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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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使徒の働きのデボーション

イエス様の名前だけによって

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。(使徒の働き4:12)

クリスチャンとして、私たちはこのような言葉を何度も聞いてきたので、もはや深く考えることも少ないかもしれません。

しかし今日、私の心にこの問いが浮かびました。「そのユダヤ人の指導者たちは、それを聞いて何を思っただろうか。」

「イエス以外には、誰によっても救いはないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」(ヤハウェとは、ユダヤ人やクリスチャンが信じる神の御名です。)

また、「天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないって?でも、ヤハウェだけが私たちの救い主です。」

実は、その考え方は間違っていませんでした。預言者イザヤを通して、神様はこう語られました。

わたし、主(直訳、「ヤハウェ」)ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓う。ことばは、義のうちにわたしの口から出て、決して戻ることはない。すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い…(イザヤ書45:21-23)

でも、ユダヤ人の指導者たちが知らなかったのは、神様が人間となられたということです。つまり、イエス様こそがヤハウェなのです。

だからこそ、神様はマリアに「その子をイエスと名付けなさい」と言われました。「イエス」とは、「ヤハウェが救い」を意味します。

また、使徒パウロも後に、上記のイザヤ書の言葉をイエス様に当てはめました。(ピリピ2:6-11)

イエス様を知らない、私たちの愛する人々のことを考えると、きっと多くの人がこう思いたくなるでしょう。「その人はイエス様を知らないけれど、神様はきっと受け入れてくださるだろう。」

しかし、イエス様のみ名のほかに、私たちが救われるべき名は与えられていないのです。なぜなら、イエス様だけが人となられた神であり、私たちの罪のための代価を払ってくださった方だからです。

さらに、イエス様が神であったからこそ、私たちの罪の代価を完全に払うことができたのです。

だから、今日祈るときに、イエス様を知らないあなたの愛する人々のことを思い起こしましょう。そして、彼らに救いの良い知らせを伝えるための機会と大胆さを求めて祈りましょう。

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創世記のデボーション

神の恵みの計画

いろいろな意味で、ヨセフはイエス様の前触れでした。

ヨセフは父に愛されました。(創世記37:3;マタイ3:17)

ヨセフは自分の民に拒絶されました。(創世記37:8;ヨハネ1:10〜11)

ヨセフは銀で売られました。(創世記37:28;マタイ26:14〜16)

ヨセフは言いがかりをつけられました。(創世記39:16〜18;マタイ26:59〜61)

ヨセフは権力の座を与えられました。(創世記41:37〜44;ピリピ2:9〜11)

ヨセフは自分の民に、大いなる救いを備えてくださいました。(創世記45:7;マタイ1:21)

45章では、私たちの救いの描写を見ることができます。

ヨセフの兄弟たちのように、ある日、私たちはイエス様の御前に立ち、自分の罪を知り、自分が死刑に値することもわかります。

でも、ヨセフのように、イエス様は私たちに優しく言われます。

「どうか私に近寄ってください。神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:4,7)

今なお、ユダヤ人の間には、恵みによって救われた残りの者がいます。(ローマ11:5)

神様の恵みによって、私たちも神様の家族に属しています。私たちもイエス様の大いなる救いを受けました。

その救いは偶然ではありませんでした。ヨセフの場合と同じように、それは神様の恵みの計画の一部でした。(創世記45:5〜8;使徒2:13〜18、4:27〜28)

だから、パウロとともに歌いましょう。

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ12:33ー36)

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ヨハネの福音書 ヨハネ12章

イエス様を見るとき、イエス様の声を聞くとき

多くの人々は「神様を信じる」と言いますが、イエス様を信じていません。

しかし、もしあなたが本当に神様を信じるなら、イエス様を拒絶することはできません。この箇所で、イエス様はこう語られました。

わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。(ヨハネの福音書12:44-46)

つまり、イエス様を信じることは、神様を信じることです。イエス様を見ることは、神様を見ることです。

そして、イエス様はこう語られました。

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。(49-50)

だから、イエス様の言葉を聞くことは、神様の言葉を聞くことです。なぜなら、イエス様は神様の言葉を正しく伝えられるからです。

したがって、もしあなたがイエス様の言葉を拒絶するなら、それは実際には神様の言葉を拒絶することになります。さらに、もしイエス様を拒絶するなら、それは神様ご自身を拒絶することなのです。

そこで、イエス様はこう語られました。

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。(48)

私たちがイエス様の言葉を聞くと、その言葉によって私たちは裁かれます。

もしイエス様を信じるなら、あなたは光と命を見つけるでしょう。 しかし、イエス様を拒絶するなら、あなたが見つけるのは暗闇と裁きです。

あなたはどう選ぶでしょうか。

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イザヤ書

おぼつかない礎、堅く据えられた礎

預言書の中でよく扱われるテーマの一つは、信頼です。私たちは誰に信頼を置いているでしょうか。私たちの人生の基盤は何でしょうか。

イスラエルは自分自身を守るために、神様ではなく、自分たちの知恵と努力に信頼しました。そして、神様の預言者たちを拒絶し、その真理をわけのわからない言葉として見なしました。

そのため、イザヤは彼らを厳しく批判します。ユダ人たちは、自分たちをアッシリヤから守るために、エジプトと同盟を結びました。けれども、イザヤはその同盟を「死との契約」と比べています。

イザヤは次のように言いました。

あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。

たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ書28:15)

イザヤは、皮肉をよく使います。彼はこう言いました。

「あなたがこの同盟を結んだとしても、実際には、あなたは死と契約を結んだのです。

あなたは倒れ、相手の国も倒れるでしょう。だから、自分自身に嘘をついてはいけません。この同盟は、あなたを守ることなどできないのです。」

そして、イザヤは彼らに警告しました。

わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。

雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。

あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。

にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。それは押し寄せるたびに、あなたがたを捕らえる。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。

この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」(17-19)

けれども、こうした警告の中で、イザヤは次のようにも言いました。

だから、神である主は、こう仰せられる。

「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16)

新約聖書の著者たちは、この箇所を使ってイエス様について語ります。つまり、イエス様は私たちの堅く据えられた礎です。

もし私たちがイエス様に信頼するなら、私たちは堅く立つことができ、決して慌てることはありません。

しかし、もし私たちが自分の嘘を信じ、自分の知恵と努力に頼り、神様の言葉をからかうなら、裁きが来て、私たちは滅ぼされるのです。

だから、イザヤは次のように言いました。

だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。

私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。(22)

あなたはどうでしょうか。あなたの礎は何でしょうか。あなたの知恵でしょうか。あなたの努力でしょうか。それとも、イエス様でしょうか。

他の礎では不安定です。もしあなたがその礎に人生を築いたなら、その人生はきっと倒れるでしょう。

しかし、キリストにあって、私たちは堅く据えられた礎を持っています。そして、イエス様に信頼する者は、決して失望させられることがありません。