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使徒の働きのデボーション

知らずに礼拝している?(2)

この人は主の道について教えを受け、霊に燃えてイエスのことを正確に語ったり教えたりしていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。。。

それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。(使徒の働き18:25ー26)

その言葉を読んだとき、私は「アポロも、ある意味で知らずに神様を礼拝していたのではないか」と思いました。

彼はある程度までイエス様のことを知り、熱心に語り教えていましたが、神様についての知識にはまだ欠陥があったようです。

しかし、多くのアテネ人とは異なり、アポロはその欠陥を埋めたいと切に求めていました。そして、その欠陥が埋められることで、アポロは神様をさらに深く知り、神様は御国のために彼をより効果的に用いることができました。(使徒の働き18:27ー28)

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様を知り、熱心に仕えているかもしれません。けれども、私たちは皆、神様についての知識にはまだ欠陥があります。

その欠陥を残したまま満足しているでしょうか。それとも、積極的にその欠陥を埋めようと努めているでしょうか。

イエス様はこう言われました。

しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23ー24)

だからこそ、神様についての知識に欠陥を残したまま生きるのではなく、積極的にその欠陥を埋めていきましょう。そうすることで、神様が望まれるように、私たちは御霊と真理によって礼拝する者となるのです。

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コリント人への手紙第一

人々をイエス様の立場まで引き上げる?

クリスチャンがリーダーに感心し、模範として見上げるのは自然なことです。なぜなら、彼らは長年イエス様に従い、豊かな知恵と知識を持っているはずだからです。さらに、私たちは彼らと直接会い、話すこともできます。

もちろん、人を模範として見上げること自体は悪いことではありません。

ところが、もし私たちが彼らをイエス様の立場にまで引き上げるなら、それは危険です。なぜなら、私たちはイエス様ではなく、そのリーダーに従い始めてしまうからです。そして、そのリーダーがイエス様よりも私たちの模範となってしまいます。

こうなると、教会の分裂が生じやすくなります。コリントのクリスチャンたちはまさにこの問題を抱えていました。

ある人々は「私はパウロにつく」と言い、ほかの人々は「私はアポロにつく」と言い、さらに別の人々は「私はケファ(つまり、ペテロ)につく」と言いました。

そこで、パウロは皮肉を込めて語ったのです。

キリストが分割されたのですか。

パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。(コリント人への手紙1:13)

要するに、「いったい誰に従っているのか。」

第3章で、パウロは次のように語りました。

アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられた通りのことをしたのです。

私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です。(3:5-7)

簡単に言えば、「人を神様の立場にまで引き上げるのはやめなさい。その人々はただ神様のしもべなのです。主人よりもしもべを大切にする人はいません。

だからこそ、教会のリーダーたちがしもべにすぎないのなら、どうして彼らを神様の立場にまで引き上げるのでしょうか。」ということです。

それでも、多くのクリスチャンはそうしてしまいます。そのため、多くの教会にはさまざまな分裂が生じています。

さらに、人を神様の立場に上げることには、もう一つの問題があります。それは、彼らがただの人間であるがゆえに、最終的には私たちを失望させてしまうということです。

もし、私たちの信仰が神様ではなく人に基づいているなら、その人が失敗したり、私たちを落胆させたりすると、私たちの信仰そのものが揺らいでしまうかもしれません。

だから、人がどれほど敬虔であろうとも、私たちのために死んで復活されたイエス様の立場に引き上げることはしてはなりません。

牧師を比較しないでください。どの牧師がより偉大かを議論することも避けましょう。

神様は彼らそれぞれに働きを与えておられます。私たちには彼らを裁く権利はなく、また他の牧師と比較する権利もありません。その判断は彼らの主であるイエス様に委ねましょう。

そして、自分の信仰を他の人の信仰に基づけるべきではありません。むしろ、自分の信仰と希望は神様にこそ基づくべきです。

もし私たちの信仰を人に基づけてしまうなら、最終的に失望することになります。しかし、イエス様に信頼するなら、決して失望させられることはありません。(ローマ書10:11)

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使徒の働き

悔い改めることだけではく

この箇所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会います。ある意味では彼らはアポロに似ていましたが、ある意味ではアポロとは異なっていました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。しかし、アポロと違い、ヨハネが誰を指していたのかを理解していませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けましたが、もしかしたらヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別の場所へ移ったのかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めましたが、イエス様に従ってはいませんでした。

そこで、パウロは彼らにイエス様について教えました。その後、彼らはイエス様を信じ、イエス様の名前によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

今日の要点は何でしょうか。罪を悔い改めるだけでは、十分ではありません。

「神様に従いたい」と言っても、それだけでは足りません。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は、神様への道のひとつではありません。唯一の道なのです。イエス様との関係を持たなければ、どれほど多くのものを持っていても、それは無意味です。

あなたはどうでしょうか。イエス様を信じていますか。すでにイエス様を受け入れましたか。