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詩篇のデボーション

私が愚か者のように振る舞うことがある?

愚か者は心の中で「神はいない」と言う。(詩篇14:1)

天のお父さん、あなたがおられることを認めます。

それでも、私は、あなたがおられないように振る舞うことがあるでしょうか。

私があなたを脇へ置くときがあるでしょうか。

また、私の恐れ、心配、さらに私の罪深い欲求が治めるときがあるでしょうか。

私の予定にこだわりすぎて、あなたがしておられることを見逃すことがあるでしょうか。

イエス様、私は愚か者のように振る舞いたくはありません。

あなたがインマヌエル、私とともにおられる神であることを心にいつも留めさせてください。

あなたを毎日毎日、一瞬一瞬、求める心を与えてください。

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エペソ人への手紙のデボーション

ふんだんに恵まれている

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ人への手紙1:3-6)

私は6節の英訳が大好きです。「神様は私たちに恵みの栄光をふんだんに与えてくださいました。」

「ふんだんに与える」と訳された言葉は、新約聖書では2回しか使われていません。2回目は、上のエペソの箇所です。一回目は、マリアへのガブリエルの言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28)

ガブリエルの言葉を言い換えると、「マリア、神様はあなたにふんだんに恵みを与えてくださいました。」

あなたは、御使いがマリアにそのような言葉をかけたのは、マリアが本当に特別な人だったからだと思うかもしれません。

でも、神様は同じようなことを、私たちにも言ってくださいます。

「わたしの子を通して、あなたに恵みをふんだんに与えました。世界の基が据えられる前から、あなたをわたしの子供とするように定めていました。」

マリアへの神様の言葉は、あなたにも当てはまります。あなたは、ふんだんに恵まれた人です。そして、イエス様において、神様はインマヌエルです。「神様は私たちと共におられます。」

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出エジプト記のデボーション

私たちの間に幕屋を張られた神

そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。(出エジプト記40:34ー35)

今はクリスマス・シーズンなので、私は上記の言葉を読んだとき、ルカによる福音書2章の羊飼いたちの話を思い出しました。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(ルカ2:8ー9)

幕屋を満たしていたのと同じ栄光が、羊飼いたちの周りを照らしました。羊飼いたちが恐れるのも無理はありません。

モーセでさえ、神様の栄光に満ちた場所に入るのを恐れました。

しかし、御使いは羊飼いたちにこう言いました。

恐れることはあ

りません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。

今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:10ー11)

イエス様を通して、羊飼いたちは、モーセでさえ持っていなかった神様へのアクセスを与えられました。

神様は、私たちにもその同じアクセスを与えてくださいました。

ヨハネはこう言いました。

ことば(つまり、神)は人となって、私たちの間に住まわれた。(マタイ1:14)

原語では、「住まわれる」という言葉には、「幕屋を張る」というニュアンスがあります。

神様がイスラエル人の間に幕屋を張られたように、イエス様が人間となられたとき、神様は私たちの間に幕屋を張られました。

だから、ヨハネはイエス様についてこう言いました。

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14b)

そして、イスラエル人たちが旅をしている間、神様がインマヌエルであったように、私たちの人生の旅の間も、イエス様は私たちにとってインマヌエルであり、私たちにこう約束してくださいます。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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出エジプト記のデボーション

インマヌエル

「今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」

主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。」(出エジプト記33:13ー15)

今朝、私は自問しました。

「私はモーセの心を持っているだろうか。」

私はどれだけ、このように祈っているでしょうか。

「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私の家から出たくもありません。

もしも私がみこころにかなっているのでしたら、私と共に歩んでください。

どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。」

驚くべきことは、神様が私たちにこのように答えてくださるということです。

「あなたはわたしの心にかない、あなたを名指して選び出した。わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジプト記33:17、14)

それがクリスマスの意味です。

イエス様はインマヌエルです。イエス様にあって、神様は私たちと共におられます。

神様がモーセと共に歩み、モーセと語ってくださったように、神様は私たちと共に歩み、私たちと語ってくださいます。

さらに、イエス様は神様の栄光を私たちに現し、恵みの上にさらに恵みを与えてくださいます。(ヨハネ1:14、16~18)

考えてみれば、それはすごいことですね。

いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。(ルカ2:14)

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イザヤ書のデボーション

恐れではなく信仰を選ぶ

アラムは、エフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企てて、「われわれはユダに上ってこれを脅かし、これに攻め入ってわがものとし、タベアルの子をその王にしよう」と言っているが、神である主はこう言われる。

それは起こらない。それはあり得ない。(イザヤ書7:5-7)

上の言葉を読んだとき、私はこう考えました。「私はどれだけ、実際には起こらないことを心配しているのだろうか。」

心配で眠れない夜もありました。でも、多くの場合、私が心配していたことは実際には起こりませんでした。

神様を信じるほうが、はるかに良いのです。神様が私とともにおられることを思い出すほうが、はるかに良いのです。

2千年前、神様は「私と共におられる」というしるしを与えてくださいました。そのしるしとは、飼葉おけに寝ておられた赤ちゃんでした。

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。(イザヤ書7:14)

マタイによれば、「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」という意味です。(マタイ1:22〜23)

アハズが神様に信頼することを拒んだことを批判するのは、簡単なことです。でも、私はどれほど神様が与えてくださったしるしを無視して、神様を信頼していないでしょうか。

イエス様、あなたはいつも私と共におられます。あなたこそ、まことのインマヌエルです。ですから、私が心配に引き込まれそうになるとき、あなたに心を向け、信頼することができるように助けてください。

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マタイの福音書のデボーション

私たちとともにおられる神

このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。

「見よ、処女が身ごもっている。 そして男の子を産む。 その名はインマヌエルと呼ばれる。」

それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイの福音書1:22ー23)

今朝、私はその最後の言葉に思いを巡らせました。つまり、「神様が私たちとともにおられる」ということです。

私たちとともにおられる。

私たちから遠く離れておられない。

私たちとともにおられる。

神様は、私たちをご自身の愛にふさわしくない者と見なして、私たちから遠ざかられることはありません。

私たちとともにおられる。

私たちの罪や失敗をご覧になっても、私たちをお見捨てにはなりません。

私たちとともにおられる。

私たちを常に責めておられるのではなく、むしろ、私たちを擁護してくださっています。

私たちとともにおられる。

敵が私たちを攻撃するとき、神様は私たちを見捨てることなく、私たちのために戦ってくださいます。

私たちとともにおられる。

私たちの神様は、確かに私たちとともにおられます。

見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。(マタイ28:20)

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出エジプト記のデボーション

打たれてくださった神

どれほど、私たちは神様を疑い、「あなたは本当に私と共におられるでしょうか」と疑問に思うでしょうか。

イスラエル人たちは荒野でそのように感じました。

だからその荒野で、旧約聖書の中で神様は初めて、そしてただ一度だけ、裁かれるために人の前に立たれました。

通常、人は裁かれるために神様の前に立ちました。(申命記19:17)

しかし今回は、神様は(もしかすると、雲の柱の形で)モーセとイスラエルの長老たちの前に、岩の上に立たれます。

もちろん、雲を打つことはできないので、その代わりに、モーセは神様が立っておられる岩を打ちます。

そして神様はイスラエル人たちに水を与え、ご自身が彼らと共におられることを証明されました。

神様は打たれるに値しませんでした。むしろ、イスラエル人たちが不信の罪のために打たれるに値しました。しかし神様は打たれてくださり、彼らに命を与えてくださいました。

パウロによれば、その岩はキリストの象徴でした。(第一コリント10:4)

そして、千年以上後に、神様が人間となられたイエス様は、もう一度、裁かれるために人の前に立たれました。

もう一度、イエス様はご自身の罪のためではなく、ご自身の民の罪のために裁かれました。

十字架で、イエス様はもう一度打たれました。そして、十字架でイエス様が流された血によって、私たちは命を得ました。

あなたはどんな試練に直面していますか。あなたは、神様が本当にあなたと共にいるかどうか疑問に思っていますか。

十字架を仰ぎましょう。

イエス様の十字架のみわざを心に留めておきましょう。

そして、イエス様を信じましょう。

イエス様はインマヌエルです。

イエス様は、私たちと共におられる神様です。

ダビデは、今日の話を覚えていたとき、詩篇95篇を作りました。

ダビデと共に歌いましょう。

さあ、主に向かって、喜び歌おう。

私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。(詩篇95:1)

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詩篇のデボーション

一人ぼっちではない

私たち皆には、一人ぼっちだと感じるときがあります。ダビデも、そう感じたことがありました(詩篇142:4)。

ダビデの言葉は、私の心を打ちました。

声をあげて、私は。。。叫びます。 

声をあげて、私は。。。あわれみを乞います。

私は。。。自分の嘆きを注ぎ出し。。。 

私の苦しみを。。。言い表します。

誰にダビデはそうしていたのでしょうか。もちろん、主にそうしていたのです。

ダビデが一人ぼっちだと感じたのに、主はダビデと共におられました。そういうわけで、ダビデはこう言えました。

私の霊が私のうちで衰え果てたときにも、あなたは私の道をよく知っておられます。(3節)

また、

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生ける者の地での私の受ける分。」(5節)

あなたは自分が一人ぼっちだと思いますか。自分が捨てられたと感じていますか。

イエス様も、その感じがよく分かっておられました(マタイ27:46)。

しかし、神様はイエス様を、よみの牢に捨て置かれませんでした(使徒の働き2:25–32)。

神様は、あなたをも見捨てられません。

だから、主に声をあげましょう。主にあわれみを乞いましょう。

主に、自分の嘆きを注ぎ出しましょう。主に、自分の苦しみを言い表しましょう。

神様は、あなたの声に耳を傾けてくださいます。

そして、神様は、あなたを復活させてくださいます。

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ダニエル書

人間と共に歩まれる神

聖書の中では、この箇所は有名な預言の一つです。神様はネブカデネザルにバビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマの帝国の将来を示されました。

神様がネブカデネザルにはっきりと教えたことは、これらの王国や帝国がどれほど素晴らしくても、それらは一時的なものであるということです。

これらの国々は神様の国と比べることはできません。なぜなら、神様の国がそれらを一掃し、神様の国は永遠に続くからです。

この預言は非常に興味深いですが、ネブカデネザルのカルデヤ人(つまり、占星術師)の言葉もまた注目に値します。

ネブカデネザルは彼らに、夢の意味だけでなく夢の内容そのものを知らせるよう命じました。夢の内容を知らせることができなければ、ネブカデネザルは彼らの解釈を信じることはできないからです。

そのカルデヤ人たちはこの要求を聞いて、不満を漏らしました。

この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。

王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。(10-11)

バビロン人たちは多くの神々を信じていましたが、その神々にアクセスすることはできませんでした。彼らはこう言いました。「私たちの神々は人間とその住まいを共にしない」。

しかし、ダニエルの神様は人間と共に歩まれる神です。

ネブカデネザルはバビロンの知者たちを全て殺すよう命じました。

ダニエルはその命令を聞き、神様に祈る時間を求めました。神様はダニエルの祈りを聞き届け、ネブカデネザルの夢とその意味を教えてくださいました。

そして、ダニエルは神様をほめたたえました。

神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。

神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。

あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。(ダニエル書2:20-23)

ダニエルと共に歩まれた神様は、私たちとも共に歩まれるお方です。イエス様は「インマヌエル」、つまり「私たちと共におられる神」です。

ですから、神様が遠く離れておられる神ではないことを忘れないようにしましょう。

私たちが問題に直面する時、ダニエルのようにへりくだり、神様を求めましょう。神様がダニエルと共におられたように、私たちとも共におられます。