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マタイの福音書のデボーション

羊飼いの招きに応える

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。 (マタイの福音書11:28~30)

それは、私たちへの良い羊飼いの招きです。

バプテスマのヨハネのように、私たちが霊的に疲れているとき。

神様が遠く感じられ、また、私たちの期待どおりになさらないゆえに失望するとき。

試練のゆえに、耐えられない重荷を抱えているとき。

ちょうどマタイの福音書を読む直前、私は詩篇143篇を思い巡らしていました。ダビデの言葉は、イエス様の招きに対するふさわしい応答だと思います。

あなたも、その良い羊飼いの招きに、同じように応えますように。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。
私はあなたに信頼していますから。

行くべき道を知らせてください。
私のたましいはあなたを仰いでいますから。

【主】よ私を敵から救い出してください。
私はあなたのうちに身を隠します。

あなたのみこころを行うことを教えてください。
あなたは私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が
平らな地に私を導いてくださいますように。(詩篇143:8~10)

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マタイの福音書のデボーション

新しいことを抱く心

それから、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「私たちとパリサイ人はたびたび断食をしているのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのですか」と言った。(マタイの福音書9:14)

今朝、私はヨハネの弟子たちについて考えていました。なぜ彼らは、まだヨハネに従い続けていたのでしょうか。

ヨハネは牢に入れられ、自分の奉仕は終わりました。

その一方で、ヨハネが指し示していたイエス様の奉仕はすでに始まっていました。それなのに、どうしてイエス様とその道に従わず、ヨハネとその道にしがみついていたのでしょうか。

神様は新しいことをなさっていました。(マタイの福音書3:11)

けれども、ヨハネの弟子たちの心はそれに向いていませんでした。古い布や古い皮袋のように、彼らの心は柔軟さを失っていて、新しいものを受け入れることができませんでした。

ある弟子たちは、イエス様が死なれ、復活されてから何年も後になっても、心はそのままでした。(使徒の働き19:1~7)

私はそのように生きたくありません。しかし、私の心の中にも、その傾向を見ることができます。慣れたこと、心地よいことを好み、すぐに新しいことを抱くことができないのです。

イエス様は、私をヨハネの弟子たちのように戒められるでしょうか。

イエス様、あなたがなさっている新しいことに対して、私が柔らかい心を保つことができるようにしてください。

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マタイの福音書のデボーション

誰に従っているのでしょうか

ヨハネの死は、本当に切ない出来事ですね。でも今日、私はヨハネの弟子たちの反応について考えました。彼らはヨハネの遺体を引き取り、丁寧に葬りました。そして、イエス様のもとへ行って、そのことを報告しました。

今日、それを読んで、私は初めてこう思いました。

「そのあと、彼らは何をしたのだろうか。イエス様に従い始めたのだろうか。

それとも、ただ自分の家に戻ったのだろうか。」

私たちには分かりません。

もし彼らがイエス様に従い始めたのなら、それは本当に素晴らしいことだったと思います。なぜなら、ヨハネはいつもイエス様を指して、「その方に従いなさい」と語っていたからです。

それはさておき、私たちはどうでしょうか。私たちは誰に従っているのでしょうか。

多くの人々は、他の人の影響によってクリスチャンになりました。その人は牧師かもしれません。友人や家族かもしれません。

しかし、その人がいなくなったとき、私たちはどうするでしょうか。

その人は亡くなるかもしれません。

その人は引っ越すかもしれません。

残念なことですが、その人が罪に陥り、神様から離れてしまうこともあるかもしれません。

そのような時、私たちはどうするでしょうか。

私たちはただ「家に帰る」のでしょうか。

それとも、私たちはイエス様に向かい、従うのでしょうか。

イエス様は、5000人にパンを与えられたとき、ご自身が命のパンであることを証明されました(ヨハネ6章)。

つまり、イエス様こそが、私たちに真の命を与える方であることを示されたのです。イエス様こそが、私たちの霊的な飢えと渇きを満たすことのできるお方です。

さらに、人生の嵐が襲うときにも、イエス様はいつも私たちと共におられる方です。

人々が私たちから離れていくこともあります。彼らが私たちを失望させることもあります。

しかし、イエス様は決してそのようなことはなさいません。

だから、私はもう一度あなたに問いかけます。

あなたは誰に従っているのでしょうか。

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使徒の働き

悔い改めることだけではく

この箇所では、私たちはバプテスマのヨハネの弟子たちに出会います。ある意味では彼らはアポロに似ていましたが、ある意味ではアポロとは異なっていました。

アポロのように、彼らはバプテスマのヨハネに従いました。しかし、アポロと違い、ヨハネが誰を指していたのかを理解していませんでした。

ヨハネは彼らにバプテスマを授けましたが、もしかしたらヨハネがイエス様をメシアとして宣言する前に、彼らは別の場所へ移ったのかもしれません。つまり、彼らは罪を悔い改めましたが、イエス様に従ってはいませんでした。

そこで、パウロは彼らにイエス様について教えました。その後、彼らはイエス様を信じ、イエス様の名前によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

今日の要点は何でしょうか。罪を悔い改めるだけでは、十分ではありません。

「神様に従いたい」と言っても、それだけでは足りません。

あなたはイエス様を信じなければなりません。

イエス様は、神様への道のひとつではありません。唯一の道なのです。イエス様との関係を持たなければ、どれほど多くのものを持っていても、それは無意味です。

あなたはどうでしょうか。イエス様を信じていますか。すでにイエス様を受け入れましたか。

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マタイの福音書 マタイ14章 マルコの福音書 マルコ6章 ルカの福音書 ルカ9章

あなたを尊敬するけど。。。

この箇所では、ヘロデ王の行動が非常に謎めいているように思えます。ヘロデが自分の兄弟の妻を奪い結婚したとき、バプテスマのヨハネはヘロデを厳しく責めました。

もちろん、ヘロデはそれを聞いて不快に感じましたが、もしその妻ヘロデヤの影響がなかったなら、彼は何もしなかったかもしれません。ヘロデヤはヨハネの死を望んでいましたが、ヘロデはそこまでしませんでした。

最初、彼もヨハネを殺したいと思ったかもしれませんが、最終的にはヨハネを逮捕し、牢に閉じ込めました。

では、なぜヘロデはヨハネを殺すことをためらったのでしょうか。ひとつ目の理由は、ヘロデがユダヤ人の反応を恐れていたからです。(マタイ14:5)

もうひとつの理由として、時間が経つにつれてヘロデはヨハネを尊敬するようになっていた可能性があります。ヨハネが王に「あなたが悪い」と勇敢に告げたことに対し、ヘロデは感服していたのかもしれません。

マルコの福音書によれば、ヘロデはヨハネが他の人々とは異なることを認識していました。つまり、ヨハネが正しく、聖なる人であることを理解していたのです。

そして、ヨハネが何度もヘロデを責め、その言葉に当惑させられたにもかかわらず、ヘロデは「喜んで耳を傾けていた。」(マルコ6:20)

それでも、ヘロデは決して悔い改めることはありませんでした。

ヘロデの誕生日パーティーでは、その娘が皆の前で踊りを披露しました。ヘロデはその踊りを見て喜び、こう言いました。

おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。(マルコ6:23)

ヘロデの娘はお母さんに相談し、バプテスマのヨハネの首を要求しました。

ヘロデはそれを聞いて心を痛めました。けれども、自分のプライドのため、人々の前で誓いを取り消すことができず、ヨハネを殺してしまいました。

おそらく、ヘロデはその前にヨハネと会話する機会がなかったかもしれません。とはいえ、私の想像では、もしもヨハネと話していたなら、ヘロデはこう言ったかもしれません。

「ごめんなさい。私はあなたのことを嫌っているわけではありません。実は、あなたを心から尊敬しています。けれども、娘があなたの首を望んだのです。」

私たちがヘロデの態度を非難するのは簡単かもしれません。しかし、どれほど私たち自身が、イエス様に似たようなことを言ってしまうでしょうか。

私たちがイエス様の言葉を聞くと、心の深いところが揺さぶられます。それでも、その言葉に従わず、自分のプライド、家族、または他の優先事項を理由に、イエス様とその言葉に背を向けてしまうことがあります。

あなたはどうでしょうか。教会の説教を聞くとき、このブログを読むとき、また聖書を読むとき、その言葉が心に染み込み、心が温かくなるのを感じることがあるでしょう。あなたは「この方を尊敬します。本当に素晴らしい方です」と思うかもしれません。

しかし、そこで立ち止まり、「けれども…」と言って、神様の御言葉に背を向けてしまうこともあるかもしれません。

神様が送られた人を尊敬すること、それ自体は十分ではありません。また、彼らが敬虔な人だと認めることも、十分ではありません。

もし彼らが神様の言葉を正しく伝えているなら、それに応じて行動しなくてはなりません。そして、悔い改める必要があります。なぜなら、神様はいつかあなたが聞いたその言葉によって、あなたを裁かれるからです。

あなたはどう応じますか。

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マタイの福音書 マタイ9章 マルコの福音書 マルコ2章 ルカの福音書 ルカ5章

神様があなたを用いるために

ユダヤ人の宗教的なリーダーたちは、しばしばバプテスマのヨハネをイエス様と比較し、ヨハネの弟子たちに嫉妬心を抱かせようとしました。そして、ヨハネの弟子たちは、たびたびその罠にかかってしまいました。

ヨハネ3章では、あるユダヤ人(おそらくユダヤ人のリーダー)がヨハネの弟子たちにこう言いました。「イエス様があなたたちよりも多くの人々にバプテスマを授けていることを知っていますか。」

この箇所では、宗教的なリーダーたちの言葉によって、ヨハネの弟子たちはイエス様に「どうして断食しないのですか」と質問します。

なぜパリサイ人や他の宗教的なリーダーたちは、いつもバプテスマのヨハネとイエス様を比べたのでしょうか。それは、ヨハネがイエス様の証人だったからかもしれません。

ヨハネはイエス様のために道を整えましたが、もしヨハネとその弟子たちがイエス様を批判し始めるなら、その証言は台無しになってしまったでしょう。

イエス様が結婚式の比喩を用いられたのは偶然ではないと思います。なぜなら、ヨハネ3章でバプテスマのヨハネも同じ比喩を用いたからです。その時、ヨハネは自分自身を花婿の友人と比較し、イエス様を花婿と比べました。

そのため、イエス様はヨハネの弟子たちにヨハネの言葉を思い起こさせようとされたのかもしれません。

その時、ヨハネは牢に入っていました。彼の役目は終わっていたのです。それでも、なぜかヨハネの弟子たちはイエス様に従おうとしませんでした。彼らはアンデレの模範に従うべきだったのです。(ヨハネ1:35-40)

イエス様は彼らにこう言われました。

「ヨハネは、あなたたちに私が花婿だと語りました。花婿と共にいる時に、どうして周りの人々が断食したり悲しんだりする必要があるでしょうか。花婿が取り去られる時には断食するのが良いでしょう。

とはいえ、その時はまだ来ていません。私はまだここにいるのです。私が去る時が来たなら、その時、断食し、祈りなさい。」

そして、イエス様はたとえ話を語られました。イエス様は皮袋と衣服の継ぎについて話されました。その時代の人々には、このたとえがよく理解されていましたが、現代の私たちには少し分かりにくいかもしれません。

少し考えてみてください。もし古いジーンズに穴が開いたなら、新しいデニムの継ぎでそのジーンズを修繕しますか?それではうまくいきません。そのジーンズを洗うと継ぎが縮んでしまい、ジーンズ全体が裂けてしまうからです。

現代では、私たちはワインをビンに保存します。けれども、その時代の人々はワインをヤギの皮袋に入れていました。そのワインが発酵すると皮袋は膨らみます。しかし、新しいワインを古い膨らんだ皮袋に入れると、その皮袋はすぐに裂けてしまうのです。

では、イエス様はヨハネの弟子たちに何を教えようとされたのでしょうか。

「神様は新しいことを始めています。私は神の子としてここに来ました。罪によって滅びかけている人々に手を差し伸べています。私は永遠の御国を築いています。

けれども、あなたたちは古い皮袋のようです。あなたたちが自分の伝統や古い方法を愛しすぎるために、神様はあなたたちを用いることができません。」

パリサイ人は律法を愛しました。彼らにとって最も重要なのは人を救うことではなく、律法を守ることでした。彼らは人々を救うよりも、いけにえを捧げたり宗教的な儀式を行うことに関心がありました。

ヨハネの弟子たちは自分の師をあまりにも愛しすぎて、ヨハネの目的を忘れてしまいました。

その目的は単に人々にバプテスマを授けることではありませんでした。その目的は単に悔い改めのメッセージを伝えることでもありませんでした。その目的は人々の心をイエス様のために準備することだったのです。

しかしヨハネが牢に入れられた時、彼らはイエス様の元へ行かず、神様が彼らに与えた目的を逸れてしまいました。

神様はイエス様のミニストリーを通して、新しいぶどう酒(つまり、聖霊の働き)を人々に注いでおられました。それでも、ヨハネの弟子たちはヨハネの教えと伝統的な修行に固執して、「古い物の方が良い」と言ったのです。(ルカ5:39)

あなたはどうでしょうか。あなたの人生に聖霊の働きを歓迎していますか。

それとも、伝統にしがみついているでしょうか。律法主義にしがみついているでしょうか。それとも、古い方法に固執しているでしょうか。その方法が以前は効果的だったかもしれませんが、今はそうではないかもしれません。

もし神様があなたを用いることを望んでいるなら、神様が何をしているのかを見て、その働きに参加する必要があります。そして、あなたの伝統や古い方法を手放す必要があるかもしれません。

あなたは古い皮袋でしょうか。それとも新しい皮袋でしょうか。

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ルカの福音書 ルカ3章

私はあなたの御心に従っていると思ったのに

時々、私たちは自分の悪い決断によって苦しむことがあります。

たとえば、私が勤めていた会社が倒産しそうなのに、私はそこに留まり続けました。「なんとかなる」と思っていましたが、結局その会社は倒産し、私は失業しました。それは本当に愚かな決断でした。

しかし、時には私たちが神様の御心に従い続けているにもかかわらず、試練に直面することもあります。そして私たちは神様にこう訊きます。「どうしてですか?あなたの御心に従っていると思っていました。」

バプテスマのヨハネもそのように感じたかもしれません。

18節によれば、ヨハネは「多くのことを教えて、民衆に福音を知らせた」とあります。

また、彼は自分の弟子たちをイエス様のもとに向かわせて、「イエス様こそ、あなたが従うべき方です」と言いました。

さらに、ヨハネは予言者としての役割を忠実に果たし、人々の罪を指摘しました。その結果として、彼は苦しみました。

具体的には、ヘロデ・アンティパス王が兄弟の妻を自分の妻としたことをヨハネが非難したため、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めました。

この話の続きをいつかブログで書こうと思っていますが、ここで一つの質問を投げかけてみたいと思います。「どうして神様はこのようなことを許されたのでしょうか?」

ヨハネは牢に閉じ込められるような罪を犯したのでしょうか。そんなことはありません。

神様はヨハネを救うことができたでしょうか。はい、できました。

では、どうして神様はヨハネを救われなかったのでしょうか。それは私にはわかりません。

最終的に、私たちは神様を信頼しなくてはなりません。

私たちが神様に従っても、神様は気楽な人生を約束されません。私たちの人生がすべてうまくいくことを約束されるわけではありません。

イエス様は完璧な人だったのに、打たれて、十字架につけられました。イエス様は気楽な人生を送られることはありませんでした。もしイエス様がそんな人生を送られたなら、私たちが気楽な人生を期待する理由があるでしょうか。

ペテロはこう書きました。

罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。

けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。(第一ペテロ2:20-21)

私たちは何のために召されたのでしょうか。それは、イエス様のために苦しみを受けることです。

イエス様の足跡はどこに導くのでしょうか。それは苦しみに導きます。

誤解しないでください。私たちが苦しみを探すべきだというわけではありません。しかし、試練が訪れても驚いてはいけません。

もし試練が訪れるなら、ヘブル人への手紙の著者の言葉を心に留めておきましょう。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:3)

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ヨハネの福音書 ヨハネ3章

誰に従うべきか

弟子造り。弟子造りについて考えれば考えるほど、その重要性が深く理解できます。しかし、弟子造りの目的とは一体何でしょうか。

多くの人々が弟子造りについて考えるとき、間違った目的を持つことがあります。彼らは弟子の一生の先生でありたいと思い、弟子からの尊敬を求めます。そして、自分の弟子を持つことを自慢し、「私に従う人たちを見てご覧。」と言います。

けれども、私たちの目的は、自分の弟子を造ることではありません。私たちの目的は、キリストの弟子を造ることです。

バプテスマのヨハネは、その点をよく理解していました。以前にも述べたように、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様に向かわせ、「イエス様こそ従うべき方だ。彼のもとに行きなさい。」と伝えました(ヨハネ1:35-36)。

この箇所では、私たちはヨハネの態度を再び目にします。イエス様はご自身のミニストリーを始められ、弟子たちはイエス様の権威によって人々にバプテスマを授けました。

その結果、ヨハネのもとに来る人は減り、イエス様のもとに行く人が増えていきました。それを目の当たりにしたヨハネの弟子たちは少し不安になり、ヨハネにこう言いました。

先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。(ヨハネの福音書3:26)

ヨハネの弟子たちは、ヨハネがどのように反応するか予想していたでしょうか。彼らはヨハネが怒ると思ったのでしょうか。それとも、ヨハネが感情を害すると考えたのでしょうか。

けれども、ヨハネはこう答えました。

人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。

花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。(27-30)

つまり、「私の人生の目的はキリストの道を整えることです。だから、私は人々をイエス様に向かわせなければなりません。そのために、私はこれまでずっと努力してきました。

結婚式では、一番重要な人物は花婿の友人ではなく、花婿です。結婚式の準備が整い、式が始まり、花婿が入場すると、その友人は心から喜びます。

これこそが私の感情です。私の役割を果たし、使命を達成しました。だからこそ、イエス様が私よりも偉い立場を取られるのはふさわしいことです。そして、私が彼の背後に退くべき時が来ました。」

これが弟子造りです。弟子造りとは、相手の一生の先生になることではありません。私たちは常に彼らを導き続けるべきではありません。

弟子造りとは、人々をイエス様へ導くことです。彼らがイエス様を知り、信じるように、私たちは彼らの心を整えます。私たちの経験、知識、そして知恵を伝えます。けれども、その後、私たちは彼らにこう告げるべきです。

「あなたが私のもとを去る時が来ました。私はできる限りのことをあなたに教えました。これからは、あなた自身でイエス様に従いなさい。」

そして、私たちは彼らの人生の背景に戻るべきです。

どんな弟子造りの関係でも、キリストが盛んになり、私たちは衰えるべき時が必ず訪れます。

使徒ヨハネはこう述べています。

地から出る者は地に属し、地のことばを話す。(3:31)

つまり、私たちは人間だからこそ、私たちの経験と知識には限界があるのです。

しかし、イエス様は天から来られ、御霊に満たされていたため、そのような限界は存在しませんでした。それにイエス様は「すべてのものの上におられます」(ヨハネ3:31)と記されています。

さらに、命を与えるのは私たちではなく、イエス様です。

だから、人々をイエス様へ導きましょう。彼らにイエス様の弟子としての歩み方を教えましょう。そして、イエス様が彼らを導いてくださる姿を見て、喜びましょう。

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ヨハネの福音書 ヨハネ1章

あなたのおられるところにいたいのです

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に向かわせた時、彼らはすぐにイエス様について行きました。

彼らにとって、ヨハネのもとを離れるのは簡単なことではなかったでしょう。もちろん、彼らはヨハネを愛し、強い関係を築いていましたが、ヨハネが彼らに教えることのできることには限界がありました。そのため、彼らが次のステップに進む時が来たのです。

なぜヨハネの教えには限界があったのでしょうか。ヨハネより優れた預言者はいなかった(マタイ11:11)ものの、彼はただの人間でした。一番偉大な人であっても限界があります。

だからこそ、彼らは次の段階に進み、神様の弟子となる必要がありました。イエス様こそ肉において現れた神様です。

彼らがイエス様に近寄った時、どんな気持ちだったのでしょうか。エデンで神様が約束されたメシアに、どう話しかけたらよいか分からず、たぶん不安で、少し怖がっていたかもしれません。こんな会話があったかもしれません。

ヨハネ:「あなたがイエス様に話しかけたらどうですか。」

アンデレ:「いや、どうぞお先に。」

結局、イエス様は彼らに気づいて声をかけられました。彼らはおそらく足を止め、心の中でこう考えたかもしれません。

「イエス様は私たちを拒絶されるのではないだろうか。私たちには何の資格もない。それでも、イエス様は私たちを受け入れてくださるだろうか。」

おそらくそんなことを考えている間に、イエス様は彼らに尋ねられました。

あなたがたは何を求めているのですか。(ヨハネの福音書1:38a)

彼らはこのように答えました。

ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。(38b)

私たちの文化では、初めて人に会う時、このような質問をするのは少し奇妙に感じるかもしれません。私たちの文化では、「はじめまして。アンデレとヨハネです。よろしくお願いします。」と言うのが一般的です。

しかし、彼らの文化では、この言葉の背後に込められた意味は次のようなものでした。

「私たちはイエス様の弟子になりたいです。イエス様がおられるところに、私たちもいたいです。イエス様から学びたいです。イエス様の教えだけでなく、イエス様の毎日の生活からも学びたいです。」

2千年が経った今でも、この本質は変わっていません。もしイエス様の弟子になりたいなら、イエス様の弟子としての態度を持たなくてはなりません。それは、イエス様と共にいたいという心です。

あなたはどうですか。この態度を持っていますか。毎朝、イエス様の足元で聖書を読み、祈り、イエス様の声を聞く時間を取っていますか。また、一日中、イエス様と共に歩む心の姿勢を持っていますか。

多くのクリスチャンは朝にイエス様と時間を過ごしますが、その後にこう言います。「じゃあ、またね。今行かなくちゃ。」

そして、次の日までイエス様について一切考えないことがあります。

しかし、私たちはどこに行ってもイエス様を連れて行くべきです。一日中イエス様の声を聞き、イエス様の導きに従うことを学ぶことが必要です。それこそが本当の弟子の姿です。

私が毎日そうしていると言えればいいのですが、正直に言うと、まだできていません。私は今も、毎日毎日、一瞬一瞬イエス様と共に歩むことを学んでいる途中です。

あなたも私と一緒に、この道を歩み始めませんか。

私はある賛美の歌がとても好きです。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
Dwelling daily in your presence.
毎日あなたと共に過ごしたいです。
I don’t want to worship from afar.
遠くから礼拝したくないです。
Draw me near to where you are.
どうかあなたのそばに私を近づけてください。

I just want to be where you are.
あなたのおられるところにいたいです。
In your dwelling place forever.
永遠にあなたの住まいにとどまりたいです。
Take me to the place where you are.
あなたのおられる場所まで私を導いてください。
I just want to be with you.
ただあなたと共にいたいのです。

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マタイの福音書 マタイ3章 マルコの福音書 マルコ1章 ヨハネの福音書 ヨハネ1章 ルカの福音書 ルカ3章

真理を語っている?

この話では、私たちは18年間ほど時を飛ばします。イエス様は30歳になり、自分のミニストリーを始められました。けれども、彼が始める前に、イエス様のいとこバプテスマのヨハネは、すでに自分のミニストリーを始めていました。

使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネが誰であるかを説明します。

神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。(ヨハネ1:6-8)

祭司たちや、パリサイ人、サドカイ人(パリサイ人とサドカイ人はユダヤ人の宗派です)がヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねたとき、彼はこう答えました。

私はキリスト(つまり、メシア、または、救い主)ではありません。。。私は、預言者イザヤが言ったように「主の道をまっすぐにせよ」と荒野で叫んでいる者の声です。(ヨハネ1:20,23)

彼の人生の目的は、人々の心をイエス様をメシアとして受け入れるために整えることでした。

私たちはイエス様の弟子として、神様から同じ使命を与えられています。私たちは周りの人々の心をイエス様のために整えるべきです。私たち自身には彼らを救う力はありません。ただ、神様の言葉という種を彼らの心にまくことができるだけです。

私たちのメッセージもヨハネのメッセージとほぼ同じです。

主な違いは、ヨハネの時代には神様からの救いがイエス様を通してまだ到来していなかったという点です。しかし、イエス様がすぐに来られるので、彼らは自分の心を準備しなくてはなりませんでした。(ルカ3:6)

一方で、私たちのメッセージは、イエス様を通して神様の救いがすでに到来したということです。

また、ヨハネの言葉を見ると、一つのことが私の心に深く響きます。ヨハネは率直に話しました。

パリサイ人とサドカイ人が来たとき、彼はこう言いました。

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。

その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3:7-12)

どうしてヨハネはそんなに厳しく話したのでしょうか。それは、彼らが偽善者だったからです。彼らは神の律法を守ろうと努力しました。つまり、外面的には正しいことを行いましたが、心は堕落していました。

彼らはこう思っていました。「私はユダヤ人だから、神様に受け入れられているだろう。それに、神の律法を知らない多くのユダヤ人と違って、私はよく知っている。」

しかし、彼らの心がプライドに満ちていたため、神様のあわれみを知ることができませんでした。

一方で、ヨハネは他の人々に対してもっと優しく話しました。イスラエル人に嫌われていた人々(取税人やローマの兵士)にも優しく接しながら、「悔い改めなさい」と語りました。裁きの日が来るので、罪深い人生を続けてはいけなかったのです。

私たちも真理を伝えなければなりません。そのメッセージは厳しく感じられるかもしれませんが、伝えることが重要です。

私たちの王はやがてこの世にもう一度来られ、悪を裁き、すべてを癒してくださいます。

それは良い知らせですが、多くの人々は自分の中にある悪を認識していません。そして、その罪のゆえに、もし彼らが悔い改めず、心から王を歓迎し、自分の人生にその良い支配を受け入れないなら、彼らも裁かれてしまいます。

私たちはそのことについて警告すべきです。そうしなければ、神様は私たちに責任を負わせるでしょう。(エゼキエル書3:16-21;使徒の働き20:26-27)

あなたはどうですか。真理のすべてを語っているでしょうか。

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イザヤ書

裁きと贖い

裁きと贖い。聖書では、この二つのコンセプトを頻繁に目にします。この箇所でも、その二つのコンセプトを見ることができます。

34章では、神様がイスラエルを攻撃した国々を裁き、滅ぼします。

35章では、イスラエルの贖いが描かれています。その贖いはどのように来るのでしょうか。

それは、イエス・キリストを通してやって来ます。

イザヤはイスラエル人を励まします。

弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。心騒ぐ者たちに言え。

「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」(イザヤ書35:3-4)

「あなたの神は来られる。」

短期的には、神様はアッシリヤ人やバビロン人を裁きに来られました。しかし、神様は救いのためにも来られました。

5-6節で、イザヤはこう言っています。

そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。(35:5-6a)

バプテスマのヨハネは牢にいた時、自分の弟子たちをイエス様のもとに送り、こう質問しました。「あなたは本当にメシアでしょうか。」

それに対して、イエス様は答えられました。

あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:4-5)

多分、イエス様はこのイザヤの箇所を考えておられたのでしょう。イエス様はこう言われました。

「イザヤの言葉を覚えていますか。つまり、神様が来ると、目の見えない者の目が開かれ、耳の聞こえない者の耳が開き、足の不自由な者は鹿のように跳びはねるということです。覚えていますか。

今、それは起こっています。

だから、ヨハネに伝えてください。「あなたの弱い手を強め、あなたのよろめく膝をしっかりせよ。強くあれ。恐れるな。私は来たから。あなたの希望を捨てないでください。」」

ヨハネのように、私たちは時々神様を疑うことがあるかもしれません。私たちの信仰が枯れて、神様が本当に存在するのかを疑い、神様の愛を疑い、神様からの救いが本当に来るのかどうかを迷うことがあります。

しかし、イエス様がヨハネに言われたように、疑いに負けないでください。イエス様にすがってください。イエス様は来られたのです。

そして、イエス様はあなたのところに来てくださいます。イエス様が来られると、

荒野に水がわき出し、荒地に川が流れる。。。

焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり[ます]。。。(イザヤ書35:6b-7a)

そして、ある日、あなたは、

喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。

楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。(イザヤ書35:10)