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マタイの福音書のデボーション

最も大切なこととは

イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。

すると、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」(マタイの福音書24:1~2)

今朝、ユダヤ人たちが神殿、特にその美しさをどれほど誇っていたのかを思い巡らしていました。

けれども、その神殿は最終的に滅びました。なぜでしょうか。それは、ユダヤ人たちがご自身の主を拒んだからです。(マタイの福音書23:29~39)

そして、私はこのように思わされました。

「私の実績は何の上に建てられているのだろうか。私が誇ってきたもの、それらはキリストという土台の上に建てられているのだろうか。つまり、私の人生の土台は『イエス様は私の主』ということなのだろうか。私が愛し、喜ばせたいと願うお方はイエス様なのだろうか。」

イエス様、私がしていることのすべては「あなたが主」という土台に建てられますように。私の人生はあなたのものであり、あなたを愛しています。どうか、私が忠実なしもべとなり、毎日あなたが委ねられたことを行う者となりますように。

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マタイの福音書のデボーション

神のみことばを無にしてしまう?

こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。(マタイの福音書15:6)

イエス様、あなたは私の主です。

だからこそ、私が誰のためでも、何のためでも、あなたのみことばを決して無にしないようにしてください。

罪のためでもありません。

私の感情、欲望、夢のためでもありません。

人間の伝統や思想、文化的な伝統、宗教的な伝統、政治的な伝統のためでもありません。

私があなたのみことばを決して変えようとしないようにしてください。

むしろ、あなたのみことばが私を変えるようにしてください。

あなたが私の主だからです。そして、あなたは良い主なのです。

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詩篇のデボーション

イエス樣を「主」と呼ぶ喜び

私は【主】に申し上げます。
「あなたこそ私の主。
私の幸いはあなたのほかにはありません。」(詩篇16:2)

今朝、ダビデの言葉を思いめぐらしました。そして、この考えが心に浮かびました。

「イエス様を『主』と呼ぶことには、喜びがあります。」

けれども、イエス様が良い方であり、私たちを深く愛してくださることを信じないなら、その喜びを知ることはできません。

その確信を持たないなら、イエス様を『主』と呼ぶことは、むしろ恐ろしいことになります。

ダビデは、神様を『主』と呼ぶ喜びを確かに味わいました。この詩篇を読むと、その喜びがはっきりと示されています。

私もその喜びを味わったことがあります。

けれども、私は毎日その喜びを満喫したいと願っています。

あなたはどうでしょうか。

イエス様を『主』と呼ぶ喜びをご存じですか。

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ローマ人への手紙

私たちがしなければならないこと

ある意味では、救いの道は矛盾しているものです。つまり、その道はとても簡単だけど、それと同時に難しいのです。

パウロはこう書きました。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、「だれが天に上るのか』と言ってはならない。」

それはキリストを」とは、引き降ろすことです。

また、「「だれが深みに下るのか」と言ってはならない。」

それはキリストを死者の中から引き上げることです。(ローマ人への手紙10:6-7)

つまり、救いを得るために、私たちがイエス様を天から引き下ろす必要はありません。また、イエス様を墓から掘り出す必要もありません。

イエス様はすでに天から来られ、私たちの罪のために死に、そして復活してくださったのです。

では、私たちに残されているものは何でしょうか。

では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」

これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ人への手紙10:9-10)

簡単に言うと、私たちは心の中にイエス様を主として認め、イエス様が十字架で行った働きを認めることです。

「イエスは主」と言うと、私たちは実は何と言っているのでしょうか。パウロはこう説明します。

聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。(11-13)

その最後の部分で、パウロはヨエル書2:32を引用しました。そして、「主」という言葉は、ヘブル語では、「ヤハウェ」です。

「ヤハウェ」とは、神様の名前です。だから、私たちはこの箇所をこのように翻訳することができます。「ヤハウェの御名を呼び求める者はみな救われる。」

パウロはこの箇所をイエス様に当てはめます。だからパウロが言ったのは、イエス様はヤハウェだということです。要するに、イエス様ご自身が神です。

パウロはピリピ人への手紙2章で、似たことを説明します。その箇所では、パウロはイザヤ書45:23を引用します。イザヤ書45:23で、ヤハウェはこう言います。

すべての膝はわたしに向かってかがめられ、すべての舌は誓い。。。

そして、パウロはその言葉をイエス様に当てはめます。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。)「ピリピ2:10-11)

だから、私たちが救われたいと思うなら、私たちはイエス様を主と神として認めなくてはなりません。

さらに、私たちはイエス様の十字架の働きを認めなくてはなりません。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んで、復活したことを信じなくてはならないことです。

でもそのことを信じるだけでは足りません。私たちは主を呼び求めなくてはなりません。

悪霊たちはイエス様が主であることを知っています。悪霊たちは、イエス様が罪のために死んで、復活したことを知っています。でも、彼らは救われていません。

ただの知識では足りないのです。私たちはイエス様に「私を救ってください」と願わなくてはなりません。そうすれば、イエス様は必ず私たちを救ってくださいます。

だから救いはとても簡単なことです。でもそれと同時に、救いは難しいです。なぜ救いは難しいのでしょうか。なぜなら、多くの人々はそう信じたくないからです。

多くの人々は「私は信じることができません。」と主張します。

でも、神様は私たちに十分な証拠を与えてくださいました。私たちには言い訳がありません。すべての人々は信じることができるけど、あえて信じないことを選びます。

自分のプライドのために信じない人もいます。

「その救いの方法は簡単すぎる。自分自身を救うために、私はもっと難しいことをするべきはずです。」

または、

「神様を必要としない。私はもう大丈夫です。霊的な松葉杖が要らない。」

または、

「私は知的な人だから、もう神様を信じない。」

他の人は、自分の罪に執着しすぎます。だから、その罪が彼らを滅ぼしているのに、彼らはその罪を手放し、神様に従いたくないのです。

あなたはどうですか。あなたはどうするのですか。

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ルカの福音書 ルカ6章

良い知らせ

聖書の学者たちは、マタイの福音書にある山上の垂訓とルカの福音書にある平地の説教が、実際に同じメッセージかどうかを議論しています。

ある学者たちは、イエス様が山を登り、その山の平らな場所で教えたと考えています。

私の推測では、多分イエス様は、その二つのメッセージを別の時に伝えたのではないかと思います。なぜなら、イエス様がいつも全く違う説教を伝えていたとは限らないからです。

イエス様は様々な町で同じテーマを教え、しかしその町の人々のニーズに応じてメッセージを少しずつ調整されたのではないでしょうか。

このルカの箇所では、恐らくイエス様は多くの貧しい人々に語られたのだと思います。彼らはお金をほとんど持っておらず、将来性も厳しい状況だったのでしょう。

未亡人や足の不自由な人がいたかもしれません。また、外国からの移民もいたかもしれません。そうであれば、イエス様は彼らのためにメッセージを調整された可能性があります。

このようにして、イエス様は預言者イザヤの予言を成就されたのです。

神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年。。。を告げ[る]。(イザヤ6:1-2)

だから、イエス様は彼らにこう言われました。

貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカの福音書6:20-21)

もちろん、これは、すべての貧しいものと泣く者が、祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためです。

もちろん、これは、すべての貧しい者と泣く者が祝福され、神の国に入るという約束とは限りません。この約束は、神様を追い求める人のためのものです。

もし、イエス様があなたの主であるなら、たとえ貧しく、飢え、泣いていたとしても、希望の日がやってきます。この暗い世界の中で、それは本当に良い知らせです。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は苦しい状況にあるでしょうか。その状況によって、心が押しつぶされそうになっているでしょうか。

あなたには希望があります。もっと良い日が訪れます。ただし、まずイエス様をあなたの主として受け入れる必要があります。

パウロはこう書きました

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

あなたはイエス様をすべてよりも愛しているでしょうか。神様の目的のために生きているでしょうか。それとも、自分自身の目的のために生きているでしょうか。

誰のために生きているのでしょうか。

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イザヤ書

神様を知って、救われるように

神様の方法は時に私たちには理解しにくいものです。アッシリア人、バビロン人、ペルシア人たちもイスラエル人と同じように悪かったのに、どうして神様はこれらの国々を用いてイスラエル人を罰されたのでしょうか。

おそらく、イザヤもイスラエル人たちも同じ質問をしていたかもしれません。だからこそ、神様はこう言われました。

ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。

粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。。。

イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。

「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。

このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。(イザヤ書45:10,11-12)

つまり、「私はすべてのものを造った。天を引き延べ、その天に無数の星と惑星を置いた。では、あなたはどうでしょうか。最近、何を造りましたか。もしあなたがこのようなものを造れるのなら、さあ話しましょう。」と。

私たちは神様の考え方をすべて理解することはできません。しかし、確かなことが一つあります。それは、神様がすべての人々がご自身を知り、救われることを望んでおられるということです。

この真理は、神様がクロス王について語られる時に、はっきりと見ることができます。

神様はクロスにこう言われました(これは私の意訳ですが)。「あなたは私を知らず、私を求めていない。それでも、私はあなたを偉大な人物とする。あなたは数多くの国を打倒するだろう。」

なぜでしょうか。

それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。。。

彼ら(つまり、倒れた国民)は鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。

「神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。」(6、14)

神様はペルシアを用いてイスラエルを罰され、そしてイスラエルを再び彼らの土地へと戻されました。

そのことによって、神様の御名は世界の国々の中で有名になりました。なぜなら、最終的にクロス王が神様の働きを認め、すべての国々にその働きを宣言したからです。(歴代誌第二36:23)

そして、神様はこう言われます。

告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。

わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い。。。」(21-23)

神様のメッセージは何でしょうか。

「私は神です。他に神はいない。他に救い主はいない。あなたの神々は偽物です。だから、その神々に背を向けて、私に向かいなさい。そうすれば、あなたは救われる。」

何千年もの時が経ったとしても、神様のメッセージは変わりません。今でも神様は私たちに語りかけておられます。

「この世の神々に背を向けて、私に向かってください。あなたを救いたいから。」

ある日、すべてのひざは神様に向かってかがみ、すべての舌が誓うでしょう。その誓いの内容とは何でしょうか。

パウロはその答えを示しています。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11)

ある日、すべての人が「イエス・キリストは主である」と告白するでしょう。

ある人々は愛と畏敬の心をもってそう言います。しかし、ある人々は歯を食いしばりながら言わなければなりません。なぜなら、その事実を認めたくないからです。

それでも、最終的には全員がそのことを告白するのです。

あなたはどうしますか。今、神様に向かう機会が与えられています。イエス様にあなたの心を捧げてみませんか。

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サムエル記第一

すべてのひざがかがめる

これは少し可笑しい話ですが、ペリシテ人にとってはまったく可笑しくありませんでした。彼らは主の箱を奪った後、自分たちの神であるダゴンの宮に持ち込み、その偶像の隣に置きました。

翌日、ダゴンは主の箱の前で地にうつ伏せになって倒れていました。彼らはダゴンを元の場所に戻しましたが、次の日、もう一度ダゴンは倒れていました。そして、ダゴンの頭と腕は切り離されてしまったのです。

さらに、すべてのペリシテ人は腫物に打たれ、恐怖に襲われました。

彼らはその主の箱を別の都市に移しましたが、どこに運んでも腫物と死が続きました。

最終的に、リーダーたちは祭司や占い師と相談しました。祭司たちはこう答えました。

「パロのようにならないでください。頑固になってはいけません。その箱をイスラエル人に戻しましょう。そうしなければ、私たちはエジプト人のように滅ぼされます。」

この話のポイントは何でしょうか?その答えはイザヤ書に記されています。神様はこう言われました。

わたしが自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。すべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い(ます)。(イザヤ書45:3)

新約聖書には、パウロはその言葉をイエス様に適用しました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、

すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)

いつか、すべての人々は神様の前に跪きます。そして、すべての人々が「あなたは神様です」と認めるでしょう。しかし、その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。

あなたは、私たちを贖った救い主を愛を持って仰ぐでしょうか。それとも、手を握りしめ、歯を食いしばりながら「イエス・キリストは主です」と認めることになるでしょうか。

私はあなたを怖がらせるつもりはありません。神様はすべての人々を救いたいと望んでおられます。神様はあなたが神様を知り、神様と親しい関係を築くことを望んでおられます。そして、あなたが愛によって神様に従うことを願っています。

ただし、神様はあなたに従うことを強制されません。もしあなたが従うことを望まないなら、その決断を一時的に許されるでしょう。

しかし、従いたいと思っても、従いたくないと思っても、いつか、あなたは神様の前に跪いて「イエス様は主です」と認める日が来ます。

その日、あなたの心と態度はどうでしょうか。