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士師記のデボーション

神中心?自己中心?

数日に渡ってサムソンの人生を考えているとき、二つのことが私の目につきました。

一つ目は、サムソンが自己中心な人生を送っていたということです。彼が敵を打ち倒したとき、イスラエルの民をある程度まで助けましたが、その助けは偶発的なものでした。彼はイスラエルの民を救おうとしていたわけではなく、彼の動機はただ復讐でした。

二つ目は、彼が神様との関係をほとんど持っていなかったということです。彼が神様に祈ったのは、助けを求めるときだけでした。

サムソンは祭壇を建てたこともなく、神様を礼拝したこともありませんでした。勝利を得たときも、それ以外のときも、神様に感謝することはありませんでした。

神様はサムソンを通して、ある程度までイスラエルの民をピリシテ人から救われました。

けれども、サムソンが人々を導くことはありませんでした。彼が自分の民と関わった唯一の場面は、彼らがサムソンをピリシテ人たちに引き渡したときでした。(士師記15:11~13)

彼は、人々を神様に従うように導くことはまったくありませんでした。むしろ、周りの人々と同じように、サムソンは自分の目に良いと見えることを行っていました。(士師記14:17;17:6)

私はそのような人になりたくありません。私の心が神様のものとなることを願います。また、周りの人々が神様に従う心を持つよう導きたいです。

あなたはどうですか。どのような人になりたいですか。

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誠実に歩んで

毎日、聖書通読プランと共に、私はいつも詩篇も読みます。

今日、たまたま26篇を読みました。それを読んで、ダビデの態度とサムソンの態度の違いに気づかざるを得ませんでした。

ダビデの言葉を祈り、それに従っていたら、サムソンの人生がどれほど違っていたかを想像してみてください。

主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主を信頼しています。

主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。

あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを私は歩み続けました。

私は不信実な人とともに座らず、偽善者とともに行きません。悪を行う者の集まりを憎み、悪しき者とともに座りません。

手を洗い、自らの潔白を示します。主よ、私はあなたの祭壇の周りを歩きます。

感謝の声を響き渡らせて、語り告げます。
あなたの奇しいみわざのすべてを。(詩篇26:1-7)

私はダビデの言葉を祈り、それに従いたいです。

それがあなたの願いでしょうか。

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士師記のデボーション

私たちの真の光

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。。。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。(士師記13:5)

サムソンの名前は「小さな太陽」を意味しました。

でも、彼はやがて来られる真の光の微かな繁栄でした。

サムソンはイスラエルの民を救い始めましたが、自分の多くの欠点のゆえ、その働きを完成できませんでした。

イスラエルの真の光は、まだ来られていませんでした。(ヨハネ1:9)

しかし、2000年前、もう一人の天使がヨセフという人に現れて、こう言いました。

マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。(マタイ1:21)

私は今日、そのことを思い出して、喜んでいます。

私たちの光が来られました!

起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。(イザヤ書60:1)

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私たちの心はだれのものでしょうか

彼女はサムソンに言った。

「あなたの心が私にはないのに、どうして「おまえを愛している」と言えるのでしょう。」(士師記16:15)

それはとても皮肉な言葉です。なぜなら、デリラの心はサムソンにはなかったからです。デリラの「愛」は、お金への愛でした。

デリラへのサムソンの愛も、薄められたものでした。

さらに、神様へのサムソンの愛も、薄められたものでした。それこそが、サムソンの最大の問題でした。彼の心は、本当は神様のものではなかったのです。

彼が悔い改めたと信じたいです。でも、彼は本当に悔い改めたのでしょうか。私には分かりません。彼の最後の祈りでは、サムソンはイスラエルの福祉よりも、復讐を考えていたように見えます。

彼はイスラエルを「さばいていた」。しかし、神様から委ねられた羊たちを、本当に愛していなかったようです。

たぶん、イスラエル人たちはそれを感じ取っていたのでしょう。彼らはきっと、サムソンに従う心を持っていなかったのです。(士師記15:11〜12)

では、私たちはどうでしょうか。私たちの心は、本当に神様のものでしょうか。そして、神様から委ねられた人たちを、私たちは愛しているでしょうか。(マタイ22:36〜40)