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列王記第一のデボーション

不従順への言い訳

必ず、あなたの神、主が選ばれる者をあなたの上に王として立てなければならない。。。

ただし王は、決して自分のために馬を増やしてはならない。

馬を増やすために民をエジプトに戻らせてはならない。

主は「二度とこの道を戻ってはならない」とあなたがたに言われた。

また王は、自分のために多くの妻を持って、心がそれることがあってはならない。

自分のために銀や金を過剰に持ってはならない。(申命記17:15ー17)

モーセを通して、神様はイスラエル人たちに王に関してそのルールを与えられました。

ソロモンはそのルールをことごとく破ってしまいました。(列王記第一9:28;10:14ー21、26ー29;11:1ー3)

どうして、ソロモンはそのルールを破ったのでしょうか。

私には分かりません。

でも、もしかしたら、ソロモンはそのルールがそれほど大切ではないと思っていたのかもしれません。

神様への私たちの不従順に対して、私たちはいろいろな言い訳を考えることができます。

「私はまだ主を愛しているよ。私はまだ主を礼拝しているよ。さらに、回りの人々はそのように生活しているの。」

たぶん、ソロモンもそのように考えていたのでしょう。彼はまだ主を礼拝していました。

でも、問題は「彼の心が神、主と一つにはなっていなかった」ということです(列王記第一11:4)。

そして、最終的に、ソロモンは主の目にまったく悪であることを行ってしまいました(列王記第一11:6)。

自分を騙して、自分の不従順に対していろんな言い訳を考えるのは簡単なことです。

でもそうすれば、最善の事態であっても、私たちの心はもはや100%神のものではなくなってしまいます。

最悪の事態では、私たちは主の目に全く悪であることを行ってしまいます。

イエス様、あなたは、「私を愛する人は、私の戒めを保ちます。」と言いました。

私があなたを愛することはあなたがご存じです。だから、私の不従順に対する言い訳を捨てるように助けてください。私の心がすべてにおいてあなたのものになるように。

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サムエル記第二のデボーション

主に愛された者

彼女は男の子を生み、彼はその名をソロモンと名づけた。主は彼を愛されたので、預言者ナタンを遣わし、主のために、その名をエディデヤと名づけさせた。(「エディデヤ」とは「主に愛されたもの」を意味します)。(サムエル記第二12:24-25)

ダビデは大きな失敗をしていました。自分の罪によって、ダビデは主を蔑んでしまいました。そして、その罪の結果は、ダビデとその家族に長い間、大きな影響を与えました。

それでも。。。

ダビデの悔い改めに伴って、彼は神様の赦しを知りました。そのあと、ダビデはこの言葉を書きました。

東が西から遠く離れているように、
主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)

もし私が神様だったら、たぶんこう言っていたと思います。

「ダビデとバテ・シェバを赦しはするが、この結婚を絶対に祝福しない。」

でも、神様はそのようには考えられませんでした。

ソロモンを「主に愛された者」と名づけることによって、神様はダビデとバテ・シェバにこのメッセージを伝えたかったのだと思われます。

「私はあなたたちをまだ愛している。あなたたちの罪によって、つらい時に直面することになるが、この子どもを見るとき、私の愛があなたたちから取り去られていないことを心に留めなさい。

ソロモンは私の愛する子どもです。あなたたちも、私の愛する子どもたちです。」

そして最終的に、ダビデとバテ・シェバとソロモンを通して、イエス様はこの世に来られました。(マタイ1:6–16)

それは恵みです。それは神の忠実な愛です。

あなたはどんな後悔を抱えているでしょうか。自分の過去の罪の結果によって、今も苦しんでいるでしょうか。

心に留めておきましょう。ダビデとバテ・シェバとソロモンのように、あなたは主に愛されている子どもです。

イエス様にあって、赦しがあり、神があなたのために整えられた道があります。

だからこそ、イエス様と共に、次の一歩を踏み出しましょう。

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伝道者の書のデボーション

私たちの喜びの源

前回の記事で私は言いましたが、伝道者の書で、ソロモンは神様中心の生活を送っていない人であるかのようによく話します。なぜでしょうか。

なぜなら、長い間ソロモンはそんな生活を送っていたからです。彼は外国人の女性と結婚して、彼女たちの偶像を礼拝し始めました。

ソロモンはまだ神様も礼拝していましたが、その礼拝は希薄なものになりました。さらに、ソロモンは神様から離れて、喜びを追い求め始めました。

今なお、多くの人々は同じ罪を犯してしまいます。彼らは神様から離れて、喜びを追い求めます。

彼らは快楽によって、喜びを追い求めます。(伝道者の書2:1)

彼らは仕事や物を得ることによって、喜びを追い求めます。(4ー9節)

また、彼らはこう考えます。「もし私は他の人よりも頭が良く、知恵を持つなら、幸せな人生を送るだろう。」(12節)

それらによって、彼らは一時的に幸せになるかもしれません。でも、神様から離れると、彼らは最終的にそのものの空しさが分かってきて、絶望してしまいます。(1ー2、11、14ー23節)

最終的にソロモンもその真理が分かってきました。もちろん神様は、私たちが与えられた世界を楽しむことを望まれます。でも、私たちは賜物を与える方から賜物を切り離すことはできません。

だから、ソロモンはこの話をこのようにまとめます。

実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え(ます)。。。(25ー26節)

ソロモンのようにならず、時間を無駄にせず、その教訓を学びましょう。

神様は、私たちがこの人生を楽しむことを望まれます。命は神様からの賜物です。でも、神様から離れるなら、私たちは決して真の喜びを見つけることができません。

だから、神様中心の生活を送りましょう。そうすれば、私たちは喜びだけではなく、満ち溢れる喜びを持つことができます。(ヨハネ15:9ー11)

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詩篇のデボーション

私たちの望みを託す王 

たぶん、私たち皆は良いリーダーたちを望みます。

正義をもたらすリーダーたちを望みます。

弱い人を助けるリーダーたちを望みます。

正しい者たちが栄える社会をもたらすリーダーたちを望みます。

詩篇72篇で、ソロモンは、自分がそのようなリーダーになるように祈りました。

ある点では、彼は良いリーダーでしたが、他の点では悪いリーダーでした。(列王記第一11:4〜8、12:4)

最終的に、ソロモンの祈りは、自分や他の王やリーダーによっては成就しませんでした。

イエス様だけによって、その祈りは成就します。ある日、イエス様はこの世に戻り、ご自身の国を確立されます。

その時、イエス様は「海から海に至るまで、川から地の果てに至るまで統べ治めます。」(詩篇72:8)

人々はイエス様によって祝福され、すべての国々はイエス様をほめたたえます。そして、神様の栄光が全地に満ちあふれます。(詩篇72:17、19)

だからニュースを読んだり聞いたりして、政治家たちの行為によってフラストレーションを感じるとき、彼らのために祈りましょう。

でも、覚えておきましょう。私たちは自分の望みを彼らに託しません。

むしろ、私たちは奇しいみわざを行われる方に望みを託します。(18節)

イエス様は「私はすぐに来る」と約束されました。(黙示録22:20)

だから、毎日、希望をもってイエス様を仰ぎ、祈りましょう。「アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20b)