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申命記のデボーション

神様のことをどう考えているか

主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出して、アモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられるのだ。(申命記1:27)

イスラエル人たちの言葉を読んだとき、私が気づいたのは、私たちが神様のことをどう考えているのかが、神様との関係に関わるということです。

イスラエル人たちは、神様が彼らを憎んでおられると思いました。なぜなら、神様が彼らのために戦ってくださったことを忘れてしまったからです。

イスラエル人たちが砂漠を渡るとき、神様が彼らを抱いてくださったことを忘れてしまいました。

また、神様が昼も夜も彼らを守ってくださったことを忘れてしまいました。(30ー33節)

そういうわけで、彼らは、神様が与えてくださった良い地に入ることを拒みました。かえって、彼らはエジプトの奴隷生活に戻ろうと思いました。(民数記14:3ー4)

「神様は良い方です」と「神様は私を愛しておられる」と言うのは簡単なことです。

でも、私たちはその真理を本当に信じているでしょうか。

すべてにおいて神様に従うほどに、その真理を信じているでしょうか。

私を初めとして、私たち皆は訊かなければなりません。

「神様、ほんとうのところ、私はあなたのことをどう考えているのでしょうか。」

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ヘブル人への手紙

信仰の必要

多くの人々は、神様の祝福を受けたいと願い、真のいのちと喜びを得たいと求めています。けれども、その多くは、神様に信頼を寄せようとはしません。

へブル人への手紙の著者は、この箇所でまさにその問題を取り上げています。

彼は、「神の安息」について語っています。この「安息」は三つの意味を内包しています。

第一の意味は、私たちが自分の努力によって救いを得ようとするのではなく、ただイエス様に信頼を寄せることによって救いにあずかる、ということです。

著者はこう語っています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。(ヘブル人への手紙4:9-10)

旧約聖書の時代における安息日は、「神の安息」の本当の意味を描き出しています。

安息日を通して、神様はユダヤ人に、御自身に信頼することによって与えられる祝福と喜びを指し示されたのです。

週に一度、彼らは仕事を休みました。安息日には、神様が彼らの必要を備えてくださると信じたのです。その信仰によって、彼らは安心して休むことができました。

同じように、私たちも神様とキリストの十字架の御業を信じるなら、自分の救いのために努力する必要はありません。むしろ、私たちは休み、すでに神様との平和をいただいています。

第二の意味は、日常生活においても私たちが神様に信頼することによって、安心して過ごすことができるということです。

困難や試練があっても、パニックに陥ったり、思い煩ったりしません。むしろ、理解を超えた神の平安をもって、心に安らぎを得ることができるのです(ピリピ人への手紙4:7)。

第三の意味は、私たちがやがて真の休みにあずかる日が来るということです。その日には、人生の苦しみや試練が終わり、私たちはついにイエス様のみ顔を見ることになるのです。

旧約聖書の時代、もう一人の「イエス」(すなわちヨシュア)は、イスラエルの民に真の安息を与えることはできませんでした。

ご存じない方もおられるかもしれませんが、ギリシャ語では「ヨシュア」と「イエス」という名前は同じです。

そのため、へブル人への手紙4:8を翻訳する際、翻訳者はこの名前を「ヨシュア」と訳しました。しかし、実際には「イエス」と訳すことも可能なのです。

とはいえ、その箇所では旧約聖書のヨシュアを指しているため、「ヨシュア」と訳されているのです。

では、ヨシュアはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らを神様の約束の地に導き入れ、その意味で安息を与えました。しかし、その安息は決して完全なものではありませんでした。

なぜでしょうか。それは、彼らが神様を信頼しなかったからです。その地で敵との戦いが困難になると、彼らは諦めてしまいました。すでに得ていた地に甘んじ、それ以上を求めようとはしなかったのです。

ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、真の安息はまだ実現していません。私たちが神様を真に信頼するそのときこそ、その日が来るのです。

けれども、以前にも述べたように、神様に信頼する人は少ないのです。

エジプトにいた頃、イスラエルの民は奴隷として苦しみ、安息を慕い求めました。救いを求めました。真のいのちと喜びを切に願っていたのです。

モーセはイスラエルの民に安息と救いを約束したので、彼らは彼について行きました。しかし、最初から彼らには信仰が欠けていました。

パロがモーセに対抗した後、イスラエルの民への圧迫が増したため、彼らは信仰を失い、不平を言いました。

その後、紅海の前でパロの軍勢が迫ってきたとき、逃げ場を失った彼らは信仰を持てず、「私たちは死ぬ!」と叫びました。

さらに、荒野で食べ物や水が尽きたときにも、彼らは神様を信頼せず、再び不平を口にしました。

また、神様が約束された地の住民を見たとき、彼らは恐れてその地に入ることを拒みました。

彼らは命と喜びを望むと言い、神様の安息と祝福を慕うと言いました。けれども最終的には、彼らは神様に信頼することを拒みました。

そのため、彼らは決して神様が約束された地に入ることができませんでした。むしろ皆、荒野で死んだのです。

そして代わりに、彼らの息子たちと娘たちがその地に入りました。しかし、その子どもたちもまた、自分たちの不信仰ゆえに、神様の真の安息を得ることはありませんでした。

だからこそ、この手紙の著者は、読み手に不信仰の危険について警告したのです。

その読者の中には、福音を聞いてその救いのメッセージに魅了されたユダヤ人たちがいました。しかし、エジプトから逃れたイスラエルの民のように、彼らも神様を真に信じることなく、最終的には神様から離れてしまったのです(4:2)。

そのため、著者は繰り返し警告を発しています──「イスラエルの民のようになってはなりません。そうでなければ、あなたは決して神様の安息に入ることはできず、真のいのちを知ることもできないのです」(4:11)。

あなたはどうでしょうか。真のいのちと喜びを知りたいと願っていますか。神様の祝福を受けたいと望んでいますか。それならば、あなたは神様とそのみことばを信じるべきです。

神様のことばを読むとき、あなたが本当に神様を信じているかどうかが明らかになります。そして、そのみことばによって、あなたは神様に裁かれるのです(4:12ー13)。

裁きの日に、神様はあなたについて何を語られるのでしょうか。

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ローマ人への手紙

惨めな人生に本当に戻りたいの?

パウロがこの言葉を書いたとき、彼は出エジプトの物語を思い起こしていたことでしょう。

第一コリント10章では、パウロはこの話に言及し、イスラエル人が紅海を渡る出来事をバプテスマになぞらえました。

この箇所でも、さまざまな意味でパウロの言葉は、イスラエル人がエジプトから救い出された経験を反映しています。彼らはエジプトで死の危機に瀕していました。彼らは奴隷として惨めな人生を送っていたのです。

イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼ら叫びは神に届いた。(出エジプト記2:23)

そして、神様は彼らを救い出してくださいました。けれども、荒野を旅する中で、彼らはいくつもの試練に直面し、不満を言い始めました。

エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは主の手にかかって死んでいたらよかったのだ。(出エジプト記16:3)

その後、神様が彼らに与えると約束された地に入る直前、彼らの信仰は揺らぎました。そして、「エジプトの方がいいです。新しいリーダーを選んで、エジプトに帰りましょう。」と言ったのです。(民数記14:3-4)

この箇所では、パウロも同じような状況に直面しました。

彼は、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と言いました。

けれども、パウロの経験では、このようなことを語ると、ある質問が必ず出てきました。だからこそ、彼はこう言ったのです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。(ローマ人への手紙6:1)

彼の答えは?

決してそんなことはありません。(2)

その後、パウロは、クリスチャンたちが律法の下ではなく、恵みの下にあると言いました。だからこそ、もう一度パウロは、よく聞かれる質問を取り上げます。

では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。(15)

もう一度、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(15b)

なぜでしょうか。パウロはこのように説明しました。

罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。

それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(2-4)

つまり、私たちは以前は罪の中に生きていました。しかし、クリスチャンになると、そのような生き方に対して死んだのです。

むしろ、今や私たちは新しい人となり、より良い人生を歩んでいます。今や私たちは神様との関係を持っています。(10)

それならば、なぜ古い人生に戻りたいのでしょうか。

それでも、多くのクリスチャンたちはイスラエル人のようです。彼らは紅海を渡ったとき、奴隷の人生に対して死にました。彼らは新しい人となりました。新しい人生を歩む自由を持っていました。勝利のある人生を歩む自由を持っていました。

それにもかかわらず、彼らは「古き良き時代」を懐かしみ始めました。彼らはエジプトのおいしい食べ物を思い出しました。そして、彼らは奴隷としての惨めな人生を忘れ、「エジプトに帰りましょう」と思ったのです。

罪は本当に欺瞞的なものです。私たちはすぐに罪の快楽を思い出しますが、罪がもたらす惨めさを忘れてしまいます。

だから、パウロはこう言いました。

あなたがたは、罪の奴隷であったとき、義については自由にふるまっていました。ではそのころ、あなたがたはどんな実を得ましたか。

今では恥ずかしく思っているものです。それらの行き着くところは死です。(20-21)

つまり、「あなたは罪に支配される人生に戻りたいのですか。そんな人生の惨めさをもう忘れてしまったのでしょうか。そのような人生は恥に至り、さらには死に至りました。本当にそんな人生に戻りたいのですか。」

だから、パウロはこう言いました。

また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。

むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。(13)

なぜ、私たちはそのようにすべきなのでしょうか。

(あなたは)罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得ています。その行き着くところは永遠のいのちです。(22)

私たちの命を神様にささげると、私たちの人生は聖なるものになります。言い換えると、私たちは神様の計画通りに生き始めます。私たちの人生は健全なものとなり、私たちは真の命を得るのです。

けれども、最も素晴らしいことは、この賜物が無償であるということです。その賜物の価値を正しく理解するならば、私たちは決して死に至る人生に戻ることはないでしょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(23)