カテゴリー
使徒の働きのデボーション

兄弟姉妹たちの信仰を励ます

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。

彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(使徒の働き11:23-24)

今日、私は上の言葉に思いを巡らしています。バルナバのように人々の信仰を鼓舞する、私の二人の友人のことを考えていました。彼らは、人々がイエス様に忠実に従い、心のすべてを捧げるように励まします。

また、他の人々がサウロのことを疑ったときに、バルナバが彼を信じたように、私の友人たちも人々を信じます(使徒の働き9:26-27;11:25-26)。

バルナバと私の友人たちのことを思いながら、私もそのような人になりたいと願っています。

この世にいる限り、私は人々の信仰を励ましたいのです。イエス様が私を通して彼らに触れてくださり、彼らも周りの人々の信仰を励ますようになることを願っています。

だから、今日私は祈っています。「主よ、誰に触れてほしいのですか。私は誰の信仰を励ますことができるのでしょうか。どうすれば、私は彼らの信仰を成長させることができるのでしょうか。」

今、神様はあなたの心に語りかけておられるかもしれません。あなたは誰に触れることができるでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

もう一つのチャンスを与える?

この箇所では、私たちはパウロとバルナバが別れる場面を目にします。

その理由は、マルコという若い男性です。マルコはバルナバのいとこであり、パウロとバルナバが最初の宣教旅行に出発する際、彼も同行しました。けれども、なぜか途中で帰ってしまいました。

私たちはその理由を知りません。もしかしたら、彼はホームシックだったのかもしれません。あるいは、福音の敵と対峙したときに恐れを感じたのかもしれません。

いずれにせよ、どうやらパウロはマルコの決断を受け入れられなかったようです。

そのため、パウロとバルナバが再び宣教旅行に行こうとしたとき、バルナバがマルコを同行させようと提案すると、パウロは強く反対しました。

バルナバはそのことで怒り、マルコとともにキプロスへ渡り、宣教の働きを続けました。一方、パウロはシラスという人物とともに別の地へ赴きました。

私はパウロの気持ちがよく分かります。信頼できない人と働くのは、とても難しいことです。とはいえ、この場面では、パウロは自分が説いていた教えを忘れてしまいました。それは「恵み」です。

その後、パウロはそのことを理解するようになりました。マルコはもう一度チャンスを与えられ、バルナバとともに忠実に仕えました。その後、彼はペテロとともに忠実に仕えました。

そして最終的には、彼はパウロとともに忠実に仕えました。パウロはマルコについて、テモテにこう言いました。

マルコを伴って、一緒に来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。(第二テモテ4:11)

実は、パウロとマルコは互いに恵みを与え合わなければなりませんでした。

パウロはマルコの過去の失敗を許さなければなりませんでした。けれども、マルコもまた、パウロの以前の態度を許さなければなりませんでした。互いに許し合ったことで、二人は祝福されました。

あなたはどうでしょうか。あなたをがっかりさせた人がいるでしょうか。あなたを傷つけた人がいるでしょうか。

神様は何度も私たちにチャンスを与えてくださるので、私たちも周りの人々にそのようなチャンスを与えるべきです。

もちろん、すぐに相手を完全に信頼しなければならないわけではありません。それでも、信頼を得る機会を与えるべきです。

そして、彼らが私たちの信頼に値することを示せば示すほど、もう一度彼らを信頼しましょう。

天のお父様は、もう一度チャンスを与える方です。神様の子どもとして、私たちもそうすべきです。

カテゴリー
使徒の働き

神様の働きのために聖別される

私は、宣教師になることについて初めて考えたときのことをよく覚えています。

友達と話していると、なぜか宣教の働きについての話題になりました。そのとき、私はこう言いました。 「神様は私を宣教師として召されていないと思う。」

すると、友達は答えました。 「どうしてそんなに確信があるの?神様にもう尋ねたの?」

「えっと。。。」

その夜(もしかしたら翌晩)、祈っているときにこの会話を思い出しました。

だから、私は神様にこう言いました。

「トニーさんに、あなたに宣教師になるよう導かれているかどうか尋ねるべきだと言われました。」

それを口にした瞬間、ある考えが心に浮かびました。きっと私自身の考えではないでしょう。なぜなら、宣教師になる意図がまったくなかったからです。

すると、神様がこう言われました。 「そうです。私に尋ねなさい。」

私の反応は?

「私は尋ねたくない。あなたが『はい』と答えるなら、本当に困ります。」

そして、いろいろと言い訳をしましたが、神様は何も答えず、結局すべてが無駄だと気付きました。

だから、私は尋ねました。 「では、私に宣教師になってほしいのですか?」

その晩、神様は答えませんでした。それでも、その日がターニングポイントとなりました。心が少し柔らかくなったからです。

それから2~3年後、進路について祈りました。そして、友人たちはこう言いました。 「神様の導きを求めているなら、すべてを神様に捧げなくてはならない。」

帰る途中、神様は再び私の心に語りかけました。 「ブルース、あなたの心には『絶対に日本へ行かない』という思いがあるよ。」

その言葉を聞いて、神様の意味が分かりました。

前年、短い宣教旅行で日本に訪れていました。けれども、その後、こう思いました。 「やっぱり私は日本向きじゃないだろう。」

意識的に「日本には絶対戻らない」と口にしたわけではありませんが、心の中ではそう決めていました。

だから、その夜、もう一度心のすべてを神様に捧げました。

日本で宣教師になったのは、それから24年前のことです。

なぜ、私はこの話をしているのでしょうか。

それは、私の経験がサウロとバルナバの経験に似ているからです。

クリスチャンたちが神様の御心を求めていたとき、神様は彼らに言われました。 「行きなさい。私の目的のために、あなたたちを聖別しています。」

この箇所では、御霊の人格を見ることができます。なぜなら、御霊ご自身が彼らに語られたからです。

さあ、わたしのためにバルナバとサウロ聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい。(使徒の働き13:2)

だから、クリスチャンたちがさらに祈り、断食した後、サウロとバルナバは御霊の導きに従いました。

今でも、神様がなぜ私を呼ばれたのかを考えています。多くの良いことをしてきたと思いますが、これからどのように導かれるのかは分かりません。だから、私の祈りはこうです。 「次の段階は何でしょうか。」

しかし、神様は宣教師や牧師だけを呼ばれるのではありません。あなたも呼ばれています。神様はご自身の目的のために、あなたを聖別されました。

あなたは、その目的をご存知ですか? 神様が望まれることをしていますか?

カテゴリー
使徒の働き

聖霊と信仰に満ちている人

バルナバはとても素晴らしい人でした。使徒の働き4章では、彼は自分の土地を売り、その代金を教会に捧げて貧しい人々を助けました。

そして、9章では、使徒たちや他のクリスチャンたちがサウロを疑い、恐れていたとき、バルナバは彼を支持しました。

さらに、この箇所では、バルナバは異邦人たちに働きかけ始めました。クリスチャンたちが異邦人の間で実を結び始めると、使徒たちはバルナバを彼らのもとへ遣わしました。

そして、23節にはこう書かれています。

バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました。(使徒の働き11:23)

その後、バルナバはサウロを呼び、アンティオキアの信者たちに仕えました。(その場所で、信者たちは初めて「クリスチャン」と呼ばれました。)

そして、大飢饉が起こるという預言を聞くと、バルナバとサウロはアンティオキアで救援物資を募り、それをエルサレムへ持ち帰り、そこで苦しんでいるクリスチャンたちを助けました。

しかし、24節の言葉は私の心に深く響きます。

(バルナバ)は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。(24)

私もそんな人になりたいと思います。立派な人になりたいです。

前にも言いましたが、「バルナバ」とは彼のニックネームでした。本名はヨセフでした。けれども、彼は皆に愛され、「バルナバ」、つまり「慰めの子」と呼ばれるようになりました。

なぜバルナバはそのような生き方をしたのでしょうか。それは、彼が聖霊と信仰に満ちていた人だったからです。

彼は聖霊に満たされ、豊かな実を結びました。彼の心から愛が溢れました。

他の人々がある人を信じなくても、バルナバはその人を信じました。彼は惜しみなく自分の財産や時間を人々に与えました。さらに、彼の言葉によって、多くの人々が励まされました。

バルナバの信仰は、ただイエス様を信じるだけではありませんでした。その信仰は彼の人生のすべてに浸透し、周りの人々にも影響を与えました。

その結果は?

こうして、大勢の人たちが主に導かれた。(24b)

私はそのことを強く望みます。人々が私の人生を見て、イエス様に魅了されるほどに、私は聖霊と信仰に満ちた人になりたいと思います。

「私の信仰は個人的なものだから、あまり話さない」と言う人もいます。

ある人は、聖霊に満ちることをただ自分の益のためだと考えています。彼らは祝福を受けたいと思っているのです。

しかし、もし私たちが本当に聖霊と信仰に満ちているなら、私たちの人生は完全に変わります。

私たちの考え方が変わります。

私たちの生き方が変わります。

神様の愛が私たちを通して流れ、人々に触れることで、彼らは神様に魅了されます。

あなたはどうでしょうか。あなたは聖霊と信仰に満ちているでしょうか。

カテゴリー
使徒の働き

人々を信じる?

前回のように、この話を読んだとき、私はサウロがクリスチャンになった後、エルサレムのクリスチャンたちが彼にどう反応したかを想像しました。彼らはサウロに会ったとき、どう感じたでしょうか。

というのも、彼らが前回サウロを見たとき、彼はユダヤ人たちがステパノを殺すことに賛成し、自らも多くのクリスチャンを迫害していたのです。

サウロはエルサレムに戻ったとき、まずひそかにクリスチャンたちと話そうとしたのでしょうか。あるいは、神殿に行き、使徒たちに会って「こんにちは。私はクリスチャンになったよ」と言ったのでしょうか。

何年か前、私はアメリカの有名な牧師、ラウル・リースさんの証を聞きました。

クリスチャンになる前、彼は非常に暴力的な人でした。彼は奥さんをたびたび虐待し、ついに彼女は離婚を決意しました。その日、彼は普段より早く帰宅し、奥さんが荷物をまとめているのを見ました。

彼女はクリスチャンで、その時は教会にいましたが、帰宅後すぐに家を離れるつもりでした。

荷物を見たリースさんは、奥さんと子供たちを殺そうと考えました。そして、その後自ら命を絶とうとも思っていました。けれども、待っている間にテレビをつけると、ある牧師が神様の愛について語っていました。

その話を聞いた彼は、涙を流しながらイエス様を主として受け入れました。喜びに満たされ、すぐに家を出て、奥さんを探しに行きました。

しかし、彼は奥さんを見つけられなかったため、家へ戻りました。すると、奥さんが泣いている声が聞こえました。

(そのクリスチャンの番組を見る前、リースさんはいろいろな物や家具をあちこちに投げてしまっていました。)

ドアの鍵がかかっていたため、リースさんはノックしました。ドアチェーンをつけたまま、奥さんはドアを少し開けて「何が欲しいの」と尋ねました。

彼は答えました。「私はクリスチャンになったよ。」

彼女の反応は?

彼女はそのドアを勢いよく閉めました。

けれども、最終的に、彼女はリースさんを家へ入れることを許しました。1〜2年ほどかかりましたが、彼女はずっと彼を見ていて、次第にリースさんが本当に変わったことを信じるようになりました。

これは、サウロに対する使徒たちの反応と同じでした。サウロが「私はクリスチャンになったよ」と言ったとき、彼らは彼を信じようとしませんでした。むしろ、彼らはドアを勢いよく閉めたのです。

しかし、リースさんの奥さんがドアを開けたように、バルナバもそのドアを開きました。

もしかすると、それ以前にバルナバはダマスコでサウロに会っていたかもしれません。あるいは、バルナバにはダマスコに友人がいて、その友人がサウロの話を確認した可能性もあります。

そこで、バルナバはサウロを擁護し、使徒たちに「私はサウロの話を信じる。彼は本当に変わった」と言いました。

おそらく、使徒たちがサウロを本当に受け入れるには時間がかかったでしょう。けれども、彼らは彼を見続ける中で、神様がサウロの人生に働かれていることを理解し始めました。最終的に、彼らもサウロのことを信じるようになりました。

私の要点は何でしょうか。どんなに罪深い人でも、キリストに出会うと変わることができます。だからこそ、私たちは彼らに自分の変化を証明する機会を与えなければなりません。

あなたを傷つけた人がいるかもしれません。彼らはクリスチャンになり、「私は新しい人になった」と言うかもしれません。

それでも、あなたは相手を信じず、距離を取り続けるでしょう。その気持ちはよく理解できます。

けれども、バルナバのように私たちも彼らにチャンスを与えなくてはなりません。

最初から相手を完全に信じる必要はありません。自分の心を守りながら、時間をかけて彼らを見守ることが大切です。そして、神様が彼らの人生に働かれるのを見ながら、少しずつ心を開いていってください。

なぜなら、神様は恵みによって、あなたに何度もチャンスを与えてくださったからです。神様の子どもとして、私たちも周りの人々にそのチャンスを与えるべきなのです。

カテゴリー
使徒の働き

罪の深刻さ

使徒の働きの中でも、これは最も衝撃的な出来事かもしれません。けれども、この話は罪の深刻さを明らかにしています。

バルナバという人物は、自分の畑を売り、その代金を使徒たちに渡しました。そのお金は貧しいクリスチャンたちを助けるためのものでした。

おそらく、使徒たちや他のクリスチャンたちはその姿を見て、バルナバを称賛したことでしょう。

(実は、バルナバの本名はヨセフでした。ヨセフがその代金を捧げた後、クリスチャンたちは彼をバルナバ、つまり「慰めの子」と呼び始めたのかもしれません。)

アナニアとサッピラというクリスチャンたちは、皆の反応を見て、自分たちも土地を売り、その代金の一部を使徒たちに渡しました。ところが、そこには問題がありました。彼らは気前の良い人に見えましたが、その動機は不純だったのです。

問題は、彼らが代金の一部だけを捧げたことではありませんでした。ペテロによれば、それは彼らの自由な選択だったのです。

もし50%を捧げても、それは問題ではなかったでしょう。もし10%しか捧げなくても、それでも問題はなかったでしょう。

後に、パウロは献金についてこう書きました。

一人ひとり、いやいやながちでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(第二コリント9:7)

簡単に言えば、神様は私たちがどれほどの額を献げるかを気にされるのではなく、私たちの心がどれほど神様に属しているかを見ておられます。

アナニアとサッピラの心がどれほど神様に属していたかは分かりませんが、確かに100%ではありませんでした。彼らはお金に執着し、また、人々の称賛を求めました。

そのため、彼らは嘘をつきました。ただペテロに対して嘘をついたのではありません。教会の人々だけを欺いたのでもありません。彼らは神様に対して嘘をついたのです。

もしかすると、それは単なる嘘ではなかったかもしれません。彼らはモーセの律法に従い、誓いを立ててその代金を捧げた可能性があります。(レビ記27:28)

その場合、もし彼らがその代金の一部を自分のために取っておいたなら、彼らはその誓いを破ることになります。神様はその罪を深刻に捉え、アナニアとサッピラを打ち滅ぼされました。

この刑罰は厳しいものだと思われるかもしれません。確かに、それは厳しい刑罰でした。

とはいえ、心に留めておきましょう。私たちはある罪を小さいと思うかもしれませんが、神様にとっては、その罪は非常に深刻なものです。

もしかすると、アナニアとサッピラは、「これはほんの小さな嘘だ。誰も傷つかない」と思っていたかもしれません。

けれども、小さな罪は私たちの心の状態を表します。アナニアとサッピラの罪は、彼らの偽善、貪欲、嫉妬、そしてプライドを明らかにしました。

さらに、私たちにとっては、小さな嘘をつくのは些細なことのように思えるかもしれません。しかし、イエス様がその罪のために死ななければならなかったほど、それは深刻なものだったのです。

あなたは「些細な」罪を犯しているでしょうか。

神様の目には、その罪は決して些細なものではありません。だからこそ、自分の心を探ってください。

その罪は、あなたの心の状態について何を示しているでしょうか。