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詩篇のデボーション

神様の懲らしめの中にある私たちの心

この詩篇を読むと、私はダビデの心に深く動かされます。

彼は神様の懲らしめを受け入れているようです。もしかすると、これは歴代誌第一21章に記されたダビデの罪の後の祈りだったのかもしれません。

いずれにせよ、ダビデは神様の懲らしめに不満をぶつけて主から離れるのではありませんでした。

むしろ、彼は知恵の心を求めました。特に、このはかない人生の中で何が本当に大切なのかを知りたいと願ったのです。(詩篇39:4〜6)

また、自分はただこの壊れた世界を通り過ぎていく旅人にすぎないことを心に留め、懲らしめの中でも主と共に歩みたいと願いました。(12節)

今年、私もそのような心を願います。正しいものの見方を保つ知恵の心を持ち、へりくだって主と共に歩み続けたいのです。

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出エジプト記のデボーション

頑固な心

いつまで、わたしの前に身を低くするのを拒むのか。(出エジプト記10:3)

ファラオの頑固さを批判するのは簡単なことです。

でも、私たちはどれほど頑固な心を保っているでしょうか。

自分が間違っているとよく知っているのに、私たちは身を低くすることを拒みます。

私も、時には頑固です。

神様は、私の頑固な心にどれほど驚かれるでしょうか。神様は、私にこう言われるでしょうか。

「いつまで、わたしの前に身を低くすることを拒むのか。」

アバ、お父さん、私が柔らかく、へりくだる心を保つことができるように助けてください。

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箴言のデボーション

神様に怒っているの?

人の愚かさは自らの道を滅ぼす。その心は主に向かって激しく怒る。(箴言19:3)

私たちは、自分の悪い決断によって困ってしまうことがどれほど多いでしょうか。それなのに、神様に怒りを向けてしまうことがあります。

私たちは、よく考えもせず、神様に相談することもなく、自分の思うままに行動してしまいます(2節、21節)。

あるいは、神様の戒めを無視してしまいます(16節、27節)。

または、すぐに怒りを爆発させてしまいます(11節)。

あるいは、怠けて時間を無駄にしてしまいます(15節)。

ソロモンはこう言いました。

主を恐れるなら、いのちに至る。満ち足りて住み、わざわいにあわない。(23節)

私たちは、神様の前にへりくだり、自分の悪い決断のゆえに神様に怒るのではなく、むしろ、すぐに悔い改め、神様とそのみ言葉に従いましょう。

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箴言

神様の前にへりくだる

今日はアグルという人の言葉を読みます。彼がどのような人物であるかは誰も知りませんが、彼の言葉は知恵と謙遜に満ちています。

1節の意味は少し曖昧です。多くの翻訳によれば、アグルはイティエルとウカルという人々に向かって話しています。

けれども、他の翻訳では、アグルはこう言っています。「私は疲れました。神様、私は本当に疲れ果てています。」

いずれにせよ、アグルは続けて語ります。

確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。(箴言30:2-3)

要するに、自分の弱さを認めて、アグルは神様の前に立ちました。彼のプライドは消え去りました。自分の力や知恵から生じるプライドはすべてなくなりました。

だからこそ、自分の弱さを認めたうえで、彼は神様を求めたのです。

4節で、彼はこう尋ねます。

だれが天に上り、また降りて来ただろうか。

だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。

その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

つまり、「誰が天に行ったことがあるでしょうか。誰がそのような経験を持ち、私たちに神様について説明することができるでしょうか。」

さらに、「私たちの創造主は誰でしょうか。その子の名前は何でしょうか。」

実際、アグルは自分の創造主をすでに知っていました。7節で彼が神様に祈っていることからも、その創造主を知っていたことは明らかです。

けれども、興味深いことに、彼はその創造主の子の名前を尋ねました。その答えを彼は全く知らなかったのです。

しかし、イエス様がこの世に来た時、その答えを明らかにしてくださいました。そしてイエス様は、アグルや他の誰よりも、神様について明確に説明することがおできになりました。

ヨハネはこう記しています。

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。(ヨハネ1:18)

そして、アグルは私たちに、神様の言葉に耳を傾け、神様を私たちの避けどころとするように励まします。彼はこう言いました。

神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。

神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。(箴言30:5-6)

そして、彼は心からの素晴らしい祈りを捧げます。

二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。

不信実と偽りとを私から遠ざけてください。

貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。

私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。

また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。(箴言30:7-9)

つまり、「私は自分の言葉と行動を通して、あなたを敬いたいです。だから、私を罪から遠ざけてください。」

私たちもそのような心を持ちましょう。神様の前にへりくだり、神様を敬いましょう。

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箴言

知恵:良い方向に変わる気がある

神様の私たちに対する愛と受け入れを、罪の許可と取り間違える人もいます。

彼らは「神様はもう私を受け入れてくださっているなら、どうして私は変わらなくてはならないだろうか。好きなように生きてもいいんじゃないか。」と思います。

しかし、この箇所によれば、知恵のある人は良い方向に変わる気持ちがあります。

この箇所は二つの招きで始まり、終わります。一つ目の招きは知恵から来ます。彼女は自分の家を整え、私たちが入るように招きます。彼女はこう言います。

「わきまえのない者はだれでも、ここに来なさい」と。

また、思慮に欠けた者に言う。「わたしの食事を食べに来なさい。わたしの混ぜ合わせたぶどう酒を飲み、(箴言9:4-5)

多くの人々は自分の行動の結果を全く予測できません。彼らはどんなふうに生きても、すべてが何とかなってしまうと思います。けれども、彼らの道は痛みに導き、最終的には死に至ります。

だから、知恵は叫びます。「その道を行き続けないでください。あなたのわきまえのない道を捨ててください。私はより良い道を示します。その道は命に導きます。」

しかし、愚かな女はこう言います。

わきまえのない者はだれでもここに来なさい。。。盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい。(箴言9:16-17)

(知恵のように、ソロモンは愚かさを女性と比べています。もしまだ読んでいないなら、昨日の記事を読んでください。)

要するに、「どうぞ自分の道を生き続けてください。罪は甘いものですよ。罪はおいしいし、あなたを喜ばせるから。」

あなたはどんな人ですか。良い方向に変わる気がありますか。

もちろん、神様はあなたをありのままで愛しておられます。けれども、神様があなたを愛しておられるなら、あなたを泥に住むままには残したくないのです。

ソロモンはこう書きました。

あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪者を責める者は、自分が傷を受ける。

あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。

知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。

正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。(箴言9:7-9)

イエス様はこのように言われました。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)

イエス様は犬や豚(つまり、あざける者)に聖なるものや真珠を与えてはならないと言われます。(その文化では、犬と豚には悪いイメージがありました。)なぜなら、彼らはその知恵に感謝せず、あなたを攻撃するからです。

けれども、知恵の真珠を知恵のある人に与えると、ソロモンは彼らがもっと賢くなると言います。

だから、私たちは自分自身にこう問うべきです。私たちは知恵のある人でしょうか。もしかしたら、私たちは犬や豚でしょうか。

人々があなたを戒めるなら、どうしますか。あなたはその言葉を反省するでしょうか。それとも反省せずにその言葉を拒絶するでしょうか。

あなたはへりくだって、人々からの戒めを受け入れられるでしょうか。それよりも、神様からの戒めを受け入れられるでしょうか。それをしてこそ、あなたは本当の知恵と命を見つけることができます。

だからソロモンはこう書きました。

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。

わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増すからだ。

もし、あなたが知恵を得れば、その知恵はあなたのものだ。

もし、あなたがこれをあざけるなら、あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言9:10-12)

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詩篇

神様についての二つの誤解

詩篇50篇の内容は、預言書の内容に似ています。そして、この箇所で、私たちは神様についての二つの誤解を見ます。

最初の部分では、神様は裁判所に入って、被告を喚問されます。その被告は誰でしょうか。モーセの律法の下にあるイスラエル人です。

けれども、ある日、私たちもキリストのさばきの座に行かなくてはなりません。この詩篇の警告に注意するべきです。

最初の神様についての誤解は、神様は宗教的な儀式だけを望まれることです。つまり、神様は供え物やいけにえだけを望まれます。しかし、神様はイスラエル人にこう言われました。

わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。

森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。

わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。

わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。

わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。(詩篇50:9-13)

言い換えれば、神様はこう言っておられます。

「あなたは供え物やいけにえを捧げているが、その目的を理解していない。

私は飢えているわけでも、貧しいわけでもない。私は何も必要としていない。すべてのものはすでに私のものだから。もし食べ物が欲しければ、自分で取りに行くだろう。けれども、実際には、私は決して食べ物を必要としない。

私の空腹を満たすために、供え物やいけにえを求めているのではない。」

そして、神様はイスラエルに何を望んでおられるかを語られます。

感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。

苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。(14-15)

つまり、こういうことです。「感謝の心を持ちなさい。あなたの神として、あなたの必要を備える方として、そしてあなたの救い主として、私を認めなさい。自分自身のために生きるのをやめなさい。自分の力と知恵に頼って生きるのをやめなさい。」

そして、神様は彼らを厳しく責められました。なぜなら、周りの人たちが見ると、表面的には彼らが敬虔に見えたからですが、実は心の中で彼らは神様を侮っていたからです。神様は彼らにこう言われました。

しかし、悪者に対して神は言われる。「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にのせるとは。

おまえは戒めを憎み、わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。

おまえは盗人に会うと、これとくみし、姦通する者と親しくする。

おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。

おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる。(16-20)

言い換えれば、こういうことです。「あなたは正しいことを語り、私を敬う言葉を口にします。けれども、そのあとで、自分の道を歩んでいくのです。」

多くのクリスチャンはその通りです。日曜日に、彼らは教会に行き、祈ったり、賛美したりしますが、月曜日から土曜日まで自分が好きなように生きます。

神様はあなたの宗教的な外見に感動しません。どんなに教会に通っても、それだけでは感動しません。たくさん献金を捧げても、感動しません。たくさん聖書の箇所を暗記しても、心を動かされることはありません。

神様はあなたの心を望まれます。神様があなたの心を持たないなら、あなたは神様を喜ばせることはできません。

そして、神様は二つ目の誤解について話されます。

こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だとおまえは、思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれを並べ立てる。

神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。(21-22)

つまり、神様はこう言っておられます。「あなたが悪を行っていた時、私は何も言いませんでした。だから、あなたは私がその行動を認めていると思ったのでしょう。しかし、実は私は忍耐して、あなたが悔い改めるのを待っていたのです。

けれども、もし悔い改めなければ、あなたには裁きが下ります。その時には、もう悔い改める機会は失われてしまうのです。」

そして、神様は最初の言葉に戻られます。

感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。(23)

この箇所から、私たちは何を学ぶことができますか。救いを得るための最初のステップは、神様を神様として認めることです。私たちが神様から独立して生きることを止めなくてはなりません。

むしろ、感謝の心を持って、へりくだって神様の前に生きるべきです。そうすれば、キリストにあっての救いのために私たちの心が整えられます。

裁きの日が来ます。だからヤコブはこう言いました。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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イザヤ書

神様の前にへりくだっている?神様の前に低くさせられる?

今日、やっとイザヤ書を読み通すのを完成しました。

この箇所では、神様は正しい者と悪者の区別を説明しておられます。

正しい者とはどのような人でしょうか。

神様はこう言われます。

わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。(イザヤ書66:2)

正しい者はへりくだっています。

その人はすべてのことを知らないことを認めます。その人は自分の罪と弱さをよく知っています。そして、罪を犯すと、すぐに悔い改めます。

さらに、その人は神様の言葉を軽く考えず、その言葉におののきます。なぜなら、その言葉は命の言葉だからです。

悪者とはどのような人でしょうか。神様はこう言われます。

実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。。。

わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」(3-4)

悪者は神様の言葉を侮ります。彼らはその言葉がもう時代遅れだと思います。そのため、神様の言葉を無視し、罪を犯します。

それだけではなく、彼らは神様に従う者をからかいます。けれども、結局彼らは恥ずかしい思いをし、その罪の結果を受けます。(5、6)

その一方、正しい者は喜びます。彼らは神様からの平和と慰めと満足と祝福を知っています。(10-14)

そして、神様は追放から戻ったイスラエル人についてこう言われました。

[彼らを]諸国に遣わす。。。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。

彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として。。。わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。。。

わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし「ます」。(19~21)

そのように、私たちクリスチャンは神様の栄光を国々に伝えるべきです。私たちは人々を神様に導くべきです。そうすれば、私たちが触れた人々も神様の祭司としもべになります。

しかし、もう一つのことを覚えていなくてはなりません。裁きの日に、天と地が新しくなり、皆は神様の前に平伏します。(23)

その日、あなたは、へりくだって神様の前に来るでしょうか。それとも、神様の前に低くさせられるのでしょうか。へりくだって、悔い改めた心のある人々に、神様は赦しといつまでも続く名前を与えてくださいます。

けれども、神様に背いた人々は低くされます。イザヤは彼らについてこう言われました。

そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。(24)

だから、その日が来る前に神様の前にへりくだりましょう。そうすれば、あわれみを知ることができます。そうすれば、永遠の命を知ることができます。

他の方法はないのです。