どうして信仰はそれほどまでに大切なのでしょうか。それは、他のどんなものよりも、神様が私たちに求めておられるのが信仰だからです。
この手紙の著者によれば、神様は昔の人々を、彼らの信仰のゆえに賞賛されました(へブル人への手紙11:2)。
そして今も、神様からの賞賛は、ただ私たちの信仰によって与えられるのです。なぜなら、信仰によってこそ、神様への愛、礼拝、従順、そして忠実さが生み出されるからです。
少し考えてみてください。もし私たちが、神様の存在、神様の愛、神様が私たちの最善を望んでおられることを信じなければ、神様を愛することができるでしょうか。神様を礼拝するでしょうか。神様に忠実に従うでしょうか。
もちろん、恐れによって礼拝し、従うことはあるかもしれません。けれども、神様が望まれるのは、恐れによってではなく、愛によってなされる礼拝と忠実な従順なのです。
そのような理由から、この著者はこう語るのです。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)
カインの話を思い返してみてください。
なぜ神様は、彼のいけにえを受け入れられなかったのでしょうか。細かい事情はわかりませんが、基本的な理由は、カインが信仰によってそのいけにえを捧げなかったからだと考えられます(4節)。
もしかすると、彼は「なぜ私のものを神様に捧げなければならないのか」と不満を抱きながら、そのいけにえを差し出したのかもしれません。
あるいは、神様が羊のいけにえを求めておられたにもかかわらず、カインはこう思ったのかもしれません。「なぜ、私たちの収穫が十分ではないのだろう。私は、神様に捧げたいと思うものを捧げればいい。」
いずれにせよ、根本的な問題は、カインが神様に対する信仰を欠いていたことです。そのため、神様は彼のいけにえを退けられたのです。
その反面、アベルは信仰によっていけにえを捧げました。その信仰のゆえに、アベルは神様を愛し、忠実に従いました。だから、神様はアベルのいけにえをご覧になると、喜んで受け入れられました。
エノクのことも思い返してみてください。彼は決して死を経験しませんでした。むしろ、神様がエノクを直接天に引き上げられたのです。
なぜでしょうか。それは、エノクが神様と共に歩んだからです。旧約聖書がギリシャ語に訳されたとき、翻訳者たちは「エノクは神様と歩んだ」という表現を「エノクは神様を喜ばせた」と訳しました。
言い換えれば、あなたが神様を喜ばせたいと願うなら、神様と共に歩まなければなりません。
しかし、神様が存在しておられ、あなたを愛し、あなたの最善を望んでおられることを信じなければ、あなたは神様と歩もうとはしないでしょう。神様との親しい関係を築くこともできないでしょう。
あなたはどうでしょうか。神様を本当に喜ばせたいと願っていますか。神様からの称賛を得たいと望んでいますか。
私たちはこう問いかける必要があります。「神様の存在を信じているだろうか。神様が私を愛しておられることを信じているだろうか。神様が私の最善を望んでおられることを信じているだろうか。」
もし「はい」と答えることができなければ、神様を喜ばせることはできません。
では、あなたの答えは何でしょうか。
