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ピリピ人への手紙のデボーション

恵みによって立つ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。(ピリピ人への手紙4:1)

4章は、少し不思議な始まり方をします。1節は、実質的に3章の内容をまとめているのです。

私たちは、どのようにして堅く立つことができるのでしょうか。

それは、恵みによって立つことだと思います。

私たちは、自分の努力によって神様の受け入れを得ようとはしません。自分の義の成績表や資格によって、神様の愛にふさわしいと証明しようとはしません。(3:2~9)

むしろ、それらを手放して、ただイエス様との関係を追い求めます。でも、その関係も、私たちが得ようとする必要はありません。なぜなら、イエス様はすでに私たちを捕らえて、ご自身のものとしてくださったからです。(3:10~12)

だから今、愛と感謝を込めて、私たちはイエス様の御心と関心を自分のものとして、イエス様と御国のために生きます。(3:13~21)

さらに、私たちの罪や失敗にもかかわらず、私たちは希望と確信をもっています。それは、いつかの日、私たちがイエス様の御顔を見ることです。

その日、私たちはイエス様に似た者となります。キリストをありのままに見るからです。(ピリピ3:20〜21、第一ヨハネ3:1〜2)

それが、恵みによって立つということです。

私は、毎日そのように生きたいと願っています。

あなたは、どうでしょうか。

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ピリピ人への手紙のデボーション

自分の救いを達成するよう努める

こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。(ピリピ人への手紙2:12)

今日、「自分の救いを達成するよう努める」という言葉を考えていました。それはどういう意味でしょうか。

ピリピ人への手紙3章では、パウロがその意味を説明していると思います。

彼は、義と認められるために律法を守ろうとすることを意味していませんでした。彼の義は、イエス様の十字架の働きを信じる信仰に基づいていました。(ピリピ3:9)

では、「自分の救いを達成するよう努める」とは、どういう意味でしょうか。

1.イエス様との関係を追求することです。イエス様を知ることは、パウロの究極の情熱となりました。

2.ますますイエス様のようになることです。パウロはイエス様の復活の力を経験し、その力によってイエス様のように変えられることを望みました。

でも、イエス様と共によみがえられる前に、パウロはイエス様と共に死ななければなりませんでした。

イエス様がただ一度罪に対して死なれたように、パウロは罪に対して死んだ者となり、また神に対して生きている者となるように学ぶべきでした(ローマ6:10ー11)。

そして、キリストの苦しみに参加することで、パウロは罪との関わりを断ち、神のみこころに生き始めていることを証明しました(第一ペテロ4:1ー2)。

それは、自分の救いを達成するよう努めるということです。

でも、それは一生続くプロセスです。パウロ自身も、まだそのプロセスを終えていないことを認めました。

彼はまだ失敗しました。彼はまだたどり着いていませんでした。

でも、恵みによって、イエス様はパウロを捕えてくださいました。だから、パウロは受けた救いを完全に捕らえるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めました。

パウロを捕えてくださったイエス様が、私をも捕えてくださったことに驚いています。だから、パウロのように、私も受けた救いを完全に捕えるように努め、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めています。

私はまだ失敗します。私はまだたどり着いていません。でも、神様が私に恵みと愛を与えてくださったという確信を持ち、パウロと共に言います。

うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。(ピリピ3:13ー14)

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イザヤ書のデボーション

祝福されている

「彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。」

私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義(別訳:義)の外套をまとわせ。。。」(イザヤ書61:9-10)

この箇所を読むとき、たいてい1〜3節が私の目に留まります。 なぜなら、イエス様がそのことばを、ご自身に当てはめられたからです(ルカ4:18〜21)。

でも今日、9〜10節が私の目に留まりました。私はどれほど祝福されているかに気づかされました。

私はいつも、自分の欠点や失敗、そして罪ばかりを見てしまいます。でも、恵みによって、神様は私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださいました。

天のお父さん、私は本当に祝福されています。あなたにあって楽しみ、あなたにあって喜びます。なぜなら、あなたが私に救いの衣と、キリストの義の外套を着せてくださったからです。

私はその衣を作る必要はありませんでした。私はその外套を買う必要もありませんでした。

イエス様、あなたはご自身の血によってその衣を贖い取ってくださり、私に着せてくださいました。

ただ、「ありがとう」としか申し上げることができません。

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サムエル記第二のデボーション

神様が私たちを見るとき

主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたからです。

主は、私の義にしたがって私に報い、手のきよさにしたがって顧みてくださいました。(サムエル記第二23:20-21)

ダビデの人生、特に彼の多くの失敗を考慮に入れると、その言葉は驚くべきものです。

それでも、ダビデはこう言えました。

私は主の道を守り、私の神に対して悪を行ないませんでした。

主のすべてのさばきは私の前にあり、主の掟から、私は遠ざかりませんでした。私は主に対して全き者。

自分の咎から身を守りまます。(22-24)

私は、ダビデが自分の失敗を忘れていたとは思いませんし、その罪を軽視していたとも思いません。

しかし、ダビデは神の恵みを深く理解していました。ほかの詩篇では、ダビデはこう歌っています。

主は、いつまでも争ってはおられない。
とこしえに、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。。。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:9-10,12)

何年か後、神様は預言者イザヤを通して、こう言われました。

わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。(イザヤ書43:25)

でも、どれほど私たちは自分の罪と失敗をくよくよするでしょうか。どれほど私たちは自責の念で苦しむでしょうか。

神様は私たちの罪を忘れることを選ばれました。神様はもう二度とその罪のために私たちを責めることはありません。

神様が私たちをご覧になるとき、聖く、傷のない者、また、キリストの義を着ている者として見なされます。

私たちの「義」は不完全なものです。その「義」はしばしば不純な動機に汚されています。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださいます。

それでも、神様は恵みによってダビデの義を受け入れられたように、私たちの義も受け入れてくださるのです。

そればかりか、神様は私たちを喜びとされるのです。

主は生きておられる。ほむべきかな。
わが岩。あがむべきかな、わが救いの岩なる神。(47)

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ピリピ人への手紙のデボーション

まだ着いていない

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。

ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

ですから、大人である人はみな、このように考えましょう。(ピリピ人への手紙3:12-15)

クリスチャンとして、私たちはいつも成長しているはずですが、この世に生きている限り、私たちは終点に辿り着くことはありません。つまり、私たちは完全な人になることはないということです。

パウロも、自分がすでに到達しているとは思っていませんでした。でも毎日、彼はイエス様をもっと知り、イエス様のようになろうと努めていました。

しかし、パウロが前のものに向かって身を伸ばすにつれて、彼は二つのことを覚えていました。

一つ目は、自分の義ではなく、キリストの義によってパウロが神様に受け入れられていることです。パウロがイエス様とその十字架の働きを信じたので、キリストの「義の通知表」は、パウロの「義の通知表」になりました(9)。

だからこそ、パウロの通知表には「5」しか書いてありませんでした。

そういうわけで、パウロは、神様の愛と受け入れを得ようと努めていたわけではありません。彼は神様の愛と受け入れをもう受けていたからです。

むしろ、神様がパウロを捕らえてくださり、良い計画を持っていることを、パウロはとても喜びました。

そして、その喜びによって、パウロは神様が準備してくださった良いものを捕らえようとして追求していました。

二つ目は、自分の努力が無駄なものではないということです。パウロはこの世に生きている限り、完全になることがないと知っていたけれど、必ずある日、自分が愛しているイエス様のようになると知っていました(21)。

パウロは毎日その希望をもって、生活を送りました。

私たちもその希望をもって、生活を送りましょう。毎日、神様の恵みによって生き、イエス様のようになるように成長し、神様の良い計画を追求しましょう。