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ルカの福音書のデボーション

私たちの王を歓迎する?

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。(ルカの福音書19:42、44)

今日、私は上記の言葉を反芻していました。

私たちの王を歓迎すると、平和を知るようになります。(38節)

ザアカイは王に心の戸を開け、平和と喜びを知るようになりました。

彼に対して、イエス様が嘆かれたパリサイ人たちや他のユダヤ人たちは、その後どうなったのでしょうか。

イエス様、あなたの良い支配を歓迎せず、私の心の戸をあなたに開けないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

私の前に立たれているあなたを認識さえしないことで、どれほどの平和を失うでしょうか。

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ルカの福音書のデボーション

イエス様が訪れるとき

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。。。

神の訪れの時を、おまえが知らなかった。。。(ルカの福音書19:42,44)

数週間前、私の牧師が霊的な盲目について話して以来、私はそのテーマをルカの福音書の中で何度も見ています。

弟子たちもパリサイ人たちも、自分の霊的な目と耳を閉じていて、多くのことが彼らの目から隠されていました。(ルカ18:34;19:39-41)

弟子たちの場合、彼らは少なくともイエス様がメシアであることを認めていました。(メシアが何なのかはちゃんと分かっていなかったけれど。)

でもパリサイ人たちは、イエス様の奇跡を見て、イエス様の知恵に答えられなかったのに(ルカ13:17;14:6)、目と耳を閉じて、イエス様を拒絶しました。だから、彼らは神の訪れの時を知らなかったのです。

彼らとは対照的に、イエス様が訪れたとき、二人の人々はイエス様を本当に見たいし、聞きたいと願っていました。

エリコで、バルティマイという盲人は「私は見たい」と叫びました。

多くの人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はあきらめずに叫び続けました。イエス様は彼の声を聞いて、彼を呼んでくださいました。

そして、バルティマイの信仰によって、彼は救われました。(ルカ18:35-43、マルコ10:46-52)

ザアカイは背が低かったので、イエス様を見るために、頑張って木に登って目を凝らしました。イエス様は彼も見て、呼んでくださいました。

そして、イエス様がザアカイの家に訪れて、悔い改めのメッセージを述べ伝えると、ザアカイは悔い改めて、救われました。(ルカ19:1-10)

イエス様は私たちのところに訪れ、私たちに平和と救いを与えたいと願っておられます。でも、私たちの目と耳を開かないと、その平和と救いを知ることができません。

クリスチャンでも、盲目になる可能性があります。

ラオディキアの教会は盲目でした。彼らは「良い生活」を送っていました。でも、イエス様によれば、彼らは実際にはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸でした。(黙示録3:17)

だから、イエス様は彼らに言いました。「私はあなたに義を着せて、目が見えるようにします。」

イエス様は私たちにも同じことを言われます。

イエス様は私たちを愛して、ザアカイのように悔い改めるように呼びかけておられます。(黙示録3:19)

だから、イエス様の言葉に耳を傾けて、従いましょう。

見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)

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ルカの福音書のデボーション

喜び

主よ、私がザアカイの喜びを知ることができますように。

私が、あなたに愛されている喜びを知ることができますように。私が、あなたに受け入れられている喜びを知ることができますように。あなたが私と交わりたいと願っておられる喜びを知ることができますように。

私が、あなたの赦しと憐れみの喜びを知ることができますように。

そして、その喜びによって、私がザアカイのように、あなたを本当に喜ばせたいという心を持つことができますように。

周りの人々が私について何を考え、何を言おうとも、私は気にしません。

あなたが私を愛し、受け入れてくださっているので、私は満足です。

私はあなたを心から愛しています。

あなたの恵みと愛に感謝します。あなたの御名によって祈ります。アーメン。

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ルカの福音書 ルカ19章

私たちのせいで

これはとても有名な聖書の話ですが、今日この個所を読んでみると、今まで読み過ごしていた箇所が心に強く響きました。

[ザアカイ]はイエス様がどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。(ルカの福音書19:3)

ザアカイは取税人でした。現代でも、多くの人々は税務署を嫌うかもしれませんが、イエス様の時代では、ユダヤ人たちは取税人を非常に憎んでいました。

以前にも私は述べましたが、取税人はユダヤ人たちが嫌うローマ帝国に協力し、自分の民をだましていたため、ユダヤ人の間では全く人気がありませんでした。

それでも、ザアカイはどうしてもイエス様を見たいと思っていました。なぜでしょうか。

おそらく、彼は多くのお金を持っていましたが、彼の心はまだ空虚でした。けれども、ザアカイがイエス様を見ると、イエス様の中に他の人とは違う何かを見ました。つまり、命と希望を見たのです。

ところが、群衆のせいで、ザアカイにはイエス様が見えませんでした。

おそらく、その群衆の中には信心深い人々が多くいたでしょう。彼らは神様を愛していたかもしれません。それでも、彼らの存在がザアカイにとって障害となり、イエス様を見ることを妨げました。

ザアカイは背が低い人でした。そして、大勢の人々がいました。もしザアカイが無理にイエス様のところへ行こうとしたら、群衆の反応を予想することができたでしょう。彼らがザアカイを認めたとしても、きっと彼を通らせなかったでしょう。

そのため、ザアカイは木に登りました。そしてザアカイを見て、イエス様はこう言われました。

ザアカイ、急いで降りてきなさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。(5)

もしザアカイが、人々が彼に抱いている意見について疑いを持っていたなら、彼らの反応によってその疑いは完全に吹き飛ばされたでしょう。彼らは不満を言い立てました。

[イエス様]は罪人のいところに行って客となった。(7)

しかし、ザアカイがイエス様の愛に触れたことで、彼の心は大きく変わりました。そして、彼はこう言いました。

主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取ったものがあれば、四倍にして返します。(8)

私たちはこの話から何を学ぶことができるでしょうか。

私たちはどれほど群衆のようにふるまうことがあるでしょうか。神様を愛していると言うかもしれませんし、イエス様に従うと言うかもしれません。それでも、私たちのせいで周りの人々がイエス様を見られないことはないでしょうか。

私たちは彼らにイエス様のことを伝えているでしょうか。それとも、彼らを見下したり、追い出したりしているでしょうか。

ザアカイに対するイエス様の反応を覚えていましょう。イエス様は、すべての人々との関係を望まれます。そのため、イエス様は十字架にかかられました。イエス様は私たちだけのために死なれたのではなく、彼らのためにも命を捧げてくださいました。

イエス様は軽蔑されている人々のためにも命を捧げられました。だから、人々を軽蔑してはいけません。

また、人々がイエス様のもとに来ようとするとき、その道を妨げることのないようにしましょう。むしろ、イエス様の言葉を心に刻みましょう。

人の子は、失われたものを探して救うために来たのです。(10)