カテゴリー
ヘブル人への手紙

信仰の必要

多くの人々は、神様の祝福を受けたいと願い、真のいのちと喜びを得たいと求めています。けれども、その多くは、神様に信頼を寄せようとはしません。

へブル人への手紙の著者は、この箇所でまさにその問題を取り上げています。

彼は、「神の安息」について語っています。この「安息」は三つの意味を内包しています。

第一の意味は、私たちが自分の努力によって救いを得ようとするのではなく、ただイエス様に信頼を寄せることによって救いにあずかる、ということです。

著者はこう語っています。

したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。

神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。(ヘブル人への手紙4:9-10)

旧約聖書の時代における安息日は、「神の安息」の本当の意味を描き出しています。

安息日を通して、神様はユダヤ人に、御自身に信頼することによって与えられる祝福と喜びを指し示されたのです。

週に一度、彼らは仕事を休みました。安息日には、神様が彼らの必要を備えてくださると信じたのです。その信仰によって、彼らは安心して休むことができました。

同じように、私たちも神様とキリストの十字架の御業を信じるなら、自分の救いのために努力する必要はありません。むしろ、私たちは休み、すでに神様との平和をいただいています。

第二の意味は、日常生活においても私たちが神様に信頼することによって、安心して過ごすことができるということです。

困難や試練があっても、パニックに陥ったり、思い煩ったりしません。むしろ、理解を超えた神の平安をもって、心に安らぎを得ることができるのです(ピリピ人への手紙4:7)。

第三の意味は、私たちがやがて真の休みにあずかる日が来るということです。その日には、人生の苦しみや試練が終わり、私たちはついにイエス様のみ顔を見ることになるのです。

旧約聖書の時代、もう一人の「イエス」(すなわちヨシュア)は、イスラエルの民に真の安息を与えることはできませんでした。

ご存じない方もおられるかもしれませんが、ギリシャ語では「ヨシュア」と「イエス」という名前は同じです。

そのため、へブル人への手紙4:8を翻訳する際、翻訳者はこの名前を「ヨシュア」と訳しました。しかし、実際には「イエス」と訳すことも可能なのです。

とはいえ、その箇所では旧約聖書のヨシュアを指しているため、「ヨシュア」と訳されているのです。

では、ヨシュアはイスラエルの民のために何をしたのでしょうか。彼は彼らを神様の約束の地に導き入れ、その意味で安息を与えました。しかし、その安息は決して完全なものではありませんでした。

なぜでしょうか。それは、彼らが神様を信頼しなかったからです。その地で敵との戦いが困難になると、彼らは諦めてしまいました。すでに得ていた地に甘んじ、それ以上を求めようとはしなかったのです。

ユダヤ人にとっても、私たちにとっても、真の安息はまだ実現していません。私たちが神様を真に信頼するそのときこそ、その日が来るのです。

けれども、以前にも述べたように、神様に信頼する人は少ないのです。

エジプトにいた頃、イスラエルの民は奴隷として苦しみ、安息を慕い求めました。救いを求めました。真のいのちと喜びを切に願っていたのです。

モーセはイスラエルの民に安息と救いを約束したので、彼らは彼について行きました。しかし、最初から彼らには信仰が欠けていました。

パロがモーセに対抗した後、イスラエルの民への圧迫が増したため、彼らは信仰を失い、不平を言いました。

その後、紅海の前でパロの軍勢が迫ってきたとき、逃げ場を失った彼らは信仰を持てず、「私たちは死ぬ!」と叫びました。

さらに、荒野で食べ物や水が尽きたときにも、彼らは神様を信頼せず、再び不平を口にしました。

また、神様が約束された地の住民を見たとき、彼らは恐れてその地に入ることを拒みました。

彼らは命と喜びを望むと言い、神様の安息と祝福を慕うと言いました。けれども最終的には、彼らは神様に信頼することを拒みました。

そのため、彼らは決して神様が約束された地に入ることができませんでした。むしろ皆、荒野で死んだのです。

そして代わりに、彼らの息子たちと娘たちがその地に入りました。しかし、その子どもたちもまた、自分たちの不信仰ゆえに、神様の真の安息を得ることはありませんでした。

だからこそ、この手紙の著者は、読み手に不信仰の危険について警告したのです。

その読者の中には、福音を聞いてその救いのメッセージに魅了されたユダヤ人たちがいました。しかし、エジプトから逃れたイスラエルの民のように、彼らも神様を真に信じることなく、最終的には神様から離れてしまったのです(4:2)。

そのため、著者は繰り返し警告を発しています──「イスラエルの民のようになってはなりません。そうでなければ、あなたは決して神様の安息に入ることはできず、真のいのちを知ることもできないのです」(4:11)。

あなたはどうでしょうか。真のいのちと喜びを知りたいと願っていますか。神様の祝福を受けたいと望んでいますか。それならば、あなたは神様とそのみことばを信じるべきです。

神様のことばを読むとき、あなたが本当に神様を信じているかどうかが明らかになります。そして、そのみことばによって、あなたは神様に裁かれるのです(4:12ー13)。

裁きの日に、神様はあなたについて何を語られるのでしょうか。

カテゴリー
エゼキエル書

壊れやすいものに頼る?

少し皮肉なことですが、神様はイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出されたにもかかわらず、バビロンがイスラエルを攻撃した際、イスラエルの民はエジプトの助けを求めました。

エルサレムが包囲されたとき、エジプトの軍勢はイスラエルを助けるためにバビロンと戦い、バビロンの包囲は一時的に停止しました。

けれども、すぐにバビロンはエジプトを打ち破った後、エルサレムに戻り、エルサレムはその後すぐに陥落しました。

この箇所では、神様がエジプトの没落を預言されたことが記されています。神様は、エジプトを川から引きずり出され、砂漠に取り残され死にかけている鰐にたとえられました。

では、エジプトはなぜ裁きを受けたのでしょうか。その理由は複数ありますが、そのうちの一つは、イスラエルが神様に向かわずにエジプトの助けを求めたことです。

そのため、神様はパロにこう言われました。

エジプトの住民はみな、わたしが主であることを知ろう。彼らが、イスラエルの家に対して、葦の杖にすぎなかったからだ。

彼らがあなたの手をつかむと、あなたは折れ、彼らのすべての肩を砕いた。彼らがあなたに寄りかかると、あなたは折れ、彼らのすべての腰をいためた。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは剣を送ってあなたを攻め、人も獣も、あなたのうちから断ち滅ぼす。エジプトの地は荒れ果てて廃墟となる。。。

イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる。(エゼキエル書29:6-9、16)

エジプト人は自分たちが強大な力を持っていると信じていました。そして、パロの誇りによって、自らを神と見なすまでになりました。彼はこう言いました。

川は私のもの。私がこれを造った。(エゼキエル書29:9)

実は、彼の名前ホフラは、「強い腕を持つ者」という意味を持っています。

しかし、神様は彼にこう言われました

人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。

見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。

それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。(エゼキエル書30:21-22)

エジプトは他の国々との同盟に頼り、自分たちの神々を信頼していました。しかし、神様は彼らにこう言われました。

エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ。。。

神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。(30:6-13)

31章では、神様がバビロンにアッシリヤの没落を思い出させました。アッシリヤもまた、自分たちの力と美しさを誇り、数多くの同盟を結びました。それにもかかわらず、バビロンは彼らを打ち破りました。

そこで、神様はエジプトにこう言われました。「アッシリヤはあなたよりも優れた国でした。それでも彼らは倒れた。どうしてあなたが立ち続けることができると思えるのですか。」

続けて、32章では、神様がエジプトに警告を与えられました。

「多くの国々は自分のプライドに基づいて立ちましたが、結局彼らは地獄に行ってしまいました。あなたもその運命から逃れることはできません。」

ここから私たちは何を学べるでしょうか。

私たちは何に頼っているでしょうか。他の人々に頼っているでしょうか。それとも、自分自身の力に頼っているでしょうか。

この世の神々、つまり、お金、持ち物、権力に頼っているでしょうか。

これらのものは壊れやすいものです。人々はあなたを失望させるでしょう。あなた自身の力も最終的には消え去ります。お金や持ち物もいつかはなくなります。

そのすべてがなくなったとき、あなたは何に頼るのでしょうか。

頼るべきお方は、ただお一人。それはイエス様です。

この世のすべてのものは、最終的に崩れ去ります。しかし、イエス様だけは決して崩れません。

イエス様こそが、あなたの人生をその上に建てることのできる、決して揺るがない岩なのです。

イザヤはイエス様についてこう言いました。

見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。

これを信じる者は、あわてることがない。(イザヤ28:16)

あなたは誰に頼っているでしょうか。