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コリント人への手紙第二

祝福のパイプラインになるように召される

クリスチャンになると、得られる祝福のひとつは、試練の中における神様の慰めです。

けれども、スポンジのようになってしまうのは容易なことです。つまり、私たちは神様からの愛と慰めを吸収してしまうのです。

もちろん、私たちには神様の愛と慰めが必要なときがあります。それでも、神様は私たちがただ受け取るだけの存在になることを望んでおられません。

むしろ、神様は私たちが周囲の人々に対して祝福のパイプラインとなることを望んでおられます。

パウロはこう書きました。

私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように。

神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。(コリント人への手紙第二1:3-4)

神様が私たちを慰める目的のひとつは、私たちが受けた慰めを周囲の苦しんでいる人々に分かち合うことです。

だから、パウロはこう語りました。

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。(5)

ある意味、イエス様の苦しみは私たちの人生に注がれています。

もちろん、私たちは自分の罪の代価を支払っているわけではありません。イエス様がすでにその代価を支払われたからです。

それでも、私たちがイエス様のために苦しむこともあります。迫害を受けることもあります。試練に直面することもあります。

けれども、その苦しみや試練を通して、神様は御国を広げ、私たちの性格を形作ってくださいます。

だから、ペテロはこう語りました。

試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。(第一ペテロ1:7)

だから、イエス様の苦しみが私たちの人生に注がれるかもしれませんが、同時にイエス様の慰めも私たちの人生に注がれます。そして、その慰めは私たちの人生から周囲の人々へと溢れ出していきます。

神様は、私たちを慰めで満たすだけではなく、その慰めが私たちを通して苦しんでいる人々へと流れることを望んでおられます。

残念ながら、多くの人は神様からの愛と慰めを受け取るだけで、周囲の人々の必要には目を向けようとしません。

しかし、よく見渡してみると、私たちと同じような苦しみを経験している人がいることに気づきます。そして、神様は私たちが自身の経験を彼らと分かち合い、希望を与えることを望んでおられます。私たちは彼らにこう言えるでしょう。

「私には分かります。私も同じ経験をしました。神様はきっとあなたを助けてくださいます。」

こうして、私たちは神様の愛と慰めを彼らの人生に注ぎます。

あなたはどうでしょうか。ただ神様の愛を受け取るだけの存在ですか。それとも、神様の祝福を周囲の人々へと流すパイプラインとなっているでしょうか。