私はハワイ大学を卒業して以来、学校に戻る気にはなりませんでした。でも、振り返ってみると、修士の学位などを取っておけばよかったなあと思います。
とはいえ、学校は大変です。宿題も試験もたくさんあるからです。
それでも、クリスチャンとして、イエス様は私たちを学校に出席するように呼ばれます。あなたが神学校に出なくてはならないと言うわけではありません(神様はあなたをそうするように呼ぶかもしれませんが)。
ただ、私たちはイエス様の学校に出るように呼ばれています。
イエス様はこう言われました。
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。(マタイの福音書11:29)
イエス様の時代、多くのラビたち(つまり、先生たち)は弟子たちをこのような言葉で招きました。
イエス様の学校では、私たちは何を学ぶのでしょうか。私たちは、天の父がどのような方であるかを学びます。イエス様はこう言われました。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。(27)
多くの人々は神様を知りたがりますが、どうすれば神様を知ることができるか分かりません。目に見えない神を知るには、どうすればよいのでしょうか。もし神様がご自身を現わさないなら、それは不可能です。
けれども、イエス様を通して、神様はご自身を現わされます。イエス様は、天の父がどのような方であるかを教えてくださいます。そして、イエス様の人生を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様はこう言われました。
わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)
イエス様の性格を見ると、天の父の性格が見えてきます。イエス様の言葉を聞くと、私たちは天の父の言葉を聞いていることになります。
さらに、イエス様を通して、神様が私たちにどのように生きてほしいと望んでおられるかが分かります。それは、「しなさい」と「してはならない」というリストに従う生活よりも、はるかに優れた人生です。
パリサイ人は、そのような生活を送っていました。彼らの「しなさい」と「してはならない」というリストは非常に長いものでした。
しかし、彼らの模範に従った人々は重荷を背負うことになりました。彼らは神様の愛と恵みを見つけることができず、むしろ裁きを見つけました。自由を得ることなく、守りきれない多くのルールに縛られてしまったのです。
それでも、イエス様は私たちにこう言われます。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(28-30)
イエス様はルールそのものに強い関心を持っておられるわけではありません。イエス様は、私たちが神様に近づくことを望んでおられます。また、私たちが周りの人々を愛することを望んでおられます。
そして、私たちが弱っている時には、イエス様が私たちを強めてくださいます。知恵が足りない時には、イエス様が教えてくださいます。私たちがつまずくと、イエス様が引き上げてくださいます。失望する時には、イエス様が励ましてくださいます。
だから、イエス様の教えは重荷ではありません。むしろ、その教えは私たちに自由を与えるものです。
イエス様の学校に入る資格とは何でしょうか。それは、へりくだった心です。そして、イエス様から学びたいと願う心です。
イエス様の時代、多くの宗教的な人々は、そのような心を持っていませんでした。その一方、イエス様の弟子たちは、そのような心を持っていました。だからこそ、イエス様はこう言われました。
天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(25-26)
あなたはどうでしょうか。イエス様の学校に出たいと願っていますか。イエス様から学びたいと思っていますか。
