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ルカの福音書 ルカ17章

神様の御国を見るため

この箇所で、パリサイ人たちはイエス様に、神の国がいつ来るのかを尋ねました。

もしかすると、彼らの意図は、「あなたは本当にメシアなのですか?もしそうなら、私たちにしるしを示してください」ということだったのかもしれません。

しかし、いつものように、イエス様は批判者に対してしるしを与えることを拒まれました。むしろ、イエス様はこう答えられました。

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。

「そら、ここにある」とか、「あそこにある」とか言えるようなものではありません。

いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。(ルカの福音書17:320-21)

イエス様は何を意味されたのでしょうか。「あなたたちは神の国のしるしを求めすぎて、その到来をすでに目の前で見ながらも認識できていません。」

つまり、「あなたの王はすでに来ています。その王はあなたがたの間で御国の業を行っています。それを目の当たりにしているのに、なぜなおもしるしを求めるのですか。」ということです。

パリサイ人たちは、神様が何をしているのかを見ることができませんでした。とはいえ、あなたはどうでしょうか。

神様はあなたの周りの人々の心の中で働いています。神様は彼らの人生を変えたいと願っておられます。そして、神様はあなたを通して彼らに触れたいと願っておられます。

けれども、あなたは自分の人生に気を取られすぎて、神様が何をしているのか気づけていないでしょうか。

あるいは、聖書に書かれた預言に強い関心を持ち、イエス様がいつ再臨されるのかばかりを気にしすぎるあまり、神様があなたの周囲でどのように働いておられるのかを見失ってはいないでしょうか。

もちろん、聖書の預言は重要です。けれども、もし神様の働きを見失っているなら、私たちの視点はゆがんでおり、神様は私たちを御国の働きのために用いることができません。

あなたはどうでしょうか。あなたの周りで神様がどのように働いておられるのかを見ているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ12章 ルカの福音書 ルカ11章

私たちは御霊を歓迎しないと

パリサイ人たちは、「イエス様が悪魔の力によって悪霊を追い出している」と言いました。

そのため、イエス様は彼らの不信を責められました。そこで、彼らはイエス様にしるしを求めました。

しかし、たとえイエス様がしるしを示されたとしても、彼らはそれでも信じなかったでしょう。だからこそ、イエス様は彼らの要求を拒まれました。

では、なぜ私は「彼らはしるしを見ても信じなかっただろう」と思うのでしょうか。それは、イエス様がすでにヨナのしるしを彼らに示されたからです。

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいた後、その魚から出たように、イエス様も三日三晩、地の中にいた後、お墓から出られました。ところが、イエス様がよみがえられた時、パリサイ人たちはそれでもイエス様を信じませんでした。

そのため、イエス様はもう一度彼らの固い心を責められました。具体的には、イエス様は「ニネベの人々と南の女王(つまり、シェバの女王)が彼らを裁く」と言われました。

なぜなら、彼らはヨナやソロモン王のメッセージを聞いた時、悔い改めたからです。

一方で、イエス様がソロモンやヨナよりも優れた方であるにもかかわらず、パリサイ人たちは信じようとしませんでした。

そのため、イエス様は彼らに例えを示されました。その例えを通して、イエス様は「彼らがイエス様を信じないこと、また、聖霊を拒絶することの結果」について教えられました。

イエス様はこの世に来られた時、地獄の力を克服されました。例えば、その時、イエス様は多くの悪霊を人々から追い出されました。けれども、イエス様はイスラエルの民とパリサイ人たちに警告されました。

「私は悪霊を追い出し、地獄の力を克服し、私の賜物、つまり御霊を与える。ところが、もしあなたたちが御霊を拒絶するなら、地獄の力が戻り、あなたの状態は以前よりも悪くなる。」

なぜでしょうか。それは、あなたが神様の力を味わい、あなたを救うことのできる方に触れられたにもかかわらず、その方を拒絶したからです。

そして、イエス様は山上の垂訓の例えをもう一度語られました。それは、「体のあかりは、あなたの目である」ということです。もちろん、これは物理的な真理ですが、同時に霊的な真理でもあります。

イエス様は私たちに問いかけられます。「あなたは何を見ていますか。神様が語られるとき、その真理を見えますか。私を見るとき、私が誰であるか分かりますか。」

もし私たちが正しく見ることができるなら、私たちの人生は光に満ちるでしょう。しかし、正しく見えなければ、私たちの人生は暗闇に満ちてしまいます。そのため、イエス様は私たちに警告されます。

だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。(ルカ11:35)

あなたはどうでしょうか。イエス様をあなたの主と救い主として受け入れていますか。御霊をあなたの人生に歓迎していますか。

もしあなたが心を神様に対して固くしてしまうなら、サタンの破壊的な働きを受けやすくなります。

しかし、もしあなたが心を御霊に開くなら、命を見いだすのです。

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マタイの福音書

信じられない?もしくは、信じたくない?

多くの人々は「私は神様の存在を信じられません」と言います。そして、彼らはその理由をいくつも挙げます。

けれども、多くの場合、彼らが本当に信じられないわけではありません。むしろ、信じようとしないのです。

彼らは自然の中に神様の働きを見ます。周囲の人々の人生にも、時には自分自身の人生にも、神様の働きを感じることがあります。それでも、神様を信じようとはしません。なぜでしょうか。

なぜなら、神様が存在するなら、彼らは自分の人生が自分のものではないことを認めなくてはならないからです。自分勝手に生きることはできません。そして、神様の前で自分の人生について申し開きをしなくてはならないのです。

だから、彼らはさらに証拠を求めます。しかし、その証拠が与えられても、彼らはなおも証拠を求め続けるのです。

神様がご自身を明確に現わされたとしても、彼らはそれが幻覚だと自分に言い聞かせるかもしれません。「もしくは、お酒を飲みすぎたのかもしれない」と思うこともあるでしょう。

イエス様の時代、イスラエルの人々も同じように反応しました。イエス様が奇跡を行い、病の人を癒し、死者を復活させても、なお信じない人々がいました。むしろ、さらに多くの奇跡を求めました。

その結果、イエス様は彼らに「もうしない」と言われました(マルコ8:12)。

さらに、イエス様は信じない人々を裁かれました。

ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。

しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。

カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。

おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。

しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:21-24)

この言葉で、イエス様は私たちに何を教えておられるのでしょうか。神様が私たちにご自身を示されれば示されるほど、また、語りかけられれば語りかけられるほど、私たちはより大きな責任を負うことになります。そして、神様を拒み続けるなら、私たちは厳しく裁かれるのです。

ですから、もしあなたが本心では信じたくないと思っているなら、「もっとしるしを示してください」と祈ることは非常に危険です。なぜなら、そのしるしが示された時点で、あなたには責任が生じるからです。

やがて、私たちは皆、神様の御前に立つことになります。その日、神様は私たちの言い訳を取り除き、心の奥にある動機を明らかにされるのです。

その日、あなたは気づくでしょう。あなたが信じられなかったのではなく、信じようとしなかったのだと。そして、あなたは裁きを受けることになります。

ですから、あなたの言い訳を捨ててください。あなたのプライドを捨ててください。もしイエス様を主として受け入れ、従うなら、あなたは祝福されます。この世においても、そして永遠の世界においても、祝福されるのです。

ペテロはこう言いました。

ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(第一ペテロ5:6)

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エゼキエル書

隠れたものを見ておられる方

時々私たちは「神様は私たちが何をしているかご存じだろうか」と考えます。また、「神様は私のすることを気にされるだろうか」と思うことがあります。

けれども、この箇所で神様はこう言われます。「もちろん、私はあなたの行動に気づき、それを気にしています。」

この幻で、エゼキエルはエルサレムに連れて行かれ、そこで多くの罪を目撃しました。

彼は、主の宮の内庭で偶像を見ました。また、70人の長老たちが偶像を礼拝しているのを見ました。

エゼキエルが宮の門に戻ると、彼は地力と雨の神タンムズの前で泣いている女性たちを見ました。そして、太陽を礼拝している男性たちも目撃しました。

どうして彼らはそのような罪を犯したのでしょうか。それは、彼らがこう言ったからです。

主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。(エゼキエル書8:12)

だから、神様は彼らを裁かれました。

しかし、神様は隠れた悪だけを見ておられるのではありません。神様はご自身を愛する者たちのことも見ておられます。それゆえ、神様はある男(おそらく天使)にこう言われました。

町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。(エゼキエル書9:4)

そして神様はエルサレムの人々を裁かれましたが、しるしが付けられた人々を救い出されました。

私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。他の人々が気づいていなくても、神様は私たちのすべての行動をご存じです。

私たちの罪は神様から隠れることがありません。そのため、いつか神様はすべての罪人を裁かれるのです。

とはいえ、もしあなたが神様に従い、この世の悪を見て心を痛めたとしても、失望しないでください。

この世では一時的に悪が支配しているように見えるかもしれませんが、最終的には神様が正義によってこの世を裁かれるのです。

その時、神様は私たちを覚えてくださり、救い出してくださいます。

さらに、神様は私たちに報いを与えてくださるのです。

主よ。あなたがすべてを見てくださることを感謝します。あなたの目から隠れるものは何一つありません。

私が人と一緒にいる時も、一人でいる時も、私の人生が清いものとなりますように。私がどこにいても、だれと一緒にいても、私の人生があなたを喜ばせるものとなりますように。アーメン。