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列王記第二のデボーション

神の呪い、神の恵み

1章と2章では、エリヤとエリシャを通して、神様の呪いが人々に下される場面を見ることができます。

多くの人々はそれを読んで、エリヤとエリシャの行為が酷いと感じるかもしれません。

しかし、私たちは一つのことを覚えておくべきです。それは、聖書において神の呪いとは、敵に対する魔法の言葉ではなく、反抗的な人々に対する神の裁きであるということです。

エリヤの場合、イスラエルの王や、最初の二人の隊長は、神様とその預言者に対して反抗的で傲慢でした。

エリシャの場合も、神様とその預言者に対して同じような態度が見られます。

けれども、多くの人々にとって受け入れがたいのは、神様が「小さい子どもたち」を裁かれたと記されている点です。

ところが、ヘブル語における「子ども」という言葉の定義は幅広く、「小さな子ども」を意味する場合もあれば、「青年」を指す場合もあるのです。

列王記第一3:7では、ソロモンが自分を「小さな子ども」と呼んでいます。おそらく、ソロモンは自分を卑下して、「私は無知で、青臭い者です」と言っていたのでしょう。

このように、列王記の著者は、あの青年たちの無知を批判していたのです。

しかし、ソロモンとその青年たちの違いは、ソロモンが神様の御前にへりくだったことです。そのゆえに、ソロモンは神様の恵みを受けました。

その一方で、あの青年たちは神様とエリシャに対して傲慢で敵対的な態度を取りました。だからこそ、彼らは裁かれたのです。

ですから、ヤコブの言葉を心に留めましょう。

「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」

ですから、神に従い。。。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。

罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。(ヤコブ4:6-10)

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列王記第一のデボーション

神様の柔和さ

主は、あわれみ深く、情け深い。 怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。。。

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。(詩篇103:8ー9,13ー14)

列王記19章を読んだとき、神様は上の言葉を私に思い出させてくださいました。

エリヤは本格的な「かわいそうパーティー」を開いていました。

神様は「死にたいのか?それなら死になさい」と言われることもできたはずです。

しかし、神様は逆に愛をもって、エリヤに御使いを遣わし、焼きたてのパンと水を与えてくださいました。

そして、山の上での神様とエリヤの会話について、少し考えてみましょう。

神様が「外に出て、山の上で主の前に立て」と命じられたとき、エリヤはどう感じたでしょうか。

彼はおそるおそる外に出て、神様の反応を恐れたでしょうか。痛烈な叱責を予想していたでしょうか。

もしそう感じていたのなら、エリヤが見たものは安心させるものではありませんでした。

彼は激しい大風も、地震も、火も見ました。

ところが、注意深く見たとき、神様がその大風や地震や火の中にはおられないことに気づきました。

むしろ、神様がもう一度語りかけられたとき、かすかな細い声で優しく語りかけられました。

とはいえ、神様はエリヤがその「かわいそうパーティー」に居続けることを許されませんでした。

むしろ、神様はエリヤに、その「かわいそうパーティー」から離れて、ご自身の奉仕に戻るように命じられました。

多くのクリスチャンは神様の怒りを恐れます。彼らは失敗したとき、神様がいつも怒っておられ、彼らを叱責されると思っています。

しかし、私たちの天のお父さんはそのようなお方ではありません。

神様は私たちを常に叱りつけておられるわけではありません。

むしろ、神様はかすかな細い声で、私たちが再び立ち上がり、神様についていくように励ましてくださいます。

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列王記第一のデボーション

すべてを治める神への祈り

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。

「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」列王記第一17:1)

天のお父様、アハブ王はあなたをイスラエルの神として認めませんでした。しかし、彼の無知はその現実を変えることはできませんでした。

けれども、シドンのやもめが学んだように、あなたはイスラエルの神であるだけでなく、すべての国々の神です。

あなたは、実にすべての被造物の神です。あなたの命令によって雨は止み、あなたの命令によって再び雨が降り始めました。

あなたの命令によって、烏はエリヤにパンと肉を運びました。

天のお父様、アハブのように、多くの人々はあなたを神として認めていません。

だからこそ、私たちあなたの民は、エリヤのように、あなたとあなたの御心に従って祈ります。

この国の人々、そしてすべての国民が、あなたこそ神であることを知るように、どうか私たちの祈りを聞き、答えてください。

彼らの心をあなたに向けてください。

特に、あなたが私たちの人生に置いてくださった人々、また、私たちに愛する責任を与えてくださった人々の心を、あなたに向けてください。

イスラエルの民のように、彼らも「主こそ神です。主こそ神です」と告白するように導いてください。(列王記第一18:39)

イエス様のみ名によって祈ります。アーメン。

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ヨハネの福音書 ヨハネ7章 ルカの福音書 ルカ9章

裁きの時間。憐れみの時間。

前回の記事でも書きましたが、私たちが真理を伝えると、私たちを憎む人もいます。

とはいえ、真理を伝えると同時に、私たちの態度と言葉遣いに注意しなくてはなりません。

この箇所では、その理由をはっきり見ることができます。

仮庵祭りのため、イエス様の兄弟たちは先にエルサレムへ向かいましたが、イエス様はしばらくとどまられました。どのくらい待たれたのかは分かりませんが、結局イエス様もエルサレムへ向かわれました。

この時から、イエス様のミニストリーのほとんどはユダヤとエルサレムで行われました。そして、十字架で死なれるまで、あと6っか月ほどの時間しか残されていませんでした。

けれでも、エルサレムへ向かう前に、イエス様は再びサマリヤを通ることを選ばれました。イエス様は以前に一度サマリヤを訪れ、そのとき多くのサマリヤ人がイエス様を受け入れ、信じました。(ヨハネ4章)

ところが、今回は、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶しました。その理由は、イエス様がエルサレムへ向かっていたからです。

サマリヤ人とユダヤ人の間にはまだ深い敵意が残っていました。サマリヤ人たちはユダヤ人の祭りで歓迎されることがなかったため、イエス様がその祭りへ向かうと知ると、彼らはイエス様を拒絶したのです。

イエス様の弟子たちは、このサマリヤ人たちの反応を見て激怒しました。サマリヤ人たちはイエス様から何も受けるに値しないのにもかかわらず、イエス様は彼らを訪ねようとされました。それにもかかわらず、サマリヤ人たちはイエス様を拒絶したのです。

他の町に住むサマリヤ人たちがイエス様を受け入れたことで、弟子たちは彼らに対して寛容な態度を取るようになりました。

けれども、この町の人々がイエス様を拒絶したとき、ヤコブとヨハネはイエス様にこう申し出ました。

主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。(ルカの福音書9:54)

おそらく、彼らはエリヤの話を思い浮かべていたのでしょう。エリヤが軽蔑されたとき、天から火を呼び下し、その人々を滅ぼしたという出来事です。(列王記第二1章)

しかし、イエス様は彼らを叱責されました。

なぜでしょうか。おそらく、裁きの時はまだ来ていなかったからです。イエス様は人々を救うために来られました。(ヨハネ3:17)

私たちは、イエス様の心を持つべきです。もちろん、イエス様を拒絶する人々に対して、いつか裁きの日が来ます。

とはいえ、その日はまだ来ていません。その日が来るまで、私たちは彼らの救いのために祈り、働く必要があります。そして、愛をもってイエス様が与えてくださった真理を伝えなければなりません。そのとき、神様の恵みによって人々は救われるのです。

周囲の人々の罪がどれほど酷くても、彼らが滅びることを私たちは喜ぶべきではありません。

イエス様もそのようなことを喜ばれません。彼らが永遠の命を得るために、イエス様は十字架で命を捧げられたのです。

罪人に対して、私たちはイエス様の心を持っているでしょうか。

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マタイの福音書 マタイ17章 マルコの福音書 マルコ9章 ルカの福音書 ルカ9章

聞きなさい

福音書の中で、これは最も興味深い話の一つだと思います。また、この出来事のタイミングも印象的です。

イエス様は、メシアに関する弟子たちのイメージを打ち砕いたばかりでした。

さらに、弟子たちはイエス様が死んでよみがえるという話をまったく理解できませんでした。だから、イエス様が十字架で死ぬまで、彼らはその話を脇に置き、それについて深く考えないよう努めました。

弟子たちは、「イエス様はただのたとえ話をしているのだろう。もしかすると、イエス様は間違えているのかもしれない」と考えた可能性があります。いずれにせよ、彼らは心の中でイエス様の言葉に真剣に向き合っていませんでした。

そこで、一週間ほど後、イエス様は最も親しい弟子である三人に、このことを理解させようとされました。

ところで、マタイとマルコは「それから六日たって」と記していますが、ルカは「これらの教えがあってから八日ほどして」と述べています。どちらの記述が正しいのでしょうか。ルカは誤っていたのでしょうか。

実は、「八日ほど」というギリシャ語の表現は、当時広く使われた熟語でした。その意味は「およそ一週間」ということです。

もう一つの可能性として、当時のユダヤ人たちは、一日の一部(一時間でも)を一日と数える習慣がありました。(これはイエス様の復活に関する記述でも見られる考え方です。)

そのため、ルカの言葉の意味は、メシアに関する会話が最初の日に始まり、山での出来事が最後の日に起こり、その間に六日間が経過した、ということかもしれません。

いずれにせよ、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネを高い山へ連れて行かれました。そして、イエス様が祈っておられる間、彼らは眠ってしまったようです。したがって、おそらく次の出来事をほとんど見逃してしまいました。

イエス様は輝き、エリヤとモーセと話しておられました。そして弟子たちが目を覚まし、イエス様とエリヤ、モーセの会話を聞いたとき、モーセとエリヤは、イエス様の死と復活について語っていました。(ルカ9:30ー31)

弟子たちはそれを目の当たりにし、完全に目を覚ました後、いつものようにペテロが真っ先に話し始めました。

先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。(マタイ17:4)

ところが、光り輝く雲が弟子たちを包み込み、その雲の中から声が響き渡りました。

これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。(マタイ17:5)

その声を聞くと、彼らは恐れ、ひれ伏しました。けれども、すぐに彼らは別の声を耳にしました。それは、彼らが愛するイエス様の声でした。

起きなさい。こわがることはない。(マタイ17:7)

彼らが目を上げると、イエス様は元の姿に戻っていました。彼はもう輝いておらず、モーセとエリヤの姿もすでに消えていました。

そして、彼らが山を降りた時、イエス様は彼らに警告されました。

人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。(マタイ17:9)

どうしてイエス様は彼らにその幻を見せられたのでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らがイエス様の使命を理解するためです。

けれども、イエス様はもう一つのことを教えようとされました。それは、死は終わりではないということです。

彼らはモーセとエリヤを目にしました。モーセは山で死にましたが、エリヤは死なずに天国へと引き上げられました。それでも、彼らはなお生きており、イエス様と語り合っていました。

それでも、その三人の弟子たちはまだ理解していませんでした。そこで、彼らが山を降りている時、「死人の中からよみがえる」と言われたことの意味について論じ合いました。(マルコ9:10)

ただし、私にとって最も印象に残ったのは、天の父の言葉です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」

時には、イエス様の弟子たちのように、私たちもイエス様の言葉を完全には理解できないことがあります。そして、後になって弟子たちと同じように、その言葉の意味を悟ることができるようになるでしょう。

しかし、その意味がわかっても、わからなくても、イエス様は私たちの主です。天の父がイエス様を送られたのですから、私たちはイエス様の言葉を聞き、従わなければなりません。

あなたはどうでしょうか。イエス様の言葉を理解できなくても、イエス様を信頼し、その言葉に従うことができますか。