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民数記のデボーション

ただの言葉?

バラムの話を読んだ時、私はパリサイ人たちと律法学者たちへのイエス様の言葉を連想しました。

この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。(マタイ15:8)

時々、バラムは敬虔な人に聞こえました。

私は私の神、主の命を破ることは、事の大小にかかわらず、断じてできません。(民数記22:18)

しかし、彼は口先で神様を敬っても、その心は神様から遠く離れていたのです。

自分の欲のために、彼は神様の命じられたことを回避する方法を探していたようです。(第二ペテロ2:15~16)

けれども、神様はバラムの心をよく知っておられ、バラムの言葉に騙されていないことをはっきりと告げられました。

神様の警告を聞いて、バラムはイスラエルを呪おうとする計画をやめました。それでも、彼は後にイスラエルを困らせる方法を見つけました。(民数記25:1~5;36:16)

日曜日に「はい、主よ。私はあなたに従います。アーメン」という言葉を歌うのは簡単なことです。

しかし、それはただの言葉でしょうか。

それとも、その言葉は本当に私たちの心の叫びでしょうか。

私たちの心は、日曜日だけではなく、むしろ毎日毎日、一瞬一瞬、神様に捧げられているものでしょうか。

私たちは心を尽くして神様に従っているでしょうか。

もしくは、私たちは神様の命じられたことを回避する方法を探しているのでしょうか。

天のお父さん、私はバラムのようになりたくありません。私の心のすべてが、あなたのものになるように。

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神が私たちの口に置かれることば

バラムはバラクに言った。

「ご覧なさい。私は今あなたのところに来ているではありませんか。私に何が言えるでしょう。神が私の口に置かれることば、それを私は告げなければなりません。」(民数記22:38)

私が教会で聖書を教えているので、その言葉は私の心を打ちました。

私には、単に好きなことを教える自由がありません。神様が私の口に置かれた言葉を告げなければなりません。

しかし、すべてのクリスチャンがその原則に従わなければなりません。

時には、周りの人々が、自分が聞きたいことを言うように、私たちにプレッシャーをかけてきます。

パウロはこう言いました。

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め(ます)。。。(第二テモテ4:3)

イエス様も、そんなプレッシャーをよく感じられました。けれども、イエス様はいつも天の父の言葉に応じて話されました。(ヨハネ7:16-17)

それに、バラムとは違って、イエス様はいつも天の父の栄誉を求められました。

私たちは、主の模範に従って、恵みとまことをもって人々に語りましょう。