旧約聖書には、キリストを描写する物語が数多くあります。この箇所では、イエス様がそれらの描写を成就されます。
イエス様と弟子たちは、最後の晩餐で過ぎ越し祭りを祝っていました。そして、彼らが最初のぶどう酒の杯を取り、飲んだ後、イエス様は袋からマッツァーというパンを一枚取り出されました。実は、その袋には三枚のマッツァーが入っていました。
なぜ三枚あったのでしょうか。一部のユダヤ人の解釈によれば、それらのマッツァーはアブラハム、イサク、ヤコブを象徴しています。別の解釈では、祭司、レビ人、一般のイスラエル人を表していると言われています。
いずれにせよ、イエス様は二枚目のマッツァーを取り出し、裂いて弟子たちに与えられました。そして、過ぎ越しの祭りの食事において、イエス様は初めてその伝統の真の意味を明らかにされました。
これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。(ルカ22:19)
現代のユダヤ人クリスチャンによれば、その三枚のマッツァーは天の父、御子、そして聖霊を象徴していると言われています。
そして、そのマッツァーを通して、私たちはイエス様について学ぶことができます。
二枚目のマッツァーが袋から取り出されたように、イエス様は天から来られ、私たちの間に生きられました。
マッツァーにはパン種が含まれていません。聖書では、パン種は罪を象徴しています。したがって、マッツァーはイエス様の罪のない性質を表しています。
さらに、マッツァーが膨らまないように、人々は焼く前にそのマッツァーに穴を開けました。同じように、イエス様も私たちの罪のために刺されました。
また、マッツァーが裂かれたように、十字架上でイエス様の体も裂かれました。
そのマッツァーを食べた後、イエス様は次のぶどう酒の杯を取られました。それは「贖いの杯」と呼ばれました。これを見たユダヤ人たちは過去を振り返り、神様がどのようにして彼らを奴隷の生活から解放してくださったかを思い起こしました。
けれども今回は、イエス様は弟子たちの視線を未来へと向けられました。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、私の契約の血です。(マタイ26:28)
ルカの福音書によれば、それは「新しい契約」でした(ルカ 22:20)。「新しい契約」とは、どういう意味だったのでしょうか。
神様はイスラエルの民をエジプトから救い出された後、彼らと契約を結ばれました。その契約とは、彼らが神様の律法に従えば、神様は彼らの神となり、彼らは神の民となるというものでした。
ところが、問題が発生しました。誰もその律法に完全に従うことができなかったのです。
そこで、エレミヤ書において、神様は新しい契約を立てると宣言されました。しかし、その契約は人々の努力によるものではありませんでした。
これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうであるーー主のことばーー。
わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはない。
彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだーー主のことばーー。
わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(エレミヤ31:33-34)
この契約において、神様はいくつかの約束をされました。
一つ目 は、私たちが神様に従うことができるように、神様が私たちの心を変えてくださることです。
二つ目 は、私たちが神様との新しい関係を持つことです。神様と私たちの間には、祭司や牧師を介する必要がありません。私たちは皆、神様との親しい関係を持つことができます。
三つ目 は、神様が私たちの罪を赦してくださることです。神様はもはや私たちの罪を思い起こされません。
このように、イエス様が意味されたのは、「新しい契約はすでに来ています。私の注がれた血によって、あなたたちの罪は赦され、あなたたちは新しい命を得るのです。」ということでした。
イエス様と十字架の御業を覚え、へブル書の著者の言葉に従いましょう。
心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。(へブル10:22-23)
