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創世記のデボーション

私を見てくださる神

ひざまずく、のけ者にとって、あなたは見てくださる神でした。ーーマイケル・カード

天のお父さん、あなたはエル・ロイです。つまり、あなたは「私を見てくださる神」なのです。

あなたはラハイ・ロイです。つまり、あなたは、「私を見てくださる生きておられる神」なのです。

でも、あなたはただ遠くから私を観察する神ではありません。

あなたは私の名前を知っておられます。

あなたは私と私の苦しみを聞いてくださる神です。

また、あなたは私を探し、見つけてくださる神です。

まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。。。

主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。

主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。(詩篇138:6,8)

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創世記のデボーション

私たちを見て、慰めてくださる神

私にとって驚くべきことは、同じ聖書の箇所を何度も読んでいても、時々その意義にまったく気づかないということです。

今日の箇所を何度も読んだことがありますが、今日、以下の聖句が初めて私の目に留まりました。

一方イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのであった。(創世記24:62)

それは、あまり目立たない聖句でしょう。

でも、それを読んで、「たしか、ベエル・ラハイ・ロイという地名を読んだことがある」と思いました。

そして、創世記16章を読んで、「やっぱり」と思いました。ベエル・ラハイ・ロイという所で、ハガルは神様に出会いました。その時、ハガルはサラから逃げていました。

神様に出会ったあと、ハガルは神様を「エル・ロイ」と呼びました。その名前の意味は、「私を見てくださる神」ということです。ベエル・ラハイ・ロイとは、「生きて私を見てくださる方の井戸」を意味します。

もしかしたら、その所にいるとき、イサクはこう祈ったかもしれません。

「神様。私の兄イシュマエルのお母さんであるハガルがここにいた時、あなたはハガルと共におられました。ハガルが本当に苦しんでいた時、あなたは彼女を見てくださいました。

でも今、苦しんでいるのは、私です。母が亡くなり、私はとても寂しいのです。あなたは、私も見てくださるでしょうか。私と共におられるでしょうか。」

神様は、そうしてくださいました。神様の恵みによって、ご自身の素晴らしいタイミングで、リベカをイサクのもとに導いてくださいました。その時、

イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカを迎えて妻とし、彼女を愛した。イサクは、母の亡き後、慰めを得た。(創世記24:67)

クリスマスは喜ぶときであるはずです。でも、ある人にとって、クリスマスはとても辛い時です。特に、今年、あなたの愛する人が亡くなった場合、本当に辛いでしょう。

でも、心に留めてください。神様は「エル・ロイ」です。神様はあなたを見てくださいます。また、イエス様は「インマヌエル」です。イエス様はあなたと共におられる神です。

だから、あなたが苦しんでいるなら、神様のもとに行ってください。

神様は、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神です。そして、どのような苦しみのときにも、神様は私たちを慰めてくださいます。(第ニコリント1:3–4)

さらに、神のひとり子であるイエス様はあなたと共におられます。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

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創世記のデボーション

私たちを聞いてくださる神、私たちを見てくださる神

今日の箇所では、私たちは神を描写する名前を二つ見ます。

イシュマエル:「神は聞かれる。」

エル・ロイ:「私を見てくださる神。」

ハガルに対して、神様はそのような神でした。

けれども、ハガルは神様の恵みとあわれみに値するような人ではありませんでした。

ハガルは大きな失敗をしたため、逃げなくてはなりませんでした。

それでも、神様はハガルをご覧くださいました。

また、神様はハガルの言葉を聞いてくださいました。

そして、神様は荒野に来られ、ハガルを引き戻そうとされました。

「主の使い」とは興味深い言葉です。

時に、「主の使い」とは天使を意味します。

しかし、「主の使い」とは、文字通りに「主の言葉を伝える方」を意味します。

そして、旧約聖書では、時に、その使いは神様であるかのように語られます。

今日の箇所では、その使いがそうされました。彼はこう言われました。

わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数えきれないほど多くなる。(創世記16:10)

ある聖書学者によれば、その使いはイエス様であったかもしれません。

赤ちゃんとしてお生まれになる前に、イエス様は時にこの世に現れたようです。

そして、ハガルにとっても、イエス様はインマヌエルでした。

イエス様はハガルをご覧になる神であられました。イエス様はハガルの声を聞かれる神でした。

ハガルのように、あなたは霊的な荒野を歩んでいるかもしれません。ハガルのように、それはあなた自身の過ちによるものかもしれません。

それでも、神様はあなたを見限られることはありません。神様はあなたを探しに来られます。

神様はあなたをご覧くださいます。

神様はあなたの声を聞いてくださいます。

神様は永遠から永遠までインマヌエルです。

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ガラテヤ人への手紙

約束の子供

この箇所で、パウロはアレゴリーを用いて、非常に重要なポイントを教えています。それは、律法への従順ではなく、神様の約束によって私たちが神様の子供となるということです。

この真理を説明するために、パウロはハガルとサラの物語に言及します。(この話は創世記16~21章に記されています。)

神様はアブラハムに息子を与えると約束されました。けれども、何年経っても子供が生まれなかったため、アブラハムとサラはその約束に疑念を抱くようになりました。そこで、サラはアブラハムに対し、自分の奴隷ハガルと寝て、その息子を相続人とするように勧めました。

現代の視点では衝撃的な提案ですが、当時の社会ではそれが一般的な習慣でした。

こうして、アブラハムはハガルと関係を持ち、イシュマエルが生まれました。しかし、イシュマエルは神様の約束と力によって生まれたのではなく、人間的な努力の結果として生まれたのです。

そのあと、サラも赤ちゃんを産みました。それがイサクでした。その時、サラはすでに90歳になっていたため、その出産はまさに奇跡でした。それは神様の御業でした。そして、神様はアブラハムに言われました。「イサクを通して、私はあなたを大いなる国民とします。」

そして、パウロは、ハガルとイシュマエルを、律法によって義と認められようとする人々の例として挙げました。彼らは、神様の約束と御業によって神様の祝福を受けようとは思いません。むしろ、自分の努力によって神様の祝福を得ようとします。

ところが、その考え方には大きな問題があります。奴隷の子供も奴隷です。

つまり、ハガルの子供、すなわち自分の努力によって義と認められようとする人は、結局、罪と死の律法の奴隷になってしまうのです。律法は人々を救うことはできません。律法ができるのは、ただ人の罪を指摘することだけです。(ガラテヤ人への手紙4:24~25)

その反面、恵みによって義と認められる人はイサクのようです。彼らは、神様の約束と御業によって、神様の子供と相続人になります。

そういうわけで、私たちは、もはや罪と死の奴隷ではありません。私たちは自由にされて、いと高きの神の子供になりました。(4:26-28)

それでも、人間の努力によって生まれたイシュマエルが、神様の約束によって生まれたイサクを迫害したように、一部のユダヤ人のクリスチャンたちはガラテヤ人のクリスチャンたちを迫害しました。

彼らはガラテヤ人たちを律法の奴隷としようとし、「そうしないと、あなたは本当のクリスチャンではない」と主張しました。(4:29)

そのため、パウロは厳しく語ります。

しかし、聖書は何と言っていますか。「女奴隷とその子どもを追い出してください。女奴隷の子どもは、決して自由の女の子どもとともに相続すべきではないのです。」(ガラテヤ人への手紙4:30)

つまり、「その偽教師たちを追い出しなさい。彼らは奴隷の子供であり、決して遺産を受け継ぐことはありません。彼らはあなたたちと何の関係もありません。彼らはあなたたちを退けようとしますが、実際には彼ら自身が退けられているのです。」ということです。

そして、パウロは改めて強調します。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。(4:31)

そして、パウロは彼らを戒めます。

キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。(ガラテヤ人への手紙5:1)

その真理を忘れないようにしましょう。イエス様は私たちを律法から解放してくださいました。その目的は、再び私たちを律法の束縛のもとに置くことではありません。むしろ、イエス様の目的は、私たちが永遠に律法から自由にされることです。

だから、神様の子供として、私たちは神様の愛に値するかどうかを心配する必要はなく、神様が私たちを受け入れてくださっているという確信を持つことができます。

あなたはどうでしょうか。神様の子供として、平和と喜びをもって生きているでしょうか。それとも、宗教のルールの重荷を担いながら、奴隷のように生きているでしょうか。