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申命記のデボーション

神様はあなたのために戦われる

彼らを恐れてはならない。あなたがたのために戦われるのは、あなたがたの神、主であるからだ。(申命記3:22)

「主は、あなたのために戦われる。」

その言葉を読んだとき、私の心にそれが響きました。

私たちの敵と対峙するとき、神様はただ遠くからご覧になるわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

私たちが試練や苦しみに直面するとき、神様は気づいておられないわけではありません。神様は私たちのために戦ってくださいます。

しかし、神様は私たちも兄弟姉妹のために戦うように呼ばれます。

ルベン人、ガド人、マナセ人のように、私たちは安息しているかもしれませんが、兄弟姉妹が苦しんでいるとき、「私には関係ない」とは言えません。

神様のように、私たちは彼らの隣に立ち、戦わなければなりません。

私たちが受けてくださった神の愛を彼らに与えるべきです。

それが信仰の盾を共に持って立つという意味です。

だから、苦しむときは一緒に立ち戦いましょう。

また、神様も私たちのために戦ってくださるという確信を持ちましょう。

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民数記のデボーション

神様にを信頼し従うように、互いに励まし合う

わたしの栄光と、わたしがエジプトとこの荒野で行ったしるしとを見ながら、十度もこのようにわたしを試み、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、だれ一人、わたしが彼らの父祖たちに誓った地を見ることはない。

わたしを侮った者たちは、だれ一人、それを見ることはない。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者とは違った霊を持ち、わたしに従い通したので、わたしは、彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:22ー24)

時間があれば、この箇所と一緒にへブル書3章を読む甲斐があります。なぜなら、へブル書の著者がこの出来事の霊的な応用を説明しているからです。

兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(へブル3:12)

不信仰で悪い心は、多くのイスラエルの民の問題でした。

彼らは、自分たちをエジプトから贖ってくださった主を侮りました。

神様が多くのことをしてくださったのに、彼らは神様に信頼することを拒みました。

私たちは、どのような心を持っているでしょうか。

神様に対して頑なな心を持っているでしょうか。神様を信頼しない心を持っているでしょうか。

それとも、私たちはカレブとヨシュアのように、柔らかい心を持っているでしょうか。彼らのように、私たちは周りの兄弟姉妹に神様に信頼するように促すでしょうか。

罪に欺かれるのは簡単なことです。心が頑なになるのも簡単なことです。

だからこそ、クリスチャンの交わりはとても大切なのです。

ですから、カレブやヨシュアのような人々と時間を過ごしましょう。

また、周りのクリスチャンに対して、私たち自身がカレブやヨシュアのような者となりましょう。

「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。(へブル3:13)

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使徒の働きのデボーション

離れがたい

私たちは、彼らと別れて船出した。。。ツロに入港した。。。私たちは弟子たちを探し(ました。)(使徒の働き21:1、3ー4)

新改訳では、ただ「私たちは、彼らと別れて船出した」と書かれていますが、原語のニュアンスには、パウロたちがエペソの人々と別れることを辛く感じていた様子が含まれています。

私たちは、どれほどクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。

パウロたちは、エペソのクリスチャンたちを心から大切にしていて、彼らと離れたくありませんでした。そして、ツロに着いた瞬間、ツロのクリスチャンたちを探し始めました。

昨年から、コロナの影響で何度も緊急事態宣言が出されました。そのため、私たちはクリスチャンの交わりの大切さを忘れてしまったかもしれません。「オンライン礼拝があるから、それで十分だ」と考えるのは、簡単なことです。

あなたはどうでしょうか。他のクリスチャンたちにあまり会わないことに、慣れてしまったでしょうか。それとも、彼らに会えないことを辛く感じているでしょうか。

教会で集まることができなくても、積極的にクリスチャンの交わりを求めているでしょうか。他のクリスチャンたちに電話をかけていますか。メールを送っていますか。彼らと祈っていますか。

以前にも述べましたが、私たちは互いに必要とされています。

だからこそ、特にこの時期に、テサロニケ人へのパウロの言葉を心に留めておきましょう。

兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで。。。

すべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(第一テサロニケ4:9ー10)

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使徒の働きのデボーション

クリスチャンの交わりは必要ないのか?

そして(パウロとバルナバ)は、しばらくの間、弟子たち(つまり、クリスチャンたち)とともに過ごした。(使徒の働き14:28)

パウロとバルナバは、とても強いクリスチャンでした。それに、彼らは主の働きに大いに用いられていました。それでも、彼らはクリスチャンの交わりを大切にしていたのです。

彼らは、「私のイエス様との関係は大丈夫です。他のクリスチャンたちは必要ありません」と言うこともできたでしょう。

または、「私は神様のために重要な働きをしています。クリスチャンの交わりの時間はありません」と言うこともできたかもしれません。

しかし、彼らはそう言わずに、自分たちの教会で他のクリスチャンたちと多くの時間を過ごしました。

なぜでしょうか。おそらく、一つの理由は、彼らが兄弟姉妹を励ましたいと願っていたからです。そして、もう一つの理由は、その交わりによって、彼ら自身がリフレッシュされていたからではないでしょうか。

今、私たちの多くは自分の教会で集まることができません。それでも、私たちはクリスチャンの交わりを大切にしているでしょうか。私たちは互いに必要とされているのです。

このような緊急事態の中でも、私たちは誰かにメールを送ったり、ビデオチャットをしたり、電話をかけたりすることができます。

今日、あなたは誰に触れることができるでしょうか。

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使徒の働き

クリスチャンの交わりに専念する?

この記事は前回の記事の続きです。前回の記事では、私は教会をやめる人について話しました。

彼らの一つの不満は、教会で訓戒されることに飽きたということです。また、彼らは「もう知っている」という態度を持っていました。

今日は、さらに重要な問題について話したいと思います。おそらく、多くの人々が教会をやめる理由は、説教ではなく人間関係にあるでしょう。つまり、リーダーやほかの教会のメンバーたちと気が合わないということです。

私の友人が掲載した記事を読んだとき、私は少し混乱しました。その記事でインタビューされたクリスチャンの一人はこう言いました。

「人間関係の問題のせいで、私は教会をやめるわけではありません。私はかっとして急にやめたわけではありませんでした。私は、教会をやめる決断をじっくり考えました。」

けれども、その記事には、その人が教会をやめた理由が書かれていません。

その人は、人間関係の問題を控えめに語っています。しかし、記事(とコメント欄)を読むと、多くの場合、人間関係の問題こそが教会をやめる根本的な理由であることが明らかになります。

ある人々は、教会の方向性について、リーダーたちに賛成できませんでした。

ある人々は、リーダーたちの行動を批判しました。

ある人々は、教会に愛が欠けていると不満を述べました。

そのため、彼らは教会をやめてしまいました。

けれども、使徒の時代のクリスチャンたちは、そのようにはしませんでした。

新改訳では、翻訳者たちは「守り」(別訳:「専念」)という言葉を使徒たちの教えだけに結び付けています。

しかし、ほとんどの英訳では、「専念」という言葉を「使徒たちの教え」だけではなく、交わり、パンを裂くこと、祈りにも結び付けています。

したがって、この箇所を次のように翻訳できます。「彼らはいつも。。。(クリスチャンの)交わりに専念していました。」

つまり、彼らはクリスチャンの交わりに熱心でした。

私の友人の一人は、その記事を読んでこう言いました。

「まあ、私はもう教会に行かないけれど、クリスチャンの友人がいて、私たちは霊的な成長や個人的な成長のために、互いに励まし合っていますよ。」

彼らが本当にそうしているのなら、それは素晴らしいことだと思います。とはいえ、具体的に彼らは何を意味しているのでしょうか。一週間に一度くらい電話をするのでしょうか。一か月に一度?一年に一度?

彼らはその友人と時間を過ごし、互いに話し合い、励まし合い、もし必要があれば訓戒し合っているでしょうか。彼らにとって、それをすることは優先度が高いのでしょうか。

彼らは一緒に祈ることに専念しているでしょうか。

彼らは一緒にパンを裂いているでしょうか。

もしかすると、彼らはまず仕事や家族、学校を優先し、時間があればほかのクリスチャンとの時間を割いているのでしょうか。

しかし、使徒の時代のクリスチャンたちは交わりを優先していました。

信者となった人々はみな一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし(ました)。。。(使徒の働き2:44-46)

彼らは交わりに熱心だったので、毎日宮に集まりました。彼らは家々で時間を過ごしました。そして、他のクリスチャンたちのニーズを満たしました。

その結果は?

主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。(47)

教会はなぜ成長したのでしょうか。イエス様はその理由を私たちに説明されました。イエス様は弟子たちにこう言いました。

互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネの福音書13:35)

少し注意してください。イエス様は「あなたがたがすべての人々に対する愛があるなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」とは言いませんでした。

イエス様は「互いの間に愛があるなら…」と言われました。

もちろん、私たちは教会の外の人々を愛するべきです。また、私たちは教会の人々だけを愛することに焦点を当てるべきではありません。私たちは教会の外にいる人々と関わるべきです。

とはいえ、この世の人々が私たちを見るとき、私たちが喧嘩し、怒り合い、許し合わず、苦々しい思いを持っているのを見たなら、彼らはどう思うでしょうか。

次のような会話を想像してみてください。あなたが友人にイエス様のことをずっと伝えていたとします。そして、彼らが「じゃあ、あなたの教会に行きたいと思うけど」と言います。

けれども、あなたは「実は、私はもう教会に行っていない」と答えます。

彼らが「どうして?」と訊いたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「まあ、人間関係の問題があって。。。」

「少しリーダーたちと教会の方向性について言い争いをしてしまったので。。。」

相手はそれを聞いて、どう反応するでしょうか。イエス様が教会を愛し、その教会のために死なれたのに、あなたがその教会の悪口を言ったら、彼らはクリスチャンになりたいと思うでしょうか。

第一ヨハネ4:20を少し言い直すと、あなたの心に強く響くかもしれません。

「神を愛すると言いながら兄弟との交わりを拒むなら、その人は偽り者です。見える兄弟との関係を断つ者に、目に見えない神を愛することはできません。」

もし、教会の兄弟姉妹との交わりを拒むなら、あなたは神様を愛していると主張できるでしょうか。もしその関係を断つなら、あなたは本当に神様を愛していると言えるでしょうか。

友人を愛することは簡単です。

兄弟姉妹に欠点があっても、あなたは彼らを愛するでしょうか。