この箇所の二つ目のたとえ話は、イエス様が以前に教えられたことを指しています。つまり、イエス様がこの世に戻られるまで、私たちは神様から委ねられた働きを忠実に果たさなければならないということです。
このたとえ話では、ある主人が三人のしもべに銀を預け、「この銀を投資しなさい」と命じました。
彼は最初のしもべに五タラントを預けました(タラント一つ分の銀は約二十六〜三十六キロとされています)。次に、二番目のしもべには二タラントを、三番目のしもべには一タラントを預けました。
なぜ主人は、しもべたちに異なる量を与えたのでしょうか。それは、彼らそれぞれの能力に応じて銀を預けたからです。
神様はこのように、私たち一人ひとりに才能と資源を与えてくださいます。けれども、私たちは皆、同じものを与えられるわけではありません。神様は、それぞれに異なる才能を与え、その才能に応じて、どのような資源を委ねるかを決められるのです。
また、このたとえ話のように、神様は私たちがその才能と資源を忠実に用いることを求めておられます。もし私たちが忠実にそれを行うなら、神様は私たちにこう言われます。
よくやった。良い忠実なしもべだ。お前はわずかなものに忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイの福音書25:21)
このたとえ話では、主人は二人のしもべにそのように言いました。ところが、もう一人のしもべは銀を投資せず、地面に穴を掘ってそれを隠しました。だから、主人が戻った時、そのしもべは預かった銀だけを返しました。
なぜ彼はそんな行動を取ったのでしょうか。おそらく、主人を敬っていなかったからです。
主人が不公平だと思っていたのです。つまり、主人は何もせずに他人の労働によって利益を得ていると感じていました。そして、しもべは銀を投資しても、主人が自分に正当な報いを与えてくれないと疑っていたのです。
多くの人々は神様をそのように見ています。彼らは神様を正しく重んじようとせず、不公平で厳しすぎる方だと考えています。そのため、神の国のために自分の才能や資源を用いようとせず、かえって神様を責めるのです。
けれども、彼らの不満は単なる言い訳にすぎません。実際には、彼らは神様のためではなく、自分自身のために生きたいと願っているのです。
主の日が来る前、つまりイエス様がこの世に戻られる前に、多くの人々は神様に対して誤った考えを抱きます。その時代には、地震、飢饉、戦争、疫病などが起こり、それを見た人々は自分の罪を悔い改めることなく、神様を責めるのです。
しかし、イエス様が戻られる時、彼らは自分の言い訳と批判が誤っていたことに気付きます。
神様が公平な方であるにもかかわらず、実際には自分自身がわがままで、怠惰で、罪深い者であったことを認めるようになるのです。だから、彼らは裁きを受けることになります。
信仰の本質とは、神様が良い方であることを信じることです。私たちはさまざまな災いに直面するかもしれませんが、それは神様が悪いからではありません。私たちは不正を目にすることがあるかもしれませんが、神様は不正な方ではありません。むしろ、この世の問題の根源は、私たち自身にあります。
それにもかかわらず、自らの責任を認めず、神様を重んじることなく、神様を責めて言い訳を並べるなら、私たちは神様から任されたものを忠実に用いることができなくなります。
あなたはどうでしょうか。神様について、あなたはどのように考えていますか。あなたの人生を通して、神様を重んじているでしょうか。神様があなたに委ねられたものを忠実に用いて、この世に働きかけているでしょうか。
