苦しみが好きな人は、誰もいないでしょう。どうして神様が私たちの苦しみを許すか、疑問に思うのは簡単なことです。でも、この手紙では、私たちはいくつかの答えを見つけることが出来ます。
私は以前にも言ったけど、テサロニケの教会は迫害の中で生まれました。パウロはテサロニケから追い出されて、その都市にもう一度入ることが出来ませんでした。
そういうわけで、テサロニケ人たちを励ますため、パウロは自分の代わりに、テモテを送ったし、手紙を二枚送りました。これは二番目の手紙です。
テサロニケ人たちの苦しみの結果は何だったでしょうか。パウロはこう言いました。
兄弟たち。あなたがたについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。それは当然のことです。
あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたすべての間で、一人ひとりの互いに対する愛が増し加わっているからです。(テサロニケ人への手紙第二1:3)
彼らが苦しみに直面していたにもかかわらず、パウロが祈っていたとおりに、彼らの信仰と愛は成長していきました。(第一テサロニケ3:11−12)
それゆえに、パウロはこう語ります。
ですから私たち自身、神の諸教会の間であなたがたを誇りに思っています。あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。
それは、あなたがたを神の国にふさわしいものと認める、神の正しいさばきがあることの証拠です。あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。(4-5)
「それは。。。神の正しいさばきがあることの証拠です。」
では、パウロが意味したのは何だったのでしょうか。
それは、神様が決して誤ることのない方であり、常に正しくさばかれるということです。
ですから、神様が私たちの人生に苦しみや試練を許されるとき、 その出来事は私たちを滅ぼすためではありません。むしろ、私たちは火で精錬された金のように、清められ、鍛えられて出て来るのです。(ヨブ記23:10)
この真理は、テサロニケの人々の歩みにおいても現れました。 彼らは苦しみによって打ち砕かれたのではなく、かえって、その愛と信仰はますます強められていったのです。
だからこそ、パウロはこう語りました。「あなたがたは苦しみにあったが、神の国にふさわしい者として認められているのです。」
さらにパウロは、彼らをこう励まします。「たとえこの世で正義が実現しなくても、最後には神様ご自身が、あなたの迫害者をさばき、あなたに安らぎを与えてくださいます。」
黙示録6:9〜11において、神様は殉教者たちにも同じように語られました。
こうして、パウロはその日について、次のように語ります。
その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。(10)
私は、この言葉が本当に大好きです。
イエス様が来られると、神様は、試練の中でもあきらめずに神のために生き続けた聖徒たちの間で、あがめられるのです。
同時に神様は、私たちの間で感嘆の的となられます。なぜなら、私たちはふさわしくない者であったのに、神様はその恵みによって、私たちを救ってくださったからです。
またその日、私たちははっきりと悟るでしょう。「神様が常に私たちとともにおられ、私たちを強めてくださったからこそ、私たちはこの試練を通り抜けることができたのだ」と。
だからパウロは、このように祈ったのです。
こうしたことのため、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか私たちの神が、あなたがたを召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を求めるあらゆる願いと、信仰から出た働きを実現してくださいますように。
それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。(11-12)
どうして私たちは、苦しみを経験するのでしょうか。その目的は、イエスの御名が私たちの間であがめられ、私たち自身も、主にあって栄光を受けることにあります。
そして、何に直面してもイエス様に従い続けるなら、神様は、私たちの善を求めるあらゆる願いと、信仰に基づく働きを実現し、祝福してくださるのです。
そのうえで、イエス様が来られるその日、私たちをご覧になって、こう言ってくださるのです。
よくやった。良い忠実なしもべだ。。。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)
アーメン。主イエスよ、来てください。
