カテゴリー
創世記のデボーション

誰の計画?

今日の箇所を読んだとき、私は考えました。

「イサクは誰の計画に従っていただろうか。神様がヤコブとエサウに関してリベカに何と言われたか知っていただろうか(創世記25:23)。」

きっと、イサクはエサウがヤコブに長子の権利を売っていたことを知っていたでしょう。それでも、イサクはヤコブではなく、エサウの方を祝福しようとしました。

そして、私はもう一つのことを考えました。「ヤコブは誰の計画に従っていただろうか。」

ヤコブは「もちろん、神様の計画に従っているよ。だって、神様はエサウが私に仕えると約束してくださった」と主張することができたでしょう。

でも、私はダビデ王のことを思い出しました。

ダビデも同じようなことを言うことができました。神様はダビデがイスラエルの王になると約束してくださいました。しかし、サウルを殺す機会が二度あったのに、ダビデはそうしませんでした。

むしろ、ダビデは神様とそのタイミングを待ちました。

今日、私はたまたま詩篇25篇を祈っていて、ダビデの態度を見ました。

主よ、あなたをわがたましいは仰ぎ求めます。。。

まことに、あなたを待ち望む者がだれも恥を見ず、ゆえなく裏切る者が恥を見ますように。(詩篇25:1、3)

ヤコブは、神様とそのタイミングを待つのではなく、むしろ、ゆえなくイサクとエサウを裏切りました。その結果、ヤコブは恥を見ました。

エサウがヤコブを殺そうと思っていたので、ヤコブは逃げなくてはなりませんでした。彼は母リベカの顔を見ることは、二度とありませんでした。

エサウは最終的にヤコブを許してくれましたが、ヤコブは何年もの間、恐れと苦しみをもって生きていました。

それでも、神様はヤコブに恵みを与えてくださいました。

ダビデと同じように、ヤコブがこのようなことばを祈る姿を想像できます。

私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ、あなたのいつくしみのゆえに。(詩篇25:7)

神様は、そのような恵みをヤコブに与えてくださいました。

とにかく、私が考えていたのは、「私は誰の計画に従っているだろうか。神の計画だろうか。私の計画だろうか」ということです。

だから、今日、私はダビデのことばを祈りました。

主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。

あなたの真理に私を導き、教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望みます。(詩篇25:4ー5)

カテゴリー
創世記のデボーション

神の子供の権利を侮る

エサウは、「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」と言った。。。

こうしてエサウは長子の権利を侮った。(創世記25:32~34)

イサクの長子として、エサウは特別な権利を持っていました。彼の遺産はヤコブの二倍だったし、イサクが亡くなった後、エサウは一族の長になるはずでした。

でも、最も大切な権利は、アブラハムとイサクに約束された神との契約の祝福でした。つまり、神との特別な関係です。

しかし、一瞬にして、エサウはその権利を失いました。なぜなら、彼は自分の「肉」に従って、その権利を侮ったからです。

最近の教会の説教で、私は「肉」をこのように定義しました。「本能、欲望、感情、その他すべての、神様から私たちを引き離すもの。」

エサウの場合、お腹を満たすために、彼は長子の権利をヤコブに売ってしまいました。

私たちクリスチャンは、自分の肉に従うことで、神の子供としての権利をどれほど侮っているでしょうか。

神の子供として、私たちはさまざまな祝福を受けています。神との新しい関係、神の子供としてのアイデンティティ、過去からの解放、神の恵みと力へのアクセスなどです。

でも、私たちはそれらを本当に大切にしているでしょうか。

それとも、自分の肉に従うことで、その祝福を侮っているでしょうか。

例えば、神の子供としての祝福の一つは、私たちが霊的な家族に属することです。

でも、できるだけ毎週の日曜日に教会に行こうとするほど、その祝福を大切にしているでしょうか。

それとも、教会を軽く見て、あっさりと自分のやりたいことを選んでしまうのでしょうか。

あるいは、私たちは十字架でイエス様が支払われた代価を軽んじて、自分の罪にふけり、「後で、神様の赦しを願うから」と言う時があるでしょうか。

いろんな意味で、私たちは自分の肉に従って、霊的な権利を侮ることができます。

でも、私はそうしたくありません。

私は肉の流れに逆らい、神の子供としての権利を抱きたいのです。

あなたはどうでしょうか。

カテゴリー
創世記のデボーション

神様の御顔を見るとき

ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。

エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。。。

ヤコブは答えた。「。。。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。」(創世記33:3ー4、10)

時々、私たちは、神様が私たちのことをどのように考えておられるか疑問に思います。

ヤコブがエサウに対して罪を犯したように、私たちは神様に対して罪を犯しました。だから、神様が私たちを本当に受け入れてくださるかどうか疑います。

でも、驚くべきことは、私たちがうつむき、神様の罰を恐れるのに、エサウのように神様は迎えに走って来て、私たちを抱きしめ、口づけしてくださるということです。言い換えれば、神様は私たちを受け入れてくださいます。

ヤコブに対するエサウの反応は、イエス様の有名なたとえ話に登場する父親の反応によく似ています。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。(ルカ15:20)

私たちが天の父なる神様の御顔を見るとき、同じような反応が見られます。

あわれみ。

赦し。

受け入れること。

カテゴリー
ヘブル人への手紙

私たちの遺産

前回の記事で、私たちはこの警告に目を留めました。

また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。(へブル人への手紙12:16-17)

多くの人々はエサウのようです。神様は彼らに、神の子とされる権利、また神の相続人とされる権利を差し出しておられるのに、彼らは自分の罪やこの世のものに心を奪われ、その遺産を拒んでしまいます。

では、なぜ彼らの拒みはそれほど深刻なのでしょうか。それは、その遺産が尊く、私たちがそれを受けるために、イエス様が高価な代価を払われたからです。

この手紙の著者は、こう続けます。

あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。

そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。(18-21)

神様がシナイでご自身をイスラエルの民に現され、素晴らしい遺産を約束し、彼らと契約を結ばれたことは、本当に恐れを抱かせる出来事でした。

イスラエルの民は燃える火、黒雲、暗闇、嵐を目にし、言葉のとどろきを耳にしました。

そして神様は彼らにこう警告されました。「この山に近づいてはならない。動物であってもこの山に触れたなら、その動物は殺されなければならない。」

モーセ自身も、その山で神様に近づくことを恐れました。

しかし、その山は物理的なものでした。それはこの世のものであり、その契約によって彼らが受けた遺産も一時的なものでした。

けれども今、私たちは別の山に近づき、別の契約を受け、そして永遠の遺産を受けています。この手紙の著者はそのことを説明しています。

しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。(22-24)

その違いに注目してください。私たちは物理的な山ではなく、天上の山と都に赴き、神様に近づくのです。神様に近づくとき、私たちは恐れる必要はありません。むしろ、大きな喜びをもって近づくことができます。では、なぜでしょうか。

確かに神様はすべての人々を裁かれます。けれども、イエス様は私たちの仲介者です。ご自身の血によって、イエス様はその契約を有効にされました。

アベルの血は正義や復讐のために叫びますが、イエス様の血は赦しと憐れみを宣言します。

ですから、私たちが神様の御前に立つとき、震えることなく、恐れずに立つことができるのです。そして、神様の恵みに驚きと賛美をもって応えるのです。

いつかこの世は揺り動かされ、すべての古いものは取り除かれます。しかし、私たちは決して揺り動かされない永遠の御国を受けているのです。

神様はこのすべてを私たちのために備えてくださいました。だから、エサウのようになってはいけません。イエス様が高価な代価によって買い取ってくださった遺産を拒むことがあってはなりません。

あなたはどうでしょうか。神様はあなたに永遠の命を差し出しておられます。その命を受け取りませんか。