリスチャンとしてどれほど成長しなければならないかを見て、落胆してしまいます。けれども、弟子たちに対するイエス様の忍耐を思うと、私は励まされます。

弟子たちがカペナウムへ向かう途中、彼らは「誰が一番偉いか」について議論していました。おそらく、イエス様はそのやり取りを聞きながら、静かに歩みを進めておられたのでしょう。そして、彼らが家に着いたとき、イエス様はこう尋ねられました。

道で何を論じ合っていたのですか。(マルコ9:33)

多分、弟子たちは恥ずかしくて、何について話していたのかを認めることができず、黙っていました。そこで、イエス様は彼らにこう語られました。

だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。(マルコ9:35)

おそらく、弟子たちはそれを聞いて混乱し、イエス様に尋ねました。

それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。(マタイ18:1)

おそらく、弟子たちは「私たちの中で、一番偉いのは誰でしょうか」と尋ねたかったのでしょう。

すると、イエス様は小さな子供を腕に抱き寄せ、こう答えられました。

まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。(マタイ18:3-4)

イエス様が意味されたことは何でしょうか。

まず一つ目は、小さな子供のようにならなければ、誰も天国に入ることができないということです。

小さな子供の特徴は何でしょうか。彼らは謙遜であり、すべてを知っているとは思いません。そのため、いつも両親に質問をし、何事にも両親を頼りにします。

私たちが天国に入りたいのなら、そのような態度を持たなければなりません。神様の前で謙遜になり、自分がすべてを知っているわけではないと認め、神様の知恵と導きを求める必要があります。

また、神様に頼ることを学ばなければなりません。もちろん、救いのために神様に頼ることは不可欠です。けれども、それだけではなく、日々の生活の中で神様の知恵と力に頼ることを学ぶ必要があります。

しかし、多くの人々はそのように生きません。彼らは、自分の力と知恵が十分であると考え、それに頼って生きています。けれども、そのように考え、生きるなら、彼らは決して神様の国に入ることはできません。

クリスチャンの中にも、自分の知恵と力に頼り続ける人がいます。私自身もそのようになりがちです。しかし、私も少しずつ、自分の弱さを理解し、どれほど神様が必要なのかを実感するようになっています。

イエス様の二つ目のポイントは、偉さとは、何人の人があなたに仕えるかによって測られるものではないということです。むしろ、一番偉い人は周囲の人々に仕える者です。だから、イエス様はこう言われました。

「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

偉大なリーダーたちについて考えてみてください。彼らは無理やり人々を従わせる必要はありませんでした。むしろ、人々はそのリーダーに喜んで従いました。そして、彼ら自身も周囲の人々に仕えるために生きました。

そのため、たとえ相手から何の利益も得なくても、真のリーダーは人々に仕えるのです。

イエス様はこう言われました。

だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。

また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。(マルコ9:37)

子供に仕えても、大きな利益があるわけではありません。なぜなら、彼らはあなたに多くを与えることができないからです。しかし、子供に仕えることは、実はイエス様に仕えることなのです。

さらに、イエス様への愛ゆえに、あなたが誰かに仕えるとき、実はイエス様に仕えているのです。イエス様の目には、そのような人こそ偉大な存在です。

あなたは偉い人になりたいでしょうか。

子供のようになりましょう。謙遜でいましょう。他者に仕えましょう。相手が偉い人であっても、そうでなくても、彼らのニーズを優先しましょう。

あなたはどうしますか。