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クリスマスの12日

クリスマス12日目

彼女はさらに身ごもって男の子を産み、「今度は、私は主をほめたたえます」と言った。

それゆえ、彼女はその子をユダと名づけた。その後、彼女は子を産まなくなった。(創世記29:35)

ヘブライ語では、「ユダ」は「ほめたたえる」を意味する言葉に聞こえます。

ユダはヤコブの四男でしたが、イエス様はユダの系図に属しておられるので、ユダの話でこのシリーズを終えるのがふさわしいと思いました。

ユダが生まれたあと、レアはしばらくの間、自分の苦しみから目を離し、ヤコブの愛で心の穴を埋めようとするのをやめました。むしろ、レアは神様に向かって賛美しました。

今年、レアの模範に従いましょう。ただ一日だけでもなく、一週間だけでもなく、一ヶ月だけでもなく、むしろ、毎日、毎朝、自分の心を導き、自分の問題や苦しみから目を離し、イエス様を仰ぎ、こう言いましょう。

「今日、今日、私は主をほめたたえることを選びます。」

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詩篇のデボーション

主をほめたたえよう!

先週末、かつて私が通っていたハワイの教会は、「懐かしい賛美ナイト」を開催しました。彼らは、25〜30年前の賛美の歌ばかりを歌いました。

それだけではなく、その当時の賛美のリーダーたちも、私の友達も戻って来ました。彼らの多くは、神様の導きによって何年も前に別の教会に通い始めましたが、そのイベントのために戻って来ました。

私も行きたかったのですが、残念ながら日本にいるので、参加できませんでした。私は、写真や録画を見ることしかできませんでした。

でも、それを見て、私が初めてイエス様を愛するようになった日のことを思い起こしました。

興味深いことに、彼らが歌った歌の一つは、この詩篇から来たものでした。そして、この詩篇は、そのイベントの意味をよく表しています。それは、「賛美」です。

「ほめたたえる」という言葉は、13回も出てきます。(「ハレルヤ」とは、「主をほめたたえる」という意味です。)

この世界は、さまざまなトラブルに満ちています。そして、私たちはそのトラブルに思い悩むのは、簡単なことです。

でも、もしかしたら、私たちがそのトラブルから目を離して、イエス様に向かうべき時なのかもしれません。

そして、イエス様に向かう良い方法の一つは、イエス様を賛美することです。

イエス様の大能のみわざのゆえに、また、その比類なき偉大さのゆえに、賛美しましょう。

特に、このイースターの季節に、私たちの贖いを買い取ってくださったイエス様の死と復活のゆえに、賛美しましょう。

歌や、フルートや、ギターで賛美しましょう。

そうすれば、私たちの周りのトラブルは、イエス様の光によって、取るに足りない影のように見えるようになります。

だから、どんなトラブルに遭遇していても、そのものから目を離し、イエス様に向かいましょう。そして、イエス様をほめたたえましょう。

ほめたたえましょう!

ほめたたえましょう!

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詩篇

高い御位に座る神、身を低くして覧になる神

多分、神様に関して最も驚いたことは、神様は威光ある方でありながら、私たちを愛しておられることです。

詩人は詩篇113篇の最初から私たちを礼拝するように呼びかけます。

ハレルヤ。主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。

今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇113:1-3)

そして、彼は歌います。

主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。

だれが、われらの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し。。。(4-5)

要するに、「神様は偉大な方です。神様を他のものと比べられません。神様が私たちの賛美に値する方だから、ほめたたえましょう。」

けれども、6節で、詩人はこう言います。

「神様は」身を低くして天と地をご覧になる。(6)

そして、詩人は、どうやって神様が弱いもの、貧しいもの、子供のいない女性(その時代、それは本当に恥ずかしいことでした)を引き上げ、祝福してくださることについて話します。(7-9)

神様は私たちを見るために身を低くし、私たちに触れられました。

しかし、それだけではなく、神様は人間として、この世に来られ、私たちと共に住まわれました。パウロはこう書きました。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ[た]。(ピリピ2:6-7)

だから、神様は私たちのことを本当に理解しておられます。

さらに、神様は私たちの最大の必要を見て、十字架で私たちの罪のための罰を受けられました。

イエス様は死に値しなかったのに、私たちを愛し、この世に来て、私たちのために死んでくださいました。

だから、詩人が歌ったように、

日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(3)

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詩篇

誉れに値する神

ある聖書の学者たちは、この詩篇がヒゼキヤの時代に書かれたと考えています。すなわち、アッシリヤの王セナケリブの事件の後に書かれた可能性があります。その学者たちが正しいかどうかは分かりませんが、この詩篇はその話に関係があるようです。

詩篇76篇では、神様がイスラエルを敵から救い出してくださるために、詩人は賛美します。彼は歌います。

神はユダにおいて知られ、御名はイスラエルにおいて大きい。

神の仮庵はシャレムにあり、その住まいはシオンにある。

その所で神は弓につがえる火矢、盾と剣、また戦いを打ち砕かれた。セラ (詩篇76:1-3)

そして詩人は、どのように神様がエルサレムを攻撃しようとした人々を滅ぼしてくださったかを歌います。10節は本当に興味深いです。

まことに、人の憤りまでもが、あなたをほめたたえ[る]。

どうすれば、人の憤りが神様をほめたたえるのでしょうか。

多分その意味は、人々が神様に対する怒りを抱き、神様と戦っても、最終的に神様が勝つので、神様の名前がほめたたえられるということです。

だから、セナケリブは神様の名前をからかい、エルサレムを攻撃しましたが、神様がその軍隊を滅ぼされたので、イスラエル人は神様をほめたたえました。

また、パロは「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない」と言い、イスラエル人を迫害しましたが、神様がパロを低くされ、イスラエル人を自由にされたので、周りの国々は神様の名前を恐れました。

だから、この詩篇を読む時、慰めと警告の両方があります。私たちが神様の手の中で休めば、神様は私たちを守り、助けてくださいます。しかし、神様に背くと、私たちは裁かれます。

とはいえ、私たちがどう選択しても、神様の名前はほめたたえられます。だから、パウロはこう書きました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

だから、私たちは自分自身にこう訊かなくてはなりません。感謝と愛を持って、そのことを告白するのでしょうか。それとも、憤りを持って、苦々しい心からそう告白するのでしょうか。