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ルカの福音書のデボーション

祈り続ける信仰を持っている?

いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。。。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。

先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。(ルカの福音書18:1、38ー39)

私はその三つの節を繋げたことがないと思います。

この章の始まりでは、イエス様は弟子たちに、いつでも祈り、失望してはいけないことを教えられました。そして、この章の最後の話では、ある盲人がその教えを示しています。

イエス様が彼の声を聞こえていないように見え、周囲の人々が彼に黙るよう叫んだにもかかわらず、彼は憐れみを願い続けました。そして、最終的に憐れみを受けることができました。

しかし、例え話に出てくる裁判官と異なり、イエス様はその叫び声にうんざりしたからではなく、憐れみ深い救い主であるがゆえに、盲人を憐れまれたのです。

私はどうだろう?神様が私の叫びに答えられるのが遅いように感じるとき、私はすぐに諦めるだろうか。

私は神様の愛と慈しみを疑い始めるだろうか。それとも、神様が本当に良い方であり、私を愛してくださっていることを信じ続けるだろうか。

イエス様が再びこの世に来られるとき、私の中に信仰を見ることができるだろうか。(8節)

イエス様はあなたの中にも信仰を見られるでしょうか。

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テモテへの手紙第ー

生きていながら、死んでいる?

ここでパウロは、特にやもめたちについて語っています。けれども、そのことばは、私たちすべてに当てはまる教えでもあります。

パウロが、教会がどのようなやもめを支えるべきかを語ったとき、こう述べました。

身寄りのない本当のやもめは、望みを神に置いて、夜昼、絶えず神に願いと祈りをささげています。。。(テモテへの手紙第一5:5)

要するに、教会は、支えてくれる人がいない敬虔なやもめを支えるべきです。そのやもめは、良い行いや、仕える姿勢、助ける行動によって知られている人であるはずです(9-10節)。

彼女たちは年配で、夫を失った後も、できる限り人に仕え続けた人々でした。自分をかわいそうだと思わず、自分のことだけを考えることもありませんでした。むしろ、神様を待ち望み、イエスの御名によって人々に触れようと努めたのです。

しかし、パウロは続けて語ります。

自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても死んでいるのです。(6)

やもめたちだけでなく、多くの人々は、あるときこう考え始めます。「私はずっと人に仕えてきました。これからは、自分のために生きます。」

引退の時にそう考える人もいれば、引退の前からそう考える人もいます。けれども、それは非常に自己中心的な生き方です。神様の目から見れば、もしそのような生活を送っているなら、たとえ生きていても、すでに死んでいるのです。

神様が私たちをキリストとともに復活させてくださったのは、私たちが自分のために生きるためではありません。むしろ、パウロはコリントの人々に、こう語りました。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。(第二コリント5:15)

自分のためだけに生きることは、本当のいのちではありません。それは死へと向かう生き方です。

私たちは、自分自身から目を離し、神様に心を向けるとき、神様が周りの人々の人生の中で何をしようとしておられるのかを理解することができます。そして、そのとき初めて、私たちは本当のいのちを知ることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。あなたは何に焦点を当てて生きていますか。自分の人生でしょうか。

それとも、神様や他の人々があなたのためにしてくれることばかりを考えてはいませんか。もしそうであるなら、あなたは生きていても、実際には死んでいるのです。

神様はあなたに、もっと良いものを望んでおられます。ですから、自分から目を離し、私たちに新しい命を与えてくださった神様に向かって生きましょう。そして、その新しい人生を歩み始めましょう。

あなたは、誰のために生きていますか。

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マルコの福音書 マルコ12章 ルカの福音書 ルカ21章

神様が何を求めておられるか

パリサイ人たちを厳しく責めた後、イエス様は少し座り、神殿で献金箱を通り過ぎる人々をそっと見ておられました。

金持ちたちもやってきて、とても目立つ方法で大金をその献金箱に入れました。

その様子を見ると、もしかするとイエス様の顔は渋くなったかもしれません。人々が次々とその献金箱にお金を入れていく間に、イエス様の表情はだんだんと暗くなったのでしょう。

けれども次に、一人の貧しいやもめがその献金箱の隣に来て、他の人々と違い、レプタという硬貨を二枚入れました。

レプタはほとんど価値がない硬貨でした。おそらく、二枚のレプタで小麦粉を少し買い、小さなパンを焼くことができたでしょう。それでも彼女は、そのレプタを献金箱に捧げました。

もしかすると、彼女は他の人々が多くの献金をしているのを見て、自分が献金したとき、少し恥ずかしさを感じたかもしれません。それでも、彼女は神様への愛と感謝の心を込めて、そのお金を捧げました。

その姿を見たイエス様の表情は、明るくなったに違いありません。そして、イエス様は彼女を指し示し、弟子たちにこう言われました。

まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人々の中で、だれよりも多くを投げ入れました。(マルコ12:43)

弟子たちはそれを聞いて驚いたに違いありません。おそらく、彼らはイエス様にこう言ったでしょう。「どういうことでしょうか、イエス様。彼女はほんの少ししかお金を入れなかったのに。」

しかし、イエス様はこう言われました。

皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。(マルコ12:44)

パリサイ人たちと律法学者たちを批判された後に、イエス様がそのやもめを褒められたことは偶然ではなかったと思います。イエス様は彼らを偽善者と呼ばれました。なぜなら、彼らの行為は周囲の人々を感動させるためのものであったからです。

だからこそ、イエス様はそのやもめをご覧になったとき、弟子たちにこう言われました。「見なさい。神様はこのような人を探しておられるのです。」

では、神様はどのような人を探しておられるのでしょうか。神様に属する心を探しておられるのです。

彼女は、周囲の人々が自分についてどう思っているか全く気にしていませんでした。また、彼女は自分の持ち物に執着していませんでした。

むしろ、彼女は神様にこう申し上げたのです。「私はあなたのしもべです。私にはほんの少ししかありませんが、それをあなたにお捧げします。」

あなたはどうでしょうか。あなたはそのような心を持っているでしょうか。イエス様があなたをご覧になったとき、「この人の心は神様に属している」と言われるでしょうか。